畠山重忠

さいたまの歴史散歩

重忠像

伊豆に流されて20余年、治承4年(1180年)、 源頼朝 はついに立ち上がりました。それから僅か10年あまりで600年に渡る武家の世の基礎を築いたことは、皆さんご存知をとおり。
その大きな力となったのが、
武蔵武士 でした。
・・ 親討たるれども子引かず、
・・・・・・ 子討たるれども顧みず進み戦ふ
武勇にすぐれ忠義に篤い武蔵武士の性格をよく表した言葉です。頼朝の偉業は彼らに支えられて成し遂げられたのでした。

彼ら幕府の御家人の中で、頼朝に最も信頼されていた武将のひとりが
畠山重忠 でした。頼朝の数々の出陣にあたっては、常に栄誉ある先陣を務めました。
木曾義仲や平家との合戦では、剛勇ぶりを発揮し、家臣の不正事件では自ら食を絶ち、頼朝の信頼をより篤いものにしました。
忠誠勇武 な武蔵武士のお手本のような人です。

年表 畠山重忠

長寛2年
(1164年)

畠山館で、畠山庄司重能(しげよし)と三浦義明の娘の間に生まれる。

桓武平氏畠山氏

治承4年
(1180年)

源頼朝 、石橋山に挙兵。父不在の重忠は、平氏側につき、源氏に組する同族の三浦氏と戦い、その居城衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻め、外祖父の三浦義明を戦死に追い込む。

頼朝挙兵

同年

源頼朝、 千葉常胤 等にむかえられ、武蔵に攻め入る。重忠、八幡太郎義家より賜った家宝の白旗を持って帰参する。

寿永元年
(1182年)

父重能と叔父の小山田別当有重、平氏に従い木曾義仲の軍と戦い奮闘するも敗れ、平家都落ちする。

源平合戦

寿永3年
(1184年)

源義経・範頼の木曾義仲追討の先陣となり 宇治川の先陣争い で、剛勇ぶりを発揮。義仲軍を破り、後白河法皇に拝謁する。

同年

源義経に従い、平氏討伐にむかい、 一の谷合戦 鵯越(ひよどりごえ)の逆落し では、自分の馬を背負って斜面を降る。

文治元年
(1185年)

源義経に従い、 屋島合戦 壇ノ浦合戦 に参戦し、平氏を滅亡させる。

文治3年
(1187年)

重忠の代官が伊勢の支配地にて、詐欺・横領をはたらき、重忠は自ら食を絶つ。許された後も自邸にて謹慎する。
梶原景時の讒言により、重忠の行為は反逆の徴とされ、自ら鎌倉に赴き疑いをはらす。

清廉潔白

文治5年
(1189年)

頼朝、義経をかくまう奥州の藤原氏討伐に出陣。重忠は名誉の先鋒、300騎の郎党のうち、半数以上を失うほどの奮闘をする。

***

正治元年
(1199年)

頼朝死に際し、頼家の将来を重忠に託す。

元久2年
(1205年)

頼朝亡きあと実権を握っていた北條時政にとって邪魔な存在になった重忠。鶴ヶ峯で鎌倉方と戦い亡くなる。

鶴ヶ峯

史跡のご案内

<畠山館跡>
*所在地
大里郡川本町畠山
*交通
秩父鉄道武川駅より徒歩約40分
*見所
重忠の墓
井戸跡
馬を背負う重忠の像
満福寺(館より北へ約500m)
小椋神社(館より北へ約500m)
鴬の瀬(小椋神社裏の荒川)

畠山館跡

<菅谷館跡>
*所在地
比企郡嵐山町菅谷
*交通
東武東上線武蔵嵐山駅より徒歩約15分
*見所
菅谷城址(後北条氏の城址)
重忠の像
埼玉県立歴史資料館
鎌倉街道跡(南隣オオムラサキの里内)

菅谷館址

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