これまでに見てきた無盡縁起の論理的根拠は、客観世界に現れている「モノ」の見方であるが、哲学的・抽象的概念の領域であった。ところが、法蔵は同体門・異体門の相即・相入を説き終わった後、「立義分」として次の十義をあげ、無盡縁起の実際的根拠を示している。これらは客観世界としての「モノ」を表わしているものではなく、宗教的実践主体とのかかわり合いによって生まれた概念。これまで無尽縁起の論理的根拠が説かれてきた際には、極めて抽象的・哲学的な議論であるように見えていたが、実はそれらは、ここで述べられているような宗教的実践の抽象化であったことに気付く。以下、『五教章』に沿って見ていく。
以上の十対の一々に十義が摂まり、またその一々に十玄門が摂まることで、無尽を成ずる。
澄観『玄談』では、これを「所依の体事」としている。体事とは、事事無礙における諸法であり、法界における実体のこと。理事無礙においては自体とは一心真如を指すが、事事無礙においては、一切諸法は悉く実体である。いま、しばらくこれを総括して教義理事等の十対として説明したのが、『五教章』の立義門。これに続く解釈門では、この十義が如何に事事無礙重重無盡たるかを十門に分別して説明する。これが十玄門である。
<諸本所説の十対の対照表>
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一乗十玄門 |
捜玄記 |
五教章 |
文義綱目 |
旨帰・探玄・玄談 |
@教義
A理事
B解行
C因果
D人法
E分斉境位
F法智師弟
G主伴依正
H逆順体用
I随生根欲性
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@教義
A理事
B解行
C因果
D人法
E分斉境位
F師弟法智
G主伴依正
H逆順体用自在
I随生根欲示現
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@教義
A理事
B解行
C因果
D人法
E分斉境位
F師弟法智
G主伴依正
H逆順体用自在
I随生根欲示現
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@人法
A教義
B因果
C理事
D解行
E分齊境位
F師弟法智
G主伴依正
H逆順用
I随生根欲示現
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@教義
A理事
B境智
C行位
D因果
E依正
F体用
G人法
H逆順
I応感
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十玄門対照表(代表的なもののみを対比) |
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<古十玄を説く論疏>
智儼『捜玄記』、智儼説『一乗十玄門』、法蔵『文義綱目』(ただし(5)(6)が逆転)
法蔵『五教章』『金師子章』
<新十玄を説く論疏>
法蔵『探玄記』、澄観『華厳経疏』『演義鈔』『華厳略策』、宗密『円覚経大疏』
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- 十玄門は、同一の縁起の姿の諸斷面。
- 事物、事象、および抽象的概念などの一切の現象的存在がそれ自体として完全であり、自由であり、他の一つ一つの存在と、また世界の全体と限りなく一体的であることを明らかにするもの。
- 各々十義を具足する。十義とは、『探玄記』では、(1)教義、(2)理事、(3)境智、(4)行位、(5)因果、(6)依正、(7)体用、(8)人法、(9)逆順、(10)応感、の十をいう。(『捜玄記』および『五教章』では、(1)教義、(2)理事、(3)解行、(4)因果、(5)人法、(6)分斉境位、(7)師弟法智、(8)主伴依正、(9)逆順体用自在、(10)随生根欲示現、となっている。)
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(1)同時具足相応門
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十玄門の中の総門。これ以外は別門に当たる。したがって、同体・異体・相即・相入の一切に通じる。この点は古説と新説の両方ともに共通する。
本門では「縁起の実徳」としての根源的な海印三昧の力によって、法界を構成する十義が同時に成立することを明らかにする。法界は時間的にも空間的にも無辺である。その間に縁起展開する萬有は個々別々であるが、互いに脈絡貫通している。横に見れば彼此みな相由り相成じており、竪に見れば三際を通じて互いに相由り相成している。そして、同時に具足相応して縁起の至極を構成している。このことを海印定中一時炳現の法として説く。
このように、十義が具足相応するばかりでなく、別の九門中に摂される十義も、みな共に摂まり、しかも相即門に摂まる十義は一々みな相即の十義として摂まり、相入門に摂まる十義は一々みな相入門の十義として摂まり、しかも、これらがみな重重無盡であり、念劫融即し、主伴具足している。さらに同体異体順逆の縁起が巧みに織り込まれ、ここに縁起大陀羅尼の法界縁起の妙用を顕現している。
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(2)広狭自在無礙門
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広狭とは分限ある事法について、その無分限(広)と分限(狭)を言うものである。理法には広狭が無いからである。
本門は古十玄の諸蔵純雑具徳門に相当する(広=雑・多、狭=純・一)。「諸」とは諸法、「蔵」とは摂蔵のこと。諸法の各々が、あるいは能蔵ともなり所蔵ともなることをいう。このなか、能蔵となった場合を「純」といい、所蔵となった場合を「雑」という。したがって、本門は縁起法の純雑無礙の義を示すものであって、直ちに相即相入をいうものではない。教義理事等の十義の中、あるいは純となり、あるいは雑となるが、もし人法の義について人門を以て諸法を取れば、一切の教義理事などのあらゆる諸法もみなこれ人であるから「純」といい、この人門に具さに理事などの一切の差別法を含むから、これを「雑」という。
六波羅蜜の実践という側面から法界縁起の世界を説くと、たとえば布施の場合、一切の法がみな布施と名づけられる面が「純」、この布施の一門にその他の菩薩行がすべて具わっている面が「雑」、純と雑が互いに妨げない点が「具徳」と名づけられる。
菩薩が一行三昧に入って、ただ布施の一行を行ずるという場合、無量無辺の萬行を行じても、萬行即布施の一行である。この布施行は純である。一方、布施の一行において布施・持戒・忍辱などの無量無辺なる余他の雑行が同時に成就する。これは雑である。
古十玄の名称から新十玄の名称に改めた理由について、日本の伝統教学では次のように説明される。すなわち、一行を純とし萬行を雑とする場合は、まったく事事無礙であるが、もし、一理を純とし、万行を雑とする場合は、理事無礙となって、理事に通ずることとなる。日本の伝統教学では、事事無礙に限って華厳教学の最高の境地とするため、このように説明されるのである。
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(3)一多相容不同門
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縁起法における力用(縁起そのものの作用)の有無からみて、無盡縁起を説くもの。すなわち、法界の万有が相入するという点に主眼をおく。一は多に入り、多は一に入って無礙自在であると共に、しかもその本体に前後がなく、それぞれ自己の本分に住してその相を失わなず、一多が混乱することがないことを明かす。
一と多とが互いに摂めあい、一の中に多が入り、多の中に一が入って相容無礙であり、しかも一は一であり多は多であって、一多の体は別であるから不同という。十義のなか、教義の一門について言えば、他の理事因果などの一切の法門はみな悉くこの一門に摂まる。また逆に、多の中に一を摂める。このように余の因果理事などの一々の門においても同様であり、一多相入して重重無盡であることを示す。
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(4)諸法相即自在門
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十玄門の中でも最も詳しく論じられる重要な箇所。縁起法における体の空有に基づいて相即の立場を開く。縁起する一切諸法(教義などの十義)が、一即一切、一切即一であって圓融無礙自在である義を示す。すなわち、体の空有に約して諸法互いに相即することを顕わす一門であり、一即一切とは、一銭なければ十銭もなく、一なければ一切もないから一即一切という。一切即一とは十銭なければ一銭もなく、一切なければ一もないから一切即一という。
凝然はこれを「この一塵の法は、己を廃し他に同じて、挙体全し。この故にかの一切法は、しかも恒に他を摂して己に同ず。彼をしてこの己体に全からしむ」と明確に説明している。無限の個物の中の一個物を有体とみれば、他の個物はすべて徹底して無体となり、一即一切が成立するという道理。
智儼の『一乗十玄門』では、この相即を「用に約す」としている。内容的には、三種世間(衆生・器・智正覚)の円融・無礙に焦点を合わせ、諸法が因果性を保ちつつ、相即・相入していることが説かれる。その中で特に注意すべきことは、智儼の思惟がひたすら「初発心時便成正覚」「一念成仏」の問題の解明へと延びていっていることであろう。本門は、その名称から受ける哲学的考察という印象に相違して、むしろ正面から実践の世界の真相を明らかにすることを意図していると考えられる。
ただし、日本の伝統教学では、諸祖の教学を一統して違いを会通しようとする。すなわち、智儼の用語は、体といえば法性そのものを指し、用といえばその法性の上に存する用であり、いまいう縁起法における体と同義であるとされる。
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(5)穏密顕了倶成門
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法界縁起中、穏密のものと顕了のものとが同時にならび存するとする相即の義を示す。
究極の立場においては一切の真実の教説、および成道の過程が同時的に隠顕自在に成立することを表わす。たとえば「一即十」というとき、一が「顕」に当たり、二から十までが「穏」に当たる。
たとえば「一即十」というとき、一が「顕」に当たり、二から十までが「穏」に当たる。一が表となって顕われれば、それ以外の他は穏となる理。一塵が多を摂するとき、一は顕われ、多は隠れる。一切が一塵を摂するときは、一は隠れ、多は顕われる。一と多とが同時に表となって顕われることがあるはずはなく、またどちらか一辺倒に隠顕が固定しているものでもない。隠顕顕隠同時無礙である。
澄観『演義鈔』(T36.79a)に「一人身上六親」の喩を挙げている。その意味は、ある一人の人を中心に見て、親に対すれば子であり、弟に対すれば兄であり、妻に対すれば夫であるなど、別の名目と資格とを一身に具している。この場合、もし、親に対すれば、子であるという名目と資格は顕了であり、弟と妻とに対する名目と資格は穏密である。しかし、穏であれ顕であれ、各々の名目と資格とを一身上に得ているのであり、穏顕同時に倶成している。
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(6)微細相容安立門
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微細とは小とか一などといった意味。縁起そのものの本質的はたらき(力用)が無礙自在であることを根拠として、小さなものと大きなものとが互いに包摂しあい(相容)、しかも一と多が相互に壊することなく、秩序整然として一念の中に安定している相入の義を示す。
法蔵『五教章』では、十義が一念中に始終・同時・別時・前後・逆順などの一切の法門を具足して、横に諸法を容れるのみならず、竪にも九世十世をも摂するものであり、安立とは一念中に炳然として同時に斉しく顕現し、しかも一切諸法が互いに乱れることがないことであると説明されている。すなわち、本門は縁起が諸法の大小を壊せずして、しかも一門のうちにおいて同時に具足顕現することをあらわしたもので、一能く多を含み、しかもそのものがそのものの分を守っているから「相容安立」といわれる。この世の中にあるものを見てみると、一見雑然としており、紛然たるものがあるが、その間にも、おのずから厳然として侵すべからざる秩序が存していることをいう。
この門と一多相容不同門は同じく相入を示すが、後者が一の中に多が入り、多の中に一が入る二つの場合を言うのに対して、この微細相容安立門はただ一の中に多を容れる場合のみを説く。また、後者では、ただ入ることのみを説いて何等の条件をもたないのに対し、本門は同時に炳現して羅列することを説く点が相違する。
一多相容不同門:一中多と多中一。相入のみ。
微細相容安立門:一中多のみ。同時炳現をいう。
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(7)因陀羅網法界門
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因陀羅網(indrajqla)、の喩に寄せて、一塵にも全世界が表れ、重重無盡であることを明かす。因陀羅とは帝釈天のことであり、この帝釈天の宮殿に掛かる網には、各網の目ごとに珠玉が垂れ下がり、網目も無量、珠玉も無量である。その無量の珠玉は彼此互いに反映し、あるいは薄く、あるいは明らかに、互いに映し合うこと重重であり、無盡である。
前の第一門から第六門では、一重の相入を示すのみであるが、ここでは、相入の義も相即の義も共に重重無盡であることを言う。法界の塵塵法法も因陀羅網と同様に、互いに力用が交徹して重重無盡である。
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(8)託事顕法生解門
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「託事顕法」とは、現象のなかにある事法に寄託させて真理の世界を説き、解を生じさせること。
『華厳経』に説かれるような描写を実例として法界縁起の相を表わす。したがって、『華厳経』に見られる叙事的描写は、すべて深い実践的意義と主体的真実を表現している、ということを示唆する。現実に存在する一塵そのものが法界の全体であると観る(渓声山色、無情説法など)。
一切の縁起する諸法は一即一切・一切即一であり、重重無盡に相即相入し、主伴円明なること不可思議不可思議である。このような無限なる真理の世界は、有眼な衆生には理解し難い。また、直接そのままを説き示すことはもとより不可能とせねばならない。そこで、事法に寄託し、喩を借りて説示する。たとえば一輪の花に華厳世界の真相を見出すといった如くである。
三乗教でも喩は用いる。しかし、実際には喩と法とは乖離しているとされる。たとえば、衣が寒暑を凌ぐことに寄せて困難辛苦を忍ぶ忍辱行に譬えたり、室が風雨などの難から防護することに託して慈悲行を顕わすなどの類である。これは単なる譬喩であって、法門そのものとは別異なものである。これに対して華厳一乗では、教義理事などの十義が潤益であり、資沢であり、断齶であることを、次のように譬える。すなわち、潤益とは、雨が物を潤すことを以て法が人を利益して潤益することに喩え、資沢とは、雲が雨を含むが如きを以て法が利益を及ぼす功コを含むことに喩え、断齶とは龍の歯茎の肉が重重になっているように、雲は重畳として天空に現ずるが如きを以て法門の重重なるに喩えるなど、この門の意は喩と法とが正に合致していて、別異するものではない。
この門の考え方は、後の密教となって結実していく。曼荼羅がすなわち仏の生命とされるのは、この華厳の託事顕法の考え方を発展させたものと言える。
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(9)十世隔法異成門
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法界縁起における時間的側面を取り上げ、十世が相即・相入して、しかも前後・長短の相を失わないことを説く。
「十世」とは、過去・現在・未来の各々に更に過現未があって九世となり、この九世が互いに即入するから一念に摂まるのであり(三世即一念)、九世を総合する一念と九世とを合して十世となる。この十世が同時に顕現して縁起を成立しているというのが、華厳的に観た時間の真相。
「隔法」とは、十世の法が各別であることをいう。「異成」とは、この十世の隔法が相即相入して、しかも前後長短の相状を失わないことをいう。
つまり、理事などの十義の縁起法が十世を通じて存在するものであり、一念に同時に収斂され、また九世に別異に演繹して同時と別異とが相離れずして具足顕現することが、この門の内容である。
この十世隔法異成門を成り立たせる根拠は、『華厳経』の中の「過去劫が未来劫に入る」とか「未来劫が過去劫に入る」というような相即渾融の立場であり、さらに「一微塵の中に普く三世一切の仏刹を現ずる」というような、この現実の一事実のなかに、過去・未来・現在のすべてのものが映現するとう思想に基づいている。(道元の「而今」)
智儼の『一乗十玄門』では「一拳五指」の喩を挙げている。すなわち、一拳は一念に喩えられ、五指は九世に喩えられ、一拳を開けば五指であり、五指を屈すれば一拳である如く、一念を伸べれば九世、九世を捉えれば一念である。
過去説過去:過去に望んで、彼の過去をいう
過去説現在:過去世の法が未だ謝せざる時をいう
過去説未来:現在に望んで未だ有ならざるをいう。
現在説過去:過去に望めば、已滅して無であること
現在説現在:彼謝し已って現在の法が起こる未謝のとき。
現在説未来:未来に望めば、未有であること。
未来説過去:彼の現在に望めば、已に謝無であること。
未来説現在:彼の法が謝し已って未来の法が起こる未謝のとき
未来説未来:未来に望んで未有であること。
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(10)主伴円明具徳門
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現象している一切のものは、決して単独に起こっているものではなく(相由・相成)、或いは主となり、或いは伴となって、互いに円かに関係し合っていることをいう。
すなわち、この門では、任意の一物を取り上げて主とすれば、他の一切の物が伴となり具徳となって従属することを示す。
恰も北辰(北極星)がいるところ、その周辺には衆星が伴となって圍遶しているようなもの。また、法界中の何処について言っても、そこが中央となって余方は全て中央に対する東西南北四維上下となるが如きである。
このように一法を挙げれば、他の一切法門はみなこれが伴となり具徳となり、また他の一法を挙げれば、さきに主であったものも共に伴となる。互いに主となり伴となって、法界無礙の法を構成する。主伴円明具徳を主伴具足ともいう。
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(11)古十玄の唯心廻転善成門
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古十玄では、主伴円明具徳門が無く、唯心廻転善成門が立てられている。
唯心とは、本来具有の唯一真如をいう。廻転善成とは、転変して縁起の諸法を成立することをいう。ここでいう「善成」とは善悪の善ではなく、いわば「能成」の意。
すなわち、唯心廻転善成とは、法界縁起の法は唯だ是れ自性清浄心の転変であり、能成であって、まったく性起の具徳であることをいう。したがって、唯浄たる華厳の性起思想に基づくものではあるが、染浄に通じる如来蔵縁起と混同するため、新十玄では除かれたのだと考えるのが、伝統的見解である。
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『華厳経旨帰』は法蔵48歳以降の著作とされるが、その「経意を釈す」という一節に十玄門を説く十種の因縁が立てられている。その第二の「唯心を現ずるが故に」の項には、彼の唯識思想に対する解釈が見られる。
ここでは、とくに大小相対の観点から、一切の事象を現出する唯心の超絶性と自在性を明らかにしている。ここで表れる「唯心」は、、『五教章』のそれとほとんど変わりがないと考えられる。ところが、『華厳経旨帰』の後に書かれた『探玄記』では、この「唯心」の取り扱いに微妙な変化が生じてくる。それは主に次の三点である。
(1) 諸法の円融・無礙に関して、『華厳経旨帰』とほぼ同一の十種の因縁を挙げながら、そこでは第九に数えられていた「縁起相由の故に」を最初に置き、これのみを詳しく論じて、他の九種の理由を『華厳経旨帰』に譲っている。
(2)『五教章』と同じく『華厳経』の意味内容を提示する十玄門を挙げるが、その名称と順序に若干の変更を加え、唯心思想に直接関わる「唯心廻転善成門」をそこから除いてしまう。
(3) 十玄門全体の解説の仕方も、一枚の蓮華の葉に喩えるものへ大きく変えている。
『探玄記』は、少なくとも最終的には証聖元年(695)、法蔵53歳以後に完成したと推定されるが、上記の事実は、この時代の法蔵が多かれ少なかれ発生論的ニュアンスを含む「唯心」を究極的な真実として立てることそのものに否定的であったことを示唆するものであろう。
では、『六十華厳』十地品の第六現前地で明らかに説かれる「唯心」の思想「三界虚妄、但是心作、十二縁分、是皆依心」の句については、如何に解釈しているであろうか。
『探玄記』に従えば、その前半は集起門、後半は依持門に配される。このうち、さしあたり問題なのは全般の理解の仕方である。これについて、法蔵は、それが仏教的唯心論のエッセンスを端的に示すものとして、「十重唯識」の解釈を展開している。
ここで、注意したいことは、第一に、この思想においては、もともと「唯心」の語がもっていた一般的な意味──現象的な世界の根底にあるもの、あるいは、現象を生み出し作り上げるものとしての「識」(=意識)──は、十重唯識の中の第六までの唯識説に見出されるにすぎないこと。第二に第七の唯識説が『五教章』の唯心思想にほぼ対応すること。第三に、究極的な華厳思想独自の唯識説とされる第八以降には、現象的な存在のあり方に関して「唯識」が語られているということである。
法蔵は『華厳経』の教えの本質を明らかにする「能詮教体」では、浅い方から深い方へ段階的に十門を立て、その第四に「縁起唯心門」を置いている。この位置づけそのものからも、またその具体的な解釈の仕方からも、一切の教えがただ心の現われであるという説示の立場をある程度評価しながらも、それを決して究極的なものと見做していないことが知られる。以上から明らかなように、法蔵は、最終的には如来蔵、すなわち真実そのものとしての唯心、ないし唯識の絶対的自由に裏付けれられた縁起のはたらきそれ自体にこそ最も着目するのである。
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