木食白道の調査研究[木喰行道の弟子・木食白道]多摩の地域の活動(追加)


木食白道・行道終焉の地(圓福寺過去帳)

平成5年圓福寺より過去帳のコピーを送って頂きました
遅くなりましたがこのページの下方に掲載しました。

木食白道(もくじきびゃくどう)についての書籍を紹介します

木食白道についてはすでに生まれ故郷である山梨県塩山市、彼の作品の比較的多く発見されている長野県駒ヶ根市、などでは木食白道の伝説により語り継がれ、当然のことながら良く知られていた存在でありました。
すでに昭和五十年長野県穂高町に住まわれていた曽根原駿吉郎氏の著書により「木食白道」が出版され、この本には綿密に調査された記録が詳しく載っている、おそらくこの書物が木食白道について公開された初めての書物でわないかと思います。
以後木食白道についての出版物は、1990年木下達文氏による「木食白道ー甲斐の造仏聖ー」と題して出版。
山梨県塩山市による作品展示による資料として昭和五十七年、平成八年、平成十一年に出版。
私の書いた冊子「多摩地域における遊行僧木食白道の足跡」。
1999年山梨県大月市による木食白道展資料。
平成十三年東京都福生市による「多摩の微笑仏ー木食白道」特別展資料。
などがあげられます。
◎それではこれらの資料により木食白道の大まかな説明をしてみたいと思います。
★生い立ち「幼年」「壮年」「晩年」。                       

★活動のあらまし「木食とは」「勧進について」「作品について」。             

など一度に総て記入出来ません、少しずつではありますが順次書き足しながら説明をしたいと思います。

木食白道について書かれた書籍

左---多摩地域における「遊行僧木食白道」の足跡・村野實 ・平成4年初版・
中---木食白道・木下達文   ・1990年 平成2年発行
右---木食白道・曽根原駿吉郎   ・昭和50年発行

木食白道展に伴い出版された作品資料集

昭和57年、木食白道の生誕の地、山梨県塩山市で開催された木食白道展で発行された資料  主催 塩山市中央公民館 県立図書館塩山分館

平成 8年同じく塩山市で木食白道展の際発行、その資料 主催 塩山市中央公民館

平成11年同じく塩山市で木食白道展の際に発行、その資料      主催 教育委員会 中央公民館

平成12年山梨県大月市で開催された・大月市の木食・「白道とその作品」資料 大月市郷土資料館

平成13年東京都福生市で開催された・多摩の微笑仏ー木食白道ーその資料  福生市郷土資料室

資料の写真は「宇賀神」像この像は八王子市心源院の所蔵 像高40cm
         

多摩地域における「遊行僧・木食白道」の足跡 (著者 村野實)

序文
昭和六一年私はふとしたことから円空仏に魅せられてその彫刻に挑んでみることとなり、そこから円空という人物についての歴史を研究し、当時の遊行僧についてのおおまかな経過が掴めてきました。郷土史には特に興味があるわけでも無いのですが、遊行僧を媒体として先祖の生活などかいま想像し、当時を偲んでみるように成ったのです。
翌年、私が彫刻展を開催することで新聞記事になり、それが縁で八王子市に住む淵上氏を知りました、彼は当地の郷土史家でもあり、そこに伝わる十八世紀中頃の「木食白道」(もくじきびゃくどう)の彫り残した作品を紹介され、ここで初めて白道を知ることとなったのです。
私の知る円空僧も木食戒を修行会得した人物であり、白道も同じ修行僧であることと、多摩地域の郷土との関わり合いに深く感動しました。
この時から白道の作品にも少なからず興味が沸いて居たのです。
多摩地域の内、八王子市では淵上氏の調査により、恩方地区とその周囲に存在する白道の作品とその活動内容をほぼ把握しているようです。
また私が冊子「多摩地域における、遊行僧「木食白道」の足跡」を配布したことによりあきる野市・日の出町・青梅市などの市内より十数点の作品を発見することが出来ました。
しかしこれ以外の範囲を調べてみても、木食白道の名前など知る地区など全くないのが現状です。地域によっては在家の中にも、木食僧が拝廻してきたという言い伝えがぼつぼつあるようですが、いつ頃どんな僧が来たかはまったく解っていないようです。
そんな状況(知る人ぞ知る)の中、かりに彼の作品が在ったとしても由来も解らず、古物として始末されてしまうのが現状です。
白道の作品がもし在るとすれば、それは地域に根差した貴重な文化財でもあると思われます。
このページはそのような知られざる作品を多くの方々に知って頂き、大切に保管されることを願い、また作品の所在など正確に把握出来ることも目的として書き記してみました。

ここで新しく発見された作品を紹介します(左の画像)

   2003年2月5日東京都福生市郷土資料室より、上記の画像のおふだ(お札)が発見された、と知らせて頂きました。
縦26.4cm  横5.6cm  虫食いが見られシミと変色で解りにくくなっているが、下の部分「廻國白道」の文字が白くはっきりと読みとれます。

資料室の見解では版木により印刷されたお札で、全体的には五輪塔をかたどった形式で、上より南無阿弥陀仏と図案化された六字名号が彫り込まれてあり、その下は蓮華座で、その下の台座の部分に廻國白道と記されている。
なにぶんにも古く解りにくい、また廻國と書かれた白道の作品は他に見当たらないのでこの点明快ではないが蓮華の彫り方や全体から受ける感じからして白道自身が彫った版木ではないかと推測している。

一般的にお札は頂いてから数年経過すれば焼却してしまうのが慣例であり、残っているのがめずらしくたいへん貴重な資料ではないかと思います。
画像はそのお札を資料室でコピーをとり、それをカメラで写しこのペジに掲載しました、いずれ資料室より鮮明な画像とその解説が出ると思います、このページをごらんいただいた方々のご意見なりお寄せ頂けたらありがたいと思います。

あきる野市五日市(個人蔵)笹書き六字名号・縦56cm・

この軸は大きな表装で他のいろいろな書と並べて表装されている。

下の画像は、日の出町で発見された版画・七福神・(個人蔵)
虫食いの跡があるがこの版画は長野県駒ヶ根市周辺でも同様のものが発見されている。

同じく七福神の版画 八王子市下恩方(個人蔵)

日の出町のものと同一の版木から刷られている、保管状態が良く鮮明に写っている。紙の大きさは横47cm  [福生市郷土資料室図版より]

六字名号・八王子市下恩方(個人蔵) 縦47cm

六字名号・この字体は木食白道独特の字体である。

笹書き六字名号(村野實所蔵) 南無阿弥陀仏と書かれている.
この軸は五日市のものとほぼ同じである、同様の作品が大月市塩山市からも発見されている。 縦54cm
「笹書き」に付いては以後紹介します。

あきる野市留原で発見された版画・恵比寿大黒天(個人蔵)  46×32cm

恵比寿大黒天と共に発見された・わはらの宮版画・46×32cm

あきる野市小和田で発見された・像銘不詳・の作品  像高30cm

その背面・すすがしっかり付着しており書き込みは解りません、像のかおだちからして木食白道作に間違い無いと解ります。

恵比寿・大黒天

像高 33.1cm
あきる野市平沢 個人蔵
この姿の像は比較的多く発見されている形です、中でもこの像は保存状態がひじょうに良い
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恵比寿大黒天

像高33.0cm
あきる野市留原
この像も保存状態はよく、特に像背面の笹書きが明確に読みとれる
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祈祷札(棟札)

長さ 36.5cm
あきる野市引田 真照寺 所蔵
この寺には巡錫中の木食白道はたびたび訪れたと思われる。
札は本堂改築の折り発見されたものである。
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青梅市内延命寺で発見された作品・地蔵菩薩・   像高55cm

恵比寿大黒天・八王子市西寺方町(個人蔵) 像高33.5cm

下の画像の・恵比寿大黒天・は八王子市上恩方町(個人蔵)
像高33.8cm

恵比寿大黒天・八王子市下恩方(個人蔵)       像高33cm

下の画像・大黒天・は八王子市内(個人蔵)像高30cm   台座の部分は虫に食われているが正しく木食白道の作である。
元々は恵比寿と一対であったと思われるが、この大黒天だけ残っていた様である。

年表(各種資料により制作)


宝暦 5年(1755)    甲州東山梨郡上萩原上原(山梨県塩山市上萩原)に生まれる。性は小野氏姉が一人いたと言い伝えがある。

宝暦11年(1761)7歳 上萩原の法幢院にて剃髪し父と共に廻国納経の旅に出る。この年の7月四国の某所において父が亡くなる。

明和 9年(1772)18歳 4月佐渡にわたり六ヶ月間の滞在の後に越後地方を納経し、宗安と名乗る。
これまでの消息についてははっきりとした記録はない、或る人に拾われ養育を受けて居たが故郷に思いを寄せ、六十六部となり再び廻国の身となった。
そしてこの佐渡で年号いりの六字名号が発見されたことにより彼の消息の始まりが解明された。以後の消息については比較的明らかになっている。

安永 2年(1773)19歳 四月、上萩原の淨源寺へ納経。師になる行道と出会う  、

安永 3年(1774)20歳 五月妙義山大権現へ納経                     、  
安永 4年(1775)21歳 上州より北上、仙台・南部(平泉)・方面を廻国         、  

安永 5年(1776)22歳 五月恐山・六月に津軽・八月鳥海山・十月山形を廻国    、

安永 6年(1777)23歳 五月出羽三山に納経・七月師の行道に従い行を共にする  、

安永 7年(1778)24歳 六月なかば北海道に渡り初期の供養仏を掘り始める、二ヶ月に渡り江差地方を巡る。

安永 9年(1780)26歳 五月松前より本州に渡る、九月から栃窪徳性院(現在の栃木県鹿沼市)に五ヶ月間滞在し、師の行道と共に薬師三尊と十二神将を彫る。その内の四躰には白道の銘が或る。

安永10年(天明元年)  二月に栃窪を出立、五月信州長久保で佐渡に行く師行道と別れ故郷に帰る。幼年の時に剃髪した寺法幢院に地蔵尊二十六体を安置、祈祷を行う。
この時すでに白道の知名度は高く、その法力は人々に知れ渡っていた。そのための嫉みを買う羽目となり、法幢院の本山よりの命令で、法幢院から追放され、上原寺の住僧となる。

天明 2年(1782)28歳  下小田原(現在の塩山市)百体仏彫刻に取りかかる。その後廻国の行に発ち、九州までも足を運んだと云われている。

寛政元年(1789)35歳  武州多摩郡引田村(東京都あきる野市)の真照寺で薬師如来開扉行事の協力をする、(写真により紹介してあります)

寛政 2年   同じく真照寺のの梵鐘制作の協力をしている、(寛政年間には度々多摩の地域を巡業していたようである。

寛政 6年(1794)40歳  江戸日暮里の青雲寺の谿州和尚の弟子となり、同寺の聖観音菩薩本堂と鎮守金比羅本殿拝殿建立の為関東一円を勧進する。(主に江戸市中と多摩地方)多摩では材木の寄進が多い。

寛政 9年(1797)43歳  上野原の原村(現・山梨県上野原町)において井戸加持を行い、深さ五十三尺の井戸を掘る。この地域でも恵比寿大黒天など多くの像を刻んでいる。

寛政12年(1800)46歳  信州伊那郡光前寺村(現在の長野県駒ヶ根市)の運八、孫作より負箱を贈られる、このころ伊那地蔵平(現在の上伊那郡宮田村)に逗留し近隣の村々に多くの仏像を残す。

享和 3年(1803)49歳  上萩原天満宮の石垣普請の勧進をする、十二月に「天満宮縁起」を記す。(このころは郷里にて活動をしていたと思われる)

真照寺の過去帳に残された木食白道の記録

あきる野市引田 真照寺に記された木食白道逗留の様子である
[寛政元巳酉三月十五日ヨリ一七ノ間本尊薬師如来開扉此時當甲斐国ヨリ木食白道ト云う念仏行者来テ開扉之間助法ス]と記録されている

年表の 続き

享和 4年(1804)(文化元年)50歳  新井地蔵堂(現在の東山梨郡牧丘町)にある「子安地蔵尊像」を刻む。このころより鳥沢(現在の大月市)に移り、清水入の上人屋敷に留まり、郡内を中心に多くの仏像を刻む。この頃も多摩地方を巡業し多くの作品を残している。(上人屋敷とは白道の逗留した当時からの屋号であったかは不明である)

文化 5年(1808)54歳  鳥沢の円福寺過去帳によると、師である行道が甲府の教安寺に七観音を刻み奉納した後、鳥沢へ来て文化七年六月に亡くなるまで、白道と同居していた可能性がある。(円福寺の過去帳には行道の法名などが記されている)

文化10年(1813)59歳  下於曽(現在の塩山市)正念寺の子安地蔵尊を刻む。   、

文政 8年(1825)71歳  十二月二十四日、上人屋敷において入定。          、
文政 「八酉年 木食大秀白道比丘 十二月廿四日」     (鳥沢の円福寺内の墓石)

木食白道・行道・に関する 山梨県大月市富浜町鳥沢 石森山圓福寺の過去帳

平成5年圓福寺へ木食白道の墓石などの見学をさせて頂きました、それから数日後圓福寺より過去帳のコピーが送られて来たのです。
過去帳には白道はもとより、行道の名前まで記録されていました、行道終焉の地は明確には発表されていませんでしたがこの圓福寺がそれではないだろうかと推測できます。
木食白道も入場の地は近くにあるものの師である行道を慕い、この圓福寺へ最後をゆだねたのではないだろうか。
上の画像は圓福寺より届いた封書
下の画像は先代の住職英蓉師より戴いた手紙

五行明満と記録のある過去帳

上の画像で過去帳の上段左に「五行明満禅者文化七午六月」と記入されている
この過去帳からの推測で、年月が不揃いなのは入場した場所はこの寺から少し離れた所であり、数年して木食白道らがあらためてこの圓福寺に祀ったのではないのでしょうか。後に白道もこの寺の過去帳に記録のあるところから、師の行道と後の世でも同道したい現れで有ると思われます。

木食白道と思える記録のある過去帳

下の画像では上段左「大秀道白行者 文正??酉十二月」と記録されている
白と道が入れ替わって書かれているがこれは戒名であり明らかに木食白道であることに間違いはない。




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