波瀾万丈激動渦巻く兜町の歴史を綴る武将達
                 第 一 部
                   


  はじめに  株屋小僧の系図   戦中時代 
    東京大空襲 終戦直後の日本経済と兜町                           
      鼻垂れる小僧と終戦直後の世相                               

   証券取引所の再開 株屋に飛び込んだ餓鬼大将
     場立ち時代と勤労学生 兜町柔道界の歴史 

    大光・竜ケ崎証券の破綻  名門『入丸』の倒産 
       東洋精糖事件   藍澤弥八東証理事長


                                                                         


    はじめに                                                            
 兜町の象徴だった証券取引所の株式売買立合場が、 平成十一年四月、 百二十年の歴史に幕を閉じた。閉鎖の理由は売買システム取引銘柄の増大に伴って、立会い銘柄は徐々に減少し、特に前年三月には全銘柄をシステム取引の対象にした事で、立会場の取引は全体の六%程度に低下し、一方維持費は年間三億円を突破しビックバン(金融大改革)の波による市場間競争激化に備えてのコスト引き下げの為の処置と云うのであった。

 此の立合場の閉場はGHQ指令の空白時代から再開された昭和二十四年五月十六日以来幾多の買い占め劇や莫大な資産を稼ぎ出す人や、判断の失敗で逃げ出し、自殺した人等など多くの生臭いドラマが繰り広げられて来た所で、関係者を始めとし投資家の方々からも時代の流れとは云え、強く惜しまれ寂しがられ、兜町独特の手サインで株式売買をしていた場立ちは最高時、約一千五百人いたが、その  “場立ち達 "  は完 全に姿を消してしまった。
                
                (右下で紙吹雪が舞い散る天井を見上げているのが小生)
                              閉場記念式典


  一時、空き家になった1800平方メ−トルの空間面積跡地だけがポッンと残り、再利用案にはビャホ−ルかダンスホ−ルにしたらどうかと耳を疑う “ 珍案 "  まで飛び出した結果、現在、既にテレビや広報等でお馴染みの、近代設備機能を整えた新世紀の シンボル・アプローチ・マーケットセンター “ 東証アローズ "  として姿を顕している。 

 然し、若き時代に場立ちをしていた自分にとって、何か空虚しい感じと、今静かに目を閉じると、当時の想い出が走馬灯のごとく蘇って来る。 此の修羅場の戦場の屋根の下に集まる場立ち達は、仕事から離れると、競争相手の敵味方ではなく、不思議な連帯意識が沸き、親子兄弟意識に変わり不思議なパイプに繋がれた 同夢関係 が築かれいた所でもあった。  そして古きしきたりに似た封建意識と、先輩後輩の規律や、人情入り乱れ、駆け引きも盛んな、貪欲な、仕手戦の戦略が蠢いていた 魂 が鎮座していた所でもあった。  此処に、我が兜町人生の半世紀を過ごした歴史の中、兜町独特の生活風習や蠢いた多くの 偉人・奇人・変人・凡人の仲間たちと、記憶を基に顧り見て、知られざる秘話も交えて語らせて戴き、 後世の証券マンの語り種となる事を願い、また、一般投資家には兜町の貪欲な世界の陰に潜んだ多くの千軍万馬の武将達の悲喜劇のドラマを餓鬼大将の人 生を通じて知って戴き、何にかを感じて戴ければ幸いである。                     

 文中、小生の恥部も懺悔を込めて筆にし、登場するお方の敬称を略し、あえて齟齬を用い感情表現を強調した為、傷つき顰蹙怒り心頭に達する御仁も有るや否や?此れ筆の戯れとおぼしめし、赤裸々な部分は仮想の人物をドキメントなドラマチック描写で書いたものと寛大な気持ちで乱文・雑筆、お許し戴き、ご笑読下さる事を願うと同時に、発刊に際して多数の情報資料を揃え、ご尽力を賜った諸先輩方や友人に畏敬の念を捧げ感謝を述べる者である。


  



   株屋小僧の系図
 昔々信濃の国に起こりし豪族で武田氏より分れた家系で安濃郡の城、日岐領主の時の肥後守も先祖だった。 日置六郷三千貫の領主もいて筑波郡下生坂の城主は天文十八年(西暦1532〜1554) 四月二十日の合戦に破れ落城して後、病に倒れた者も先祖にいた。

 丸山備前守と云う大剛の高名ありし者は幾多の合戦に出陣し討ち死にした者も先祖なり。鎌倉時代の初期 (建久三年) 丸山九太夫は源頼朝の富士狩りに従った弓術の名手であった。江戸時代の丸山雲平可澄は水戸光圀に仕えて大日本史編略の一人。肥後の国、丸山宇治は楢吉城の老臣として重責を果たした人物。上野の国、丸山城の民部太夫も先祖なり。

 人皇五十六代の帝、 清和天皇、貞純親王、経基、義光、信時、丸山弾正忠清昌と続く血統で、1800年代に至って會祖爺さんあたりから越後に勢力を伸ばし村会議員・村長等富豪名家の家系であった。 此れ伝来残史家系圖資料なるが何処迄其の真偽の程は判らぬが、実父(丸山七二)は新潟県中蒲原郡金津村大字西島の村長の長男 (明治25年生まれ) で生家の扉は重厚な凝った造りは「県一番」の折り紙が付き自慢の種だった。

 母親は同県同郡大字程島の土管家の四女で、 親父と知り合ったきっかけは聞き損なったが、二人一緒に田舎に見切りを付け、東京に夢を抱き上京し、荒川区三河島の商店街、正庭通りに『寶玉堂』の看板を掲げ時計店を開業した。 結婚の入籍は戸籍では大正四年、長男の誕生と同じ年なので今式の出来ちゃった結婚。

 長男『繁雄』は軍隊で金鵄勲章(功七等級)・白実葉章(勲八等)・支那事変従軍勲章を授章し女優吉永小百合の恩師で今なおピンピンしている。

 二男 『美信』 は近衛師団(騎兵隊)伍長で誉れ高い儀仗兵で嫁『美江』の父が池田勝治、母が神保トヨと戸籍父母姓が違うのは、池田財閥の御曹司、勝治と赤坂花柳界トヨの愛の結晶が『美江』である。美信・美江の婚姻届日が昭和二〇年九月二五日、其の子 『信子』(若柳流名取・日本舞踊研究家)が、昭和二二年十月 八日の誕生なので此れも『出来ちゃつた結婚』となる。

 三男 『次三郎』 は 000 入隊まもない志願兵で、其の子 『典子』 も日本舞踊の名取。

 丸山七二(父親)がどうして時計店を開業し時計修理技術を習得したかは知らぬが、大正四年に親父は家督相続を放棄し、東京で世帯をもった事だけは戸籍上ではっきりしている。

  長男を筆頭に末っ子の小生を含めて戸籍上は五男四女を産み落とした事になっているが大正時代猛威をふるった流行病で生後二ケ月・生後二年・生後一年であっけなくこの世を去った三人を除いて六人兄弟で世間は通用していた。

 戸籍簿謄本記載には長女が二人、次女が二人と記載され、大正時代の戸籍の記載はかなりいんちき、役所のいい加減だった事が伺われる。

 実際には小生のすぐ上に戸籍には記載されていないが昭和7年生まれの男が一人いる。  此のすぐ上の兄は出産と同時に、子宝に恵まれぬ遠縁の裕福な豆腐屋の実子、出生児として入籍し、貰われ、戸籍上には丸山家とは無関係、無縁でその記載も無く、本人は何不自由の無い恵まれた一人っ子の環境に収まっている。 本人は薄々その出生の秘密を知りながら惚け、黙り込み優雅なやりたい放題のわがまま人生を桜花している。  実質は十人の子宝家族である。

 お互いに此の秘密には触れずにいるのが幸せとばかりに交流はあるものの今尚、この事を口にしないようにしている。 大正・昭和と混乱のドサクサにはこんな不思議な、いい加減な事も結構あったのだ。 これから話を進めさせて戴く前に先ずくだらぬ餓鬼大将のいい加減な家系圖を此処に記させて戴いた。

            
     父親(明治25年生まれ)      ちょび髭(親父) 母親に抱かれているのが小生
     母親(明治30年生まれ)
     長男(大正4年生まれ)
     次男(大正6年生まれ)
     三男(大正13年唸れ) 

     
      我が家の前 『寶玉堂』 にて・・・  ちょび髭(親父) 母親に抱かれているのが小生
      その前にいるのが兄姉達 (昭和110年撮影)   開業は明治45年(大正元年)
       寶玉堂の看板にはなんと 英語 が書かれているのには小生も吃驚仰天。




                 
                 餓鬼大将の小生・当時は縁日で賑わう都心
                 と言えども道路は舗装されて居らず、どぶ板
                 が玄関前を掘り起こし流れ、便所は汲み取り
                 馬車が回収して、汚わい舟で汚物処理の時代。


       戦中期時代                                                           
 昭和十年に時計屋の伜として生まれた翌年、雪の降る中、軍部の対立から陸軍の皇道派青年将校の首相官邸、警視庁などを襲撃し、岡田啓介首相の秘書を首相と勘違いし殺害し、内務大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎をも殺害した二・二六事件 (昭和十一年二月二十六日)が起こり、
  
       
                   警視庁の中庭にたむろする反乱部隊

      
              原部隊に復帰するために整列行進する反乱部隊

    
       
  決起直後の叛乱軍将兵。昭和11年2月26日            永田町一帯を占拠した兵士     
     
        投降を呼びかけるチラシ。 昭和11年2月29日


 暗い世相は一国を覆い、関東軍が北京盧溝橋で中国軍と衝突 (昭和十二年七月七日)して支那事変が勃発し、 主婦からモダンダンサーまで女性の軍国調姿の制服が流行し、第一次近衛内閣が誕生。南京の陥落(十二年十二月)は相場師や仕手筋にとって格好の投機の材料出現で波乱のシナリオが出来上がっていた。                                     

 中でも米屋の小僧から相場の神様と云われた  山崎種二  は昭和八年の百万トンを越すコメ大豊作で米の価額は大暴落し、価額安定政策『国の米穀買い上げ政策の要請』の情報をいち早く入取し、東京の貸し倉庫を片ぱしから押さえ、産地の新米二百万俵を安値で叩き買い集め、政策決定後に政府に高値で買い取らせ、一躍大儲けし、回米問屋の基礎を築き華々しく証券業界に進出した。                          

  二・二六事件(昭和11年)勃発直前に新東株のカラ売りを大量に仕掛けていた山種は事件勃発に伴い、 株式取引所の機能は一斉休会に突入し、三月九日には低金利政策と増税が発表された為、 カラ売り予想は見事に的中し、此処でもしこたま儲け  麹町三番町に超豪邸を新築 し、同時に、 兜町に五階建て本社ビルを新築した。 余りにも見事にカラ売りで大儲けした為、 山種に対して 「反乱軍と通じている」と 憲兵隊に引っ張られたのもこの頃である。

  二・二六事件から日中戦争・支那事変に進み、国家総動員法が制定され、国中騒然とし、国際情勢は緊迫の頃、当然ながら小生は母親の懐に抱かれた赤ん坊のこと、当時の記憶は全くなく我れ関せず末っ子の特権はただスクスクと我が儘いっぱいに可愛がられ育てられた結果は手に負えない餓鬼大将として成長していたのだ。幼稚園時代からの記憶が心に残っているので、話しはここから始めさせて戴きます。

 学習院幼稚園と同じ帽子をかぶり、何時も隣の可愛いさだ子ちゃんと手をつなぎ常磐線ガード下を潜った六百メートル先の幼稚園に行くのが楽しみだった。

                    
                         隣の貞子ちゃんと・・・

 たまに登園途中に、幼稚園に行けない年上の悪ガキがいて、意地悪をするので手前の線路の土手に上がって、持参のお弁当とおやつを平らげUターンして帰る事もあったが、 それを知った親父は 「意地悪されたら逃げて帰ってくるな==」 と、ハッパをかけられ、翌日、 早速こん棒を持って悪ガキをぶんなぐり幼稚園に通った事もあった。花火を一度に何本も火を付け火傷し防火用水に手をつっ込み指五本水ぶくれでくっつき離れなくなった事もあった。

 親に叱られ火鉢の上のヤカンを蹴飛ばし左腕ひじに大火傷した事もあった。悪戯を咎められると、わが家の時計ウインドの特大ケースのガラスに石をぶっつけ、陳列を壊した事もあった。 国民小学校では、悪戯好きの餓鬼大将は結構人気があり、廊下や時計台の下に立たされると、仲の良い三人も一緒に立ってくれ得意がっていた。 負けず嫌いの口うるさい頑固親父は、若いころからチョビ髭を生やし、戦時中でも背広にネクタイ姿と大変お洒落で大酒飲み、時計屋の大きな看板には、英語文字を堂々と掲げ、時計・メガネは売るが、修理代をとらない変わった商売人だった。お袋・長男・次男・三男への時計修理技術の教育は、アメと鞭で、何時も厳しく教えていた。

 アメは分解した時計を組み立てると小遣い、組立て順を間違えると拳骨 ====== ・・・ この使い分けは技術の習得に充分役立ち、覚えも早かったと兄達は語っていた。



       東京大空襲
           
                                         東京は焼夷弾の嵐・・・


 東京大空襲(20・3・10)で住み慣れた 『寶玉堂』 時計店 本店は焼け落ち、 足立区北千住の支店も消失し、既に満州で、名誉の負傷から 金鵄勲章 を貰った長兄(大正四年生れ)と 近衛師団騎兵隊伍長だった羽振りの良い二兄(大正六年生れ)と、新兵の三兄(大正13年生れ)三人共々兵役から帰還し、 分家独立時計店で開業し、空襲大火災をまぬがれた別支店舗に兄たちは残る事になり、父母(明治25年・30年) 長女(大正15年) 次女(昭和5年)と餓鬼大将の五人は、 新潟の父方の本家に疎開した。

  餓鬼大将は田舎でも餓鬼大将で、イナゴ取り、魚釣り、蝉捕り、川遊び等、勉強そっちのけで、東京のぼっちゃまが中心で、遊びまくっていた。学校相撲は何時もチャンピオンで、クラスの先頭に立ち、算数は得意だった。楽しく懐かしい思い出はいっぱいあり忘れる事が出来ない。 昭和二十年八月十五日、田舎の集会所で聞いた玉音放送は、ピーピーと雑音混じりで訳が解らず、無条件降伏の終戦(敗戦)宣言を誰も信じなかった。 数日たってから親父は、それを、いちはやく理解し、即刻、東京に帰ると言い出し東京下谷區竹町の賑やかな街、 新東京映画館通りで既に時計店を戦前から開業していた二兄の家に父母を含めた五人が上京し、小さな二階建の一軒家に三世帯、 十人家族の生活が始まった。
                                                                           


   終戦直後の日本経済と兜町
  終戦直後の日本経済はほとんど機能を失い、軍需工場に働く四百万人は巷にほうり出され、七百万人の復員兵士はつく職も無く、悪性インフレが襲いかかり、ヤミ取引が横行し、銀行貸し付け金は回収不能で支払いも出来ず、全ての企業は破産状態に陥っていた為、混乱経済は深刻そのものであった。  兜町の株式立合場はGHQ指令で閉鎖(昭和二十年九月から昭和二十四年五月十五日)されていた空白時代で復員引揚者百五十万人に交じって、兜町関係の引揚者は株式関係の仕事は無くヤミ物資の横流しや、海産物を売り歩かされたり、新橋のヤミ市で古靴を売ったり、日証館内で古着交換会を開き、古着物の販売をしたり、宝クジを売り歩く証券会社もあったのだ。日証館内で古着交換会を開き、古着物の販売をしたり、宝クジを売り歩く証券会社もあったのだ。
              
       (一面焼け野原後にはヤミ市が出現)          (夜はガード下にパンパンが出没)

 坂井市太郎は満州に出兵した引揚者の一人である。インテリ相場師と云われながら相場に敗れ青酸カリで劇的な服毒自殺を計った太田収(昭和十年 山一証券社長就任)の下で市場立会人(場立ち) をしていた気骨のある人物で通称“市チャン"と呼ばれていた。 市チャンの凄腕は株式取引所が閉鎖され、株式売買が停止されていた時期、 極度のインフレ進行中、手持ち証券の現金化を望む人と、投資対象として株式売買を求める人が、 兜町に集まり出して来たのに目をつけ、 売り注文を取っては兜町の中を飛び回り、 買い手を探し、始めは顔見知りの仲間と、もぐり売買取引で値鞘を稼ぎ、次第にそれに準じた仲間がどんどん集まり出し、 路上や地下室の一室では、実質的な株取引行為が、公然と自然発生的に行われだしてきた。そのきっかけの役割を果たし、 一段と躍動させた男の一人が  市チャン  で “ランニングブローカー" (略称ランプロ)と云われていた。                                  

  ランブロの活躍は、何んと云っても獅子文六 “大番" の主人公となった合同証券 佐藤和三郎社長(通称ブーチャン)の 所で、出世頭と云われた通称  “茂ドン" 『平林茂三郎』 の 存在を語らぬわけにはいかない。 体は大きく ひと目見て如何にも兜町の相場師の風格を持っ茂ドンは、どんな人にも威張らず、見下ださず、 腰の低くさは人一倍で、頭を下げての挨拶は、挨拶を交わす人達も戸惑うぐらい、礼儀正しく、 そして風格と実力を兼ね備えた大人物で仲間の悪口を一切云ったことがない生粋本物の武将であった。

 大手客からの約定は桁が違っていた。 飛ぶ鳥落とす勢いの 茂ドン は当然大金をかき集め、銀座に 太平証券 と云う証券会社を開業し、南千住に高級料亭を妾にやらせ、 兜町の評判は“偉人の武将" と呼ばれるようになっていた。 この集団取引の隆盛の陰には多くの奇人・変人・偉人が入り交じり其の中、 何時しか自然発生的なヤミ売買行為が発生したのである。

 そこには価額の統一性がまだ無い為、凄腕の武将と、 間抜けな馬鹿な藤四郎達との違いは歴然と現れ  ひねられる  (損をさせられる) 輩と ひねる  (儲ける)輩の駆け引きも盛んであった。此れではいけないと、公平な価額形成の場を設けねばと 実栄会 (才取り)の矢島房次氏・香取次郎氏・実物会(場立ちの会)では、
野村証券の辻村寅次郎・山丸証券の富田健一・山一証券の杉村昇・日興証券の藤田稔 各氏 などが、積極的に各社に説得に回り、場所を取引所前、 日証館の二階の実栄会で行う事にした。情報交換も活発に動き出し次第に、集団取引の場所も路上から実栄会に移り、 受け渡し方法等の制度や、 売買規則の取り決めをし、 株式の流通をGHQの目を盗みながら法制化させ、 実質的な影の証券取引の誕生の芽が生えて来た。

 陰の立役者は勿論、抜け目なく時の流れを掴み、 客の要求を満たすため道端で売買をいち早く始め、 群がり出した千軍万馬の武将達 “市チャン"  “茂ドン" 達の活躍があって動き出した集団取引の開始であった。外部から見ると此の兜町(シマ)で活躍する全員が兜町の偉人・賢人・怪物・変人に見えていたのかも知れない。                                                    

                                                                         


 
  鼻垂れ小僧と終戦直後の世相
 此のころはまだまだ小生は時計屋の鼻たれ小僧の餓鬼大将宜しく混乱世相の中、ジープに乗ったアメリカ兵が拙宅の時計屋に時計の修理に来てはチョコやガムをプレゼントして呉れた事を喜び、焼け跡から赤銅線や鉛を拾い集めたり、簡単な時計修理を自ら進んでやったり、親孝行をするのだと野菜の買出しに行っては小使いを稼ぎ出し、其のお金で友達に御馳走したり、当時はまだまだ高価な自転車を購入し得意がっていた時代であった。

 小学校の校庭で真冬の休み時間に氷の張ったプールに野球ポールが落ちてしまつたので飛び込んで拾い上げ、一躍有名になった事もあった。本当に始末の悪いガキ大将だったのだ。 現在もうだつのあがらないのは、 この頃の悪い性格が未だ抜け切らぬ為であろうか。

 終戦直後の繁華街は復興景気も手伝って本当に凄まじかった。 竹町の佐竹商店街・三味線掘り・上野広小路は賑やかな街で、御徒町アメヤ横丁(通称アメ横)はもっと凄かった。

 芝居小屋や映画館がひしめく下谷區竹町の我が家は、戦火を逃れた家屋で、 裏側一帯は焼け野原、そのため隅田川が一目で見えていた。

 ぼうぼうと伸びた焼け野原には雑草が生い茂り、所々には肥え溜まりがあり、焼け野原での遊びで肥溜めに落っこちた仲間もいた。

 浅草の映画館の入場料は三円で、映画館通りはごった返して歩けぬぐらいの混雑で、エノケン・金語楼・横山エンタツの喜劇の絶頂期だった。

 町内では地元の叔父さんと一緒に我が家の前に、 始めはミカン箱を置き、いち早くラジオ体操復活運動を開始し、町会の後押しも加わってラジオ体操を復活させた。                           

 その後、大勢集まり出して体操会場を竹町公園に移し、其の功労を当時の内山下谷區長(現在の台東区)から賞状を受賞し、読売新聞(当時は四ページ刷り)の紙面に、体操台で体操をする小生を中心に千人程集まり体操をしている写真が半切いっぱいに掲載された事もあった。 町会青年部でも役員として活躍し、ソロバン塾の先生とは三級検定試験の合否の賭けで月謝一年分を勝利した事もあった。

 中学校の校舎は西町校舎から御徒町校舎に移り、 竹の台女子中学校と男子西町中学校(後の東叡中学校・現御徒町中学)の混合校舎で、異性を意識しだしたのが此の頃だった。 陰毛が顔を出し始めて教室で仲間同士がお互いにその長さを競い合った思春期は恐らく皆似たり寄ったりの行為をした経験があったのではないか・・・。 純情そのものだったと思っている。

 野球は捕手で上野の山の区営グランドを優先的に使用させてもらい練習に励んだ。 近所の小さい子を連れての自転車遊びは池の端・上野公園・東京大学の三四郎池が遊び場のコース。 伝書鳩は最高時三十羽、ヒヨコは百羽いっぺんに買ってお袋にこ・て・ん・こ・て・んに怒られた事があった。 其の三ッ日後にはこの百羽全部が野良ネコに引っ掻かかれて殺されてしまった時も再び コ・テ・ン・コ・テ・ンに怒られた。 それ以来、いまでも猫は大嫌いで好きになれないのだ。


 喧嘩シャモを飼っていた時はがき大将の闘争意識の血潮が騒ぎ、 他流試合をさせる為のトレーニングを毎日欠かさず行い、日本手ぬぐいを喉首に突っ込み、少しでも喉首を太くさせ喧嘩の最中に、相手の羽根が喉首に、少しぐらい入っても、びくともしない強靭な一流軍鶏に仕立てる為に、試合前には高価なマムシを与えたり、 日本酒を口に含んでは顔に吹きかけ、真っ赤に紅潮させ、姿勢も常に気合を入をいれて、遠征試合に度々出掛けては賭け試合にも参加し、賞金稼ぎのがき大将は此処でも天下御免のやりたい放題の日々を送っていた。

          
 (終戦直後のラジオ体操復活運動)                    
 (東京大空襲にも被災しなかったボロ屋の前で・・・)
 (この土地がバブル期に一坪1500万円で地上げ屋が買収)



   




   証券取引所の再開
 昭和二十年八月十五日、玉音放送は国中混乱と虚脱感充満し、東京は一面焼け跡だらけの廃墟と化し、日本経済は殆ど機能を失い、軍需工場の停止は四百万人の職を奪い、七百五十万人の復員兵士、百五十万人と云われた引揚者の働き口は皆無。加えて未曾有の凶作。GHQ(占領軍司令部)は日本経済の民主化と賠償支払い命令を発し、財閥解体、農地改革、労働組合運動の公認、財閥リーダーの追放、独禁法の制定と米国サイドの基本方針を打ち出し強烈な圧力をかけてきた。国内の経済は極度のインフレが進みヤミ屋が横行し、食料不足は極限に達し、二十一年二月、旧通貨の封鎖と新円が発行され、一ヶ月五百円の困窮生活の強要と混乱は深まるばかりだった。            

          
                                   (大勢が集まる新橋のヤミ市)


 すでに証券取引所は終戦前の八月十日に閉鎖されていたが取引所が閉鎖されインフレは高進しヤミ取引が横行する中、先に述べた通り証券株そのものの流通はGHQの閉鎖指令や大蔵省の目を盗み、 密かに集団取引と云うヤミ売買取引として兜町の路上や証券会社の地下室で行われていた。そして何故       
かGHQも大蔵省も黙認していた。証券関係者は封鎖預金取引で「株式払い込み・株式買い入れ」の出来る様、大蔵省へ強く働きかけ新円・旧円切り替えによる株式流通封鎖預金取引の円滑化の申し入れをし簡単に許可され合法された。

 知恵者は此のどさくさに紛れて新旧券の円売買を起用に動かし新興成り金になった者が出たり、金融緊急処置令違反容疑で警視庁の調査の騒動が起こり、結果、封鎖預金取引禁止令の勧告で決着が付き、株式本来の流通市場の売買は必然的に新たな展開を迎えたのだ。

                
                     (片山・吉田新旧首相の引継ぎ写真)

  この頃のヤミ取引(集団売買)の最高時は出来高六億株に達していたのだから驚きだ。そしてGHQ再開許可を二十四年二月に取りつけ待望の市場取引再開に漕ぎつけた。此の頃の混乱を整備し、戦後の証券取引所が再開されたのが昭和二十四年五月十六日。 GHQの重圧の難関を乗り越えての船出である。
 
 再開当時はまだ日々の株価も一部の新聞にしか掲載されず終値のみで、大衆投資家なんて言葉は存在せず、株価が百円もしている株式が額面五十円の有償増資発行しても失権株が出た時代。仕手筋・地場筋・買占屋・株屋の大将(証券会社社長個人の手張り)と群がるチョウチン筋(株屋の従業員や山っ気の多い旦那衆)そして事業会社等が参加しての株価形成が幅を利かせ、投機相場が中心と云っても過言ではなかった頃で、株券の受渡しも決まりがあっても守られず銘柄によっては数カ月も受渡しが行われない取引もあり、足(損金)を出してはペコンと頭を下げれば親分肌の人がいて面倒を見てくれた時代だった。

 市チャンは昭和恐慌の暴落で相場の失敗で大損を出し当時所属していた会社の大将に穴(損金)を拭いてもらった事があったと話しをしてくれた事があったが、戦後のヤミ取引と新円切り替えでしこたま儲け再開直後に若手の失敗のケツ(損金)の面倒を何人も見てやったと一般世間の常識では全く考えられない相場の世
界の摩訶不思議な親分子分の関係が存在していた所だった。                

    
戦後GHQに接収された証券取引所
(上の石像には鎖が繋がれている)
                                                                           
                                                                           
                                                                           
 
  株屋に飛び込んだ餓鬼大将
 小生が兜町に飛び込んだのが昭和二十六年の春。 一光証券から金山証券に名称変更した直後、呼称は証券会社だが一般的にはまだ株屋と云われていた時代にランブロの市チャンがいた。  社長を含めて総勢十八名の会社)だった。 

 
==証券取引所の株式立会場が再開された二年後の信用取引制度が発足した時である==  高校進学を志したが遊び熱心だった小生は見事に高校の入学試験に失敗し、その時のショックは深刻で、初めて味わった挫折感に打ちのめされた。  余儀なく夜間学校を選択し夜学生生活をする羽目になった。 昼遊んでいてはもったいないから 「金儲けが出来る株屋の小僧になったら」 と・・・。

 姉の勧めで子供ながらも時計屋商人の小僧の決意は  “ヨシ株屋で金儲けだ”  と気分一新、決意も新たに金山証券会社へ入社したのが社会人の第一歩である。 進学受験失敗の挫折感を抱き(いだき)ながらも 欲望に夢を膨らませ株屋人生を選んだ小生は、 まず挫折感を払拭させる為の自問自答の慰めの結論  “俺は昼間は経済のバロメーターと云われる兜町で働き夜は勉強に励む”  “進学した仲間は勉強しているが夜はきっと遊んでいる筈だ・・・ 必ず其の仲間とは差を付けてやる・・・ "   と、我が心に云い聞かせていた。


 
初めはいがぐり小僧が つめ入り学生服” を着て、お茶くみから黒板書きが仕事であった。  初めての仕事は先輩からは優しく励まされ楽しくてしょうがなかった。 しかし相場の値動に変動がなくなると決まって眠くなり黒板台から転げ落ちたこともあったが、 度近眼の吉沢君が入社して来たのをきっかけに間もなく場立ちの辞令を貰い、夢と希望を秘め、揃いの制服に会社屋号のバッチを胸に付け、注文伝票を持って 『証券取引所』 に入った。 
                     
 
                                               
         

 その時の緊張感、それは  “餓鬼大将が株大将” なんて自惚(うぬぼれ)た誇りと自信を秘め 「他社の場立ちに嘗められるな・・・」  と市チャンに励まされ、「まず仕事を覚える前に女を覚えろ・・・」 と場立ちの初仕事の夜、歓楽街の 『洲崎パラダイス』 に連れて行かれた事は脳裏から永遠に忘れるは出来ない。

 小太り年増女の臍の下の穴をまさぐり抱かれ童貞を捧げた事は今でも強烈に目に焼き付き忘れられない。「サーこっちえおいでよ==」 結構明るい部屋の布団に横たわるすっぽんぽんになった年増女が「いい男だね・・・」 なんてお世辞言葉で招く姿にもはや野獣と化した小生の目には年は関係なかった。 一気にスボンを脱ぎ捨て飛びかかっていったが 「慌てちゃだめよ==」 と叱られ、 いきなり千擦られて簡単に外に一発完了== いじくり回されたのは小生の方で、手も足も出せず振り回されていたのだ。

 馴染み客の市チャンが上がる時に 「此奴は初めてだから宜しく頼む・・・」 と云っていた為か、 年増女は 「まかしておきな・・・」 と ニッコリ大声で市チャンに返事をした事を思いだし、小生へのサービスは懇切丁寧、至れり尽せりだったのだ。 外に一発でまず落ち着かせてから  「サーいいよ・・・」  と初めて招かれた本番、注入はバックが簡単と教わりニワトリ見たいに簡単に発射してしまった。

 息も付けずに再度挑戦は三発目・・・ 立て続けに今度は仰向けで誘う女に覆い被さカブリ付いていった。 顔を見ると団子鼻の穴からひょこんと鼻毛がのぞきピクピク動いていたのにはびっくりした。

 筆下ろしの若き無限のエネルギーを秘めていたのであろう  『ヒェ〜・ ヒェ〜』 との叫び声は耳をかすめ、 夢気分は一瞬にして 【ア!!!・・・】 と云う間に爆発してしまった。 男の満足感は勝利に酔いしれ 夢心地 は帰るまで続いた。  帰りのチンチン電車(都電)に乗り前に座っている女の顔と、帰宅して 「遅かったね〜」 と云われた時の お・ふ・く・ろ・ の顔を見た気分は何時もとは違い、とても活字では表現は出来ない・・・・・。

 下品な話しはひとまずやめて、激動渦巻く波乱万丈の兜町の戦場 (株式取引所)に纏(まつ)わる話し、 秘話の戯(ざ)れ言を交え綴らせて貰おう。






                                                                           
                              

 
  場立ち時代と勤労学生   
 入社当時はまだツメ入り姿の学生服で坊主頭、初任給二千八百円。定時制高校の授業料が九十円。吉原のチョンノマ(ショートタイム)は 店によっては団体割引や学割もあり、数人複数かけ持ち女の 『廻し』 は更に安かった。 小生が行くと決まって 錦之介さ〜ん と呼んでくれ千円だせばたっぷり楽しんでこれた時代だ。

仕事始めは先にも述べたが相場の仕組みと会社名(銘柄)を短期間で覚え、間もなく度近眼の後輩が入社して来たのを機に、兜町の花形だった市場立会人(場立ち)の昇格はラツキーだった。昔の立合場は番頭・小僧に至るまで木綿の着物に前垂れ掛け姿で株の売買をしていたと聞いて驚いたが、戦後市場は会社から支給された制服に責任者と一人前と補助員区別の金・白・緑に区別された屋号とコードが書かれたバッチを胸につけ取引所に入った。 

 非会員を除く証券会社が証券取引所に申請許可を出しバッチを付けた場立ち達と取引所の職員、そして実栄会(才取人)を含む約千名前後が集まり、鼻を刺す防腐剤の強い匂いがするが奇麗に掃除された 立合場 に各社から売買注文伝票を執行するため集まる千軍万馬の武将達の戦場に入り交じり仕事が始まった。

 場電(取引市場と証券会社との連絡電話)から発注される株の売買注文を受けて、才取り会員(実栄会)の業種別ポストへの注文出しから、 高台(特定・指定ポスト)での取引所職員が仲立つ競り売買・寄り引けにはゲキタクの気配表示の中の手ぶりを交えた抜け商いは超ベテランの芸術的売買が行われていた。 小粒な証券会社の小生は他社の大ベテランに交じってそれをいち早くこなすようになった。  


       
   (特定ポストで手を振る左下が小生)               一番奥が特定ポスト
   「週間読売」 表紙に掲載された写真               手前が一般ポスト
                                     上の左右には大勢の見学者


  場立ち時代と勤労学生
 勤労学生の小生は立会いが終わると茅場町から飯田橋まで都電に乗り、席が空いていても決して座る事はせず、本を片手に学校に通った四年間だった。

 学生服から背広に替え、蝶ネクタイを締め、中折れ帽子をかぶり肩で風切る調子の良い勤労学生に変身したのに半年はかからなかった。夜学の門をくぐるとまず職員室の先生の所え行き、株の新聞を配り株を買うと儲かると熱弁を振るい、先輩から教わった値上がりしそうな株(当時は百株単位)を知らせ、商業学校の先生のせいか以外に興味を示し乗って来たのであっさり五人の先生がお客として登録してくれた。

 勿論百発百中で儲けさせた先生たちは小生に対して特別扱いで、試験の時は前以て答案用紙と答えをくださり、授業時間は昼間の緊張感からか居眠りの常習犯にもかかわらず大目にみてもらっていた。ただ株をやらない先生からは焼き餅をやかれ居眠り中に白墨の粉で頭を真っ白にされた事も有った。

 夜学の校舎は粋な神楽坂の花柳界に位置する津久戸小学校。その二階の教室を借りた都立牛込商業高等学校の景色は窓の下に神楽坂花柳界の町並みが見え、授業中は決まって芸者のつま弾く三味線の音が聞こえてくる洒落た環境だった。「よ〜し==株で儲けて芸者をあげるぞ・・・==」 なんて何時も授業中に考え、将来を語る合うライバル意識を常に抱いていた武内明と将来の成功目指して堅い約束をしていた。      
                
               (握り飯を食べながら将来の夢を語る男の誓い)
                   丸山                 武内

 武内とは常に行動を共に後年富士五湖の一つ河口湖で二千坪のホテルを小生が会長、武内が社長として旗をを挙げ経営し、バブル時代の盲狂者として大名生活を桜花した仲に発展していった。

 生徒会クラブ活動は以外なほど活発で、先輩後輩の交流も盛んだった。 夜間勤労学生独特の十歳以上も違った同級生がいたり、経済苦で夜学を選択した勉強好きの者から、筆者みたいに勉強嫌いの進学受験失敗からの落ちこぼれ夜学生活組を選んで来た者も多かった。だが共通していたのが一種独特の野心を抱いていた仲間が揃っていた事だ。勿論、筆者は勉強より株での金儲け論を話題に株式投資を勧めに通っていたようだ。

 それぞれの人生観を終電近くまで語り合っていた。 勤労学生の為、恋愛をする相手も暇もないのか目標を旗印に真面目な人々の集団校でもあった。

 其の時の友人の一人で豊崎敏雄が終電に乗り遅れ、小生宅に泊まりに来た途中でトラックの人身事故を目撃し、その時はまさか自分の親父が跳ねられていたなど知る由もなく嫌な気持ちを抱きながら素通りし、豊崎と眠りについた明け方、警察から事故の知らせが入り相手の脇見運転で百歳まで生きると豪語していた虚勢高い親父の事故だった事を知らされ、日常うるさい親父と思っていたにもかわらず流石に涙が流れ止まらなかった。

 既に此のころになると兜町の先輩に色街と金儲けの秘術も伝授され、手張り(自分の相場)と ゲタ履き(値鞘を稼ぎ取る) まで教わり貯金も増え、欲望はムラムラ百万長者の夢燃えたぎっていた時で、株のお客でもある教頭先生から英語・数学・社会・簿記・歴史の各先生達に投機のうま味を教え儲けさせていた毎日、決まって帰りには寿司屋でビールを御馳走になっていた。

 儲け頭は独身事務長の鴻池先生で儲けた金で神楽坂の一角に売りに出された土地付き家屋を購入し、直後に美人の妻を迎えた。親父の死に目に立ち会った豊崎も夜学卒業と同時に株で儲けた資金で事業を起こし、盤石な環境を築きバブル崩壊後も頑張っている成功者もいる。

 一部上場のCMKの創始者中山登社長は我らの一年先輩である。事務長の鴻池先生とは一緒に神楽坂の庭園付き料亭(坪二万円)を購入する為に下見した小生は土地で資金を寝かせるより株の売買資金を優先する方を選び土地の値上がりを当時は頭に閃かず飲む機会が多かったせいか “飲み歩くと金がかかる” と下谷區竹町映画館通りの自宅時計屋を半分改造して オーシャンバー『クラウン』を昭和二十八年に開店した。      

 今度は昼は兜町、夜は勤労学生とバーテンダーの三足の草鞋(わらじ) 生活が始まっていた。 兜町から飯田橋までの都電の中で読む本は「カクテル作り」や「徳川家康名言集」「金銭訓」等の本に変わっていた。 当然勉強は怠け試験の時は決まって儲けさせた先生からアンチョコ(答案用紙) を数日前に戴き無事卒業した悪党でもあった。
     (我が家の一部をを改造して オーシャンバー  『クラウン』 を開店)
                      (この時は昼は兜町の場立ち・夜は高校生・帰るとバーテンダー)

 兜町先輩の中には “金が物を言う時は真実は黙り込む" と金の力でやりたい放題の事をやり、ずいぶん妻を泣かせた連中も数多くいたが、 地味な生真面目な堅いお方はきっとこんな生き方には白目で見られていたに違いない。

 其れも此れも戦後間もない頃の証券市場は投機色の濃い市場。 そこでいっぱしの場立ちと言われその気になればあぶく銭を稼ぐ事が出来た時代に要領良く泳いだからだ。そんな仲間達が多かったのも当然である。小生はは先輩から見ればまだケツの青い勤労学生だったが週末の土曜日には決まって下駄を履いた儲けの利食い金を手に石原裕二郎を真似てカレーライスにビールを飲むのが只一の贅沢で残りは全部貯金をしていた。だが月給は昭和二十九年、夜学を卒業するまで昇給無しの二千八百円の据え置き。

 社長に昇給の直談判をすると「バカヤロー月給を当てにする奴は出世てきないぞ==・・・ 金が欲しかったら株で儲けろ==・・・ 」と云われ素直にまともに受け、 手ばり(自己売買)のを実行をし、 実際に面白いように儲かったのだから益々仕事が楽しくてしょうがなかった。 その上、 中山仙吉社長は週末になると二階の階段の上から「丸山======」と大声で呼び階段の途中まで降りて来ては、決まって小生に『床屋に行け・・・ 』といつも千円札を呉れたのも良き時代の兜町である。


 会社は永代通り都電の茅場町駅前で中島病院の隣角にあり、 山種・大同証券が並び、交差点の向かい角の歩道脇には交番があった。 角が偕成証券その隣の甘味処には女優の宮沢りえちゃんに似た可愛いマコちゃんがいた。 取引市場から会社に戻る時間には必ず通りの向こう側からマコちゃんが何故か笑顔で手を振ってくれるようになっていた。

                                                        
              
 
 女郎買いしか知らない男の胸はときめき思い切って銀座へ誘うと即座にOKの返事は嬉しかった。約束の三日後に夜学をさぼり、初めて女と銀座に出掛けた気分はルンルン胸はドッキドッキ最高であった。銀座ビヤホール 「ライオン」 でビールジョッキにクラッカーチーズとウインナーソーセージを食べ、飲んだビールはシビレ〜ルほどの美味さで完全にお互いの心は一つ、話しは弾み意気投合し、早々酔っ払わないうちにと銀ブラ散歩はいつしか人っ気(ひとっけ)のない有楽町数寄屋橋を通り過ぎた人気の無いビジネスビル街に向かい自然と腕を組み薄暗い片隅で抱き合い愛し合うまでには時間はかからなかった。

 後で 「わたし貴方にひと目ぼれヨ・・・」 と告白され “俺もまんざらでもないぞ" と自惚れ彼女を愛し続け、以来二年間に二回の水子はさぞかし彼女の母体を痛めた事であろう事かと罪の意識は今でも心を痛め、或る日突然姿を消した彼女に若し再開できたら十分に償ないをせねばと消息不明の安否を気遣い、 今でも反省の日々を送っている。


 趣味は写真撮影と柔道にも熱中し、業界親睦団体の  『恊和会』  に所属し、写真部の世話役委員にもなり盛んに活動していた。 写真の方は、十八番の美人モデルを連れての旅行を兼ねた月例ヌード撮影会。 柔道の方は、週三回取引所ドーム七階 『士道館』 道場で稽古に励み、年数回、国税庁・所轄警察署・企業団体・東西対抗等の親睦試合を行い、関係団体との交流を計っていた。 師範教師は高橋徳治郎八段(山文証券)で質実剛健、大変人望の高い師範で講道館の重鎮でもあった。

 師範教師は小生に対してはまだまだ未熟となかなか有段者の資格を取らせて下さらず、業を煮やした小生は得意の 『買収作戦』 を実行した。 お酒の好きな師範教師に小生が自営しているホームバーでの接待作戦を実行したのだ。 作戦は見事に功を制し、其の後にやっと実力を認めて戴き、待望の講道館柔道初段の推薦状を頂き、講道館での試験に臨み見事、免許を授かった。

 有段者になるには講道館に入門しなければならない。 そこで、常づね個人的に可愛がって頂いていた正会員協会の当時六段で常務理事の金原一郎先生にお願いし、保証人になっていただき、無事講道館初段の免状を手にした。
 
 免許の表書きには  『日本傳講道館 柔道ノ 修行ニ 精力ヲ尽し 大ニ 其ノ進歩ヲ見タリ 依ッテ 初段ニ列ス  向後 益々 研磨可有之者也』   と。

 そのときの感激と決意は一層の精進を誓ったものだ。  以来、兜町柔道部の発展と修業に励み、その功績大なるによってと二段・三段(昭和43年)を取得し、現在もたまには後輩育成に精進している。 取引所士道館道場高橋徳二郎初代師範のご逝去により正会員協会の専務理事に昇格していた金原一郎先生は既に講道館柔道八段と成られ、二代目師範として遺志を継がれ兜町柔道の発展と育成そして対外柔道との交流発展と親睦にも多大の功績を残された事は唯々尊敬と感謝の念で一杯である。

 金原先生の兜町に置けるご活躍は全ての証券会社の要を司る重責の仕事を担い、尽くせぬ偉業は証券史に記され、称えられ柔道を通じて人間の道をご指導下った大恩の先生である。


   
●七階に柔道の道場があった証券      ●(右側写真)左から、三井先生(日大指導教師)
  取引所正面玄関  (左側写真)        二番目が正会員協会専務理事の金原一郎先生、
                              三番目が大和証券の高橋計一先生、四番目が
                              三栄証券の村木四段、
                              一番右側が当時初段の小生 (現在は三段)





   兜町柔道界の歴史

   http://homepage3.nifty.com/hougyokudou/

 兜町柔道部の歴史は昭和六年十月東京株式取引所新館落成に伴い、当時の理事長 岡崎國臣氏 が同取引所七階に 『東株士道館道場』 と命名掲額され、柔剣道の道場として開設され、講道館に於いても其の名を知られた兜町の重鎮で当時沼間商店におられた質実剛健で大変人望高かった今は亡き 故 高橋徳治郎先生を初代師範 として仰ぎ 有段者七十六名が名を連ね以来、柔道の志しを抱く幾多の証券マンが集い『精力・善用・自他共栄』をめざし講道館柔道の精神と技を磨き修行に励んで来た歴史があった。

 終後の経済は先にも述べたが機能を失った軍需工場に働く四百万人は巷にほうり出され、七百万人の復員兵士の職も無く悪性インフレはヤミ取引が横行し、銀行貸し付け金は回収不能で支払いも出来ず、企業は破産状態に陥ち、 証券取引所も一部GHQ(進駐軍)に接収 され、株式立合場が閉鎖 (昭和二十年九月から昭和二十四年五月十五日)され マッカ−サ−の厳命で日本古来の武道(柔剣道)禁止令が発せられ、道場は閉鎖 され、 復員引揚者百五十万人に交じって兜町関係者は仕事もなく好きな柔道もできずヤミ物資の横流しや海産物を売り歩き、新橋のヤミ市で古靴を売り、日証館内では古着交換会を開き販売したり、宝クジを売り歩く柔道マンがいた。

 昭和二十六年八月解除令と共に高橋師範の下、士道館道場で修行していた有志が立ち上がり、若者達の熱望を容れ昭和二十八年十月、此処に協和会柔道部が認証され 高橋徳治郎先生 に師範委嘱を発し、助教に東証正会員協会 金原一郎先生 と完璧な地盤が整い道場の使用許可が出るや高橋師範の呼びかけで有段者の猛者(モサ)連中が仕事を終えて集まり出し新入社員を入門させ興隆を図って来た。然しスプリング入りの道場は跡形もなく撤去されていた為、コンクリ−トの上に十枚ばかりの畳みを置いただけの道場だったが稽古の出来る喜びと意気込みは物凄く小生に交じり三百五十名を越す柔道部員が集まり部費を払い登録し稽古は交替制で賑わった。

 此れを見て名誉顧問の高井証券の高良禮一社長・同じく十字屋証券の安弘一郎社長・証券取引所の馬場光雄常務理事のご尽力と証券取引所のご好意からスプリング入りの道場が完成し、 正会員協会の金原一郎専務理事(当時六段・後に二代目師範八段)が証券業界と事業団等々との親善試合が必要と東京オリンピックで初めて日本古来の柔道が正式種目に認証された事を業界首脳に力説具申し後援を取り付け、恒例の行事化とした事であろうか。

 其の為、協和会柔道部にはかなりの特別予算を頂戴し、活発な親善試合が恒例化した。年中行事も 取引所理事長杯 ・協会会長杯・日本経済新聞社寄贈優勝旗争奪各社対抗柔道大会・北浜対兜町東西対抗証券柔道大会・各社対抗試合・事業団対抗試合・関係官庁(国税庁・税関・地元警察署)親善試合・産業別大会派遣等々数えきれない大会を開催した。

 講道館指導審議員の伊東四郎先生(八段)のお世話で柔道の神様と云われた 三船久蔵十段 をお招きしての十人掛けの妙技は今でも柔道部の語り種になっている。取引所の大講堂の舞台に畳を敷き講道館から派遣されてきた女性の護身術の妙技や乱取り、そしてオリンピック優勝の猪熊先輩の十人掛け・・・・・ 思い出は語り尽くせない。

 証券会社同士の紅白対抗戦の応援合戦は会社の名誉を賭けた声援が飛び交い熱気は凄まじい熱戦が繰り広げられ、大講堂の廊下まで溢れんばかりの応援団が集まった時期もあった。地元警察署との対抗親善試合は、普段距離のあるお巡りさんとの試合だが、制服を脱いで稽古着姿の付き合いは大変意義が深かった。士道館道場の名札板には往時の兜町錚々たる方々が名を連ねていた。

 然し、昭和三十九年頃から証券業界に不況風が襲い、予算削減から急速に活動が制約され縮小され、加えて稽古にくる部員が激減してきて仕舞い、柔道部の存亡の危機に直面した事もあった。 僅かな心ある有志で命脈をつなぎ、週三日の稽古日に集まつては頭を痛めた時期も今は慢性化し、これではいけないと自問自答しているが、現在は当時より更に立派な証券取引所の地下一階に道場を移し、 シャワ−室迄完備の稽古場を頂き、週一回と稽古不足は否めないが若手の部員と共に先輩の育んだ士道館柔道の精神を絶やさず精進しているこの頃だ。

     
 昭和五十三年十月二十七日、 士道館道場にて証券百周年記念 『東京証券柔道大会』 は 久々の大会が挙行それ 小池厚之助 兜町柔道会会長を筆頭に兜町の重鎮多数の参加で盛大なる紅白点取り試合(OB戦)と現役若手のト−ナント戦が挙行され、 投の形演武は岡田当時四段と田口当時四段の講道館柔道儀式の披露 は 万雷の拍手が巻き、OB戦の最優秀選手賞に輝いた私事丸山三代次三段、柿沼瑞穂二段、相沢貞男二段、敢闘賞は台博二段。団体優勝は白軍に輝き、ト−ナント戦の優勝者は右田二段。五人掛戦優勝者は宇都木四段。と当時の兜町柔道界の歴史は燦然と輝やいていた。

      
      三井六段   金原師範  高橋五段 村木四段 丸山三段


    
       小島専一 氏  
     柔道部長 (五段) 偕成証券市場部長 新橋支店長

     
                   (最優秀賞を受賞した小生)

 話は本線を脱線したが再び取引所の立合場の話しに戻そう。 此の戦場とも云うべき市場の “寄付き"  “大引け" 売買開始・終了のベルの音(おと)は戦前の「郭」と同じ拍子木から始まり拍子木で終わったのと同じで此の音から数多くの買い占め劇の悲喜劇のドラマが展開されていたのだ。近藤紡・是銀・五島慶太・小佐野賢二・横井英樹等、 数多くの相場師と云われた人々が激戦の死闘のドラマが綴られていたのもこの頃だ。                          






                                                                       
   大光・竜ケ崎証券の破綻                                                
 昭和二十七年頃から活発に取引されていた店頭株(日証館二階の廊下)を扱っていた業者は非会員が中心でヘタ株(増資新株引受権利)取引が旺盛であった。  『大光証券』の松波社長も千軍万馬の武将として活躍していた人物。 一方地元の茨城県で『竜ケ崎証券』を昭21年開業した岡本梯一郎社長は翌二十三年に本社を兜町に移し、大学出身の少なかった兜町に「茨城から太っ腹の法政大学を出たエリートが兜町に進出してきた==」と話題になった人物。参謀役には策士の小沼専務(八百屋の一人娘と結婚)根っからの兜町人で想い出深
いきっぷの良い男。                                                          『

 金宏証券』の中山仙吉社長は元才取り上がりの人で、小生の会社(金山)の社長から山種に買収された後、金宏の社長に収まった人で、何時もポプラの香りを漂わせ、扇子を手放さず小生に『床屋に行け==』と週末には必ず小遣いをくれた人。『日山証券』は人形町の有名な肉屋が設立した会社で、元才取り会員で体は小柄であちこち忠実(マメ)に動く高橋(通称マメタツ)と・小越のコンビで活躍していた会社だ。

 これらの非会員証券は通常の保証金を殆ど受けず無食(無担保)で大量のヘタ株の注文を受けた咎めは『甲南工業』『東海重工』の思惑が外れ波乱相場で次第に決済が付かなくなり、終に『大光』と『竜ケ崎』のマラソン金融(双方のやり繰り資金の小切手交換)に手を染めてしまった。此の事が大蔵省の耳に入り“不健全の会社”とのレッテルを貼られ、両社に対し東京証券業協会は除名処分に付した。此の両社の破綻の影響は当時の金で百万円以上の損害を受けた会社は二十九社にのぼり東証協のシリ拭いは四億一千万円の貸出しが有ったそうだ。此の波紋は四業者(金宏・日山・伸長・福井)にも及び、此の四社に対しても自主的廃業勧告を発し各役員は証券業界不復帰の誓約をさせ此の余震は同時に女優山根寿子の旦那の山吹証券(坊屋三郎も大
手客)と丸藤証券にも波及し両者も倒産に追い込まれてしまった。       

 然し竜ケ崎の岡本社長は一説には共同謀議ではなく騙されたのだと言う人もいた。彼の人柄を良く知る人の話では人柄は抜群に良く人の為には尽くす人だ。丸莊証券の林莊二社長(同県人)とも良く馬が合い、当時の金で三千円づつ出し合い資本金五億円の日清紡を四百円から五百円まで買い煽った時、竜ケ崎証券を妬む輩の悪計は「竜ケ崎の資金力は尽き日清紡を投げてくる==    とウソの噂を流しすと同時に売り叩き相場を崩す作戦に出て来た。直ぐさま岡本は日興の遠山元一社長の所に飛んで行き頭を下げて救いを求め岡本の誠実を知る遠山は即座に一億円を出し水を得た岡本は猛然と売方の玉を買い捲り、六百三十円まで大暴騰させ莫大な大勝利を収めた事は当時の新聞報道記事にも乗っていた。

 岡本社長は遠山社長の信頼感を高めた相場師・武将の一人で、専務の小沼さんは小生は個人的に親しい関係もあってその後は好きな相場を気楽に楽しみ静かに奥方の実家に住み仲むつまじく余生を送っている。金宏の中山社長は自主廃業後は赤坂の豪邸でひっそり暮らしていたが二年後に病に倒れ、輸血を必要としているとの話を聞き『小遣いを戴いた恩義』と同じO型だった社長に『我が血液を捧げん』と病院え飛んで行き喜ばれたがその後、甲斐なく戻らぬ人になってしまった時は名物男の他界に合唱した。                     
                                                                        




    名門入丸証券の倒産
 入丸倒産の原因はヘタ株事件に絡んだ注文の引っ掛かりと思惑外れが原因で有った。その引き金と成ったのが『保全経済会』のカラ売り注文を受け評価損の追証追加保証金の遅滞で他社に玉をつないだ事が失敗の近因であった。 元々保全経済会は大福証券を主力で相場を張っていたが伊藤斗福理事長の親友が入丸に入社したのを契機に活発な投機相場に手を染め始めた。                

 保全経済会のつまずきは『空売り』が直接の原因だったが、スターリン暴落で損金勘定が生き返り利食い勘定となって保証金の返還を入丸に要求(推定数億円)した所、保全経済会の玉数は反対売買でつないでしまっていた為(呑め行為)返還要求に応じられず経営権の一切を保全経済会に委譲し保全経済会の入丸証券に成ってしまった。

 然し既に此の時の入丸の中身は予想以上に悪化していたのと保全経済会自体の中身もも火の車で『園池』『帝国化工』『東京海上』だけで一億円を越した損失を出していたと言われ、保全経済会は経営をあきらめ手を引き登録取消処分となってしまった。明治二十二年創業の長い歴史を持つ入丸証券も終に昭和二十八年五月に消えて行った。                                       

 その後間もなく(同年十月)保全経済会自身も業務休業に追い込まれ、東京地検の起訴を受け破産し取付け騒ぎの時には二億数千万円の赤字を出していた。この頃、日本に始めてテレビが出現し力道山ブームが到来する中、伊藤理事長は懲役十年の判決を受け兜町の中から消えて云った。


                                                                           


    東洋精糖事件
 昭和三十年始め東洋精糖の買占め劇は戦後最大と騒がれ経営権を狙った泥沼の戦いが信用取引の虚(盲点)をついて展開された。ことの起こりは東洋精糖の内紛で総務部長が社長に噛み付き退陣を迫まり株集めが始まった。此の内紛に目を付けたのが横井英樹で売り込みを誘った逆日歩攻撃は売り方に悲鳴をあげさせ、信用取引そのものの機能まで喪失させ、現物渡し不能の混乱は『藍澤弥八東証理事長』の奮闘空しく難航した。五島慶太にも協力を依頼したが此れ又不調に終わり、大株主の第一生命・安田火災の仲買でやっと一応の決着がされたかに見えたが、決済売買の前日買占めに絡んだ暴力団安藤組安藤昇組長が横井の事務所に現れ横井めがけて銃口一発==『横井英樹ビストルで射たれる==』というハプニングガが起こった。この日偶然にも『茂ドン』(平林茂三郎)が横井と会談中、目の前の出来事に遭遇し、巻き添えを食わなかったのが不思議であった。
                      
                     乗っ取屋の異名で有名な横井英樹

 この事件後に落ち着くと思った買占劇の紛争は再び広がりドロ試合の行方は暗澹としていた時、翌年(三十四年八月十四日)『五島慶太急死』の報が飛び込み五島昇の英断で永田雅一を立会人として東洋精糖社長の秋山利太郎が二十五億円で八百六十万株を買い戻し長い事件に終止符を打った。
                                                                           



    藍澤弥八東証理事長                                                        
 昭和十二年 日華事変勃発で発令した政府は戦時立法を制定し、銀行は金融引き締めを行い、軍需景気で上昇していた株価は一気に急落し本格的な恐慌状態に突入した時、初めて証券界の救世主『大日本証券投資』を誕生させ株価テコ入れ機関の使命を果たしたが、翌十三年国家総動員法が発令され再び株価は下落に転じ十四年欧州動乱が勃発し国際情勢は険悪化の度を増し、陸軍が『軍需品に関する適性利潤率算定要綱』を発令した事から兜町は大暴落に見舞われた。此処に登場したのが藍澤証券の創始者『藍澤弥八』氏なのだ。 『株価維持機関はどうしてもつくらねばならぬ==此れは兜町の責任==』 と立ち上がった人だ。小生が二代目社長のご自宅でブランデーを戴きながら『親父は心底兜町の発展と日本国経済の成長の為なら命を捨てても悔いなし』  と当時の父親の決意と覚悟を語られていたが、元大蔵大臣(勝田主計)との直談判、更には河田烈(現役大蔵大臣)や次官・局長に藍澤構想の必要性を迫り、株式救済機関『日本証券投資』を誕生させた方で、兜町の歴史を語るのには先ず誰よりも兜町を愛していた気骨の持ち主を語らぬ訳にはいかない。昭和十六年六月、突如ドイツ軍がソ連に侵入した為、兜町は大騒ぎで株式総売り(二十二日)殺到となった時、藍澤取引所委員長は直ちに大蔵次官の了解を得て此の売物を寄付きから全部ツケロ買い(無制限買い)を入れ株価を支えたのであった。


   
       藍澤証券初代社長・

 後場は全く売玉無しと成った程この日の買いの手は凄まじかった事が記録に残っている。まさに兜町救済の為に指揮をとった千軍万馬の武将の姿が思い浮かばれる。藍澤証券のビルは兜町の開運橋の角に本大理石を敷き詰めた当時は兜町第一の堅牢荘厳の建物で話題を呼び、長年証券取引所の理事長としての活躍は今なお永遠に語り継がれる忘れてはならない偉人の武将である。
                                                                           




兜町50周年記念風雲録