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江戸家のすみちゃん

江戸家のすみちゃん

その4:再会


 私は机に座ってため息をついていた。英文でたった40数頁ほどの論文ではあるが、なかなか書く気になれない。苦労して書いても多分読む人はいないであろう。いつであったかある雑誌に、科学論文を読む平均人数の記載があった。たった1.2〜3人である。と言うことは、共著の方もほとんど読まない論文を、研究費と時間を消費してせっせと量産していることになる。そして、その数の多さでその人の価値及び昇格が決まってゆく。もちろん優れた論文は数限りないが何とも滑稽でむなしい話しではないか。何かものすごい仕事をしていると言う自己満足を感じ、もしかしたらノーベル賞を期待さえしている研究者、またそんな自己陶酔に陥る余裕もなくただ追いつめられたように書いている人や、中にはただ自己顕示欲もしくはお金のためのみに書いている人も見られるが、用は今の私にとってはそう言うことはどうでもよいことであって、渋々受けてしまった原稿を何とかしなければならない、何か心のきっかけを掴む何かが欲しいと言うことで自己満足も自己顕示欲も何もないから困っているのである。そのような自己顕示欲と自己満足を人並みに持ち合わせていた頃の話しであるが、私の書いた一連の論文に世界の研究機関から、しかし不思議と日本国内からはなかったけれども、200件近くアクセスがあった。人から認められると言う事は嬉しいものでその時ほど書くことに夢中になれ、充実感を味わえたことはなかった。

 興味のない仕事をする時ほど苦痛なものはない。ある時、やはり外国雑誌に30数頁の論文を依頼され、どうにも書く気力がわかなくて、しかしその仕事をどうしても片づけなければならず、自分を追いつめるかのように一週間ほどひなびた温泉宿に自らを缶詰状態にした。寝る時以外は机に向かい、やっと原稿が完成したその夜、ゆったりと温泉に浸かり、さてビールでも飲もうかと最後の夕食につくと、宿の女将さんからの差し入れで銚子二本が膳に添えられてあった。粋なはからいであった。私は小躍りしてそれを快く頂戴し、そしてわずかその二本のお酒に酔ってしまったのである。しかし朝起きた時いやな仕事のことはすっかり忘れていた。

 そんな過去のことを思い出しながら、私にとっては最後にしたい仕事を、いわゆるこう言った苦痛からもう足を洗いたいのであるが、仕上げるために北信濃の温泉に行くことにした。そこは大学時代、夏休みのひと月ほどを何となく過ごした思いでの地であったからである。二月末、雪がまだあちらこちらに残っている片田舎の温泉宿で、私はやはり朝から夜遅くまで原稿用紙に向き合っていた。気が向いた時に温泉に入りにゆくが、湯の中で文を練り、上がるとすぐに机に向かってそしてやはり一週間ほどで原稿を書き上げていた。その夜、私は食事のために外に出た。最後の夜を温泉街のどこかで飲みたかったのである。酒を止めて久しいが、今夜くらいはいいであろう、と自分を無理矢理納得させながら宿近くの、一見、上品そうな小料理屋ののれんをくぐっていた。

「いらっしゃい」

 威勢のよい、女将の声が響いてきた。色白で和服がよく似合う、いわゆる小股の切れ上がった女性であった。私は勧められるままに客のまだいないカウンターの真ん中に座り、地酒を注文した。つまみは信州ではよく好まれる、蜂の子と馬刺、そして湯豆腐である。奥の方で三味線の音が聞こえくるが芸者さんでもいるのか、

「あの三味線の音は」

「あ〜、あれ。お客さんがわたしの三味線を弾いているのですよ」

 男の地唄が聞こえてきた。その三味線の聞こえてくる小部屋にさっと入って行った、やはり和服姿の女性のうしろ姿が、どこかで見たような、そんなことを考えながら二本目の銚子を注文した。女将は忙しくカウンターの中で料理を作っている。突然、

「いらっしゃい。お久しぶりね」

「あ、すみちゃん?」

 銚子を両手で持って私の隣に立った女性は二年前江戸家から突然消えた当のすみちゃんであった。赤い襷はしていなかったが紬の着物姿で、そのまま私の隣に座り、例の、普通の女性よりは大きいが色白の手で、以前のように酌をしてくれた。

「皆さん、御元気ですか」

懐かしそうに、せきを切ったように問いかけて来た。私はすみちゃんの顔を見たが、相変わらず細面の目鼻立ちの整った顔立ちで、髪の毛もショートカットのままであった。

「元気そうだね」

「え〜、変わりないわ」

不幸せそうでもなく、かと言って幸せそうでもなかった。彼女の温もりを感じながら何とも奇妙な巡り合わせに驚いていたが、なぜここにいるのかを私は聞かなかったし、彼女も何も話さなかった。女将はこちらを向いて、

「あら、お知り合い」

 私は、自分のふるさとを紹介した。

「奇遇ですわ。この子もそちらの出身なのですよ。今夜はゆっくりしていって下さいね」

 それからは時々女将も加わわって、私の野尻湖や戸隠高原の思いでから始まりすみちゃんの初めてのスキーの思い出へと話しが弾んでいった。閉店近くになってから、

「何時の電車」

と、心残りそうに明日帰らなければならない私に聞いてきた。酔ってはいたが帰りの電車の時刻を正確に答えたらしく、次の朝、暖房もない小さな田舎の待合室に紙袋を下げた普段着の彼女がひっそりと立っていた。昨夜の明るい笑顔と打って変わった寂しげな表情で、

「これを。また来てね。と言ってもその時私がいるかしら」

 私は彼女の赤く凍えた手から紙袋を受け取りながら会えて良かったと思い、しかし再びもう会う機会もないであろう、と思っていた。

 私は冬の信州が好きになれない。稲の切り株にこんもりと積もった雪やまだら模様に残る残雪、そう言った風景が私の心を寂寞とさせるのである。幼少の頃南信州で育った私だが、都会に出てからは決して冬に帰らなかった。もうかれこれ40年近くになる。寒がり屋であった彼女は信州のこの厳しい冬をどんな思いで過ごして来たのであろうか。これからどうするのだろうか。私は窓外の春のまだ遠い風景を眺めながら、一人の女性の行く末を案じ、ある高名な方が述べた言葉を思い起こしていた。男子一生、三人の女性と関わる。

 私の一生においては。少年時代のあの少女、妻、そして三人目は。いつであったか他愛なくそんなことを妻と話したことがあった。

「あの人じゃない」

そう言ってからかうように笑った妻の横顔を思い浮かべながらいつしか眠ってしまったらしい。気がついた時は浅間山がはるか遠くに霞んでいた。

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