| 無量寿寺の創建 |
| <自覚大師円仁による創建> |
| 昔、一面海だった仙波の地を訪れた仙芳仙人が、持っていた衣を投げると、水が退き陸地になりました。仙人は海の主・神竜のために小さな池をつくり、そこに寺を建てました。 喜多院はそういう伝説のある仙波の地に、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が建立した無量寿寺が始まりであると伝えられています。 平安時代のはじめ、天長7年(830年)、時の天皇、淳和天皇の詔により勅願所として創建され、無量寿寺の号を賜りました。本尊に阿弥陀如来を安置し、二層の宝塔と山王・白山の二社が建てられたとされています。 |
| 慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん) 794年〜864年 平安時代初期の天台宗の僧。 下野国都賀郡に生まれ、15歳で延暦寺に入り日本天台宗の開祖最澄に師事し、838年には唐に渡り、10年あまりシナ各地を巡歴して密教を学びました。 帰朝後は、第三世天台宗座主に補任し、比叡山堂塔の完備に努める一方、天台密教の大成、円頓戒の興隆念仏法門の弘宣に尽力しました。 |
| <尊海による再興> |
| 時は下り、鎌倉時代のはじめの元久年間(1204〜6年)、無量寿寺は兵火にかかり廃絶しました。それから一世紀あまり後、荒廃していた寺院を再建したのが天台宗の僧・尊海(そんかい)でした。 永仁4年(1296年)、伏見天皇の勅を奉じて、比企郡都幾川村の慈光寺の尊海が再興に取り掛かります。 尊海の師、心尊は、「密教化した天台宗を本来の姿に戻そう」とする運動の中心的な人物で、比叡山で修業した後に泉福寺(桶川市)で談義所を開設しました。尊海はその門下の中心的な存在でした。 その尊海が再興した無量寿寺は、関東の天台宗の中心的は寺院となり、正安3年(1301年)には、後伏見天皇より、関東の天台宗580ヶ寺の総本山たる勅書が下されました。 尊海は再興にあたり、寺の中に談義所として仏地院、そして求聞持法(ぐもんじほう)の修法の場として仏蔵院を建立しました。これらが後に中院・北院と呼ばれ、北院が現在の喜多院に発展するのです。 しかし、時代の流れと共にその勢力は衰え、戦国時代、天文6年(1537年)7月には、北条氏綱による河越城攻め(第一次河越合戦)の兵火にかかり焼失してしまったのでした。 |
| 無量寿寺の創建 | 天海大僧正 | 伽藍再建 | 五百羅漢 |