競馬の歴史


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※歴史なので時系列になっています。番号順に読まれることをおすすめします。
1. 近代競馬とイギリス

 よく、競馬の発祥地はイギリスだと言われます。なぜイギリスなのかというと、「近代競馬」を完成させたのがイギリスだからです。近代競馬というのは、統一的な制度や規則によって、不特定多数の人々が参加して行う競馬のことで、いわば今の競馬の基盤といっても過言ではないでしょう。17世紀の競馬はイギリスの王族たちが行っていたので、「王室競馬」などとも呼ばれますが、この王室競馬はリチャード1世によって始められました。彼は春と秋の2回、定期的にニューマーケットで競馬を開催し、1634年に「ニューマーケット・ゴールドカップ」が始まったといわれています。

 さらに17世紀後半に戴冠したチャールズ2世陛下も、まだ内乱が絶えないこの時代に自ら騎乗して出場するほどの競馬好きで、ニューマーケットに定期的な競馬を開設することで、近代競馬の基礎を築き上げたといわれています。女好きの彼は競馬場にも愛人を連れて行き、そのうちの一人がニューマーケットで開催されるG3レースで「ネル・グウィン・ステークス」のレース名にまでなったくらいです。また、「オールド・ローリー」という持ち馬でニューマーケットのレースに優勝しているために、持ち馬の名前がチャールズ2世の愛称となり、ニューマーケットの直線は今では「ローリー・マイル」といわれています。

 17年後のアン女王陛下の時代になると競馬が最も人気のあるスポーツとなり、ほとんどの有力貴族が競馬に参加するようになりました。彼女も競馬が大好きで、王室所有の「アスコット」で1711年の6月10日から競馬を開催し始めました。このアスコット競馬場で開かれるレースは「ロイヤル・ミーティング」と呼ばれ、レース内容よりも国王中心に貴族たちが着飾ってお祭りをするという催し物になり、たった年に4回しか開催されないという状況が1945年まで続きました。
2. より速く、より長く

 競馬の人気が上がり、大部分の貴族達が馬を持ち寄って参加するようになると貴族たちがより強い馬を欲しくなるのは当然ですが、当時のイギリスはヨーロッパ列強の中で最も馬産の後進国だったため、よりよい品種を国外から手に入れようとしました。当時、馬産に関してはフランスなどの方が優れており、フランスからイギリスへ渡った種牡馬や繁殖牝馬は数多くいます。ただ、フランスから輸入したといっても大半がアラブ種、ターク種、バルブ種などの東洋種であり、当時の馬の品質面では西洋より東洋の方が優れていたのかもしれません。

 いずれにせよ、これによってイギリスの競走馬の質もグンと向上していきましたが少し疑問が残ります。馬産の面では他国に劣っていたイギリスでなぜ競馬がメジャーなスポーツとなり、発達したのでしょう?
 それは、イギリスが早く産業革命を迎えたため人々にスポーツを楽しむ余裕ができたこと、騎馬の伝統が乏しかったために高等馬術が発達せず、馬に乗って走るだけという単純なスポーツで満足できたこと、賭が罪悪視されないだけのデモクラシーが発達していたことなどが理由に挙げられます。特に最後の賭けが罪悪視されなかったことがかなり影響しており、競馬に限らずイギリスで育ったテニスやゴルフといった伝統的なスポーツも全て賭とともに発達しました。
3. 競走スタイルの変化

 こうしてイギリスで育っていった競馬ですが競走スタイルを見てみると様々なアイデアのもと、多様なスタイルが生み出されてきたようです。

  • マッチレースとスウィープ・ステークス
 今日の一般的な競馬のスタイルは「何頭かの馬が決められた距離を走り、その順位を争うもの」ですが、最も古い競走スタイルはマッチレースでした。
 2頭の馬によるこの競走では、多くは馬の所有者が自ら騎乗して手綱を取っていました。1377年にはプリンス・オブ・ウェールズ(後のリチャード2世)がニューマーケットの近くで、アランデル伯という人物と互いに自分の馬に乗ってマッチレースを行ったという記録が残っていますが、貴族同士の私的な対戦だったのであまり記録には残らなかったようです。
 マッチレースに際して馬主が賭金を出し合うようになりますが、これは出馬登録料(ステークス・マネー)と呼ばれ、勝ったほうの馬主が総取りするというものでした。その後3名以上の馬主でレースを行えば、馬主はステークス・マネーの負担が少なく、獲得する額が出走馬の分だけ増加するということで、このような競走が主流となっていきました。この競走は「スウィープ・ステークス」と呼ばれ、この言葉が短縮されて現在の「ステークス」という言葉が生まれたといわれています。

  • ヒート競走
 時代が移ると「ヒート制」と呼ばれる競走スタイルが考案されます。17世紀初めのこの競走スタイルは、同じ条件、同じ出走馬で3〜5回走り、同じ馬が2回以上勝つことで優勝が決まるというものでした。つまり、日本ダービーを同じ出走馬で3〜5回やるようなものです。この場合、少なくとも最初の1回はその呼び名の通り「heat」(予選)でしたから、これだけでも馬には大変な負担でした。しかも、このころの競走距離3〜4マイル(約4800m〜6400m)が普通で、それ以上のレースも珍しくなく、スピードよりスタミナを要求される競走でした。また、ヒート競走が主流になる頃、優勝した馬の馬主に金銀ではなくカップなどがわたされるようになりました。

  • プレート競走
 17世紀の半ばの英国における競走条件を明確に伝えるものに「プレート競走」があります。これは国王が強くて丈夫な馬の育成を奨励するため、勝ち馬に「優勝盾」(Plate=プレート)を賜ったことによります。(現在の「キングズ・プレート」及び「クイーンズ・プレート」の前身)
 1675年、チャールズ2世が「王室杯」を贈って行われた「ニューマーケット・タウンズ・プレート」競走はヒート制で行われましたが、その条件は@馬齢:明け6歳馬 A距離:4マイル(約6400m) B負担重量:12ストーン(約76.2kg)というものでした。

  • 馬齢重量制
 18世紀に入ると競走形態と距離のほかに、馬の背負う負担重量が大きな関心事になりました。それまでは負担重量はレースごとに当事者によってまちまちに決められていましたが、これに代わって体高(蹄から肩、き甲まで)の差で増減する「ギブ・アンド・テイク」方式や、能力差を考慮して決める「ハンディキャップ」方式などが用いられました。しかし、それでも曖昧さが残り、明確な基準とはなりませんでした。
 そこで考えられたのが馬の年齢を基準にする「馬齢重量制」でした。この方法の最初の指標を示したのがラウス提督(ヘンリー・ラウス卿)で、ハンディキャップ作成のその理論的な裏づけは著書「競馬の理論と実際」に著され、世界中の研究者や生産者に絶大な影響を与えました。
4. 近代競馬へ

 18世紀半ばから後半にかけて、競馬は劇的な発展を遂げます。まず、イギリス競馬を統括する機関として貴族たちが集まり、「ジョッキークラブ」が設立されます。この頃のクラブというものは実体や名前が秘密のベールにつつまれている秘密クラブ的ものだったのに、こと「ジョッキークラブ」に関しては社会的認知度が異常に高かったといわれています。

 ジョッキークラブは1750年頃に、ロンドンのパル・マル・アベニューにあった「スター・アンド・ガーター」という店での会合が第1号とされています。この店での会合は、リチャード・タタソールという馬競り業からハイド・パーク・コーナーの一角に部屋と料理人を提供されて場所を変え、しばらくしてオールド・バーリントン・ストリートのウェザビー商会に移り、ロンドンにおける本部となったといわれています。現在ではポートマン・スクウェアにある建物が本部となっています。

 ジョッキークラブの役割は、競馬事業に必用な施設の獲得と整備、規則の統一があげられます。レースの不正をなくすための検量や勝負服の登録を義務付けるなど、競馬を公正に運営するために様々な制度や規則を設け、それに基づいて円滑に競馬を行なっていくのがジョッキークラブの使命でした。

 そして、このジョッキークラブによって1766年には競走馬のセリ市が開催され、1773年には個々の競走馬の成績を記録する「レーシングカレンダー」が発刊されました。そして1793年、「ゼネラル・スタッド・ブック」という血統登録書が発刊され血統の登録制が始まりました。この半世紀に渡る革新的な発展により、現代競馬の基盤が出来上がったのです。
5. クラシックの誕生

 ジョッキークラブが管轄するニューマーケットでは1回勝負(ヒート競走の逆で、一度で勝敗を付けるレース)が行われるようになりました。しかし、ニューマーケット以外の100以上もある他の競馬場では、依然ヒート競走が行われていたようです。このような状況の中クラシックは誕生したわけですが、いきなりクラシックレースとして同時に作られたのではなく、個別のジョッキークラブや馬主グループで創設された、それぞれのレースが人気を得て、後に重要なレースとして位置付けられたものでした。そして、現在全世界で行われているほぼ全ての、1回勝負というレーススタイルの最古の5大レースなので、クラシックレースと呼ばれるのです。
 以下に創設された順に紹介します。

  • セントレジャー
 1776年、ドンカスター競馬場の馬主グループが、新しい1回勝負のスイープ・ステークスの出馬登録を行いました。競走条件は「3歳馬、距離2マイル、負担重量は牝馬2ポンド減」というものでした。このレースは最初の2年間は無名のままでしたが、3年目にレース名が決定されます。当初、第1回の同レースを勝ったロッキンガム卿にちなみ「ロッキンガム競走」とする予定でしたが、同郷の提案でグループの人気者であったセントレジャー中将の名を冠することになりました。
 このセントレジャーが人気を呼びます。理由は、出走馬が全て3歳馬だったからです。当時の競走馬のデビューはだいたい6,7,8歳くらいだったといいます。ちょっと信じがたいかもしれませんが、馬術競技馬が最も完成される馬齢が9歳以降だといいますから、競走馬としての完成もそのくらいだろうと考えられていたのでしょう。しかし、セントレジャーでは当時はまだ相当若さのある3歳馬同士を戦わせたのです。実力が不確定な若駒同士のレース、その新鮮さとギャンブル性が人々を惹きつけたのでした。

  • オークス
 セントレジャーの成功に刺激され、ジョッキークラブ会員の12代ダービー卿と彼の友人らが、3歳牝馬限定の1回勝負スイープ・ステークスを計画し、会長のバンバリー卿に相談した結果、翌年1779年夏のエプソム競馬場にてこの計画は、12F戦のオークス・ステークスとなって実現しました。エプソム競馬場はダービー卿によって運営されていましたが、当時は非公式のカントリー競馬の一つだったので、彼はどうにかして一流の競馬場に仕立てたいと思っていたそうです。レース名は、ダービー卿が会議やパーティに使っていた別荘「オークス邸」にちなんだもので、このオークスや次に紹介するダービーのプランもここで考え出されたと言われています。

  • ダービー
 オークスが成功したことにより、ダービー卿らは次の年には同じタイプの、今度は牡馬も含めた3歳マイル戦「ダービー」を創設、出走馬も集まってこちらも成功しました。1784年以降は現行の12F戦になりましたが、当時としては驚くほどの短距離レースでした。
 レース名はダービー卿から付けられたのですが、実は命名に際しては有名なエピソードが残っています。
 オークスの成功によって自信がついたダービー卿は、このレースにジョッキークラブ会長のバンバリー卿にちなんだ名を付けたいと思っていました。一方のバンバリー卿にとってはあくまでカントリー競馬の大レースでしかないので乗り気になれず、やんわりと辞退しました。しかし、相手がいかに若年で競馬の世界ではジョッキークラブの会長と会員の関係でしかなくとも、すでに政界の実力者でもあったダービー卿の申し出を無下に断ることもできません。ダービー卿としてもここで競馬界の実力者であるバンバリー卿の名を冠することができれば、4年前に誕生したセントレジャー以上の人気を呼ぶレースとなると考えていたので簡単には引けません。譲り合う口調で押し付け合いの議論が続き、最終的にはコイン・トスでどちらの名前を冠するか決めようということになったのです。その結果ダービーというレース名となったわけです。

  • 2000ギニー
 以上3つのレースが、4月から11月にレースを行うイギリスの競馬にとって中間と終盤をもりあげる役割になっているので、前半のレースもということで1809年、ドンカスター、エプソムに続いてニューマーケットでも3歳馬のスイープ・ステークス競走がジョッキークラブの手によって創設されました。この出馬登録料は100ギニーで、登録馬は23頭でした。勝ち馬のオーナーはそのステークス・マネーを賞金として獲得しますが、その金額から「2000ギニー」と名づけられました。

  • 1000ギニー
 1814年、2000ギニーと同じニューマーケットで今度は3歳牝馬だけのスイープ・ステークスとして創設されました。レース名は2000ギニーと同様の経緯で決められました。つまり、最初のレースは100ギニーの出馬登録料で10頭の出走申し込みがあったことによります。
6. ギャンブルとして

 イギリスの競馬は貴族のためのもので、一般庶民などのことは考えていなかったといわれています。今でもそうであるともいわれますが、そういったなかで一般庶民が競馬に興味をいだくのは賭の対象としてでした。ただ、ギャンブルをやるにしてもお金が必用で、一般市民が競馬を賭の対象として認識し始めるのは人々が豊かになった産業革命以降のことです。産業革命により人々は豊かになり、ギャンブルとしての競馬に興味を持ち始めたのです。

 そうなると、貴族だけでやってきた競馬をギャンブルの対象だとしても一般市民をもまきこむとなれば、得意のルールずくりを貴族の人々は行わなければなりません。徹底的な不正の防止、規則の統一、免許制による信頼アップなどです。同じメンバーだけでしか行わず、不定期的な開催しかしないという状態から、定期的な開催、レースプログラムの多様化によるメンバーがそのつど変わるものへとの変化。こうして、レースはより面白く興味あるものとなり、ギャンブルとしての競馬は一般市民に広がっていきます。

 そうして、賭としての競馬が盛んになると民間企業もその競馬の賭博制にのりだしてきます。イギリスをはじめとする欧州に存在を認められている「ブック・メーカー」の誕生です。民間企業の「ブック・メーカー」と競馬協会が運営する「トータリーゼ」とが誕生しギャンブルとしての競馬は今に至ります。

 競馬協会が運営する「トータリーゼ」とは、競馬を運営するための必用なお金を賭けられた金額から排除、残りを馬券的中者に変換するというシステムです。これは、フランスのJ・オラーによって発案されたもので「パリ・ミュチェル方式」と呼ばれ1872年に発案されました。この方式は投票数によってオッズが変化するというのが大きな特徴です。

 「ブック・メーカー」の方はといいますと、会社独自の情報と推理を元にオッズを決めます。しかもこのオッズは、「トータリーゼ」のオッズや他者「ブック・メーカー」のオッズとも比べスタートまで微調整を繰り返しより消費者に指示されるオッズを提示するというのが特徴です。ただし、買ったら最後、「トータリーゼ」と違いオッズは変動しません。つまり、買った時点のオッズで的中した場合は払い戻されます。

 こういった二つのシステムによってギャンブルとしての競馬は盛り上がりを見せています。ただ、ほとんどの国はブック・メーカーを禁止しているのが現状です。


<脱線トーク>
そういえばベッカム夫妻が二人息子の名前を何にするのか、といったことが賭けの対象になり、イギリスのブックメーカーが倍率を公開していました。イギリス人がいかにギャンブルが好きか。これを見ると競馬がギャンブルとして育った理由が納得できます。
7. 世界に広がった競馬

 19世紀にはいるとサラブレッドという優れた競走種が各国で認められ、フランス、ドイツ、アイルランドなどのヨーロッパでサラブレッド競馬が広がり、遠くはオーストラリア、ロシアにおいてまで競馬が行われるようになりました。アメリカではすでに17世紀には競馬が行われていたが独立戦争や内戦などによって発展が阻まれていて競馬前史というべき時代が延々200年以上も続いていました。しかし19世紀後半になるとようやくジョッキークラブが設立され、本格的な競馬がスタートし、日本でもこの頃から競馬が行われるようになりましたが本格化は20世紀に入ってからだったようです。現在ではアジア諸国でも行われるようになり、ハンガリーやロシアなどでは衰退してしまったものの世界各国で愛されるスポーツとなっています。