ロン父の小ロン  ロン父の小論文です

   1 命を大切にする教育?
   2 人は死んでも生き返る?
   3 『めぐり逢えたら』あえて自己責任
   4 世間が消えた
   5 対話がたりんわ
   6 高度情報社会・魂は情報に傷つけられている
   7 心の病は公害
   8 動物救急隊
   9 『ボーリング・フォー・コロンバイン』
   10 人権にはうんざり?
   11 自爆テロと靖国
   12 国のために私を棄てたあの時代?
   13 イチローがんばれ!


1 命を大切にする教育?

 子供の凶悪事件が目立って、(大人の子どもじみた事件も目につくけど。いい年をして子供じみているのは自分自身もだけど。)
「子どもたちに、命を大切にする教育を」と政治家や教育関係者がくり返しています。

 でも、
「子どもは、親の言葉より、親の背中を見て育つ。」
 親や教員や政治家が、「命を大切に」と声を張り上げるより、大事なのは、実際に命を大切にしているかどうか。
 大人が口にする言葉よりも、大人が何をしているかを子どもは見ている。知らず知らず、大人の行いを学ぶ。
と言われてきました。

 こういう風景の中でぼくらは育ちました。

 酔っぱらって遅く帰宅した父親、子どもにクダクダお説教。
「勉強しとるか、たらたらやってると、あっというまに人生は過ぎていくんだぞ……」
 そこにおじいさん。「馬鹿もん! たらたらしとるのはお前だろう。毎日毎日酔っぱらって、酔っぱらって人生を終わるつもりか!」
「ほんとだよ、おじいさんみたいになるんじゃないよ」と、おじいさんの後ろからおばあさん。
「もう手遅れだよ」と赤い顔した子ども。「おじいちゃんも、お父さんも。……ぼくもだけど。」

 おそまつな一席。
「子は親の鏡」という格言がぼくが育つ中では生きていました。

 子どもという鏡に映っているぼくたちの姿って? その前に、

2 人は死んでも生き返る?

『子どもが見えない』というNHK番組(2004年9月4、5日放送)で、小学校教諭が興味深い話をしていました。

「人は死んでも生きかえるか?」
 これを小6の児童にアンケートしてみたところ、
「生き返ると思う人?」 33人中、28人。
 挙手でしたから、周りの様子を見て手をあげたという子もいるでしょう。それにしても多い。33分の28!
(統計学からは、たった33の分母では意味をなさないでしょうが、ぼくが直接見聞する範囲でも、人は生き返ることが出来ると思っている子が少なくないように感じられます。)

《子どもたちが人を殺すこと、また、自殺することを、大変なことだと思っていないのでは……。生き返ることができるんだから、と。》
 TVの議論はそっちに流れていきました。

 主人公が死後よみがえる、というような漫画が流行? そんなことはないようです。もし、はやっているとしても、それを受け入れるだけの心の下地があるということでしょうが。

 今の子どもたちが、テレビなどで、日常的に見聞きしているもの。
 保険金目当てに親に殺された子ども。
 それに、虐待されて死んでいった子ども。
 パレスチナ・イスラエルやイラクで殺されている子どもたち。

 虐待については学校や近所の人も気づいていたというのに、手を打てなかった。
 そういう子どもたちが、殺されてそれっきりだとしたら……。

 ソンナ馬鹿なことはない、神も仏もない、と思うのが自然でしょう。
「殺された子どもたちは、きっとよみがえる。よみがえって、幸福な人生をおくれる。殺されて、それっきり。死んだら死にっきり、それで終わり。そんなことが許されるはずない。」
 そう思うのは自然。

「人は死んでも生き返ると思う。 33人中、28人。」
 このアンケート結果は、現在の子どもたちが、「ナットクできない死」を日常的に見聞きしていること。子どもたちが「ナットクできない死」に取り囲まれていることを表しているのでは。

 子どもたちに命を大切にする教育を?

 イラク攻撃の大義とされた大量破壊兵器も見つかっていない。最初からないとわかっていたのに情報操作された疑いが濃くなってきた。
 それでも、過ちを認めない。ブッシュも小泉も。
 国民の間に、その責任を本気で問う声は少数。
 イラクの子どもたちはナゼ殺されねばならなかった?
 ぼくたちの多数は、それをかわいそうとは思うものの、仕方ないことと思っている。現実とはそういうものだと。

 北朝鮮の拉致問題や核の脅威があるから、アメリカに頼らざるをえない。イラク攻撃も支持せざるをえないんだ、という意見はもっともらしいけれど、ホントウ?
 じゃあ北の問題がなかったら、本当に、アメリカにノーと言えた?
 と問い直すと答えは明らかでしょう。

 北の脅威をあおり、何をするか分からん国だと主張し、アメリカに従う口実にする政治家が、一方で、北への強硬論を主張する。経済的に締め上げれば、北は折れてくる。日本の経済的援助がノドから手が出るくらい欲しいんだからと。
 何をするかわからん国じゃなかったの?
 日本もかつて包囲網をつくられて締め上げられたけど、勝ち目のない戦争に突き進んだ。そんなこと忘れたかのように。
 
 強硬論に疑問を述べると、「北を支持するのか。あんな国の肩をもつのか」などと返ってくる。
 犯罪対策でも外交でも強硬論が現在の流行。
 大事なのは、冷静に何が有効かを考えることでしょう。
 ある時は北の脅威を叫んで、アメリカに従う口実にし、ある時は強硬論で北の妥協を引き出せると楽観論をふりまく。それで良いの?

 アメリカのイラク攻撃に反対したのはフランスやドイツばかりでありません、カナダ・メキシコというアメリカの北南の隣国、日本よりもアメリカと密接といってもいいかもしれない国もイラク攻撃には反対しました。

 アメリカの覇権への牽制などもあるだろうけど、シンシに世界の平和と安定を考えた上でのことでしょう。それは子どもの未来を考えた上でのことと言いかえても同じ。
 もうちょっと現実主義的言い方すると、
 アメリカを支持することで国際社会から受ける評価と、その逆の場合を考慮した国益上の判断と言い換えてもいいでしょう。
 イラク攻撃に反対する、出来れば攻撃を思いとどまるようにアメリカを説得する。そんなこと無駄と分かっているけど、そういう努力を継続する姿を見せたときの国際社会の評価を想像してみる。

 それも出来ない政治家が、命を大切に、と口先でいい、凶悪事件が起こると、こんな世の中になったのは。日教組のせいだと時代錯誤をおっしゃる。教育基本法が悪いから、憲法が悪いからと、自分の事は棚に上げる。
 たとえば、森前総理など、野中幹事長から
「後援者と毎晩のように宴会というのは、いかがなものか」いさめられたり、官邸にいなければならないときにゴルフに出かけ、福田官房長官から苦言を呈されたり、その森氏が、
「こんな乱れた日本にはなったのは、日教組や教育基本法が……」と言われると、ひっくり蛙。

 政治家に当てはまることは、僕ら自身にも当たり。
 政治家の悪口を言って、自分自身のことは棚に上げている、ぼく自身のことを、胸に手を当てて考えます。

 政治・国際問題に対する態度ばかりじゃない。
 ぼくたちが子どもたちに見せている姿。

 自殺者の増加。
 電車は人身事故で遅れてるってよ
 マタカヨー

 子どもの変死 親の虐待か
 マタカヨー カワイソウニ

 子ども虐待、事件が報道されるたびに、児童相談所にもっと権限をもたせよ、学校や保育所と警察・相談所などが緊密な連絡を、等々言われる。実際に法律も出来た。が、同じような事件が続く。

 なぜ。

 ヒトコトで言うと、ぼくたちの民度が低いからでしょう。
 殺された子を、かわいそうとは思っても、子どもの尊い命をほんとに救わねば、と何か行動を起こした人は? 行動を起こさなくても、心の底から尊い命を救わねばと思っている人は?
 ごく少数でしょう。
 そんな親の元に生まれたのが不幸だった。
 そんな親の子は、たとえ生きながらえても、成長しても、親と同じようなことをするんじゃないの。と突き放している。それが本当のところでは?

 イヤー、よその子のしつけに、なかなか他人が口を出せない。
 そうなんだよなー。

 しかし、そういって世の中の大問題から遠ざかる習性にもきっちり向き合った方がいいかも。
 国会でも、年金や介護について外国の事例が持ち出されると、「ここは日本だ!」とヤジを飛ばす議員がいる。
 ウチのことに他人がとやかく言わない方がいい。日本のことを論じるのに他国がどうこう言うな。この根性は改めたほうが良いでしょう。

 かわいそうとは思うけど自分が生きることに手一杯で……。

 ぼくたち1人1人の行動がこの世の中を良くも悪くもする。

 待てよ、不思議なもので、歴史って、多くの国民が願う方向に動いていかない。
 社会は多数の人が願うような形になっていきそうなものだけど、そうはならないように見える。う〜ん。
 しかし、だからといって放っておけば良くなるのか?
 自分が生活しているこの社会、自分の子どもたちが生きるこの社会が、少しでも良くなるように、自分で出来ることから始めなくてはと、なかなか発想できないぼくたちの伝統。

 ぼくたちに欠けているものは、子どもに、命を大切にと「教える」ことでしょうか。

 先進国の中では一位という自殺率。
「小泉純一郎首相は23日昼、昨年(2003年)の自殺者数が統計を取り始めて以降、最悪を記録したことに関し、『どういう事情か分からないが、あまり悲観的にならないで頑張っていただきたい。(自殺者を)できるだけ少なくする対応は必要だが、なかなか特効薬はない』と述べた。」(時事通信2004年7月24日)
 1998年に年間自殺者が前年より30%増え、初めて3万人を越えました。それ以来毎年3万人を越え続け、今年度(2003年)は史上最高の数字。東欧などを除くと、先進国では一番の自殺率だそうです。

 この自殺者の多さは異常、なんとかしなければという一国の首相としての強い自覚はないようです。
 彼は、自己責任という言葉が好きなようだから、死ぬのも自己責任というのが本音でしょうか? 自殺するような人間は、政府が対策をとろうととるまいと、自殺する?
 多分、首相に限らず、多くの人が、自殺するような奴は、モトモト弱い人間なんだ、と思っているのでしょう。だから「何が原因なのか究明しよう.。」「有効な対策はないか急いで調査チームをたちあげよう」という熱意がないことも怒らない。

 自殺するような奴は、そうなるように生まれついている? 人を殺すことも? 子どもを虐待することも?
 ……遺伝子にそう組み込まれている?
 そう信じているから、殺人罪は子どもでも重罰に、という主張が強まっているんでしょう? 更生なんか出来るはずがないと。

 その『生まれつき信仰』は、どこからきたんだろう。

 遺伝子解読の「世界的権威」村上和雄によると、ある病気を引きおこす遺伝子があるのは確かだが、その遺伝子が発動するかどうかは、環境や、本人の心のもちようなどによる。遺伝子があるからといって、必ずその病気になるわけではない、と。

 精神科医の野田正彰も結論としては村上と同じようなことを。

(凶悪犯罪を犯すような人間は生まれながらに人格障害を負っているんだ、という意見について)
「遺伝的に犯罪因子があるなんて単なる仮説に過ぎません。ある少年がどんな風に育っても、ある年齢になったら目覚まし時計がなるように殺人事件を起こすなんていう説は成り立たない」。
「一定の条件、一定の刺激、一定の環境がそろえば、どの少年も犯罪を犯す可能性があり得る。」
 自殺についても同じでしょう。特殊な人間が、生まれつき弱い人間が自殺するんじゃない。どんな人間でも自殺する可能性がありうる。

 世界の名著といわれるものも、同じ事を訴えています。
 親鸞上人は、普通の人間・「私には人など殺せません」という人間が、ある因縁にとらわれると、殺人さえやってしまうのだよ、と弟子をサトシました。
 ドストエフスキーも、より善意に満ちた人間・人の役に立ちたいという気持ちが強い人間が、ある関係にのみこまれて、残虐なことをしでかすことを描きました。

 こういう、人間が積み重ねてきた知恵が、今、注意されなくなっているようです。
 それというのも、理不尽な殺人が多すぎるからでしょうが。
 なんでこんなことが!と憤り情けなくなる事件が多すぎる。

「加害者の人権ばかり言って、被害者の人権はどうなるんだ。」
 被害者やその周囲の人たちの苦しみには、これまで裁判所・検察・警察が配慮をしてこなかった。ぼくたちも縁のないことと放置していた。無神経だったといっていい。
 一方で大阪教育大付属小の宅間のように、精神医療の貧しさが、精神病の振りをした犯罪者を守ってきたという面があった。そこはこれからも改善を続けなければなりません。声をあげつづけなければなりません。

 しかし、だからといって、加害者は、厳しく罰すれば終わりという風潮で良いの?
 これまで、被害者やその周囲の人たちの苦しみは放っていた。
 で、加害者のことは厳罰にして終わり。あとは放っておく?

 どうしたら同じような犯行を少しでも防げるか。どうして、彼は犯行に及んだのか。究明すべきでしょう。原因がわかれば有効な対策もたてられる。
 加害者への罰を厳しくすることで、犯罪が減ったという例があるのでしょうか? アメリカでは効果は見られない。

 精神医療の貧しさのために、大教大付属小事件の宅間のように、異常を装って罪を免れた者がいる。
 そのことは注目されます。しかし、その逆に、
 本当は精神を病んでいるのに、刑務所で必要な治療もほどこされず、刑期を終えたからと社会に復帰させられ、出所後まもなく何の恨みもない人を殺害するという事件が起きる。そのたぐいのことは余り注意されない。

 冷静に犯罪防止にほんとに何が有効か、人の意見を落ち着いて聞いて、同時に自分なりに考えて、判断しなきゃ。
 専門家の意見を聞くなんて面倒、なら、少なくとも、その件について『自分は分からない』と自覚したい。自分がわからない事は、わからないという場所に踏みとどまりたい。
 何となく、『遺伝子で決まっているんだ』と思いこんで(いるからかどうかわからないけど)、人を殺すような奴は子どもでも極刑にしろ、という主張に同調するようなことはやめたい。犯罪に対しても外交でも、強硬な意見が支持される今の風潮。
 強硬な態度が有効なのか。他国の事情や歴史を検討して判断されたものなら良いけど、なんとなくはよそう。

 専門家の意見に耳を傾け、しかし専門家任せにせず、議論に参加する。議論を巻き起こせたらなあ。
 専門家にまかせて、どうなった
 大蔵省の不良債権処理。建設省・道路公団・本四連絡橋公団などが巨大な赤字橋を子孫に架けたこと。

 個人的には、ロンの皮膚病に対する獣医師の誤診。処方した薬をのませてロンが衰弱したことで身にしみました。
 こちらはシロウト、相手は全国的に有名な専門医。
「獣医殿、オマカセします、よろしくお願いします」という態度は専門家(獣医師)もダメにしている。
 こちらも多少は勉強し、疑問に思ったら質問する。シロウトの質問をうっとうしがるような専門家は退場してもらえるような社会に。

 それが面倒で出来ないなら、少なくとも、自分がわからない事は、わからないという場所に踏みとどまりたい。

3 映画『めぐり逢えたら』・あえて自己責任

 だいたいやねえ、アメリカのまねして、自己責任とか自助努力とか最近よく言うけど、アメリカはこういう国ですよ。
(だれのマネ?)

 アメリカの子育てで驚かされるのは、小さいときから、夫婦とは別室で寝かせること。母親に死なれたばかりの幼子でさえ。
 映画『めぐり逢えたら』で父親(トム・ハンクス)は、母親が事故死したばかりなのに8才の子を、1人で子ども部屋に寝かせます。ぼくには出来そうもない。

 もう一つ、子どもへの接し方で驚いたこと。
 この子が父親にききます。
「天国ってあるの?」
 もし、ぼくだったら?

 あるかどうかわからないけど、母親をなくした子どもの悲しみが、少しでもやわらぐように、
「あるよ」と答えるでしょう。「お母さんは天国で天使達と幸せに暮らしている、そしていつも君のことを見守っているんだよ……」などと言いそう。

 この映画では、父親(トム・ハンクス)は、子どもをまっすぐ見て、こう語りかけます。
「前は天国なんてないと思っていた。今は……、わからない。」

 本当はこうなのだ(わからない)が、子どもだから、こう(天国はあるよと)言っておこうという発想をとらないようです。
 大事なことでは、相手と本当のところ(わからない)で向き合う。単純に固定した「子ども」としてでなく、「大人にきたえるべき相手」として向き合う。

 このアメリカ流は、子どもにはつらいだろうなあ。だけど、自立心を育てるのは間違いないように思えます。
 こういう基本的違いを無視して、アメリカのマネをして『自立』だ『自己責任だ』『人に頼るな、国に頼るな』『老後の生活も自助努力だ』というのは、待った方がいいのでは?
 確かに何でもオカミに頼ろうとする国民性は改めた方がいいと思います。
 しかし、国民性の下地がマルデ違うのに、自己責任を必要以上に強調する、本来、自己責任を問えないことまで「自己責任だ」と叫ぶ。それが自殺者の急増・人々の心の荒廃をもたらしている面もあるんじゃないか。

 物事には二面性があって、こうすれば万事うまくいくということは少ないようです。
 自己責任や自立を強調すると、悪い意味での甘え合い・モタレ合イは減るでしょう。が、良い意味での助け合いも減ってしまう。

 何デモ1人デヤレ、自己責任ダ。

 最近の自殺者の増加、中高年の孤独死の増加、人と人とが助け合うことを嘲笑するかのような振る舞いの増加。

 話はイラクへ。
 イラクで日本人民間人が捕らわれたとき、日本では小泉首相はじめ、その意向を受けたメディアが「自己責任」と声を張り上げました。

「どうしてあんな危険な所に行くのか、わかりませんねえ。」(首相)

 だけど、自衛隊をイラクに派遣するときに、「イラクは言われているほど危険じゃない」と言っていたんじゃなかった?
「イラクでなく、サマワは危険じゃないと言ったんだ」と反論されそうだけど、首相補佐官の岡本行夫氏は、「イラク」と言っていました。
「イラクは危険、危険といいますが、日本にいたって事件や事故にあうんですから」と子どもの理屈を言っていたのは首相たちの方でした。

 自衛隊のイラク派遣決定の少し前、ぼくの知り合いの娘さんが1人でインドに行きたいというので、「友達とならまだしも、1人では危険だからやめた方がいい」と助言しました。岡本氏の発言が、その時の彼女の返事と同じだったので、よーく覚えているのです。
「インドが危険と言われるけど、日本にいたって事件や事故にあうんですから。」

「どこにいたって事件や事故にあう? どこにいたっていっしょ? じゃあ、深夜1人で歌舞伎町を歩き回れる? ためらうでしょう? それは事件に巻き込まれる確率が高い場所だからでしょう。どうしてもそこに行かねばならない理由があるなら話は違ってくるけど……」

(危険だから自衛隊を出さない、という日本の態度が、平和維持に努める国々から見て許されるかどうか。というのは別の問題です。危険だから出さない、という主張にはぼくは個人的には与したくない。
 ただ、ここで言いたいのは、政治家のゴツゴウシュギ。自衛隊派遣の時は「イラクはそれほど危険じゃない」といい、民間人が捕らわれると、《政府の責任=国民の安全確保=救出》は放棄して「あんな危険なところなぜ行くのか」と言ってしまえるゴツゴウシュギです。)

 岡本氏と言い竹中平蔵といい、見た目はスマートだけど軽薄な人間が小泉氏の周りには多い。

 自己責任の本場アメリカのパウエル国務長官は、イラクで捕らわれた日本人のことを、日本人は誇りに思うべきだと言いました。小泉氏やチョウチン持ちの記者らは、も少し反省してくれないかなあ。他人に「自己責任」という前に、政府の責任・メディアの責任などについて静かに考えて欲しい。

 日頃、今の若者はハキがない、自分のことしか関心がない、冒険心が足りないなどと嘆いていたメディアの記者が手のひら返して、彼らを責め立てた。

 欧米の主要メディアは社員をイラクに派遣している、日本のメディアは社員は引き上げさせ、フリーの記者に取材を頼んでいる。その安全第一の社員記者が何を言うやらと思っていたら。

 自分の目で何が起こっているか確かめたいとイラクに行った若者、向こう見ずにもほどがある、とぼくも思う。もっと調査し準備していくべきだった、いきあたりばったりのような無謀な行動に見える。ぼくが親なら、行くなと強くとどめたに違いない。しかし、それで行くのをやめたら安心すると同時に少し物足りなさも感じるかも。

 何をしたらいいか分からないけど、何かせずにいられない、試行錯誤するこういう若者の中から、今の日本を変えられる人材が出てくるのでは? 居心地がいいようで、なにかいつもイライラし、ぼんやりした不安が漂っている今の日本を、とも思うのです。

 おまけ。
 昨今の流行語で「あるがままの君でいい」にも同じ事を感じます。物事の二面性ということ。
 親の過剰な期待に押しつぶされそうな子どもには、有効な言葉でしょう。
 親の期待にこたえたい、親を悲しませたくない。自分がしたいこと、したくないことを主張できないでいる子ども。
 日曜日くらいは習い事をヤメテ、家でゆっくりしたいなら、そう親に言ってみよう。親が悲しむからと自分を抑えることはない。……ありのままの君でいいんだよ。

 しかし、その言葉は、「人と人とが助け合うなんてバカバカしい」と育ち育てられてしまった人間には、よりマイナスに働く。
 ありのままの自分でいい? いわれなくたってそうしている。したくない勉強しないし、楽にお金欲しいし、いい女とやりたいし……。ありのままの自分を通しますよ。

 結び
 アメリカのマネをすると経済が活性化し万事良くなると思っている人たちが張り上げる「自己責任」の声には閉口しますが、しかし、この映画で、トム・ハンクス演じる父親の態度は、見習いたい。
 あまりに、オカミに頼りすぎる日本人の性向も改めた方がいいとは思います。

 そうだ! 世の中は単純に一直線に解決できるはずがない。ある時はうまくいったやり方が次にはうまくいかない。だれしも、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながらシノイデいるはず。

 それなのに、政治家を選ぶとき、単純明快なことを口にする人を選びすぎるのでは?

 おまけ2
『めぐり逢えたら』は、このままでは、父子家庭の深刻なドラマと思われるかも。共演メグ・ライアンの恋愛コメディです。
『ゴッドファーザー』最高! 『ターミネーター2』痛快! こういうロマンチックコメディもいいなあ。

4 世間が消えた

 子どもが人を殺した? 子どもなら許されると思っているんだ。子どもでも極刑にしろ。

 大事なのは、こういう犯罪を少しでも減らすこと。そのためには何をすればいいのか? でしょう?

 子どもが人を殺す、子どもを殺す。こんな犯罪が起こるのはナゼか。感情にまかせず、気分で主張せずに、落ち着いて議論しなければ。
 有効な策がすぐに見つかるはずもない。だからといって、厳罰にしとけばすむわけでない。

「刑事罰対象年齢を下げ、刑罰を厳しくすると犯罪の発生率が低くなった」という例があるのでしょうか? アメリカの現実は、厳罰でのぞんでも効果がないことを示しています。

 佐世保で同級生を殺害した女子児童の事件。「ネット」が原因のような報道が見られました。ネットを利用している子は多数いるのに、同級生を殺したのはまったくまれな出来事。広い意味でならネットが無関係ではないでしょう。が、それに今回の事件の直接の、すべての原因があるかのような取り扱いは疑問。子どもの凶悪事件が起こるといつものようにマスメディアが取り上げる。

 容疑者はゲームに夢中だった。現実とゲームの区別がつかなくなっていた。
 容疑者はネットにハマッていた。ネットにハマルと生身の人間の痛みや苦しみに鈍くなる……
 こういう解説は簡単でわかりやすいけど。

 ぼくらが子どもの頃、小中学生が人を殺すなんて、しかもそんな事件が連続して起こるなんて考えられなかった。
 親が放っておいても、(洗濯機もなく手洗い、掃除機もなく手掃除、炊飯器もなくカマドで、それに子だくさん。親は放っておかざるをえなかった。)それでも子どもが子どもを殺すなんてことが連続して起こることはなかった。まれにあったとしても、理由がわかりやすかった。いじめられ続けていた子が、絶望的に反撃して、ナイフで相手を刺した、とか。
 理由がわかりにくい子どもの凶悪犯罪が立て続けに起こるようになったのはなぜ?

 社会の変化、と考えるしかないでしょう。

 家族は大家族から核家族へ移り、家族内の「助け合い」が消えた。その助け合いは「見張り合い」「ケンセイしあうこと」でもあった。

(かあちゃん、ねえちゃんがこんな事してたよ。)
(お宅の○○ちゃん、この前××で見かけたけど……)
(その格好は何! 世間体があるでしょう!)

 その「助け合い=見張り合い」。それがなくなった今では、懐かしいけど、ぼくも、その中にいたときはウットウしくて、早く1人暮らしがしたいと、ウズウズしていたものでした。
 地域(向こう三軒両隣)の「助け合い=見張り合い」も壊れた。
 親に言えないような悩みを聞いてくれた、お姉ちゃんやオジサンやおばあさんが消えた。子どもの悩みも孤立化している。親の悩みも孤立化している。

 子どもが問題を起こすのは、親が手をかけすぎるから、と主張する人も少なくないけど。
 確かにそういう面も。
 子どもが自分で要求する前に、親が先回りして、要求をかなえてやる。
 ノドが渇いたでしょう? オナカがすいたでしょう? こんなおもちゃが欲しかったでしょう? 子どもは自分で表現する力が身につかない。
 家庭外で人との接触が少なくて、母親が「あなたは世界一」と育て、王様になった子どもは、他人と対等な関係を築けない、などなど指摘されます。

 しかし、子どもを放っておいても、凶悪事件など起こさなかったのは、この助け合い=見張り合う社会(世間)が生きていたから。それが壊れてしまったのに、まだ、昔ながらの「放任が一番」が成り立つでしょうか。
 必要な世話を焼いていない、不必要な世話を焼く。
 必要な世話って?
 子育てについても、対話し、学び、努力すべき時代になったことを知るべきでは?

 日本人は「自然」が好きです。
「自然のままがいい。下手に人間が手を加えない方がいい。」
 子育てもそれが一番と思われてきました。
「子どもを盆栽のようにいじり回すもんじゃない」という言葉が説得力をもっていました。
 しかし、放っておいても子は育つ時代は終わったようです。放っておいたら、何%かは、人を殺すような子に育つ時代へと。

 日本人の自然好き(自然がいい)は、西洋のように寒冷小雨でなく、温暖多雨で、放っておいても植物が繁茂する恵まれた自然条件による、という説を読んだ覚えがあります。
 もう、ぼくたちの社会は「自然にまかせて」では成り立たなくなっているのでは。

 日本の家庭には父親が不在といわれます。
 幼いときは子どもに接していても、中学生・高校生となると子どもと向き合わなくなる父親が少なくないようです。
「こっちは子どもと話そうとしても、子どもが避けるようになるんだ」という言い訳を聞きます。
 なぜそうなるのでしょうか。
 幼いときから、父親である自分が何を感じ何をどう考えるか。本当のところで向き合うことが少なかった事も原因では?
 相手は子どもだからという配慮も必要でしょうが、大事な問題では、子どもだからと誤魔化さず、相手を1人の人間として扱う。本当のところで向き合う。
『めぐり逢えたら』のトム・ハンクスのように。その努力が求められている。

5 対話がたらんわ

 自分の中の怒り・いらだちを整理できたとき、その怒りが和らぐことがあります。日記などつけているときに。日記は自分と話すこと。
 人とのトラブルに際して、言葉で訴えようとする習慣が身についていたら、暴力も多少は抑えられるはず。なのにそれを身につけることは大事にされていない。家庭でも学校でも。

 対話のない家庭は荒廃しやすい。対話が大事にされない社会も。

 対話は一方的おしゃべりとは違います。自分の言いたいことを抑え、相手の発言に根気よく耳を傾けることも必要です。もちろん、自分の意見が理解されていないと思ったら、存分に説明しなければなりません。
 個人対個人でも国家間でも利害が対立するのが当然。それはねばり強い対話で妥協点を見いだすしかない。その当たり前のことが大事にされていない。
 小泉首相の例は今さら言うまでもないでしょう。

 学校でも、生徒に対して「問答無用だルールを守れ!」が多いようです。
 ルールが必要なのはナゼか。そのことを身にしみさせることは大事にされない。話し合ってルールを決めることも大事にされない。

 たとえば日本では国旗国歌がなぜ問題になるのか。それを考えさせようとするだけで、偏向した教員にされるようです。
 国旗掲揚に反対、とか国歌斉唱に反対と教えるのでなく、支持派、反対派それぞれの意見を学ばせ、自分はどう思うか、生徒に考えさせる。

 支持する理由は何か、反対する理由は何か。じっくり考えさせる。出来るなら「支持にせよ反対にせよ、その人がそう主張する背景まで思いやらせる。
 支持するのはどのような世界観からか?
 反対するにはその人なりの何か体験があるのか? 何の影響か?
 そういう教育は、タテマエはともかく、実際には大事にされないらしい。生徒に政治のことは話すなという教員がオカミには歓迎される。

 子どもには政治のことなど教えなくて良い、というものに限って、少年犯罪には厳罰で処すべきだなどと主張している。自己責任だ!と。
 子どもは自然に大人になるのでなく、大人に育てていくもので、広く判断材料を示し、決断させ、その結果については十分に考えさせ責任もとらせる、というのが良くない? 
 子どもは勉強させとけばいい、政治なんか教えるな、性についても触れさせたがらない。つまり自立させようとはしない。それでいて、なにか事件を起こしたら、
「大人並に責任をとらせろ、自己責任だ、厳しく罰せよ」?

 自分の意見を存分に主張し、その後は、相手の意見に耳を傾け、自分の意見が間違っていた、至らなかったと気づいたら率直に認める。

 それが難しい。日本人の伝統的心性とかけ離れている。難しいから実行できていないのでしょう。が、そういう地道な努力をし、そういう姿を子どもたちに見せないと、世の中良くならないと思うけど。

 生の人間の口臭に閉口しながら、対話する。そして、相手の微妙な顔つきに、自分自身も相当な口臭をはきかけているらしいと気づく、そういう事も含めた対話の努力が、ネット時代にはますます必要なのでは?

6 高度情報社会・魂は情報に傷つけられている

 ぼくが子どもの頃、TVはまだなくて、我が家にTVが来たのは、たしか小学校3年の時。
 それ以前は、何をして過ごしていたんだろう? 兄とプロレスごっこ、漫画、将棋、トランプ、そして、親が聴いていたラジオの野球中継や浪花節・漫談落語を聞きながら寝ました。
 早く大人になりたいと言い合っていた。大人になったら何でも出来る。
 今のように、「大人もストレスが多くて大変そう。大人になりたくない」なんて口にする子はいなかった。大人がどんなふうに生きているか、というような情報は知るよしもなかったから。

 今の子は飢餓で骨と皮になった子どもを見てしまいます。パレスチナやイラクで子どもが血を流している映像を見てます。
 濃厚な愛撫シーンを見、政治家の薄汚さが強調されたドラマを見聞きし(政治家にもすばらしい行いがあることなど滅多に放送されない)、女性の半裸、それにはしゃぐ男たち、その逆も見ています。
 もっと広くぼんやりした不安にさらされる情報も。
 気候変動。かつてなかった豪雨の頻発。ヨーロッパでも記録的猛暑に酷寒。
 食糧危機、遺伝子操作……

 それがどんな情報だろうと、情報にさらされること自体で、子どもたちは「魂を傷つけられている」と言ったのは河合隼雄。

 タ、タ、タマシイ? 最初はトッピョウシもないと思いましたが、よーく考えると、そうかもしれない、と思えてきます。
 ぼく自身、たとえばターミナル駅の人混みで、目の前の人間の歩きの遅さにイラダって、タラタラ歩くんじゃない!と怒鳴りたくなることが。先を急いでいるわけでもないのに。
「おれ、なんでこんなにいらついているんだ? 特にトラブル抱えているわけでもないのに?」
 そんな体験がしばしば。
「そうか、この情報社会に生きること自体で、魂を傷つけられているんだ。」
 ナットク ……?
 妻の長電話にイライラするのもタマシイを傷つけられているから?

 なんでも解ける魔法の言葉!
 こういう便利な言葉はちょっと疑った方がいいのかもしれません。

 魂のことはともかく、この津波のような情報を毎日かぶって、感受性の強い子が心の病にならない方が不思議な状況では?

 ぼくらの子どもの頃、テレビもなかったし、少年雑誌も月刊だった。同じ雑誌の同じ漫画を繰り返し繰り返し読んでいたあの頃を振り返ると、まるで紀元前の遠くのことに思えるほどです。

 テレビを見せないようにする? ネットを使わせない?

 もはや、ネットなしの世界など考えられません。テレビが普及し始めた頃、テレビによって日本国民がすべて白痴化するという議論がありました。
 新しい文明の利器が普及し始めると、いつも同じような議論が起こります。
 インターネットについても同じように。
 先のNHKの番組でも、子どもの「自然体験」と「ネット」を対立的に扱っていました。
 インターネットよりも、自然の中で遊ばせることが大事だ、と主張する人をゲストに。

 自然体験も大切だが、ネットも大切。

 ネットによって引きこもりを克服できた、ゲームによって克服できた、という事例もあるようです。どんなことも、プラス面マイナス面があります。
 このネットを離れては世界が成り立たないのですから、それがもたらすマイナス、それが人の心に及ぼす悪影響の研究。そしてその対策にもっと力を入れなきゃ仕方ない。

7 心の病は公害

 高度成長時代、工業化社会の日本では公害は人の身体の病として現れました。水俣病、四日市ぜんそく……。物品の生産時代と見合うように、物(工場排水や工場排煙)に身体を侵された。
 高度情報社会では公害は直接、人の心の病・精神の病として発現する、と吉本隆明が指摘していました。情報は脳・精神と関わるのですから。
 公害対策にお金と人を注いだように、この心の荒廃・精神の変調の増加を公害と考えて、対策にもっともっと力を入れるべきなのです。

 たとえば、西欧には、心の病にも救急隊が存在するそうです。
 佐賀のバスジャック事件を思い出しましょう。少年の親が「子どもがトンデモナイことをやらかしそうだ」と警察に行くと「精神科医に相談を」といわれ、精神科に行くと、「警察に」と相手にされなかったそうです。
 日頃から言動がおかしい、包丁なども買いそろえている。こういう場合、西欧に精神科の救急医療隊が存在する。それを日本にも創ろうという提案がなされても、動きは広がらない。
 野田正彰氏によると、異常な犯罪が起きたら、西欧では委員会を作りどうしたら防げるか、調査研究するそうです。
 日本ではそれがない。
 その代わりに、少年法を改正しよう。もっと厳罰化しようと騒ぐ。

 野田氏の言。
「ここ二、三十年、欧米では精神医療体制を整備してきた。ロシアには鑑定用の病院があって疑わしい犯人はそこへ送られ、グループで生活を観察して犯人の真実を知るためのレポートが出されている。」
 アメリカではフェルトゥス教授が、殺人に関わる粗暴犯343人を詳細に調べ、78%は少年期にペットを殺害していると言うレポートを出したそうです。

 日本ではこういう研究をさせてもらえないと氏は嘆いています。
 政治家も動かない。それというのも結局、国民が関心ないから。
 関心は、犯人の厳罰化と、犯人が謝罪するかどうか。そんな有様です。
 もちろん、被害者にしてみたら、そうでしょう。ぼくも、もし子どもが殺されたら、その相手を殺したくなるに違いない。どうしたら実行できるかまで考えるかもしれない。
 しかし、心の隅には「どうしてこんな事が起こったのか、それを究明して欲しい」という声があると思う。

 現実の被害者の内部にだって、加害者の厳罰要求だけでなく、少しでもこんな事件が減るように、なくなるように、原因を究明して欲しい、そして有効な対策を、という声があるはずです。
 しかし現在はマスメディアが、厳罰化一色になってしまっているように見えます。
 研究なんかしても防げないと考えているんでしょうか。そういう犯罪に走る奴は遺伝子によって決まっている、と。
 それとも、なんでも「運命として受け入れ、あきらめる」国民性のせいでしょうか?

 西洋では、災害が起これば、なぜそんな事が起こるのか、研究し、防ぐための手だてを考えてきました。自然科学が発達してきました。
 ところが日本では、台風も、研究しようとするより、野分(ノワキ)として・風流として受け入れられてきました。
 
 芭蕉野分して盥(タラヒ)に雨を聞く夜かな
 イノシシとともに吹かるる野分かな

 そういう国民性なんだから、といってあきらめるような状況ではないでしょう。
 地震だって予知可能性を追究している時代です。人の心についても、運命論で片づけるのでなく、研究し対策を講じるべきでしょう。

 もう一度、野田氏の言葉。

 精神科救急医療が出来れば、親が「この子はとんでもないことをしでかしそう。もう親の手に負えない。人様に迷惑をかける前に殺して下さい」というような子でも、多くは良くなって行く。彼らは人並みに生きられないことに苦しんでいるのだから。自分も価値ある人間として生きられるんだと思えたらそれなりにやって行く。

8 動物救急隊

 心の病の救急医療だけでなく、動物の救急隊まで存在する国もあります。

 TVで放送されました(TV東京系「ぽちたま」)。スウェーデンの話です。
 やっぱりスウェーデン!
 車にはねられたりして傷ついた動物を見つけると、人間の119番と同じように、動物救急隊に連絡する。救急車が来てその動物を保護し、獣医師に連れて行く。
 政治家たちよ、子どもたちに命を大切にする心をと本気で思うなら、それくらいのことをやってみなさい。
 というのではダメなんですね。ぼくたち自身が動かないと。政治家に期待してもダメなんです。
「国民のことを本気で考えてくれて、アメリカや中国とも互角にワタリアエル、実行力のある政治家がいつかは、登場してぼくたちを救ってくれる。」
 そんな幻想は、夢見がちな少女の白馬の騎士と変わらない。そんな期待をしていると、気がついてみると、身も心も国もぼろぼろ、ということになりかねない。
 いや、すでにそうなっている?

 動物救急隊? 
 ギマン的な、と言う人がいます。ぼくたちの生活がどれほどの生き物の犠牲の上に成り立っているか。それを自覚したなら、恥ずかしくて動物救急隊なんて言えないはずだ、と彼は言います。
 食べ物や衣服の材料として人間の犠牲になる動物たち。
 医薬品・化粧品開発のために、工業製品のように大量生産される実験用動物たち。有害物質を与えられたり、病気になりやすい環境で飼育され、病原菌を注入され、短い命を終える動物たち。

 ダカラ?
 だから命を大切にしなくていい?
 道路で瀕死の犬や猫がいても知らん顔するべき?

 ぼくたちが、そういう矛盾を抱えていることも、子どもと一緒に考えるべきでしょう。
 情報化社会に生きる現在の子どもは、ネットでそういう情報を知るのか、小学生でもそういう矛盾に気づいていて驚かされることがあります。

 動物の救急医療、精神科救急医療、結構だが、問題は予算になるでしょう。(動物救急隊は、民間の寄付で成り立っているようです。)

 スウェーデンは税が高い。
 それで話は終わり、としたがる人が少なくない。考えること、議論することって面倒だから。何か一つ欠陥を見つけて、議論は終わりとしたがる。その方が楽。

 消費税率25%(食料品はその半分)。
 しかし、ここは充分考える必要があります。
 消費税率は高いが、その代わり、自分や家族に「もしも」のことがあっても、医療費・介護費の心配が(全然とはいえなくても、ほとんど)ない国。
 日本で最も身体の不自由度が高いと見なされる「要介護5」認定の人で介護する時間は月に最大60時間、その場合、負担額は3万5800円。月に60時間で充分なはずがない。
 スウェーデンでは月に190時間。その負担は8,000円程度だそうです。物価や為替の変動で正確な数字は変わるでしょうが。

 それに、消費税率だけを比較するのはよしましょう。ぼくたちは消費税には敏感ですが、年金や健康保険料の引き上げには、鈍感ではないにしても、消費税引き上げほど猛反発はしない。それらのすべての負担、年金・医療・介護の社会保障費全体で考えないと。
 それについて自民党と民主党との討論会が開かれても、聴衆は集まらない。あれほど年金について関心が高まった時期だったのに。

 もっとも、討論がつまらないのも確か。
 『対話』になっていないことが多い。
 たとえば道路の件、国に金がないのにこれ以上「住民に必要のない道路は造るな」という意見に対して、
「道路を一切造らなくていいんですか? 開かずの踏切といわれて住民が困っている所もまだまだある、そういうところを立体交差にするのも無駄ですか」などと言って反論したつもりになっている。

 日本の討論はこの程度のことが多い。司会者も議論がかみ合うように論点を整理しない。お互いが言いっぱなしで終わりが少なくない。

 スウェーデンと口にすると、あんな税金の高い国!で切り捨てられてしまう。しかし税金の高さだけでなく、たとえば病院で治療を受けたとき、どれだけ自己負担があるかもあわせて考えないと。
 消費税、保険料、プラス利用時の自己負担、その総額で比較しないと意味がない。スウェーデンの消費税25%は異常な高さに見えますが、税金、保険料、自己負担の総額で比較すると日本の方が大きいという試算もあります。
 そういう細かいデータを出させ、落ち着いて比較し、議論して、制度を改革していく、そう要求できる人間に私はなりたい。勝手ニナレって? あなたと共になりたい。

 スウェーデンだって悪いニュースもあります。救急車で搬送された急病人が、数時間放置されていたという事件も。
 その一つの事で、スウェーデンだってダメじゃん、という人がいましたが、くり返しますが、一事で決めずに多事を見ましょう。
 現実の国が極楽浄土であるはずがないけど、見習うことは多い。

 政府や議会、マスコミなどを、市民の立場から監視し、政策提言する「オンブズマン」という制度を作ったのもスウェーデン。国連のPKO活動でも先駆的な国です。
 それというのも、人々が日常会話で政治の話をするお国柄だとか。結局、そこに行き着く。民度に。

 それもウットウシイかな……とは思うけど。
「冬ソナ」の結末はどうだとか、ドラゴンズはどうだと言っている方が幸せな気もするけど。しかし、余りにも、ぼくたちは、自分たちのことを政治家にオマカセにしすぎてはいない? その政治家を選ぶときの基準は何?

 日本が目指しているのはアメリカ流の競争社会です。
 規制緩和、競争促進、社会保障削減、レーガン・サッチャー流の改革です。それで強い経済はつくれるかもしれない。だけど、社会の隅々にまで競争原理を貫かせ、人と人が助け合う心など破壊するストレスの強い社会が、社会そのものを攻撃するような犯罪・直接の理由が見えない異様な凶行を生んでいる一つの要因では?

 小泉、竹中平蔵、それに元外交顧問の岡本行夫、彼らは見た目がスマート。亀井静香や野中広務・鈴木宗男と比べたらクセがなさそうで、どっちがいい人? と聞いたら、ほとんどが小泉・竹中を選ぶでしょう。

 その竹中は「行き過ぎた福祉は社会から活力を奪います」と発言していました。
 アメリカのマネをすると万事よくなると信じているらしいこの人、今の日本が行き過ぎた福祉の国? 自殺者が年間3万人を越え続け、自殺率が先進国で一位、それに自殺には数えられていないけど、中高年の孤独死も増えている。自殺に等しいような孤独死も。これは福祉が貧しい証拠じゃないの? こんなときに口にする言葉か?
 既に、社会保障費のGDP比は、日本はアメリカに次いで低い。
 この人、そういう状況なのに、「行き過ぎた福祉は社会から活力を奪う」?

 かつてのアメリカは福祉国家でした。この国は極端に走る傾向が強い。
「犯罪は貧困が生み出す。ならば、手厚い福祉で貧困をなくし犯罪のない社会をつくろう。」
 しかし、福祉施策にかかわらず犯罪はなくならなかった。代わりに財政は悪化した。
 アメリカは方向転換する。
「行き過ぎた福祉は社会から活力を奪う。」
 競争原理を社会の隅々に。勝者敗者を峻別する。レーガン以来のこの政策で確かに経済は活性化した。

 竹中平蔵、この人一見穏和そうで、冷酷なことを平然と言う。週刊誌の見出しには、「アメリカに日本を売り渡そうとしている男」みたいな言葉が踊っていますが、よく言えば、日本の経済をアメリカのように強くする使命感に燃えて、アメリカのマネをしようとヒッシなんでしょう。

 かれは、「日本の会計制度もアメリカのような公正な会計制度にする必要がある」と言っていました。
 その直後、エンロン不正会計疑惑が起こり、そこをつっこまれると、
「私はアメリカがすべていいと言ったことはありません。社会的には様々な問題を抱えた国であることも事実です」などと誠実さのない返答をしていました。

 アメリカが問題を抱えていることと、アメリカの経済政策とは関係ないの?
 そのアメリカのマネをして、日本の社会も「様々な問題を抱える」国になっているように見えるんだけど。

 きわめつけは2002年10月の「『ツー、ビッグ、ツー、フェイル』(大銀行大企業だからつぶせない)という考えはとらない」発言。株価は急落。
 その後も、「今、株を買えば絶対もうかります」発言(証券会社の営業か?)などもありました。

「竹中の功績として、不良債権処理がすすんだことはあげなければならない」という人がいる。それを認めるとしても、その裏に倒産・リストラ・自殺者・孤独死の急増があることも忘れるべきじゃない。

 不良債権処理は市場原理に従ってシュクシュクト進めるべきで、それにともなう倒産・失業者増への対処は政治の課題だ、と竹中ら経済学者は言っていた。その通りだと思う。
 現実には? 倒産・失業者増への対処という政治政策はおざなりのまま処理が進められ、倒産、解雇、家庭崩壊、自殺・孤独死は急増した。

 そんな中で竹中は 一方で「経済とは経世済民、世を経(おさ)め民を済(すく)うということです」と恥ずかしげもなく口にしていらっしゃる。

 彼や「改革」推進議員たちは、「改革を進めなかったら、もっと経済は低迷し、もっと多くの倒産や失業者が出ていた」と弁解する。
 自分を批判する者たちは「改革」に反対する者たちだと思い込みたいらしい。
 改革しなければならないことは自明。ただその犠牲になる人々をどう救うか、それが政治の仕事。市場原理に任せておけばばいいのなら、政治家はいらない。

 竹中氏最近は一段と得意満面でぺらぺらしゃべっていますが、為政者というものは、自らの政策によって犠牲になった人々のことを胸に刻む気持ちが必要でしょう。靖国に行って戦死者を悼むのと同じ様に。それは直接言葉に出したり、行動で示そうとしなくても、言葉のハシバシや微妙な表情に表れるものだと思うけど。

9 『ボーリング・フォー・コロンバイン』

 少年による無差別の殺人、しかも理由が見えない殺人が、他の国で皆無というわけではないが、目立つのはなんといってもアメリカ。
 それは一部で言われているように、「銃社会」に大きな要因があるわけではないようです。

「アメリカの銃社会を告発した。」
 この映画の宣伝モンクだけど、カナダもアメリカに負けない高い銃所持率の社会。それなのに銃による犯罪は少ない。なぜ?

 カナダが舞台のディズニー映画で『3匹荒野を行く』というのがあります。
 ゴールデンリトリバー・ブルテリア・シャム猫の3匹が、預けられていた家から、自分たちの家まで、雪山を越えて帰るという動物冒険物語。
 途中、子ども(10代前半にしか見えない)が猟銃を持って1人で森の中に現れ、山猫だったか?にぶっ放している場面があります。あんな子どもが1人で銃を!と驚かされたものです。それくらい子どもにも銃が身近なカナダなのに、殺人はアメリカとケタ違いに少ない。なぜ? アメリカは移民社会? それはカナダでも多い。オリンピック陸上など見ていると、カナダ選手にもアフリカ系が多いこと。

 答えは、アメリカと違って福祉社会だから。

『ボーリング・フォー・コロンバイン』の功績はそれを示したことでは?

 アメリカ国内で起こっていることが世界大に広がっている。
 地球上の貧富の差が拡大、それが、世界でテロが激化している大きな要因の一つだと、認めない人は少ないでしょう。それなのに、日本が同じような道を進もうとしていることに「待てよ」と言わないのはなぜ?

 日本もアメリカにならおうと、自己責任・自助努力を言い、社会保障は削減し、様々な場での競争を促進しようとする。

 数千年農耕社会を営んできたぼくたちは、議論してルールを築き、うまくいかないとまた議論し改めていくというのは苦手。難しいことはエライサンにお任せし、目立たず、周りのフンイキにあわせるという習性がまだまだ残っている。
 そのエライサン・小泉氏も自衛隊のイラク派遣を「フンイキで決める」と言って、小沢一郎に嘲笑されたりしていました。

 そういう自分の習性を自覚して、ぼちぼち改めて、政治家への不平を言って終わり、というのはやめにしたい。「政治家にお任せ」するのはやめにしたい。
 人間の命を大切にし、それも生物的命だけでなく生を支える誇りまで含めて大切にし、人間と地球が持続可能な成長を追究する、そのためには……とぼくたちが発想する、そういう社会を目指したいなあ。

10 人権にはうんざり?

 『人権』というと軽蔑するのが流行のようです。
その背景をおおざっぱに整理すると、

 子どもが子どもを殺すなんて世の中になったのはどうしてだ! 援助交際などが流行るのはなぜだ! どうしてこんな世の中になった?
 戦後を主導してきた理念が間違っていたからだ。
 戦後を主導してきた理念とは?
 戦後民主主義・人権重視・個の重視だ。

 という図式でしょう。
 戦後日本が、戦争への反省から、国家より個の重視、人権重視へと移ったのは間違いないでしょうが、ほんとに個が確立し人権が大切にされる国になっていたら……。

 たとえば佐賀のバスジャック少年の犯罪はなかったかもしれないと思えます。
 少年はいじめられていたそうです。腰の骨を折る大けがもしたと。その時周囲の人間がもっと違う対処をしていたら?
「いじめ、卑劣なことを許すな」と口先だけでなく、行動をとれる人間が今のようにごくまれではない社会だったら。
 いじめられ腰の骨を折っても、級友も先生も誰も助けてくれない。そんな中では、この世界への恨み・憎しみしか育てられなかったのかもしれない。大阪教育大付属池田小事件の宅間も親に虐待されていたと報道されています。
 人権がほんとに大切にされている社会だったら。

 我が子に、「おまえイジメられていないだろうね」と聞く親が多数派じゃないですか?
「お前、イジメるような卑劣なことをしていないだろうね」と我が子に問いただす親が多数だったら。
 つまり子どもの人権を大切にすることが身に付いた社会だったら。あんな事件はなかったかもしれないと思いません?

 いじめられていたことは言い訳にはならない、というような意見。
「わしだって中学の時いじめられていたが、克服した……」と自慢話になる人がぼくの身近にもイマスガ、「恋愛に公式はない」のと同じように、人生にも公式はない。いじめられ体験にも公式はないのです。ある人間がいじめを克服できたからといって、それと同じ事をすればだれでもうまくいくはずがない。状況は人それぞれ違うのです。ある人間の成功体験通りにすると、だれでも成功するなら、世の中バラ色だろうけど。もちろん参考にはなるけど、体験自慢したがる人はそこを考えて欲しい。

 ぼくもいじめていたなあ……。
 小学6年生の時、友達数人と、クラスでテスト成績の悪い子の1人をよーくカラカッていた。返してもらったばかりの、その子のテスト用紙を取り上げて、「こんなの間違ってやがる! 『日本の首都は? 小倉』だって!」と騒いでいた。
「いじめるのは恥ずかしいことだよ」といさめた三浦君!
 新聞配達のアルバイトをしていて、それでも成績が良くて一目置かれていた三浦君。丸坊主の頭がまぶしかった。
 三浦君は今どこにいるんだろう?

 三浦君が育ちやすい環境に作り替えるために何をなすべきでしょう。

 筑紫哲也が彼のニュース番組で、この佐賀バスジャック事件に触れてマトメていました。
「子どもたちは人の痛みが分からなくなっている。それというのも、子どもが痛い体験たとえば小刀で鉛筆を削りケガをするような体験から遠ざけられているからだ。」などと。
 しかし、そう発言する直前にも彼のその番組中の報道で、佐賀の少年がいじめられ腰の骨を折る大けがをしたこともあると伝えていた。
 それなのに、その直後、「痛い思いをしたことがないから、平気で人を傷つける」と俗説を述べて分かったつもりになっている!
 筑紫だけの問題じゃない、ぼくたちの性癖です。広く流通している安易な知識で、目の前の事件を解釈しナットクしたがる。

 ここで質問。
「今の子どもは痛い思いをした経験がないから、人を平気で傷つける」
 最近チマタに流れているこれと同類の俗説を具体的にあげてみよう。

 いじめの質が以前と違うことも注意しなければならないようです。
 ぼくらがいじめる相手はいつも決まっていた。成績の悪い子、風呂に数週間も入っていないような臭いのする子。

 今はいじめられる相手が変わるそうです。いじめていた側の子がある日突然いじめられる側になる。
 そこから読めることは、子供たちに強いストレスが加えられているということでしょう。誰でもいい誰かを標的にして遊ぶことでそれを解消している。
 そのストレスは受験によるもの?
 受験競争はぼくらの子供の頃の方が激しかった。しかし、今のようにいじめは激しくなかった。今から見ると当時のいじめは牧歌的に見えます。

11 イラク攻撃と靖国

 命について、やりきれない思いを、鋭敏な子どもたちに与え続けているのは、最近ではやはりアメリカのイラク攻撃でしょう。
 子どもが頭から血を流しながら泣き叫ぶ姿がテレビに映る。
「命を大切に」とか、「道徳心を育てないと」と口にする政治家たち、彼らが子どもたちに見せているのは、力のある奴(アメリカ)にはサカラウナ。サカラッても損、それが現実よ、というメッセージ。それは政治家だけじゃない。ぼくたちの姿でもありますが。

 本気で拉致や核問題の前進・解決を望むなら、中国とも、もっと上手につきあうべきだ。
 北朝鮮に影響力を行使できるのは、軍事的脅しではアメリカ、それ以上の力を行使できるのが、北の保護者・最大の援助国としての中国。
 最初の6者会談。出席を渋る北を席に着かせたのは、中国が北への重油供給を停止して圧力をかけたからだといわれています。
 日本政府に、中国と、将来の東アジア情勢も考えて、上手につきあわねば、という考えは、あるのでしょうが、それを追求する熱い姿勢は見えません。(福田元官房長官にはあったようですが。)

 中国に対して、「経済がちょっといいからって、ナメルナヨ」というような発言をする石原都知事にカッサイを贈る一部メディア。

 マスメディアでは嫌中気分をアオルだけの評論家・ジャーナリストがチョウリョウバッコしています。大げさで極端な発言をする方が耳目をひくから、彼らを重宝がるのはマスメディアの習性で、仕方ないのかもしれませんが。嫌中気分ばかりアオッテどうする気? 何が大事なことなん?
 主席の胡錦涛は親日にカジを切ろうとしたことも大きくは報道されない。日本政府はそれを助長するように動くどころか逆に親日へ動こうとする人たちの足を引っ張った。

 中国共産党の多数は反日。それは確かでしょう。
 親兄弟が日本兵に殺されたという体験者がまだ生きている。
 経済成長が続いて、国内の格差が広がり、政治=共産党への不満も積もっている。共産党としては、党が支配する正当性を訴えるために、抗日戦争を闘い、人民を解放したのは共産党だと強調せざるを得ない。日本の侵略はひどかったと訴えることになる。
 国内の不満を外に向けさせる、その標的としても日本が選ばれている。付き合いにくい相手だ。
 しかし、日本も同じような事をしているんじゃない? 中国への嫌悪をあおって、安物のナショナリズムに訴え政権への求心力を高めようとする。

 中国が反日一色で凝り固まっているわけではないでしょう。経済発展のためにも省エネや公害防止のためにも日本の技術が必要。日本と友好的に、という勢力があるのに、首相の靖国参拝が彼ら中国の親日派の顔をつぶしてきた。そのことには、ほとんどのメディアが触れない。

 よく指摘されることですが、小泉首相を突き動かしているのは旧田中派への恨み。道路公団改革・郵政民営化に熱心なのも、そこが旧田中派の力の源泉だったから。
 だから国民が強く願っている年金や医療制度の改革よりも、郵政民営化に熱を上げている。靖国参拝も同じ事。旧田中派つぶしの面がありそう。
 中国と国交回復を成し遂げた田中元総理の関係で、中国の親日派は旧田中派と親好が深いから。
 田中派への怨恨をはらす、日本の政治を金権でゆがめてきた旧田中派をつぶすためなら、中国関係が冷え込もうが、韓国との関係が悪くなろうがそれは二の次?

 首相は支持率と政局(反対派つぶし)にしか関心がない、と嘆いていたのは安全保障での自民党のブレーンでもある森本敏。今後の日本の安全保障のために、どういう日中関係を築いていくべきか、そんな発想は首相にはないらしい。
「私はあまのじゃくだから靖国参拝をやめろと言われると行きたくなる」などと、子どものケンカようなことを言っている。

 靖国問題。
 小泉首相は、首相になるまで靖国参拝にそれほど熱心でなかった。総裁選の時に有力票田の一つである遺族会の支持を取り付けるため、約束した。
 総裁になったら、「終戦記念日に参拝する」と。
 一方、中曽根元首相は中国とうまく付き合うために参拝はよした方がいいと主張しています。小泉氏よりはるかに「大日本帝国」に強い郷愁を感じている中曽根氏が。

 小泉氏はよくこう言います。
「国のために戦って亡くなった人に哀悼の誠を尽くす、それがなぜいけないのか。」

 それがいけないと、だれも言っていないでしょう。ココロザシのない政治家のいつものやり方。
 相手が言ってもいないことを、言ったことにして、それを否定し、自分を正当化する。
 
 靖国問題は、中国がどうこうより、自民党の良識的な議員(たとえば久間氏)が言っているように、結局日本人があの戦争の責任について、考えてこなかったことに帰着するのでしょう。

 国のために戦って亡くなった人たちを悼む、それはイケナイどころではない。
 話を聞いて涙しない人は珍しいでしょう。

 ぼくも戦時下の記録や映画を見るたび、泣く。ほとんどの人がそうでしょう。戦時下の日常が描かれた映画を見、小説を読むたびに哀悼の気持ちが自然にわく。しかし、問題は、靖国参拝が本当に彼らを悼むことになるのか、ということ。

 パレスチナやイラクで自爆テロがやまないのは、神のために・アラブの大義のために死んだら英雄になると信じられているからだと指摘される。貧しくて失うものが何もないからだということも。

 それを痛ましいと思っているなら、天皇のため・国のために命を捧げよ、死んだら英霊として靖国にまつられると教えられたことは、どう思っているのだろう?

 いま、ぼくたちが、アラブの大義を信じる自爆戦士たちに抱く痛ましい思い。かつて欧米の人々が同じような思いで、日本の特攻兵士を見ていたに違いない。

 首相の靖国参拝に批判的なのは中国・韓国だけではありません。親日家のフランス大統領シラクも「やめたほうがいい」と忠告したと伝えられている。当時アメリカ国務長官だったパウエルも。
 首相の参拝は国際良識から見て「困ったこと」なのでしょう。

 日本が無謀な戦争突き進んだのは、やむをえなかったと言わざるをえない面があったのだろうとぼくも思う。
 今度のアメリカのイラク攻撃や、前の「湾岸戦争」を見ていて、かつての日本も、今のイラクと同じように、アメリカに強引に追いつめられて、日米開戦にまで至ったんだろうなとつくづく思う。

 しかし、中国侵略に弁解の余地はないでしょう。

 因果が複雑に絡み合った現実の戦争を、対米戦はやむなし、対中戦は×などとわけられるものではないでしょうが。

 一部遺族は、「あの戦争が悪い戦争だったというのか」と反発します。
「夫は、父は、国を守るという崇高な目的のために戦って死んだんだ」と。
 あの戦争が間違いだったとなると、戦死は犬死にになると考えるようです。

 話は少し変わりますが、歴史上の人物の出生地を訪ねて?と思うことがしばしばあります。
 たとえば蕪村の大阪。
 記念碑には彼が妻子を捨てて出奔したことが触れられていない。立派な文学者であり立派な人物だったというように書かれているだけです。
『実生活では道徳的にちと問題があったかもしれない、だが、いや、だからこそか、すぐれた作品を残したのかもしれない』という風には考えない。
 人物としても、非の打ち所のない立派な郷土の偉人です、というふうに記されている場合が多い。

 靖国参拝支持派もこれと同様の発想。
 あの戦争が間違っていたなら戦死者は犬死になる。!?
 ベトナム戦争について、アメリカはあれは間違った戦争だったと国民的に認めざるをえませんでした。で、死んだアメリカ兵は犬死にだったか?
 アメリカ人は「戦争は間違っていたが、兵士は勇敢に戦った」と総括した。
 日本の戦争が侵略戦争であったとしても、だから戦死者は犬死にになるわけではないでしょう。

 靖国参拝について、日本人の宗教の問題だから外国にとやかく言われる事ではない、という意見。
 靖国は近代国家建設の犠牲になった人々を祀るために明治になって建設されたもの。戦前まで陸海軍が管理していた。伝統的神道とは違うという意見が梅原猛などから出されています。
 日本は中国と違って、死んだらみんな仏様、敵も味方もなくなるなどと首相の参拝を弁護する意見もあります。
 そんなこというならアジアの死者も米兵の死者も祀ったら、というのは極端にしても、靖国は敵味方を峻別している。明治国家建設の功労者である西郷隆盛らは祀られていない。西南戦争で賊軍として死んだから。

 靖国神社に鎮霊社という社があって、そこでは西郷さんも含め世界中の戦死者の霊が祀られている、という反論があります。
 それは、たとえば、新聞が一面で大きな誤報をしておきながら、謝罪文は紙面の片隅の小さな数行、というようなもの。それが本当の謝罪になる?

 死んで英霊となる。
 それに対して「命より尊い物はない。」
 実質はともかく、これが戦後を主導した理念。

 この理念に対して強い疑いを示したのが三島由紀夫。
「それは違う、時には命を賭けて守らねばならないものがある」と。ぼくもそれに共感した。
 ただ、それは、命を大事にすることを前提にした上で。

 生命尊重、それがなぜ戦後理念になったか。戦争中、情けなくなるほどの人命の軽視があったから。
 インパール作戦のような補給路の確保など無視した作戦がまかり通った。なぜ?
 疑いをさしはさむと、「きさま、命が惜しいか」と切り捨てられた。
 味方兵士の犠牲を出来るだけ少なくという発想より、命を惜しまずに兵役を遂行するかどうかが第一のような倒錯したフンイキ。
 そして「生きて虜囚の辱めを受けず」。この戦陣訓。死ななくてもいい人たちを死に追いやった。

 靖国はそれを支えた。

 だから欧米のメディアも、首相の靖国参拝を批判するのでしょう。

12 国のために私を棄てたあの時代?

 戦争中はみんなが国のために・公のために私を棄てた、命も捨てた、良い時代だったという人がいます。
 義理の父が酒を飲むと、よーくくり返していました。
「戦前は電車で年寄りが乗ってくると、若い者はみんな立ち上がって席を譲ったもんだったよ、それが今は……」
 そうだったんだと信じていました。

 元侍従長・入江相政の日記を読んで耳ダコがとれました。
 戦前、電車内で、軍人がふんぞり返って座っていることを嘆いた記事があります。
 やっぱりそうか。
 オレタチ軍人ガ、オ前タチヲ命ヲカケテ守ッテヤッテルンダゾというオーヘイな態度

 戦争中もまた、醜い話がある、一方美しい話もあった。それは現在と変わらない。
 義父の話も、年をとった人間につきものの嘆きだったようです。

「昔は良かった、今は何もかもダラクして。」

 私たちから見ると良かったはずの昔・14世紀の人・兼好法師も、「現代というのは何もかもイヤシクなって」と嘆いています。
 もっとさかのぼって、7世紀の万葉集にも「昔は良かったのに……」という嘆きが歌われています。

13 イチローがんばれ!

 国会中継を聞いていると、靖国のことでもそうですし、年金のことでスウェーデンの例が引かれたりすると、「ここは日本だ」とヤジが飛びます。

 日本のことに外国が口を出すな。

 これは、近所での子ども虐待に気づいていても、その家の問題だからと、手も口も出さない心性と同じでは。
「日本のことに外国がどうこう言うな。」
「日本のことなのに、外国はどうだこうだ言うな。」

 経済が国際化し、人や物の往来が激しくなればなるほど、人の意識は内向きなってしまうというのも、人の常なのでしょう。自分たちが栄光からますます遠くなっていると落ち込んでいる人は特に。

 大リーグの日本人選手応援にも、その影が感じられます。スポーツ観戦を楽しむと言うより……。
 政治は三流だが経済は一流といわれた日本、その経済がアメリカにいいようにやられっぱなし。その上、中国がかつての日本のような驚異的な成長を遂げて、アジアの中心になろうとする勢い。インドもその後を追い急成長。
 自信喪失し卑屈になった日本人が、大リーグでの日本人選手の活躍に、溜飲を下げる。
 日本ダッテ、マダマダヤレル。
 野茂とイチローの対戦を、「日本人対決」とメディアが騒いだときに、
 彼らが、「ぼくたちにはソンナ意識はありません。大リーグの1選手対選手として見てもらいたい」と言ったのも、そこに快くないものを感じたからでは?
 技術や力との対決、それにフェアプレーを楽しむというよりも、「日本人がんばれ」・「日本人だってまだまだやれる」といった、石原慎太郎に拍手喝采するような心性。
 現実生活社会では差別偏見があっても、球技場では日本人でもプエルトリコ人でも差別なく美技には拍手賛辞をおくる。そういう世界に、「日本人対決!」はなかろう。

 かつてイチローが嘆いたことがあります。まだ日本でプレーしていた時のことです。
「ぼくはぼくなりにベストをつくして、記録を塗り替え、精一杯のプレーを見せる。それがぼくの一番の仕事だと思う。でも、お客さんは球場に来てくれない。どうしたらいいんですか」と。
 やがて彼はアメリカに渡った。
 アメリカに行ったら、そしたら、日本ではイチロー!イチロー! イチロー観戦ツアー!

 イラクの話に戻ります。
 アメリカのイラク攻撃に反対したのはフランスやドイツばかりでありません、カナダ・メキシコまで反対しました。
 フランスはもともとアメリカの覇権をケンセイする志向のある国、イラクに石油利権もある。国内にアラブ人が多数いる。フランス国内のアラブ人の割合は、アメリカ国内の黒人の割合(12%)よりも大きいと知って驚きました。
 フランスの場合、複雑な要因があるのでしょうが、カナダ・メキシコというアメリカの北南の隣国、日本よりもアメリカと密接といってもいい国がともにイラク攻撃には反対したことをよーく考えたい。

 それは、今後の世界の平和と安定を考えた上でのことでしょう。それは子どもの未来を考えた上でのことと言いかえても同じ。

「現実はな、力が物をいうんだよ」と、わかったようなことをおっしゃる人たち、カナダやメキシコまでイラク攻撃に反対したことを考えましょうよ。力だけでは解決しない時代に世界は入っているんです。

 10年後20年後、100年後の日本・アジア・世界を考える。
 それが出来ない日本の政治家が「命を大切にする教育を」?
 町村現外務大臣は、こんなに子どもの凶悪犯罪が起きるのは、「日教組が道徳教育に反対したからだ」と発言。彼の頭は1960年頃で止まっている。
 青少年の心の荒れ(大人もそうだけど)を前に、我々はそれを自分の鏡として見るべきでしょう。