インド競馬について
インドの最初の競馬は1780年に「インドのニューマーケット」マドラスで開催されたらしいのですが、記録に残されていません。カルカッタでは、1798年にアラブを含まない競馬が2回行われ、ほぼ同じ頃ベナレスでも競馬が始まり東北地区で競馬は著しく発展していき、1806年までに定期開催の競馬も始まり、その後数年たつとアラブ馬が大量に輸入されました。年代的にみてもわかるようにムガール帝国(インド)が英国に植民地化されるとともに競馬を導入されます。また、ボンベイでも1798年にヒートレースが3回行われたのが最初の競馬です。プーナでは18148年にヒートレースが開催されました。 ヒートレースに出走できるインド産馬は当時少なかったためにアラブ馬による競馬だったと推測されています。1825年にカルカッタの商人ジェームス・バーウェル氏がグレート・カルカッタ・ウェルター競走を創設し、本賞金をだした初のレースとして開催されました。別名「ベンガルダービー」とも呼ばれた未勝利アラブ馬のレースでした。
1830年までにインドの各地で24を越える常設競馬場が完成され、カルカッタが中心地となりインドの競馬の発展が始まりました。カルカッタではなく高地インド地方の方のボンベイが発展が速かったこともあり、ボンベイにはロイヤル・ウェスタン・インディア・ターフクラブができ、カルカッタにはロイヤル・カルカッタ・ターフクラブができました。インドはとても暑く、馬の健康に悪いためにレースは日の出の時間にラッパが鳴ると、その15分後に第1レースがスタート、日が昇って暑くなると、日没に再開するという特殊な競馬を強いられました。
1815年にクリストファー大尉がエスケープというサラブレッドを導入したのが、インドの初のサラブレッド導入です。この馬が7戦5勝の成績を上げたため、1818年にサラブレッドは他馬よりも7ポンド増量することが決定されました。1819年にはこれが、12ポンドとなりました。1821年に第13軽竜騎兵部隊のギルバード大佐(後のウィリアム将軍)が英国からカノネードというサラブレッドを導入し戦績が19戦17勝、1828年にはリクルートが、37ポンドの増量で、最強のアラブ馬ピラムスを2マイルのレースで簡単に敗りインドの競馬関係者に大きな衝撃をあたえました。1840年代にインドの競馬は英国、豪州、南アなどからサラブレッドが導入されたり、新しい競馬が英国領インドで開催、既存の競馬場はスタンドを新設、本職のホースメンも英国や豪州からやってくるなどしめざましい発展をとげます。1845年には、インド太守から、マドラスの競馬のために200ギニーの優勝杯を下賜して立派なレースも完成しました。
1850年に、アラブ馬の質の低下、馬の疫病によるケープからの馬の輸入ができなくなったり、アラブ生産馬一派による圧力での豪州からの馬の輸入を禁止、サラブレッドの輸入を人々がやめたことが重なりインドの競馬は衰退していきます。また、競馬関係者が競走馬をもつことが禁じられ、そのために不正を行うような人々が競馬界にはいってきて、競馬は不正の固まりになり、賭けが盛んになり、競馬の開催は数えられる程度にまで減ってしまったのです。1855年に豪州から馬の輸入再許可となり、デリーで競馬が11月に再開、これにともない徐々に他の地区も競馬を再開さいていき、ボンベイではビクラ競馬場を新設し、そこのアガ・カーンが16頭の出走馬を送り競馬は活気を取り戻していきました。
産業革命で安く大量生産が可能になった英国はムガール帝国に、様々な製品を輸入し、インドの産業はそのために大きな大打撃をうけ、反英感情が高まっていきます。1857年にセポイの乱という、英官憲セポイの待遇に対する印土民軍の反乱で、一時期競馬の発展にも影響がでるのではという心配もありました。事実一時期この影響でカルカッタ・ターフクラブは運営を中止していました。しかし、ムガール帝国の皇帝を廃位し、ムガール帝国を滅亡させ、1877年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国としてインドを新たに植民地化し、競馬は英国支配の元続けられることになりました。また、この年にはインド最古の重賞で、当時のインドナンバー1決定戦総督杯(現エリザベス女王SでGV)も創設されます。
1860年には、ロイヤル・カルカッタ・ターフクラブが復活し、マイソールで、イスラム教君主が5000ルピーの金杯を下賜し競馬は素晴らしい発展をしました。1862年にはインドの競馬場は100カ所を越え、1867年にはカルカッタ・ターフ・クラブ・スイープという最大の富くじ付馬券が発売されました。この結果1880年までに各地で競馬が復活したり、新設され小さな駐屯地では競馬が社交的行事にまでなりました。1850年に賭け競馬で発展を妨げられたインド競馬は、1867年にトータリーゼを導入しました。1881年にはブックメーカーも参入してきてこの2者による馬券発売の争いも生じます。この争いは、1912年にブックメーカー参入を禁止する条例ができなくなりました。
発展とともに1900年代には中央集権化、統一化、職業化の道をたどります。100近くあった競馬場が、立派なコースト施設を維持し、高額な賞金を提供して一流馬を集められる24カ所へと減らされ、騎手もアマチュア騎手と職業騎手を明確化し、1914年までには職業騎手がアマチュア騎手を上回りました。オーストラリアの発馬機も導入され、近代化も進みました。しかし、1905年、ベンガル分割令によって反英感情は激化、1919年、つまり第一次世界大戦後、インドはセポイの反乱で結束した民族意識の中に団結して独立するという意識が強くなっていき、英国とインドの関係に変化が現れてきます。1943年にロイヤル・ウェスタン・インディアターフクラブがインド産によるクラシック競走を創設し、この辺までで英国支配による競馬の最終章といえるでしょう。
1947年にインド帝国は、ヒンドゥー教中心の英国領インドとイスラム教中心の英国領パキスタンにわかれ、1950年にインドは完全に独立します。しかし、イギリスに前面依存していたインド競馬は、独立を機に廃止の危機に立たされます。しかし、何とか存続されましたが、以前のように外国馬が入らなくなり、深刻な馬不足に悩まされることになります。 そこで、インド内国産馬の奨励がされるようになりました。 今では、アジアでは日本に次ぐ生産量を誇ります。そして、1960年代にはロイヤル・カルカッタ・ターフクラブやマドラス・レーシングクラブでもインド産限定クラシックを創設しました。他にも、サウス・インディア・ターフクラブ、バンガローア・ターフクラブ、ニューデリー・ターフクラブ(←これは間違っているかも)らもクラシック体制をひきます。
1963年にはインド国内の競馬クラブ持ち回りの インドターフ招待カップを創設しました。 このレースは、現在、インドのナンバー1決定戦として最も注目を集めています。また、インドは日本とも昔から交流があり、ハクチカラが日本から種牡馬としてインドへ輸出され、多くのインドのクラシックホースを輩出したり、第1回ジャパンカップにオウンオピニオンが出走したりしています。このJC参戦の時には、小さなアクシデントがあり、タマール語を話すインドの競馬関係者を通訳できる人がいなく、ボディーランゲージでJRAの人たちとインドのホースメンが会話することとなってしまったのです。理由は、日本にタマール語の通訳者が1人しかいなく、その時に限って海外出張をしていたのです。 |