サラブレッドとは


トップページ > 講義室
サラブレッドの意義と歴史

 サラブレッドとは英語で"Thoroughbred"と書きます。この単語を分解して訳すと「Thorogh(徹底的な)」と「Bred(血)」となります。ここからサラブレッドとは「純血種」という意味になります。この言葉が使われたのは1806年以降です。
 イギリスではそれまで英国在来種と東洋馬(ターク、アラブ、ポニーなど)との交配が盛んでした。しかし、むやみやたらに交配しては馬の祖先が分からなくなります。日本などでも兄弟結婚が認められていないことから分かるように、あまりにも近親交配だと奇形児が生まれやすいからです。また一方では、家畜育種学の祖というべきロバート・ベイクウェル氏の近親交配による品種改良という技術によってイギリスはさまざまな種において優れた品種を生み出すことに成功したのでした。そういうことも影響して、馬産の世界でも1793年に「ゼネラル・スタッド・ブック」という血統書が発行され、この本に記載された馬と血統的なつながりを証明できる馬のことを今日「サラブレッド」と定義しています。これ以後各国でも血統表が作成され、血統の系譜が証明できない馬はサラブレッドでないとまで言われるようになりました。サラブレッドが最も系譜の整った動物であるといわれるのは、サラブレッド1頭1頭の血統をたどっていくと必ず祖先までさかのぼれるからなのです。

<雑談トーク>
 サラブレッド=純血種といっても、彼らは雑種です。説明したとおり、サラブレッドはターク、アラブ、ポニーなど競走能力が優れていればなんでもオールカマー状態で交配していったからです。この雑種という要素をサラブレッドが持つ故に、遺伝が比較的ランダムに行われ、優秀馬×優秀馬=駄馬が出来たり、逆もあったりするのです。名牝の子から活躍馬が出るたびに新聞各種で取り上げられますが、これはサラブレッドの強い馬から強い馬が生まれにくいという特性を物語っています。
3代始祖

 現在、世界中にいるサラブレッドの全ての祖先をさかのぼると必ず3頭にたどり着きます。その3頭のことを「3代始祖(3代祖先)」といいます。その3頭について紹介しておきましょう。
(以下の写真は全てDel Mar Pedigree Queryから取りました。)
ダーレーアラビアン/Darley Arabian


 ダーレーアラビアンは1702年シリア生まれ。彼は1704年、シリアのアレッポでトーマス・ダーレー氏によってイギリス、ヨーク近くのアルドバイパークにいる弟リチャードのため買われた。その後、ジョン・ブルースター・ダーレー氏が受け持ち、ダーレーアラビアンは1730年までアルドバイに残った。
 ダーレーアラビアンはレースでこそ目立たなかったが種馬となっては現役時代とはうって変わって素晴らしかった。彼は個人的に飼育されていたのでそんなに多くの繁殖牝馬を得ることはなかった。ゼネラル・スタッド・ブックによると彼はおそらくターク種かシリアンホースだろうと言われているが、有名な権威者のセオドア・クック卿が言うには血統書によれば唯一本当の純粋なアナザー・アラブ種だということだ。
 彼はアメリカに初めてサラブレッドとして渡ったBulle Rock(1718)の父となった。また、Almanzor(1713)、Aleppo(1711)の全兄弟やFlying Childers(1714)、Bartlet's Childers(1716)の全兄弟を送り出し、1722年にはリーディングサイアーとなった。そして5代目に出た最強馬エクリプスによってさらに繁栄し、セントサイモンの子孫は繁栄しすぎて逆に滅んでしまったがそれでも現在彼の系統は世界中のサラブレッドのおよそ9割を占めるほどの大繁栄ぶりをみせている。

  • 主な子孫
ハイペリオン、ナスルーラ、ミルリーフ、リボーなど。現在ではサドラーズウェルズ、ダンジグ、ノーザンテーストなどのノーザンダンサー系、ミスタープロスペクター、アリシーバ、エルコンドルパサーなどのレイズアネイティヴ系、サンデーサイレンス、ブライアンズタイムのヘイルトゥリーズン系、トニービン、タマモクロスなどのフォルティノ系など大多数。

ゴドルフィンアラビアン/Godolphin Arabian


 ゴドルフィンアラビアンは1724年イエメン生まれ。彼はモロッコの皇帝からフランス国王への贈り物として送られ1730年コーク氏が輸入した。その後、ロード・ゴドルフィン氏が受け持ち、彼はニューマーケット近くのスタッドにゴドルフィンアラビアンを入れた。
 彼の種目の判定には数々の議論があるが、ゼネラル・スタッド・ブックは彼の肖像画から彼をバルブ種と判断した。青鹿毛の彼の種牡馬としての他を圧倒する成功は「幾年も過去の話であれ近年の話であれ、彼がいなければ今ほど優れた馬は産まれなかったことは注目すべきことである。」と、ゼネラル・スタッド・ブックにも記載されている。
 彼に会ったことがあるウィリアム・オスマーは「彼を目にした誰もが彼の肩が深く、今まで見たどんな馬よりも遠く背中に位置しており、次元の違う非常に強く、パワフルな腰の筋肉が異常なほど高く吊り上がり、広がっていることを必ず記憶にとどめるだろう。彼の姿の優秀さがすぐにははっきりしないのは不思議でないが、顔や耳の素朴さや前脚の位置、彼の評判のすごさや彼が子を産んだ国ではエサの要求が引き起こされることには深く考えさせられる。」と彼を評している。
 Flying Childers以来の最強馬といわれるLath(1732)をRoxanaという繁殖牝馬との間で生み出し、Grey Robinson(1732)との間の仔Regulus(1739)はエクリプスの母父になった。8代目には世界史上初の三冠馬ウエストオーストラリアンが出た。しかし、彼の最も重要な功績はLathの全兄弟Cadeを生み出したことで、Cadeが産んだMatchemは繁栄後一大マッチェム系を築き上げるまでに至った。
 ゴドルフィンアラビアンは1738年、45年、47年にリーディングサイアーとなり、彼の仔のBlank(1740)や先ほどにも出てきたCade,Regulusも次々とリーディングサイアーとなった。
Matchless(1754)やSelima(1745)も世に送り出した彼はおよそ20年の種牡馬生活の末、カンブリッジ州のゴグマゴッグで29年間の生涯に幕を閉じた。ゼネラル・スタッド・ブックによると彼は馬小屋に通じる覆い被された路にある平らな石の下にいっさいの碑文なしで埋められたという。

  • 主な子孫
マンノウォー、マークオブディスティンクション、パーフライトなど

バイアリーターク/Byerly Turk


 1680年頃のトルコで生まれたバイアリータークはブダベストとの戦いで捕まり、アイルランドの戦争でバイアリー大佐が乗っていたと言われる。
 バイアリータークが初めてイギリスに来たのは1688年のことで燃えるようなアラブ種牡馬、優雅な馬、度胸、スピードがあると言われながら北ヨークシャーのネアーズボロー近くのゴールズボローホールにあるスタッドに行くことになり、その後全サラブレッドの祖先となった3代始祖の最初の1頭となった。
 ゼネラル・スタッド・ブックが「Byely Turk」と登録したが、正しいスペルは彼の馬主の名前からしておそらく「Byerley Turk」であろう。
 彼は決して良血の繁殖牝馬と交配したわけではないが種牡馬成績は素晴らしかった。Basto(1703), Jigg(1701), Black Heartyを産み、ファミリーナンバー39の初代牝馬となったBonny Black(1715)、ファミリーナンバー3と17の初代牝馬を送り出した。

  • 主な子孫
ドクターデヴィアス、ダイタクヘリオスなどのトウルビヨン系、メジロマックーン、シンボリルドルフ、トウカイテイオーなどのパーソロン系など。

 先ほどサラブレッドの祖先をたどっていけば3頭にたどり着くといいましたが、彼ら以外にも種牡馬はいました。が、彼ら3頭以外は全て繁栄しなかったわけです。
 それと、ここからは少しビックリすることかもしれませんが、実は上記の3頭の名前はあとから付けられたのです。といのも彼らが生まれた当初は馬に名前を付ける義務がなかったのできちっとした記録にも残ってないのです。彼らにももしかしたら名前が付けられていたのかもしれませんが、記録に残ってもいなく分からないので「馬主名+馬の種類」で呼ばれることとなったようです。ダーレーアラビアンはダーレー氏のアラブ種、ということになります。