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十玄縁起無礙法門義

<1> 十玄門の喩説
─異体門・同体門における相即・相入と数銭の法─




   <目次>

   はじめに
   1.異体門
     1-1.相入(向上数・向下数)
     1-2.相即(向上去・向下来)

   2.同体門
     2-1.相入(一中多・多中一)
     2-2.相即(一即多・多即一)


 
 はじめに 

 そもそも究竟果証であるところの十仏の自境界は、一即一切・一切即一、重重無盡であり、円融自在なその相状は説き示すことができない。そのため華厳学では『十地経論』における第十地の取意として屡々「因分可説果分不可説」という句が引かれる。果分とはいうまでもなく究極的真理の世界、すなわち十仏の自境界のことで、相対を絶した絶待の世界である。因分とは、これに対応する普賢の境界で、相対的な立場から縁起を示すものである。

 十玄縁起無礙法門義では、因分として諸法の在り方が10の方向から開示される。これは華厳教学特有の法門である。これを理解する前提として、異体門と同体門という二つの領域が示され、さらに、それら各々に相即と相入の二義を観察することによって、事法と事法とが無盡に縁起相由し、また該羅融摂し合う相状が開顕される。また、これを理解するために、10箇の銭(10は完全、または無限を意味する数)を用いて、互いの関係を観想する方法が示されている。これを「数銭の法」、または「数銭の喩」という。

因分は可説、果分は不可説なり。故にいま因分について、現在せし十銭を数うる法を以て示さん。





 異体門と同体門の総説


縁起している諸法について自他相望すれば、同体と異体という二つの考え方が可能となる。すなわち、ある一つのものを中心として考えるとき「同体」という見方が成り立ち、他のあらゆるものとの依存関係で現象世界を見るとき「異体」の見方が生まれる。
 
 1.異体門 (相由の義による)
 
一切のものが互いに相依(相由)して、縁起の世界を成立していると考えるとき、それら一切のものは「異体」の関係にある。
 
  ・自の外に他の存在を認める。  
  ・他の独立的資格を認める。
  ・諸縁相望する。
  ・諸法は自他各別であるとする。
  ・縁起因門六義法の「待縁」の義に相当する。
  ・因縁相資。
 
 2.同体門(不相由の義による)
一つのものが独立(不相由)し、他の一切のものを中に包摂することで縁起の世界が成立すると考えるとき、この一つのものと他のものとは「同体」である。
  ・自の外の他はすべて空とする。
  ・他の独立的資格を認めない。
  ・他は悉く自の徳であるとする。
  ・縁起因門六義法の「不待縁」の義に相当する。
  ・因縁全奪して縁は因中の具徳となる。
○鏡像の喩(澄観『演義鈔』玄談)
一切諸法は本来すべてに応じる徳(属性・性質)を具えている。故に1には2ないし10を成立させる徳がある。その2ないし10を成立させる1の徳と、1の自体とは同体である。喩えば、鏡に万象を映現する徳があり、その徳と鏡そのものとは同体であるようなものである。すなわち、この鏡においては、鏡の徳が即ち鏡面の影像にほかならないから、鏡面の影像と鏡体とは同体だという。

同体・異体の各門に「相入」と「相即」の二門がある。
「相即」とは諸法の体について空・有の相関性を云い、「相入」とはその力用の有・無の相関性を云う。縁起する諸法には、すべて空・有と有力・無力の二義があるからである。
空・有とは、諸法の自体についていう。縁起の法は無自性なるが故に空であり、縁起現前なるが故に有である。
有力・無力とは、その力用の有無についていう。体の空有によって諸法は互いに相即し、力用の有無によって諸法は互いに相入する。

・異体門:
・同体門:

十箇の数について自他互いに相望して上で相即と相入の相を観る。
自己の本来具足する所の十箇の数について相即と相入の相を観る。

 


  1.異体門 

1-1.異体門における相入 
 
  a.向上数

向上数に十門あり。

第一門 = 1を本数として余の九を末数とし、1の中に余の九を摂める。
     1中の2、1中の3、1中の4、……1中の10と観る。

第二門 = 2を本数として余の九を末数とし、2の中に余の九を摂める。
     2中の3、2中の4、……2中の10、2中の1と観る。

以下同様に2、3、4……と順次上り、第十門では10を本数として余の九の末数を摂める。
 (本数を「大の十門」といい、1中の2などを「小の十門」という。)
 
 最初の第一門の中の「小の十門」中の第一は“1”(この“1”は本数)。
 たとえば1中の10について観てみよう。1と10とは縁起相由であり、1が無ければ2乃至10は成立しない。したがって、1に全力が有るから2乃至10は無力となり、1に2乃至10を摂することができるのである。第二門以下も同様にる。

 
  b.向下数

向下数に十門あり。(向上数の逆観)
第一門 = 10を本数として余の九を末数とし、10の中に余の九を摂める。
     10中の9、10中の8、10中の7……10中の1と観る。

第二門 = 9を本数として余の九を末数とし、9の中に余の九を摂める。
     9中の8、9中の7……9中の1、9中の10と観る。

以下同様に、8、7、6と順次下り、第十門では1を本数として、余の九の末数を摂める。
 

 最初の第一門の中の「小の十門」中の第十は10中の1。“10”は本数。
 第一門の中の「小の十門」中の第十は10中の1であるが、1と1とは縁起相由である。10が無ければ1乃至9は成立しない。つまり10に全力が有るから1乃至9は無力となって10に帰入し、10に1乃至9を摂することができるのである。第二門以下も同様に考える。

大の十門  1 2  3  4  5  6  7  8  9  10 




小の十門




 
1
1中2
1中3
1中4
1中5
1中6
1中7
1中8
1中9
1中10
2
2中3
2中4
2中5
2中6
2中7
2中8
2中9
2中10
2中1
3
3中4
3中5
3中6
3中7
3中8
3中9
3中10
3中1
3中2
4
4中5
4中6
4中7
4中8
4中9
4中10
4中1
4中2
4中3
5
5中6
5中7
5中8
5中9
5中10
5中1
5中2
5中3
5中4
6
6中7
6中8
6中9
6中10
6中1
6中2
6中3
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6中5
7
7中8
7中9
7中10
7中1
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7中3
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8
8中9
8中10
8中1
8中2
8中3
8中4
8中5
8中6
8中7
9
9中10
9中1
9中2
9中3
9中4
9中5
9中6
9中7
9中8
10
10中1
10中2
10中3
10中4
10中5
10中6
10中7
10中8
10中9
  本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末

 もし、10を摂さない1、乃至、1を摂さない10と言えば、それは孤然たる自性の1ないし10となって、縁起所成ではなくなる。縁起無性であるから、1の中に10あり、10の中に1ありという。2以下も同じ。一縁を欠けば一切も成立しない。縁起所成だから一切中に1を、1中に一切を摂めると観る。故に1の中に多を具するを「縁起の1」と名づける。
 なお、混同してはならないのは、これは力用の相依について述べる相入門であって、体の相即を述べる相即門ではないから、1と10とは別ものであって、10は1でなく、1は10でない。1中の10であっても、10は10であって、10が1となったわけではない。1は1の資格を守り、10は10の資格を守っていて、宛然と差別して存している。その他も同様である。
 
 

異体門の相入 Q&A (問答決択)
 

縁起相由に約して相入の義を説く
Q1.  1と言えば1であって10ではないのではないか。どうして1中に10が摂すことができるのか? 
A1.  縁起だから1中に多を具す。もし、一が無ければ一切も成立しないから、一法起これば必ずそこに一切が摂まる。故に一に一切を具足して、1の中の10であることがしられる。それでは、何故に一に一切を摂するかといえば、ここに謂ゆる一とは孤然たる自性の一ではなく、縁起によって成通するものであるから、一と称されるのである。故に、1の中に10が有るとは、縁起所成の一をいうのであって、縁起所成の一であるからこそ、この中に一切を摂し、1中10ということができる。もし、1の中に10を摂めないと言えば、その1は孤然な自性の1であって、縁起所成のものではないこととなる。故に、これは縁起の1と称することはできない。10といっても自然生の孤然なる10ではなく、縁起所成の10である。この故に10の中に1ありとは、縁起無性の10であって、縁起の故に10の中に1を摂するのである。もし、10の中に1を摂さないといえば、その10は孤然な自性の1であって、縁起所成のものでないから、縁起の10と称することはできない。したがって、一切の縁起は皆な自性のあるものではない。何故なら、一縁を欠けば一切も成じないからである。よって一の中に多を具するものを縁起の一と名づけるのである。

無性であるから縁成である
Q2. 縁起の法は、無性であっては成立しないのではないか?
A2. 無性だからこそ一多の縁起を成立する。なぜなら、無性は法界家の実徳だからであり、普賢の境界だからである。法界の実徳とは、無性は事法における本来常恒の真実功コ相であって、事法に定性がないという意味は、新成でもなければ改転でもなく、まったく性起の法門である。これが所証の法である。これに対して普賢の境界とは、能証の智である。すなわち、無性縁起に了達する普賢の智見であって、この智見で善観することを得る法界は、具徳自在無障礙のもので無自性だからである。

非を離れる立場から説
Q3. 大の第一門の中に10を摂し尽くすのかどうか?
A3.  あるいは尽くし、あるいは尽くさない。なぜなら、1中の10だから1は10を尽くし、10中の1であるから1は10を尽くさない。1中の10では、1が能収で10が所収であり、能収は所収を尽くすから1は10を尽くす。逆に、10中の1では、1が所収で10が能収であり、所収は能収を尽くさないから1は10を尽くさない。第二門、第三門などの余門においても準じて知るべし。 
 

 
1-2.異体門における相即 
 
  a.向上去
   向上去に十門あり。
前に相入の向上数を論じたのと同様、第一門では、1を本数として、余の九を末数として望む。1即2、1即3、1即4……1即10。第二門では、2を本数として、2即3、2即4……2即10。2即1、以下同様に順次上り、10即1……9となる。
 
  b.向下来
  向下来に十門あり。(向上去の逆観)
 
(イ)他が自に即す
自の一縁が縁起現前し、その体が有であると見れば、他の多縁は無であるから、他は自に即す。なぜなら、他が無自性だからこそ自が縁起することができるからである。

(ロ)自が他に即す
自の一縁が無自性空であるときは、他は必ず縁起現前し、その体が有であるから、自は他に即す。なぜなら、自が無自性だからこそ他が縁起することができるからである。

(ハ)反顕前理
自の体が有であると同時に他の体も有であったり、自の体が空であると同時に他も空であるというようなことはありえない。もし、自他ともに有であれば、必ず障礙して有は成立しない。また、自他ともに空であれば事相断滅する。したがって、縁起法は必ず空有相対し、自と他とは互いに相即する。諸法は縁起現前だからこそ無自性であり、無自性だからこそ縁起現前するのである。縁起現前なる有が無自性なる空であり、無自性なる空が縁起現前なる有である。ともに縁起の一法であって、無二であるから、互いに相即するのである。

(ニ)反質成非
もし、有は永遠に有であり、空は永遠に空であるとすれば、有には自性があることになり、空は断滅の空となるから、縁起の理論は成立せず、さらに断常二見の過に陥ることになる。

大の十門 1  2  3  4  5  6  7  8 9  10 




小の十門




 
1
1即2
1即3
1即4
1即5
1即6
1即7
1即8
1即9
1即10
2
2即3
2即4
2即5
2即6
2即7
2即8
2即9
2即10
2即1
3
3即4
3即5
3即6
3即7
3即8
3即9
3即10
3即1
3即2
4
4即5
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4即7
4即8
4即9
4即10
4即1
4即2
4即3
5
5即6
5即7
5即8
5即9
5即10
5即1
5即2
5即3
5即4
6
6即7
6即8
6即9
6即10
6即1
6即2
6即3
6即4
6即5
7
7即8
7即9
7即10
7即1
7即2
7即3
7即4
7即5
7即6
8
8即9
8即10
8即1
8即2
8即3
8即4
8即5
8即6
8即7
9
9即10
9即1
9即2
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9即7
9即8
10
10即1
10即2
10即3
10即4
10即5
10即6
10即7
10即8
10即9
  本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末 本 末

 1が10に即した1でなければ、その1はあくまでも1である。このような1をいくつ集めても、1が数多く存するのみで10とはならない。しかも、その1は一々自性を有すこととなり常見の過を生じる。いま既に10を成じることを得たから、1が10に即することは明らかである。
 
 また逆に、10が成立しなければ、縁起の1もまた成立しない。何故なら、元来1は10のための1だからである。もし、10が無いとすれば、1と称することもできないはずである。いま既に1を成じることを得たから、10が1に即することは明らかである。
 
 また、1と10とが互いに相即し会わないとすれば、縁起法の中において空有の二義も無いことになる。空有の二義がなければ、断常二見の過を生じる。2乃至9を本数とする余門も、これに準じて知るべし。
 

異体門の相即 Q&A (問答決択)
 

1と10とが相即しないときは、10も1も倶に成立せず、断常二過を生じる。
Q1. もし、1が10に即さないというなら、どのような間違った見方であるか?
A1. 1即10でなければ、2つの間違った見方を生じる。

@十銭を成立しない過失:
1が10に即した1でなければ、その1はあくまでも1である。このような1をいくつ集めても、1が数多く存するのみで10とはならない。しかも、その1は一々自性を有すこととなり常見の過を生じる。いま既に10を成じることを得たから、1が10に即することは明らかである。

A1が10を成立させない過失:
10が成立しなければ、縁起の1もまた成立しない。何故なら、元来1は10のための1だからである。もし、10が無いとすれば、誰の為の1であろうか。いま既に1を成じることを得たから、10が1に即することは明らかである。また、1と10とが互いに相即し会わないとすれば、縁起法の中において空有の二義も無いことになる。空有の二義がなければ、断常二見の過を生じる。2乃至9を本数とする余門も、これに準じて知るべし。

1も10もともに縁成無性の法であるから、1即10であってこそ1と名づけられ、10即1であってこそ10と名づけられる。
Q2. もし、10即1で、10のままが1というなら、その10は10ではなくて1ではないか?
A2. 1即10だから1ということができる。なぜなら、この1は迷情(遍計)の1ではなく、縁起所成の無自性なる1である。故に、1のままが10であり、だからこそ1というのだ。もし、そうでなければ、1とは名づけない。10即1の場合も、これと同様である。

一多は縁起の法であるから、常に同時であり、しかも次第し、次第のまま同時である。
Q3. 一と多との相関関係は、一時倶円か前後不同か?
A3. 一と多との相関は縁起の法である。したがって、同時でありつつ前後次第があり、前後次第がありつつ同時である。何故なら、法性の縁起には、向下来と向下去の二義があるから前後不同であると言えるが、それと共に1即10、10即1であって同体だから、同時であると言える。つまり、徳用自在であって障礙するところがないのである。たとえば、印刷された文章が、同時であって、しかも文字に前後の不同があるようなものである。

法に約して去来の相を明かす。
Q4. 法体の立場から観れば、向上去と向下来の相状は如何であるか?
A4. 一多の自位を動ぜずして、しかも常に去来する。もし、無性の義より言えば、去も来も無性であるから、去来は即ち不動である。たとえば、波は空であるから波即水というようなもの。また、一即一切一切即一の義より言えば、一も全法界、多も全法界であるから、一即多といっても一より多に去ることなく、多即一といっても多より一に来ることはない。故に、去来不動同一物である。去来の義を説くのは智を生じて理を顕わそうとする為であり、もし、分別智を廃すれば、一切不可説である。これは果分の法となる。

始覚が本覚に冥合して始本不二となるから、かりに始覚の智によるとしても、本来的に去来があると言える。
Q5. もし、智によって去来があると言うならば、それは本有ではない。どうして、旧来かくの如く去来ありと言うのか?
A5. もし、智を廃すれば一切不可説であるから、縁起を論じることができない。ただ智の立場に立つからこそ、本来かくの如く去来ありと言うのである。何故なら、始覚の智が起こらなければそれまでであるが、ひとたび始覚の智が成ずれば、本覚の法に同じるのであるから、始覚本覚の区別を離れるのであり、始覚の智が即ち本覚の法であるから、智に約するも旧来かくの如しという。『円覚経』に「衆生本来成仏、生死涅槃は猶お昨夢の如し」というのはこの意。

旧来成は智によるのか、法によるのかと問うことで、法智双融の義を明かす。
Q6. それでは、旧来かくの如く去来ありとするのは、智によるものか、法によるものか?
A6. 智によるものでもあり、法によるものでもある。なぜなら同時に具足するからである。すなわち、一多の法は、智によるのであり、法として如是だからである。縁起の法は、法に約するも
本有であり、智に約するも本有である。
 


  2.同体門 

2-1.同体門における相入 
 
  a.向上門(一中多)
 初一に余の九を具して、1と余の九との相入を成ずることをいう。2以下10を本数とする場合も同様、一々に余の九を具して、しかも互いに相入する。
 1を本数とすれば、1は縁起所成の1であるから十箇の1を具足する。なぜなら、この1の自体は1であると共に、2を成立させる実徳を具えた1であり、3を成立させる実徳を具えた1であり、……10を成立させる実徳を具えた1だからである。
 数銭の喩を用いると、任意の1銭を能応とすれば、余の九箇の銭は所応となり、能応の1銭は余の九箇の銭に応ずる徳を具している。九箇の銭に応ずる徳を有しているのだから、すなわち九箇の能応の徳を具していると言える。これと自体の1銭とで、合計十箇の1を1銭が具足している。鏡の万象を映し出すという徳と、鏡の自体とが同体であるように、1の自体と2や3などを成立させる徳とは同体である。しかも、1が有ることによって能応の徳が有るのであり、1が無ければ能応の徳も無いのだから、1に全力が有れば余は悉く無力となって1の中に入り、1中2……1中10となって、ここに同体門の相入の義が成立する。
 1の中の10と言っても、1の中に10となる徳が入り込んでいることを言うのであって、1と相即すると言うのではない(これは相即門)。力用の有無について相入を説くのであるから、1は1であって10ではない。
 
  b.向下門(多中一)
 向上門の逆観。すなわち10を本数として、この10に9を成立させる実徳、ないし1を成立させる実徳が具わっており、10中9、10中8……10中1と次第して観察する。能入の1は十を成立させるための1であるから、初の能入の1は十の中にある1であり、十の中の1、すなわち十を成立させる1を離れて初の能入の1は無いのだから、この1は十の中の1である。10を有力とするから1は無力となって10に摂せらるるのである。
 初の1は十の中の1であって、余の九と相対する1ではない点が異体門の相入と異なる点である。また、本数(たとえば10)の中に1を摂するのであって、能摂の10が即ち所摂の1であるとすれば、これは相即の義となる。
 このように、さらに本数を順次9、8、7……1と繰り下げて観察する。
 
 
 ○同体門の相入と異体門の相入との違い。
 異体門の相入では、初の1を余の九に望んで、1と余の九とは異体であるとして、その上で自他が互いに相入すると説く。
 同体門の相入では、1の中に本来的に十を具足し、その自己本具の十と1とを相望して相入を説く。このとき、自の外に別に他を認めない。
 この違いは、相即の場合でも同様である。
 
 
2-2.同体門における相即 
 
  a.向上門(一即多)
 まず、1を本数として挙げれば、この1は縁起所成であるから、1即2、1即3、1即4、……1即10となる。この第一大門における1即10 によって総評すれば、10に即する所の1(10と言われる所の1)とは、言い換えれば「10を成立させる1の徳」であり、これが初1に外ならない。故に初1の外に別に10を成立させる1の自体があるわけではない。したがって1と10とは同体である。
また、初1を有体とするとき、10は無体となって1に即するから1即10 である。
このように、さらに本数を順次2、3、4……10と繰り上げて観察する。
 
 
  b.向下門(多即一)
まず、10を本数として挙げれば、この10は縁起所成であるから、10即9、10即8、10即7……10即1となる。この第一大門における10即1によって総評すれば、1に即する所の10(1と言われる所の10)とは、言い換えれば「1を成立させる10の徳」であり、この10の外に別に1を成立させる10の自体があるわけではない。初1は1を成立する10の徳であるから、初1は10であって、10と1とは同体である。
また、10を有体とするとき、1は無体となって10に即するから10即1である。
このように、さらに本数を順次9、8、7……1と繰り下げて観察する。
 
 
 
同体門 Q&A (問答決択) 

1即10について、法は古今常然だが、智の如何に随って、あるいは10を摂し、あるいは無盡を摂することを明かす。
Q1. 同体門の中の1即10とは、ただ10を摂するのみか、それとも無盡を摂するか?
A1. 1即10という道理は、能観の智によって成ずるのであって、もし智が10を取れば10を摂し、無盡を取れば無盡を摂する。つまり、2……10を摂するのと同様で、10を摂するか無盡を摂するか、智の如何によるのである。無盡を摂するとは、第一門の中に既に10があり、この10は相即相入しているから、重重無盡を成立する。この重重無盡は初門の中において摂在する。
なお、ここに言う智とは迷情分別の智ではなく、契理の智をいう。

前の問答でいう無盡とは、自の一門の無盡を摂することでもあり、あるいは 余の一切の無
盡を摂することでもあることを明かす。
Q2. ただ自の一門の中の無盡を摂すのか、それとも、余の一切の無盡を摂するのか?
A2. あるいは余の一切の無盡を倶に摂し、あるいは自の一門の中の無盡を摂する。 自他一切の無盡を摂する理由は、縁起相由だからであり、1が無ければ一切もすべて無だからである。自の一門の無盡が無ければ余の一切の門の無盡も成立しない。故に同体門の第一門に同体異体の二門の無盡を摂するのであって、圓融法界を極めて摂盡せざるものはない。次に、自の同体一門の無盡を摂するとは、自の1が縁起現前するから、自の一門を除いた余の九門は悉く虚空の如く空無であって、自の外の余門を知らないから、自に一切を具足する。故に、その他にさらに摂すべきものがないのである。これは智によって言うのであり、一も相違するところはない。
 

─已上、十玄門の喩示竟─

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