華厳教海INDEX
海印三昧について
総定と別定
そもそも、仏陀の説法はまず三摩地(三昧・等持・定)に入り、精神を統一して構想を完成した上で説かれるものである。たとえば『法華経』は無量義処三昧、『般若経』は等持王三昧、『涅槃経』は不動三昧に依って説かれる。その他の諸経典もそれぞれ異なった三昧が有り、いずれも入定息慮し、その定から出た後の説法である。
『華厳経』は各会において各々別定が有る。『六十華厳』によれば、第一寂滅道場会は普賢菩薩が説法主で如来浄穢三昧に入り、第二普光法堂会は文殊菩薩が説法主であるが未だ菩薩位に数えられていない十信会であるから入定の三昧が無いが、第三?利天宮会では菩薩無量方便三昧に入り、第四夜摩天宮会では功徳林菩薩が善伏三昧に入り、第五兜率天宮会では明智三昧に入り、第六他化自在天宮会では大智慧光明三昧に入り、第七普光法堂会は普賢菩薩が佛華嚴三昧に入り、第八逝多園林会は普賢菩薩が如来獅子奮迅三昧に入るなど、いずれも他の経典と同様、入定の後に出定して説法がなされている。
『華厳経』には、ほかにも多くの三昧が説かれるが、これらの別定は総じて海印三昧に統摂される。海印三昧は『華厳経』一部全体を統摂する総定である。『華厳経』は三昧の中で説かれた經典であり、出定後に説かれたものではない。入定のまま説かれたものであるところに他の經典と異なる特徴が有る。
名義
海印とは喩によって名づけたもので、海は深広無涯であること、印は印現、つまり一時に一切を顕現するという意味である。すなわち、深広無涯の海は風が息み波も静かで水が清らかなとき、森羅万象・日月星辰・山川草木が一時に印現するように、無明の風が息み、妄識の波浪が尽きて安住するとき、無限の時間を通じて無辺の空間に遍満する一切諸法、宇宙のあらゆる真実相が、みなそのまま一時に炳現するという、仏陀大悟の真実智慧海の相を表現したものである。そこに明らかに映現する一切法は重重無盡であり事事無礙の法である。よってこれを「海印三昧一時炳現の法」と名づけ、海印三昧は華厳教学を代表する名目となっている。
仏陀の真智は無量無辺であって海印三昧一時炳現の法も無量無辺であり、未来際を尽くしても言語を以て説明し得るものではなく、記録の限りでもない。それゆえ、『華厳経』には驚異に値する各種の経本が有るともいわれるのであって、現行の経本はただその一部分の縮写であるといわれる。
典拠
海印三昧という三昧の名は『宝積経』・『大般若経』・『大集経』などにも出ているが、その内容は『華厳経』のそれとは異なるとされる。
そもそも海印三昧の名は、『六十華厳』賢首品に菩薩の因三昧として「一切の示現して余有ること無し、海印三昧勢力の故に」(一切示現無有餘海印三昧勢力故)とあり、十地品では、第十地の菩薩が得るという十の三昧の中に海印三昧の名が出ている。また、性起品では如来の性起菩提を説く際に仏果の三昧として「佛子よ。譬えば大海の如し。一切衆生色像之印と爲す。是の故に大海を説いて名づけて印と爲す。如來應供等正覺菩提、亦復た是くの如し。一切衆生心念諸根、菩提中に現れて而も所現無し。故に如來を説いて一切覺と爲す」(佛子。譬如大海。爲一切衆生色像之印。是故大海説名爲印。如來應供等正覺菩提。亦復如是。一切衆生心念諸根。現菩提中而無所現。故説如來爲一切覺)という。
三昧の体
海印三昧の体は、大悟徹底の佛智海であり、仏陀正覚の内容たる真実相である。『華厳経』では、仏陀自身は光を放つのみで法を直接説くことはなく、主として菩薩たちの讃仰形式によって真実相が顕わされているのは、そのためである。
海印三昧の体を説明するのに古来総別を分かつ。先ず、総じていえば、仏果上の真如本覚のことをいう。凡人は無始より已来、無明煩悩の塵垢に覆われて、真如本覚の理を証見しないが、仏陀の大智は能くその本覚の理に徹底しているのであり、能証の智と所証の理と、能所冥合して不二平等である。この不二平等の体を『華厳経』所依の三昧とする。故に法蔵は『遊心法界記』において次のように説明している。
三昧者。理智無二交徹鎔融。彼此倶亡能所斯絶。故云三昧也。(T45.646b14)
次に、別していえば、@菩薩の定心、A仏果菩提の智、B真如本覚の用、といった各立場から説明することができる。
前引の賢首品の文などは、@菩薩の定心によるもので、法蔵の『探玄記』に「菩薩定心は猶お大海の如し」とある如くである。A仏果菩提の智によるのは 性起品の文である。また、また、法蔵の『妄尽還源観』に「海印と言うは真如本覚なり。妄尽き心澄んで万象斉しく現わる。猶お大海の風に因りて浪起こるも、若し風止息せば海水は澄清にして、象として現れざること無きが如し」とあるのは、B真如本覚の用について説かれたおのである。このように海印三昧の説明の仕方を三種に分類することができるが、それは、真如本覚の大用の上おいて、因の立場からみた場合と果の立場からみた場合との違いが有るのみである。したがって、総じていえば、海印三昧は仏果上の理智不二交徹鎔融の真如本覚を体とするということができる。『探玄記』に次のように説明されている。
海印者從喩爲名。如修羅四兵列在空中於大海内印現其像。菩薩定心猶如大海。應機現異如彼兵像故。大集經第十四云。喩如閻浮提一切衆生身及餘外色。如是等色海中皆有印像。以是故名大海印。菩薩亦復如是。得大海印三昧已能分別見一切衆生心行。於一切法門皆得慧明。是爲菩薩得海印三昧見一切衆生心行所趣。解云。此中見字亦現字。謂由見故現也。(T35.189a14-22)
海印とは喩に従りて名と為す。修羅四兵の空中に列在し、大海の内に於いて其の像を印現するが如し。菩薩定心は猶お大海の如し。機に應じて異を現すこと彼の兵像の如きが故に。大集經第十四に云わく。喩えば閻浮提の一切衆生身及び餘外の色の如し。是の如き等の色、海中に皆な印像有り。是れを以ての故に大海印と名づく。菩薩も亦復た是の如し。大海印三昧を得て已に能く分別し、一切衆生の心行を見、一切法門に於いて皆な慧明を得。是れ菩薩の海印三昧を得て一切衆生の心行の趣く所を見るが爲なり。解して云わく。此の中の見字は亦た現字なり。謂わく見に由るが故に現なりと。
一切諸法はみな悉く真如であり、佛の所証もまた真如である。故に、佛の所証を離れて外に一法として有る無し。この故に、佛の大圓覺海中に湛然として一切諸法を印現するのである。
前述の如く、およそ佛はゥ経を説くにあたって必ず定によるのであるが、『華厳経』以外の諸経は、みな定を出て後得法住智によって説かれている。ところが、『華厳経』は海印三昧に入ったまま説かれているという。海印三昧は佛の所証である。『華厳経』はその佛所証のありのままを説いた経であるから、定を出ることなく、定中に在って説かれているというのである。つまり、『華厳経』は聴き手の機根にあわせて第二義・第三義に降りることなく、直ちに本質を顕示しているのであり、故に華厳教学ではこれを「称性の本教」と称している。これに対し、余経は直ちに華厳一乗の法門に入ることができない者の為に、方便して二乗や三乗などの法門を説くから、定より出て説法するであり、これを「逐機の末教」という。
創唱
華厳教学者たちの中で、海印三昧を以て本経の総定なりと創唱したのは至相大師智儼である。その著『華厳内章門等雑孔目』(『孔目章』)巻四に「一乗同別の教義は海印定に依りて起こる。普賢の所知なり。三乗の教義は後得法住智に依りて説く」(一乗同別教義依海印定、普賢所知、三乗教義依佛後得法住智説)という。ただし、そこでは後世ほどまでに海印三昧を強調していないが、賢首大師法蔵はこれを承けて『五教章』の冒頭に「釈迦仏の海印三昧、一乗の教義を開かんとするに略して十門有り」と述べ、更にこの三昧の内容について『華厳経探玄記』巻四・『妄尽還源観』・『遊心法界記』などに詳述した。海印三昧を華厳の総定としたのは法蔵に始まるといえようか。
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