見沼代用水路と踏車

さいたまの歴史散歩

このページは新潟県の 竹内智志 さんの研究論文をもとに編集しました。

大学で建築学を専攻していた竹内さんは、江戸時代の河川工事を描いた絵図に描かれた
踏車 に着目し、江戸時代の治水工事と踏車の関係を論文にまとめました。
竹内さんが「さいたまの歴史散歩」に立寄ってくれたことが縁で、その論文を読む機会を得ました。埼玉を流れる見沼代用水路の開削に関するとても興味深い内容でしたので、竹内さんのご承諾をいただき引用させていただきました。

<見沼のうつりかわり>

見沼

江戸時代のはじめまで、現在のさいたま市・川口市にまたがる大きな沼がありました。
縄文時代に海岸線が後退して出来た沼で、
見沼 と呼ばれていました。

見沼

*江戸時代初期の見沼*

見沼溜井

江戸時代のはじめ、関東郡代の伊奈忠治はこの見沼を灌漑用水池とする工事をしました。
見沼の南に八丁(約900m)の堤−その名も
八丁堤 −を築き、見沼を 溜井 として、そこに溜められた水を下流域のたんぼで利用出来るようにしました。

溜井を利用する治水工事はこの当時伊奈氏によって各地で行われ、
関東流 とか 伊奈流 と呼ばれています。

 

関東流とは

仕事人

関東郡代職を12代に渡って勤めた「伊奈氏」

時期

江戸時代の初期から中期

特徴

  • 「溜井方式」…溜井を造成して、水位の調節を行なった
  • 既存の河川や湖沼を利用して合理的に工事を行った
  • 河川

    葛西用水・利根川・荒川など

    見沼たんぼ

    八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の財政再建のため広大なこの見沼を新田化することになりました。
    八丁堤を切って排水用の芝川をつくり、見沼溜井は
    見沼たんぼ となりました。

    見沼田んぼ

    *見沼たんぼ*(さいたま市)

    見沼代用水路

    溜井をなくしてしまったため、この見沼たんぼに使う新たな水源が必要になりました。そのため、北方はるかな利根川から用水路をひくことになりました。
    現在の行田市で利根川の水を引き入れ一路南下し、上瓦葺掛樋(かみかわらぶきかけひ)を過ぎたところで二つに別れて見沼たんぼの東西縁を流れる総延長84kmに及ぶ長大な用水路です。
    見沼に代わる用水路ということで
    見沼代用水路 と呼ばれました。

    見沼代用水路

    *見沼代用水路東縁*
    (さいたま市)

    これらの灌漑工事を行ったのが、幕府の勘定吟味役、 井沢弥惣兵衛為永 でした。彼の行った治水工事は 紀州流 と呼ばれ、以後関東流に代り中心的流派となったのです。

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