見沼代用水路と踏車(2)

さいたまの歴史散歩

<紀州流>

紀州流とは

仕事人

八代将軍徳川吉宗に招かれた、紀州出身の勘定吟味役「井沢為永」

時期

江戸時代の中期より

特徴

  • 溜井などの遊水池を干拓し新田化した
  • 新たな技術で用水路を開削し、河川どうしの立体交差も見られる
  • 河川

    見沼代用水路・見沼通船堀など

    井沢弥惣兵衛為永

    紀伊国溝口村に生まれました。生年は諸説あり定かではありません。
    紀州藩で水利・新田開発事業に従事した後、享保7年紀州藩主から八代将軍になった吉宗に招かれ江戸に入り勘定所に出仕しました。
    その年の琵琶湖沿岸などの新田の検地を皮切りに、関東から関西まで、各地で水利・新田開拓事業を掌りました。
    そして、享保12年から翌年にかけて見沼の干拓と見沼代用水路の開削を行いました。
    その間、勘定所吟味役格、勘定所吟味役と昇進し、享保20年には美濃郡代も兼ねました。
    元文2年に役を辞し、翌年3月に没しました。為永の事業はその子楠之丞正房が継承しました。

    頌徳碑

    *頌徳碑*(萬年寺)

    萬年寺(さいたま市)

    萬年寺は、徳川家康から寺領20石を拝領した、永正6年(1509年)創建の古刹です。
    井沢為永による見沼の干拓工事の際には詰所が置かれました。文化14年(1817年)に見沼代用水の関係者が井沢為永の偉業を称え建てたのがこの頌徳碑です。

    所在地 さいたま市見沼区片柳

    川の立体交差

    見沼代用水路は、その長大な流路を人工的に開削して出来た河川です。関東流と呼ばれる伊奈氏の整備した葛西用水が既存の流路を利用したのとは異なる手法でした。

    それを可能にしたのが
    川の立体交差 です。見沼代用水路が元荒川・綾瀬川とぶつかる地点に、各々 柴山伏越 上瓦葺掛樋 を設け、川を交差させました。

    上瓦葺掛樋

    *上瓦葺掛樋*(上尾市)

    −写真− 明治41年に綾瀬川の上にレンガと鉄で造られた掛樋の名残りです。(江戸時代の掛樋は木製)見沼代用水の水はその掛樋の中を流れ、綾瀬川と立体交差しました。現在は綾瀬川の下をくぐっています。

    伏越と掛樋 (ふせこし と かけとい)

    <伏越>
    交差する河川の流れの下に底樋(伏越)を伏せ込ませる方法
    サイフォンの原理を応用

    <掛樋>
    交差する河川の上に掛樋を渡す方法

    これら 柴山伏越 上瓦葺掛樋 を施工させた新しい技術が、井沢為永によって開削された見沼代用水路の神髄でした。

    そこで用いられたのが・・・

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