脱走軍には美男がいっぱい
旧幕府脱走軍の「美男」と伝えられる人々を一覧にしました。

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 脱走軍には美男がいっぱい 前文

後期新選組とか箱館政府軍幹部とか彰義隊とか陸軍隊とか、毎回全部を書くのが大変なので、ひとまとめに「脱走軍」と記そうと思います。特に遊撃隊などは固有名で無く、松前藩や会津にもあったかなりややこしい隊名なので、当時人々にそう呼ばれていた“ダッソー”でくくれば、すっきりします。

さて、旧幕府脱走軍の美男と呼ばれた方々についてです。
僕は男だし男色家なわけでもないので、美男と美女のどっちか好きかと問われれば、当然「美女」「美人」「美少女」の方と答えます。でも僕はかなりストライクゾーンが狭い人間なので、自分の好み以外の、世間の人が言う「美人」には全然興味がないのです。たとえ誘惑されても、まずホイホイついていったりはしません。変な美学やコダワリもあります。逆に「美男」の方ならば、自分がどうしたいとかの主観が全くないので、作品の研究用に冷静に見ることができます。
当時の人々が「容貌美麗」とか「見惚れるような美男」って伝え残すような男が、いったいどんな風な顔して写真や肖像画に写っているのか、とても興味があります。それらは必ずしも(どちらかと言えばたいていの場合)正確に容姿を記録したものではないのですが、そこを伝聞と照らし合わせて造形や質感を推測したり動作を想像したりすると、とても楽しいのです。血が騒ぎます。

何分136年も前のことですので史料も正確さにかけるものが多いです。ここではわかる範囲で記します。
年齢は慶応4年(明治元年)時での数え年です。役職はよく知られているものを書いているだけなので、在任期間は前後するかもしれません。イイ男かどうかに身長は関係ないと思いますが、前記の通りこれは彫刻を作る上でのメモなので、体格を想像するために書いておきます。各人物の詳しい経歴等はGoogleなどで検索すれば出てくると思います。 前置きだけでこんなに使ってしまいました。以下、かなりの長文ですがお覚悟ください。敬省略。

◎ 榎本武揚(泉州、釜次郎)
◎ ジュール・ブリュネ
◎ 土方歳三
◎ 春日左衛門
◎ 星恂太郎
◎ 二関源治
◎ 伊庭八郎
◎ 林忠崇
◎ 天野新太郎
◎ 小笠原胖之助
◎ 山野八十八
◎ 山脇隼太郎(正勝、大河内太郎)
◎ 上原仙之助
◎ 毛利秀吉
◎ 斎藤辰吉(中野梧一)

番外
◎ 松平太郎
◎ 大鳥圭介
◎ 澤太郎左衛門
◎ 人見勝太郎
◎ 和田幸之進(間宮魁)


 脱走軍には美男がいっぱい 其ノ壱

◆ 上の画像:新シリーズ〔敗走ふろんてあ〕より 作品『総裁の咲くころ』(部分)
榎本武揚(釜次郎)の胸像

◎ 榎本武揚 33歳 箱館政府総裁・開陽丸艦長
目がかなり大きい。彫りも深め。写真では解りにくいが、色は浅黒く背は普通くらいらしい。オランダ留学時代の集合写真に写る榎本は、後列で立っている中では1番背が高く見える。前列には後の開拓奉行・澤太郎左衛門が座っています。手元に史料はないのですが、当時の誰かの手紙に「美男」と評したものがあった気がする。偉そうなおヒゲのせいでイマイチ美男感は薄い。若い頃(オランダ留学時代)のヒゲ無しで髷でキセルを持った写真は、利発そうで可愛い感じ。若い奥さんがいたはず。 もうすぐ彫刻を作るので、ちゃんと調べます。
五稜郭時代の写真をよーく見ると、蝶ネクタイにはドット柄です。この人が人気ないのは、ちょっと見られることを意識してキメすぎているせいなのではないでしょうか。晩年の写真は、勲章をこれでもかという程に胸にぶら下げています。撮られ方も上手いです。自分が目立つ顔した美男だということを十分に自覚していたフシがあります。優秀な人であったことには間違い無かったのでしょう。彼がいなければ、箱館五稜郭政府(蝦夷共和国)はあり得なかったと思います。

◎ ジュール・ブリュネ 31歳 仏国士官隊長・軍事顧問 身長172cm 
「容姿端麗にして性格は温和」。フランスの砲兵学校時代の成績表に「頭脳明晰にして才気煥発、品行方正にして画技に秀でる。騎馬術、砲術にも優れている。前途有望なる士官」なんて記されてしまうくらいの人です。特に絵の上手さはハンパでありません。下手な美大生よりもずっと上手い。趣味や日曜画家のレベルではないです。私見ですが、巧いだけでなく「イイ絵」でもあります。ここがすごい。
正直言って、外国人の顔の美醜の判断は僕は良く解らないのですが、邦訳で「容姿端麗」なんて書かれているのを見ちゃうと「そう言われれば整った顔をしているかも」なんて思ってしまいます。確かに「コートを着てネクタイを絞めて座っているカメラ目線のブリュネ」の写真(個人蔵)は、かなり二枚目です。向こうの小説家とか詩人によくいそうな顔してます。
参考資料:中央公論社刊「函館の幕末・維新 フランス士官ブリュネのスケッチ100枚」(とても良い本ですよ)

◎ 土方歳三 34歳 陸軍奉行並・元新選組副長 身長 伝5尺5寸(167cm)
「役者のようで目はぱっちりとした引き締まった顔」「眉目清秀」「色も白ければ撫肩の少し猫背がかっていたが身長はスラリとした」
説明不要の、すこぶる涼しい目をした洋装の写真を残したイイ男。人気絶大。彼の写真を見て新選組好きになった女性は大勢いるという話。 当時の写真(湿板写真)の傾向として、色白で眉毛や髭の薄めな顔は、細部が飛んでしまうことが多いようです。たぶん実際に会ったら写真よりも目は大きい感じなのかもしれんせんね。

以上、大幹部クラスの方々です。


 脱走軍には美男がいっぱい 其ノ弐

以下、各隊の隊長クラス、士官他です。 * 列士満は「レジマン」と読みます。「連隊」を意味します。

◎ 春日左衛門 24歳 陸軍隊隊長・第三列士満第一大隊隊長・元彰義隊第二黄隊隊長
「容貌美麗にして尤も強気あり」
由緒正しい旗本でそのうえ美男。江戸にいた頃から相当モテたようです。将来を期待される朱子学の秀才でもあったとのこと。
顔良し、家柄良し、剣の腕前良し、頭良し、人望あり、オマケに若い! 
現在、写真も肖像画も残されていませんが、ある意味「旧幕脱走軍最強の色男」かも。ちょっと条件が整いすぎていて、いったいどんな容姿だったのか想像もつきません。安直に考えれば、色白で目は切れ長で面長の、錦絵の役者的な顔だったのではないでしょうか。
箱館まで転戦した幕臣達は、ほとんどの人が写真を撮っていたと思われるので、いつか「春日左衛門では?」という写真が発見される可能性がなくはないと思います。気長に待ちましょう。僕も待っています。田村銀之助や間宮魁のような少年兵の写真まで残っているくらいですからね。 銀之助氏も「養子」になったというなら、写真の1枚くらい隠し持って来ていて欲しいものです。
明治になって三遊亭円朝が『椿説蝦夷訛(ちんせつえぞなまり)』という創作を発表しています。
春日の娘が亡き父の足跡を追って箱館に渡りそして---、な話です。
杉浦日向子先生の漫画『合葬』に彼はカッコ良く登場しています。同じ彰義隊幹部の丸毛靭負も洋装のダンディーとして活躍していますが、実際の彼は当時18歳だったのですね。早熟な人だ。
春日は伊庭八郎と同じく再起不能の重症を負って、降伏前にモルヒネを飲んで自決とされています(諸説あり)。
新選組ファンには、野村利三郎と言い合い(ケンカ)になったことで知られていますね。

◎ 星恂太郎 29歳 額兵隊隊長・第三列士満第二大隊長・元仙台藩士
「身幹短小、白面巨眼一見女子の如き」
小柄で色白、目がとても大きく、一見女性にも見える容姿とのこと。不鮮明な写真が残っています。確かに色白そう。この写真ではあまり目が大きくは見えないが、女性的だったのはよく解ります。箱館戦争では生き残るも明治9年に若くして亡くなる。
額兵隊は赤と黒のリバーシブルな隊服が知られています。

◎ 二関源治 33歳 見国隊隊長
「容貌白皙あたかも婦人の如し」
小柄で色白の美男で、まるで女性のような容姿だったとのこと。
見国隊は戦況が悪化した明治2年4月からの参戦のため、二関は元年には箱館にいない。星と同じ仙台藩士。土方と同日の5月11日大森浜の戦いで重症を負い、翌日に亡くなる。

◎ 伊庭八郎 25歳 遊撃隊第二軍隊長・第一列士満第二大隊長 身長 伝5尺2寸(158cm)
「白皙美好」「温雅な風情で色が白く、眉目秀麗、俳優のような好男子」
江戸では“伊庭の小天狗”として知られていて、慶応4年5月の箱根での左手切断の負傷の後は、錦絵や風聞によって“隻腕の美剣士”として更に名が知れ渡ってしまった、とことんついてないカリスマ侍。 脱走・潜伏する上では勇名さは迷惑この上なかっただろう。横浜の尺振八の私塾に潜り込んでいた話はものすごく好きです。この部分は何度も読み返しました。高梨哲四郎の残した「よく右手で頭を撫でてくれた」話と「温雅な風情で色が白く--」との容姿の印象は、非常に分かり易く八郎の発した雰囲気を表現していると思います。懐手を注意された後「彼は何も言わず、たた静かに微笑んだ」部分もちょっとカッコよすぎます。でもそれが史実なところが八郎の人気の秘密でしょうね。尺、中根、本山、と良い仲間に囲まれて大事にされ、また彼自身もそのことにちゃんと感謝できる男だったのでしょう。
市立函館博物館五稜郭分室にある「伊庭八郎の肖像画」は、頭部のデッサンの狂い方と「まるではめたような顔」がモンタージュ画のズレ方と似ているので、たぶん本人を直接見て描いたのではなく、親族の誰かや伝聞、奥詰銃隊当時の写真を参考に制作したのではないでしょうか。ただ脱走後はともかく奥詰時代の髷は肖像画の通り“講武所風”だったのでは。
「極く優しい美男子で背も高いほうではありませぬでした」と新選組最年少隊士・田村銀之助も高梨と同じような八郎の容貌の印象を伝えていることから、「温雅な風情の美男」というのは間違いないのでしょう。

◎ 林忠崇 21歳 遊撃隊第二、三、四軍隊長・元請西藩主 身長 伝5尺8寸(176cm)
色白面長、いわゆる「殿様顔」の美男子で本当に殿様。当時としてはかなりの長身。
仙台で降伏のため、五稜郭には入城していない。もし共和国政府に参加していれば、幹部であったことでしょう。昭和16年まで存命だったため「最後の殿様」としても知られています。
東京の国立公文書館には、当時の官軍(新政府)側の林忠崇に関する記録が「東北征討」「小田原征討」の欄にけっこうあります。

◎ 天野新太郎 20歳 衝鋒隊副隊長格・第四列士満第二大隊長
脱走軍の隊長クラスでは最年少と思われる。駐屯地の鷲ノ木で村娘達の心を騒がせた美丈夫と伝わる。明治2年4月29日、矢不来防衛の戦いで戦死。指揮官である天野を失った衝鋒隊は総崩れとなったという。

◎ 小笠原胖之助(三好胖) 17歳 函館編成新選組指図役
「背高く眉目秀麗の美男子」
唐津小笠原十代藩主長泰の末子で小笠原壱岐守長行の義弟。新選組隊士としては異例の出自。仙台で加入。
美男というよりもまだ美少年の年齢ですね。数えで17なので現在の15、6歳。
明治元年10月、五稜郭入城前の七重村の戦いで戦死。高い身分もあって初め後方で指揮をしていたが、単身、敵陣深く切り込み撃たれた。 中島登の『戦友絵姿』にも描かれる。

◎ 山野八十八 25歳くらい 新選組隊士
本当にあったかどうかはわからないが「新選組美男五人集」の1人(たぶん壬生の若い女性や子供達が井戸端などでそんな噂話をしていたのが八木為三郎少年の耳に入っていたのではないだろうか)。箱館まで転戦した中では数少ない文久3年からの古参隊士。壬生寺近くの茶屋の娘といい仲になって娘も生まれたという話が残っています。老後はその娘に世話になったというので、たぶん実話なのでしょう。加賀大聖寺出身。

◎ 山脇隼太郎(正勝、大河内太郎) 20歳 桑名藩士・箱館新選組四分隊所属
伊勢桑名藩主・松平定敬の御小姓。明治2年4月、新政府軍上陸の直前に箱館入りし、新選組に参加。
20歳前後に撮影されたと思われる写真は大変に端正な顔をした美男。 降伏・謹慎の後に渡米。帰国後は実業家となる。
同じく桑名藩士で新選組と御陵衛士の「油小路の決闘」の目撃者として知られる小山正武は友人であり義理の兄弟の間柄(隼太郎の妻は正武の妹で、隼太郎の妹が正武の妻という2重の結び付き)。
 参考:『新選組サイドストーリー』(バーバラ寺岡著 オフィスクムビア刊)
(山脇隼太郎や小山正武に関して調べている方は必読です。料理に関する事も紹介されていて得した気分に。今後入手困難の可能性がありますのでお早めに。私は渋谷のNHK出版さんの下の本屋さんで購入しました。)

◎ 上原仙之助

◎ 毛利秀吉 19歳 彰義隊士

◎ 斎藤辰吉 27歳 箱館政府隊外士官・会計局役人?
明治19年、やまと新聞に連載された『廓雀小稲の出来秋』に登場、そこでは美男と書かれている。
「年頃は二十歳ばかり色は少し浅黒いけれど目元涼しく鼻筋通り柔和の様で何処やら気高くすっきりとした好い男が…」
父は幕府の代官・斎藤嘉兵衛で父の死後は親戚の澤勘七郎(外国奉行?)になっていたというので、幕臣の中でもエリートだったようです。本人は講武所砲術世話心得を勤めていたとのこと。
伊庭八郎、中根淑、本山小太郎らと同じく美加保丸の座礁に遭遇。その時に中根が文を作り伊庭が筆をとった上陸先の藩(遭難時点では不明)への手紙を泳いで届けた。
後に母方の姓を唱え中野梧一と名を改めて、初代山口県令となる。

以下、続きを作成中


 脱走軍には美男がいっぱい 番外

◆ 上の画像:和田幸之進(間宮魁)箱館脱走中 16もしくは17歳
(新シリーズ〔敗走ふろんてあ〕より 作品『和田幸之進 16歳 脱走中・遊撃隊5人の士官の胸像』の部分)

*** 番外 ***

◎ 松平太郎  30歳 年齢諸説あり 海軍副総裁・元幕府陸軍奉行並
今のところ僕はこの人のことを「美男」と伝えた史料を見ることが出来ないのですが、明治初期の箱館戦争を伝えた錦絵には、彼がやたらに良いポジションにデーンといます。いわば主役。
『箱館大戦争之図』では、ど真ん中ででっかく馬に跨がり、官軍兵をたたっ斬っちゃってます。ちなみに土方歳三は「土方歳蔵」名で馬には乗らずに徒歩で松平の前、榎本軍の先頭でやっぱり官軍兵をジャキーン。切り込み隊長っぽい感じです。でも下っ端な感じでもある。小さいし。「榎本釜二郎」と「大鳥圭介」は後ろで指揮しています。やっぱり松平に比べると小さい。そして『戊申五月東軍之将於五稜郭酒宴之図』(降伏直前の最後の酒宴を描いたもの)では、やっぱり真ん中で、しかもセンスを持って舞っちゃってます。唯一、唇も赤く塗られて明らかに「美男」として書かれています。この絵で名前が表記された上で描かれているのは、榎本、永井玄蕃、大鳥、相馬主計、スミっこの別席に小さく松岡磐吉と荒井郁之助、以上です。美男に描かれているなと思えるのは、松平と榎本。大鳥は横向きなのでちょっと解りません。相馬主計が真ん中でデーンと座っているのは意外でした。相馬が錦絵に描かれるほどだなんて、当時江戸の絵師レベルにまで新選組が転戦を重ね、箱館で戦っていたことが知られていたことに他ならないと思います。そして土方がすでに亡く、相馬が最後に隊長になっていることまでが伝えられていたであろうことに驚きです。相馬は変な顔してます。可哀相。 おっと、ここは松平太郎のことを書かなきゃ。
何枚か残された写真を見る限り、彫りは深めで鼻筋の通った上品な顔をしていますね。美男と言われてもおかしくないと思います。細谷安太郎や仏人士官達と撮った有名な写真では、ブリュネと見詰めあってますね。仲が良かったのかな(このメンバーでの同日の写真は2回撮られていて若干姿勢が異なるものも見つかっています)。写真を見る限りでは大柄な感じはしません。小柄もしくは中背ではないかと。膝までのはずのブーツが膝の上まできてしまっています。悲しい。
錦絵で主役級の扱いになった理由を考えると、まず名字が松平姓で名が太郎とシンプルだったこともあると思います。現在のように写真が雑誌などを通して一般の目に触れる機会がない当時は、絵師達が頼るのは伝聞・風聞、想像力です。実在の人物を描くとき、名前や年齢、役職(ポジション)などで勝手にイメージが膨らむこともあると思います。沖田総司が初めて主役で映画化された昭和4年以降、美男子ばかりが演じたのは、まさにその3つの要素が備わっていたからなのでしょう。そしてもうひとつは、伊庭八郎のように実際に「美男」だと伝わっていたという可能性です。伊庭と同じく、元々江戸に居た人(幕府陸軍奉行並)ですし、もし本当に美男ならそういう噂が流れていた可能性もあると思います。
*『戊申五月東軍之将於五稜郭酒宴之図』は、いくつかの研究本に掲載されていますが、「歴史誕生」13巻 角川書店刊 の「蝦夷共和国の夢」148-149Pに見開きですごくでっかく載っています。
「函館の幕末・維新 フランス士官ブリュネのスケッチ100枚」中央公論社刊 にも横長の錦絵が4枚ほど載っています。この本に掲載の『函館五稜廓奮戦之図』(この絵は絵師のサインもあり、非常に細密で上手なもの)の松平らしき人物も、葵の御紋入りの陣笠をかぶっていて馬に跨がり大きく美男に書かれています。

◎ 大鳥圭介 36歳 陸軍奉行
この人も「美男」と伝えた史料を見つけていない。彼は榎本と同じく写真がかなり残っている。明治以降の写真は、ヒゲを多く生やしているしかなり髪が薄いので、美男子なイメージは全くないが、まだ着物で髷で月代を広く剃っていた頃の写真(不鮮明)は、頭の良さそうな二枚目顔だ。この人はとにかくオデコが張っていて髪の毛が少ないので、断髪の時代が来て損をしてしまった人ではないのだろうか。適塾出身でかなりの西洋通だったらしいから、優秀な人なのには間違いないでしょうが。『燃えよ剣』では「ヤナ奴」です。『陽だまりの樹』では、主人公・手塚良庵が適塾で出会う「奇麗な顔して小汚い身なりの少年のような侍」って感じで描かれています。頭ボリボリ掻いてたな。
晩年の横顔等、沢山写真が残っているので彫刻にはしやすいかも。オデコの張りが解りやすくて良いです。「相馬主計」像は、ちょっとオーバーにデコを張らせすぎてしまいました。反省。一方向しか写真がないと判断材料に乏しく、主観が入りやすくなってしまいます。
あまり知られていない写真情報ですが、北海道のどこかの大学か図書館が「外国留学生と一緒の集団写真に写った大鳥圭介」を所蔵しています。解りしだい掻きます、じゃなかった、書きます。

**** 見つけ直しました。
北海道大学 附属図書館収蔵の写真「(1)留学生の海外派遣」の中です。
明治5年の開拓使海外派遣留学生の監督として、大鳥が一緒に写っています。大鳥と言えば「奇人」エピソードがいくつか伝わっていますが、それを感じさせるとてもフテブテしいポーズと表情をしています。緊張した面持ちの学生達と対称的で面白いです。

許可を取っていないため、直接リンクは出来ないので、北海道大学附属図書館HPから調べるか、「大鳥圭介 留学生」で検索をかけてみてください。たぶん研究本などにもあまり載らない写真だと思います。


◎ 澤太郎左衛門 35歳 年齢諸説あり 開拓奉行
「容貌温雅、天質総敏記憶人にたつ」
榎本のオランダ留学仲間。写真もいくつか残っていて、美男というわけではないかもしれないが確かに優しそうな顔をしている。髭は薄そう。榎本と同じく西洋通で博学だったが、赦免後は対称的に表舞台には立たず静かに暮らしたらしい。

◎ 人見勝太郎 26歳 松前奉行・遊撃隊第一軍隊長
榎本に負けず劣らずのオシャレさんだと思います。京都出身。写真を見るかぎり育ちのよさそうなけっこうイイ男に見えますが、彼のことを「美男」と伝えた史料を知りません。
「右から2番目は人見では?」と言われている脱走軍の5人の士官が一緒に写っている写真(市立函館図書館蔵)の青年は、似ていますがちょっと違っても見えます。僕はこれも人見であって欲しいと思いますけど。その方がこの写真の他の4人を特定する手掛かりになるからです。
「生き残る」という意味では、かなり運が良い人です。血気盛んで勢い余った行動にでてフォローする周りを困らせてしまう青年なのに、ギリギリの所で命だけは助かってしまうのです。 周りの人は大変だったかも?
後に茨城県令となり、利根運河建設などで名を残します。

◎ 和田幸之進 16歳 遊撃隊士
『箱館脱走人名』を記した事で知られる。後に間宮魁と名を改める。元年10月の七重村の戦いでは負傷(新選組の差図役・三好胖17歳はこの戦いで戦死)。
脱走中に撮影された写真は、前歯を少し見せた10代の少年らしい笑みで、首元のループタイ(リボン?)はチョウチョ結びのおしゃれさん。 ブリュネやカズヌーヴから「ギャルソン」なんて呼ばれてそう。
髷の先がバラけている所もなかなか。

以下、続きを作成中。


 付録:あまり知られていない“ 伊庭八郎 ”情報

◆ 上の画像:映画『伊庭八郎』(昭和8年 日活・富士館)のスチール写真より ノートへのメモ

◎ 1939年の伊庭八郎

戦前から戦後にかけて『講談倶楽部』という大衆雑誌がありました。そこでも伊庭八郎が活躍する話が掲載されていたようです。
昭和14年 『念流門弟帳』 作・新堀鹿人 画・小田富弥
「念流門弟」って、ここでは馬庭念流とかの門人なのかな。八郎さん。心形刀流じゃないのか。 詳しいことは解らないけど、内容書きます。

 - 愛するおみつが人質となった 片手斬りの名手伊庭八郎は 危険をかえりみず敵の巣窟へ -

いやーカッコイイ。絵もモロに美男に描かれています。で、“おみつ”って誰よ。総司の姉ちゃんか? 錦絵「伊場七郎」と違って、ちゃんと左手の方が無くなっています。
新堀鹿人という人は、検索をかけても全くでてきません。小田富弥さんは、この頃の雑誌にかなり描かれていた方のようで、古書店の目録などに名前が出ています。

参考:昭和56年10月5日発行 アサヒグラフ臨時増刊 時代劇 侠と狂の世界


◎ 唯一の主役の映画!『伊庭八郎』情報  - 其ノ壱 -

1933年(昭和8年)に日活製作で『伊庭八郎』というタイトルの映画があります。無声です。原作は子母沢寛(!)。
主役・八郎を演じられたのは、大ヒットした嵐寛寿郎さん主演の「鞍馬天狗」で近藤勇を演じられていたこともある山本礼三郎という方です。養父軍兵衛の娘役に大女優の山田五十鈴さん。キャストを見る限り、史実に近い内容のようです。榎本武揚や小稲、中根淑まであります。うーん、見てみたい。さすが箱館まで転戦した彰義隊士を祖父に持つ、子母沢氏の原作。

『伊庭八郎』
製作=日活(太奏撮影所)
1933年 3月8日 封切り 富士館
白黒 無声

監督  荒井良平
脚色・脚本?  山上伊太郎
原作・脚本?  子母沢寛
撮影  谷本精史
 
配役    
伊庭八郎 - 山本礼三郎
養父軍兵衛 - 磯川勝彦
その娘 禮子(礼子) - 山田五十鈴
中根淑 - 光岡竜三郎
来山二郎 - 沢村国太郎
植木屋鎌吉 - 田村邦男
その女房 - 西畑ケイ子
榎本武揚 - 鳥羽陽之助
大鳥圭介 - 
林昌之助 - 賀川清
人見勝太郎 - 山口佐喜雄
来山二郎 - 澤村國太郎
八郎の弟 武司 - 永井寛二郎
八郎の弟 時康 - 久世一郎
不思議な商人 - 高勢實乗
遊女小稲 - 成宮欣子

*** 以上「日本映画データベース」(http://www.jmdb.ne.jp/)と「キネマ旬報」(昭和8年発行号)のデータを参考にさせていただきました。脚本と人見らの配役は確認しだい更新します。
→ 調べて直してきました。 新たに八郎の弟達や鎌吉の奥さん、それに「不思議な商人」!も。不思議な商人、ってこういう所が昔だなぁ、と感じちゃいますね。 大鳥の配役は写し忘れてきました。2004.06.23

「隻腕の美剣士 伊庭八郎」は、明治初年から戦前まで、錦絵や講談の中、そして人々の噂話と、民間伝承的に知られていたのかもしれません。でも戦後の映画黄金期に伊庭八郎が主役の映画はあまり聞きません。「隻腕」がシンボリックで有名になったけど、戦後以降は逆にそれが生々しすぎて、世間ではあまり知られなくなっていったのかも。映画では『狼よ落日を斬れ』くらいでしょうか。ちなみに僕のファースト映像八郎は、中学の時にみた『五稜郭』の館ひろしさんが演じていたものでした。あぶない刑事みたいな片手の人、と感じていたと思います。


◎ 唯一の主役の映画!『伊庭八郎』情報  - 其ノ弐 -

『エノケンの近藤勇』を見た帰りに東京国立近代美術館フィルムセンターで、古い『キネマ旬報』から情報を掘り出してきました。
新たに林昌之助や人見勝太郎にも配役があり(上記配役一覧にて追加済み)、ちゃんと登場していることを知りました。あと内容ですが、かなりラブストーリー色が強いようです。箱根で負傷した八郎を義妹で婚約者の禮子(礼子)が訪ねてくるシーンもあります。
その辺りの解説

「馴染みの遊女(*注・小稲のことと思われる)がいる八郎は、純真なる處女(処女)と結びつく事が罪悪であると考えて禮子には一層近づかなかった。」

やっぱりストイッークな男として描かれているみたいですね。
確認出来たスチール写真は「総髪を束ねた髷(ポニーテール)に洋装の軍服でその上に陣羽織を着た八郎とすがるようなポーズの禮子」と「月代を広く剃った髷で左手を負傷している八郎と後ろでいたわる禮子」の2種です。上の汚い青い線の落書きは、前者を急ぎで模写したものです。五十鈴さんの顔とカツラが妙にデカかった。主演の山本氏は彫りが深くて目がギョロっとしてます。色白そうです。

公開後の批評には、山本礼三郎氏の日活に於ける初主演作であることと、彼が八郎の人間的鋭さ、甘さをよく伝えていることを記しています。
作品の出来そのもの批評としては、「ラストの伊庭八郎最後の横移動は圧巻の出来」とも書かれています。

以下、続きを作成中。


 サイト内 関連リンク

 『脱走人役人荒増覺』
東京・竹橋の国立公文書館所蔵の明治二年、五稜郭旧幕府脱走軍降伏後の明治政府側の記録です。総勢118名。 テキスト化するにあたって、出来るだけ原書のままの漢字を用いました。字間にもこだわってます。
「脱走軍の美男」の方々のお名前もだいたい記載されています。ただしこの名簿はあまり正確ではありません。 土方歳三の役職が「海軍奉行」だったりします。御注意ください。
 稲本楼・四代目左近小稲について
明治初期の洋画の先駆者・高橋由一(『鮭』を描いた人です)の『美人〔花魁〕』もしくは『花魁図』と呼ばれる作品のモデルになった、新吉原稲本楼の四代目左近小稲の事に関しての掲示板の記事をまとめたものです。総集編。
彼女は伊庭八郎や斎藤辰吉の脱走の手助けもしたと伝わっています。
 [花魁 小稲]・『小稲A伝説』
上記の小稲を研究するための専門サイトです。
『小稲A伝説』は作品を通してのシリーズタイトル。


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