| 天海大僧正 |
| <天海大僧正> |
天文6年(1537年)の河越合戦で焼失した無量寿寺は、その後しばらくは荒廃していたようです。そしてこの寺院を再びよみがえらせ、現在のような素晴らしい伽藍を造り上げたのが徳川家康・秀忠に重用された慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)でした。天海の出自は明らかではありませんが、会津に生まれ、10歳で出家し隋風(ずいふう)と号し各地の寺を遊学しました。天正18年(1590年)に、無量寿寺の北院の住職豪海(ごうかい)に師事し、師の没後その後を継ぎ第27代の住職となりました。 徳川家康との出会いは諸説ありますが、慶長13年(1607年)、駿府に天海を招いたことに始まるという説が有力です。家康をして、 天海僧正は人中の仏なり。 恨むらくは相識ることの遅かりつるを。 と嘆かせ、以後家康の顧問的な存在になり、黒衣の宰相とよばれるまでになったのでした。 家康に信頼を得た天海は、幕府の全面的な協力で無量寿寺の再興に取り掛かりました。慶長17年(1612年)には、家康により寺名をあらためた喜多院は、関東天台宗の本山と定められました。そしてそれに伴い、天海自身が関東の天台宗寺院を支配する立場になりました。 その年の10月には、家康が鷹狩の途中に喜多院を訪れ、仙波領500石の寄進が約束し、後陽成天皇からは星野山の勅額を賜っています。 そして、始まった再建には、当時の川越城主の酒井忠利があたり、翌々年の慶長19年(1614年)までに、慈恵堂、大堂、庫裏などが建立され、喜多院は天台宗の名刹として再びよみがえったのでした。 |
慈眼堂(じげんどう)天海の没後2年目の正保2年(1645年)に建立された、慈眼大師天海を祀る御堂です。 御堂の中には、天海大僧正の寿像が納められています。 寿像は、頭巾をかぶり、法衣の上に袈裟を着け、払子を持って曲ろくに座る姿、天海僧正の亡くなる直前に彫られたものです。 また、御堂の建つ小高い丘は、7世紀頃の古墳と云われ、御堂の裏手には、歴代の住職達の墓が並び、その中央には天海大僧正の墓がひときわ高く建てられています。 |
| <徳川家康の死〜権現と明神の論争> |
| 元和2年(1616年)4月19日、波乱にとんだ人生を送った徳川家康が息をひきとりました。家康の遺言により、遺骸は久能山に埋葬され、葬儀は芝の増上寺で厳かに行われました。 これらの儀式は吉田神道により行われ、家康は明神として祀られることになりました。しかし、これに異を唱えたのが天海でした。天海は、山王一実神道にて権現として祀ることを主張し、ともに家康の側近くに仕えていた金地院崇伝(こんちいんすうでん)と論争になりました。 天海は、それが家康の遺言であると言います。しかし、そんな遺言は誰も聞いていなく、幕閣の意見は明神が大勢を占め、天海には不利な形勢でした。しかし、天海のある一言で大勢は覆されることになりました。 明神は不吉にございます。豊国大明神の例をご覧下さい。 豊臣秀吉は、没後、豊国大明神として祀られました。しかし、豊臣家の没落は言うまでもありません。 この発言に幕閣の面々は納得せざるを得ませんでした。 そして翌年、朝廷より東照大権現(とうしょうだいごんげん)の神号が勅賜されたのでした。 |
| <日光東照社> |
| 翌年、天海の差配により、家康の遺骸は久能山から日光山へ移されました。 霊柩の行列は途中喜多院により、大堂で4日間の法要がいとなまれました。そして、やはり天海が貫主を務める日光山に埋葬されたのでした。 |
東照宮(とうしょうぐう)日光山に建立された東照宮は、江戸城内をはじめ各地に建立されました。天海も同様に喜多院境内の東照宮建立の考えがありました。 寛永10年(1633年)いっぱいをかけ、本殿、拝殿、鳥居、そして鐘楼門が造営されました。 しかし、その5年後の大火で焼失し、現在見られるのは、大火後に再建された建物です。最初に建てられた時は、現在慈眼堂のある古墳の上にあったと考えられています。 因みに東照宮は、建立当時は東照社と呼ばれていました。朝廷より宮号を賜ったのは、正保2年(1645年)の事です。 |
| <大火で焼失> |
| 天海によって伽藍を整えてきた喜多院ですが、寛永15年(1638年)、城下町から出火した火災で多くの建物を焼失してしまいました。この火災で喜多院は、寛永9年(1632年)に建立された山門を残し、東照宮から各坊、門前までをことごとく焼き尽くされてしまいました。 天海大僧正はこの時すでに百歳を超えていました。幸い自身は江戸の上野に建立された寛永寺に居ましたので、その身は安全でしたが、その落胆は身に応えたことでしょう。 |
| 無量寿寺の創建 | 天海大僧正 | 伽藍再建 | 五百羅漢 |