高麗神社・聖天院

さいたまの歴史散歩

庭園

霊亀2年(716年)、朝廷は甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の 高句麗人 (高句麗からの渡来人)、1799人を武蔵国に移し、 高麗郡 (こまぐん)を置きました。

高麗神社 (こまじんじゃ)は、彼ら高句麗人の統率者 若光 (じゃくこう)を祀る歴史ある神社です。

聖天院 (しょうでんいん)は、若光とともに渡来した僧 勝楽 (しょうらく)の冥福を祈って創建された寺で、若光の墓があります。

聖天院のきれいな庭園

渡来人 高麗王若光

現在の埼玉県(北武蔵)に渡来人が移住してきた確かな記録は、 壬生吉志 (みぶのきし)の入植が6世紀末頃にありますが、本格的な移住は7世紀の後半、朝鮮半島で百済・高句麗が滅びたことによって始まりました。

斉明6年(660年)

唐・新羅の連合軍により、百済は滅亡。

天智2年(663年)

白村江の海戦で唐に敗れた日本軍は、百済の遺民を率いて帰国。

天智5年(666年)

百済人2千余人を東国に移し、3年間官食を支給する。

同年

高句麗国王は飛鳥の宮廷に使者を送る。その中に 二位若光 なる人物がいた。

天智7年(668年)

唐・新羅の連合軍により、高句麗も滅亡し、亡命者が多く日本に渡ってくる。 若光 も帰国することなく日本に移住。

天武13年(684年)

百済人23人を武蔵に移す。

持統元年(687年)

高句麗人56人を常陸に移す。

持統元年(687年)
〜4年

新羅人を下野・武蔵に数十人の単位で随時移す。

大宝3年(703年)

従五位下高麗若光 、高句麗王族のひとりとして王姓をあたえられる。

霊亀2年(716年)

甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を置く。

高麗郡の置かれた場所は、現在の日高市を中心に飯能市と坂戸市を含んだ地域とみられています。郡司には、 高麗王若光 が任ぜられ、高句麗人の自治区ともいえます。

朝廷が渡来人を一カ所に集めて郡を置いたのには、彼らの先進的な知識や技術をもって東国の未開拓の地を開き、新たな王化でおおうところにあったといわれています。

渡来人の新しい技術

*焼き物*
須恵器(すえき)や瓦などを焼いた窯の跡が、入間市・飯能市・日高市などから児玉町にかけて南北につらなっています。高麗郡はそれらの開発拠点となったのでしょう。

*製鉄*
農地の開拓には欠かせない新しい農具が多くつくられたのでしょう。

*織物やアクセサリー*
渡来人がもたらしたファッションが流行したことでしょう。

若光ら高句麗からの渡来人は、祖国から遠く離れた土地に新しい文化をもたらしたのでした。

高麗川の流れる日高市の新堀には、若光を祀る 高麗神社 そして、高麗氏の菩提寺 聖天院 があり、かれらの功績を思いながら散歩するのも楽しいものです。

*これらの写真を載せています。↓こちらをクリックして下さい。

高麗神社

聖天院

寄り道

きんちゃく田
高麗神社の近くを流れる高麗川、この流れをしばらく下っていったところに、流れが大きく蛇行し巾着袋のような形をしているところがあります。この川に包み込まれた巾着型の土地を開拓して田畑を作ったのは、高麗氏族を中心とした彼ら渡来人だと言われています。この地はその形から「きんちゃく田」と呼ばれています。

高麗川の河原
高麗神社の近くに流れる高麗川。この河原は天気の良い日は、川遊びを楽しむ人たちでいっぱいです。

高麗神社、聖天院を見学し、きんちゃく田で遊び、高麗川の河原でお昼を食べる・・・ファミリーで一日ゆっくり楽しめるスポットです。


*所在地
埼玉県日高市新堀


*交通
西武秩父線高麗駅・JR八高線高麗川駅よりバスあるいは徒歩

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