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源義経の寵愛した静御前。 静御前は、平安時代の終り頃に始った舞・白拍子の創始者とも云われる磯の禅師の娘。朝廷で行われた雨乞いの儀式で舞い、後白河法皇より「日本一」と称されたと云われます。 平安時代から武士の世へ遷り変ろうとする時代のヒーローとなった源義経にその舞い姿をみそめられ、やがて時代の流れに翻弄されます。そして現在の埼玉県栗橋町で最期をむかえたと云われ、その墓と伝えられる石碑が今に残ります。 彼女の京と関東での足跡を追いながら、栗橋に残る石碑を紹介します。 |
| ←「静御前の墓」現地案内板(栗橋町教育委員会・静御前遺跡保存会)より |
| ■雨乞い | |
| 静は、讃岐〜香川県〜の大内郡小磯で生まれました。母は磯の禅師、信西入道が彼女に舞を教えたのが白拍子の始まりであると、徒然草には記されています。6歳の時、父に死に別れ、京に出て、母とともに白拍子としての名を上げていました。 その静が歴史の舞台に初めて登場するのは、京の神泉苑の池で催された雨乞いの儀式での出来事です。寿永元年(1182年)、朝廷は舞姫百人を選び、神泉苑での「雨乞いの舞」を命じました。その中のひとりとして静の名が表れるのです。 京の都では旱が3年も続き、加茂川も桂川も流れが切れ筒井の水も絶えて人々が苦しんでいました。慣例により、比叡山、三井寺、東大寺、興福寺などの高僧貴僧百人が、神泉苑の池で仁王経を読みましたが、効果はありませんでした。神泉苑の池は、その昔弘法大師が、雲を呼び雨を降らせる神力をもっていると考えられている八大竜王に祈って雨を降らせたと云われ、以来この池には八大龍王が住むと云われてきました。 雨乞いの儀式を催して雨を降らす事が出来るか否かは、この当時の支配者にとってはその真価が問われる重要な事でした。後白河法皇の行幸を仰ぎ、見目麗しい舞姫百人を召してこの池で舞わせ、八大龍王の神力を呼び覚まし、朝廷の力を示そうとしたのでした。 しかし、集まった人々の期待も空しく、99人目の舞姫が舞ったところでも効験はありませんでした。残るは静ただひとり。あとひとり舞うくらいで効験があるだろうかという声も上がりましたが、人数のうちだからと、舞わせることになりました。 既に仕度を整え舞い出そうとしていた静は、法皇に召され、蛙蟆龍(あまりょう)の錦の舞衣を賜るのでした。感涙を流し押し頂いた静がそれを身に着け、しんむじょうという曲を半分まで舞ったところ、奇跡が起こるのでした。俄かに向こうの山から愛宕山の方に黒い雲が湧き出し、洛中にかかるかと見えた時、八大龍王が鳴り渡り、稲妻が光りました。 その後、雨は三日間続き、国土は安穏になりました。静は後白河法皇より「日本一」と称されたのでした。 |
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■蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣 茨城県古河市にある光了寺には、静御前が後白河法皇より賜ったと云われる蛙蟆龍の舞衣や、義経の懐剣・鐙(あぶみ)などが保存されています。 蛙蟆龍(あまりょう)とは、雨をつかさどると云われる中国の想像上の動物で、竜に似て黄緑色をしているということです。まさに雨乞いの衣装というところです。 |
| ←光了寺に収蔵されている蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣 ※渡良瀬短信のオーナー様よりお借りしました |
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