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| 武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は同族の小杵(をき)と国造の地位を相争っていましたが、永年決着がつきませんでした。小杵は上毛野国に助けを求め、使主を殺そうと謀りました。それに気づいた使主は朝廷に事情を訴えたところ、朝廷は国造を使主に定め、小杵を殺しました。使主は大いに喜び、四ヶ所の屯倉を朝廷に献上しました。 日本書紀の記述で、534年の出来事と記されていますが、最近の研究ではこの時期については必ずしも信用は出来ないとされています。 |
| 参考→さきたま古墳群 |
| 稲荷山古墳から文字が彫られた鉄剣「金錯銘鉄剣」が見つかっています。 記した者は自らを「ヲワケノオミ」と名乗り、七代前からの先祖の名を記し、代々大王の親衛隊長を務め、自身は雄略天皇に仕え、政治を補佐したと記しています。 辛亥の歳と記され、471年あるいは531年のどちらかと考えられています。 |
| 参考→さきたま古墳群 |
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5世紀の後半、行田市埼玉(さきたま)地区に突如として出現した100mを超える大型の古墳・稲荷山古墳。その後、7世紀の初頭までこの埼玉(さきたま)に大型の古墳を造り続けました。 いわゆるさきたま古墳群です。 日本書紀の記された「武蔵国造の乱」において、朝廷の力を借りて同族や上毛野国との戦いに勝利した笠原氏がこのさきたま古墳群の主ではないか云われています。 また、稲荷山古墳から出土した国宝「金錯銘鉄剣」に彫られていた115文字の文章からも、彼らと朝廷の関係の深さが伺われています。 |
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| 武蔵国造であった笠原氏一族は、同族同士の内紛、北に接した上毛野国との戦いに、朝廷の介入を以って勝利し、100年余りに渡り大型の古墳を造り続ける事が出来たのだと考えられています。 | |||
| しかし、栄枯盛衰。さきたま古墳群も永遠には続かないのが世の慣わしでしょうか。 稲荷山古墳出現の後、日本最大の円墳・丸墓山古墳、そして138mの前方後円墳・二子山古墳と続いたさきたま古墳群も6世紀の終わり頃に築造された将軍山古墳では、90mとやや小型化してきました。そして7世紀初頭を最後に大型の古墳は造られなくなりました。 それに反して、6世紀の後半には、さきたま古墳群の周辺に同規模の古墳が造られ始めました。 天王山塚古墳(菖蒲町)・真名板高山古墳(行田市)・若王子古墳(行田市)。そして、やや小型化した将軍山古墳とほぼ同時期に造られた小見真観寺古墳(行田市)はそれより大型の112mを誇りました。さらには、それから100年近く経て、聖徳太子の舎人・物部連兄麻呂が葬られたとされる八幡山古墳(行田市)が築造されたのでした。 これらの大型古墳の築造は何を物語っているのでしょうか? |
| 参考→八幡山古墳 |
| さきたま古墳群を取り囲むように、それぞれの古墳が配置されています。そして、北を流れる利根川の先は、武蔵国造の乱で戦った上毛野国です。 6世紀の後半から7世紀にかけて、さきたま古墳群とこれらの古墳をめぐって、どのような事が行われていたのでしょうか?それぞれの古墳をご覧いただいて、思いをめぐらせてみて下さい。 ※なお、若王子古墳については、既に消滅していますので、ここでは割愛させていただきました。 |
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| 写真をクリックすると、それぞれの古墳のページに移動します。 | |||
天王山塚古墳
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真名板高山古墳
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小見真観寺古墳
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