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見沼通船堀は、東西の見沼代用水路とそれに挟まれた芝川とを船で結ぶために掘られた2本の水路です。享保16年に伊沢弥宗兵衛為永によって工事が行われましたが、代用水路と芝川には、3メートルもの水位差があったため、東西両方の堀に2ヶ所づつ関を設け、水位を調節しながら船を進ませる方法をとりました。有名なパナマ運河と同じ方式の我が国最古の閘門式運河です。 現在は、見沼通船堀に沿って遊歩道があり、静かに流れる通船堀の水を眺めながら、活気あった当時の様子を考えてみるのも楽しいものです。水位調節用の関も復元されていて間近に見られるばかりか、時折、開閉実験が行われているようです。 |
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見沼通船堀の風景
通船堀の風景を写真で紹介 |
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見沼通船堀のしくみ
船の通るしくみのシミュレーション |
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復元された「ひらた船」と関の開閉実験
平成10年9月5日に行われた開閉実験のようす |
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さんぽ道 |
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見沼通船堀の歴史
江戸時代初期の寛永6年(1629年)、関東郡代伊奈忠治は見沼に八丁堤を築いて灌漑用水池(見沼溜井)を造成しました。 時が下り徳川吉宗の時代、幕府財政再建のための新田開発で見沼も新田化されることになり、伊沢弥惣兵衛為永が工事にあたりました。八丁堤を切って排水用の芝川を作り、さらに行田市から利根川の水を引き見沼代用水として新田をうるおしました。 為永はその後、代用水路縁辺の村々と江戸を結ぶことを考え、享保16年(1731年)代用水路と芝川を結ぶ運河を作りました。東縁側が約390メートル、西縁側が約654メートル、ともに2ヶ所づつの関を設け、水位を調節して船を通しました。ちなみにパナマ運河は20世紀に入ってからの完成ですから、見沼通船堀は2世紀あまり前に造られたことになります。 見沼通船堀を通って行った貨物には、江戸へ運ばれたものに米、野菜、木材、薪、酒など、逆に江戸からのものに大豆粕、肥料、塩、魚類などがありました。 活気あったこの通船堀は明治になってからも利用されましたが、陸上交通の発達で需要が減り昭和に入って廃止になりました。 |
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場所のご案内
※所在地・・・さいたま市大字大間木・下山田新田 |
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浦和市立郷土博物館のご案内
見沼通船堀に関する資料が展示されていて、当時の様子がよくわかります。 ※所在地・・・さいたま市三室2458番地(浦和市立病院の向かい) |