武州松山城

さいたまの歴史散歩

竪堀

*所在地
埼玉県比企郡吉見町南吉見

*交通

東武東上線東松山駅よりバスで約5分
関越自動車道東松山I.Cから、
鴻巣方面へ約5km

←岩室観音堂裏の竪堀跡
ここをよじ登った城攻めの兵は縦方向にしか移動できず、堀の脇に伏せる城兵の餌食となった。


築城に関する記録ははっきりせず、天文年間に、扇谷上杉氏の城として史上に現われます。 川越夜戦で上杉氏が実質崩壊したのち、上杉氏の家臣で武蔵をひとり守り続ける岩付城主太田三楽斎と武蔵を侵略しつつある後北条氏に、越後の上杉謙信、甲斐の武田氏も加わり、松山城は激しい争奪戦が繰り広げられました。 戦国の終わり、豊臣家の小田原城攻撃の時、武蔵国のほかの北条氏の城と共に、松山城も豊臣軍に滅ぼされました。
現在、本丸をはじめ、二の丸、春日丸、三の丸などいくつかの郭跡と空堀が残っていますが、草木に覆われていて冬でないと全体を廻るのは難しそうです。
しかし、本丸跡は、県道沿いの上り口から比較的簡単に登ることが出来ます。


<難波田弾正の和歌問答>

天文6年の第一次川越夜戦の時のこと。
河越城にあった13歳の扇谷上杉朝定は北条氏綱に攻められ、松山城に難波田弾正を頼った。 難波田弾正は河越城を取り返すべく残党を率い松山城を出陣していくが健闘むなしく敗れ松山城に退却。その時、北条方の山中主膳より和歌問答をしかけられます。


あしからじ よかれとてこそ 戦はめ なにか難波田の浦崩れ行く

それに返す難波田は

君をおきて あたし心を我もたば 末の松山浪もこえなん

幼い主君への忠誠心を見事に歌っています。 この後、腕に矢傷をおいながらも、上の写真の場所、急な崖を馬で駆け上って城に入ったということです。


<武田軍との坑道合戦>

永禄5年の北条・武田連合軍の松山城攻めの時のこと。
戦局を決定するに至らない武田逍遙軒は隣りの「吉見百穴」を見て、坑道戦を思いついた。甲斐から金堀りの技術者を呼び寄せ、数カ所の坑道を掘り進んだ。
城側の上杉方もこの作戦に感づき、逆に上から穴を掘り、糞尿を流し込んで応戦したということです。
この坑道は隣りの「吉見百穴」から掘り進んだようですが、戦争中の軍の工場建設の時に壊されてしまったようです。

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