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*所在地 ←岩室観音堂裏の竪堀跡 |
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築城に関する記録ははっきりせず、天文年間に、扇谷上杉氏の城として史上に現われます。
川越夜戦で上杉氏が実質崩壊したのち、上杉氏の家臣で武蔵をひとり守り続ける岩付城主太田三楽斎と武蔵を侵略しつつある後北条氏に、越後の上杉謙信、甲斐の武田氏も加わり、松山城は激しい争奪戦が繰り広げられました。
戦国の終わり、豊臣家の小田原城攻撃の時、武蔵国のほかの北条氏の城と共に、松山城も豊臣軍に滅ぼされました。 |
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<難波田弾正の和歌問答> 天文6年の第一次川越夜戦の時のこと。 あしからじ よかれとてこそ 戦はめ なにか難波田の浦崩れ行く それに返す難波田は 君をおきて あたし心を我もたば 末の松山浪もこえなん 幼い主君への忠誠心を見事に歌っています。 この後、腕に矢傷をおいながらも、上の写真の場所、急な崖を馬で駆け上って城に入ったということです。 |
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<武田軍との坑道合戦> 永禄5年の北条・武田連合軍の松山城攻めの時のこと。 |