華厳教海INDEX

 

 華厳観門の分類

 




 華厳教学においては、学解と観法とを裁断区別していないのが一大特色である。学解即観法とされ、学解のままが観法でなければならない。いわゆる「知行合一」に通じる立場である。ただし、単なる学解のみに止まれば、知解であって、結局戲論の徒に過ぎないことは言を俟たない。

 

 華厳教学においては、観法・観道・観門・観心ともいい、いずれも可だが、後に述べる「縁起観」は観法・観道・観門の語が妥当であり、「性起観」は観心の語が恰当であるといわれる。これに対し、天台教学においては、介爾の妄心を即空・即仮・即中と観ずるところの観不思議境を以て十乗観法の心髄なりとする立場から、特に観心と名づけている。


 

1.華厳観門の分類

 

 鎌倉時代の凝然は、『法界義鏡』巻上(『日仏全』華厳小部集、pp.280-282)において、華厳観法の名称をあげ、法界観・華厳三昧観・妄尽還源観・普賢観・唯識観・華蔵世界観・三聖円融観・華厳心要観・五蘊観・十二因縁観の十種をあげて、おのおの説明を加え、このうち、三聖円融観と唯識観の二種を最も精要なるものとした。

 ただし、十種観法は中国華厳の祖師たちの観法の書物名や種類の名称を列挙したもので、華厳の観法を体系的に分類したものではない。これを組織分類したのは律蔵である。

 律蔵は、『遊心法界記講辯』巻上(『日蔵』華厳部章疏、p.587c)において、華厳観法を次のように分類した*1

 

1.約教浅深門

2.直顕奥旨門

  (1)性起門

  (2)縁起門

3.寄顕染浄門

 

 また、上の約教浅深門を直顕門に入れて、次のように分類もする*2

 

1.華厳普通観

 (1)真如実観

 (2)唯真識観

2.華厳特殊観

 (1)寄顕門

 (2)直顕門

   a.五教浅深観

   b.円教奥旨観

    (a)性起観

    (b)縁起観




1.華厳普通観


三乗当分の観法だが、一乗見聞に分通する。(『孔目章』に十八種の観法を列挙する中の言。澄観『大疏鈔』には、一に唯識観、二に真如実観としている)

  (1)真如実観=心真如門→性起観へ

  (2)唯真識観=心生滅門→縁起観へ

 

 普通観と特殊観とに二分しているのは、智儼が一般仏教に通じる観法と、華厳別教のみに特有の観法とに区別していることに依る。

 

普通観に属するものとして智儼が挙げているものには、(1)通観、(2)十八種観、(3)五種観、(4)二種観がある。

 

(1)通観:
 通じて諸惑を伏し、通じて惑種を滅し、通じて諸理を観ずることから、この名が有る。これは無分別智の定であり、「一行三昧」であるとする。一行三昧は『起信論』などにも説かれているが、初期の禅宗でもこれを重視し、敦煌本『六祖壇経』(
T48.338b)では、真心が不動であり妄を除いて起心しないことを一行三昧と定義している。智儼は、これは諸家によって説明のされ方が異なり、一乗以外の大乗仏教の観法ではあるが、華厳別教の立場から見れば、一乗にも通じるので、通じて一乗およb三乗教の観法であるとする。

 

(2)八種観:
 @真如観・A通観・B唯識観・C空観・D無相観・E仏性観・F如来蔵観・G壁観・H盲観・I苦無常観・J無我観・K数息観・L不浄観・M骨観・N一切処観・O八勝処観・P八解脱観・Q一切入観の十八種の観法。智儼が『孔目章』で、いろいろな観の種類を列挙したものであり、場合に応じて修する小乗と大乗に通じる観法である。此の中に、壁観があげられているのは、達摩の壁観を考える上で、一つの資料となる。

 

(3)五種観:
 @不浄観、A慈心観、B縁起観、C安般念観、D界分別観のこと。貪の多い者は不浄観を、瞋の多い者は慈心観を、癡の多い者は縁起観を、覚観(覚察と観達のことだが、智儼は第六意識による妄執分別を指している)の多い者は安般念観を、我見の多い者は界分別観を修するとよいとされ、小乗と大乗とでは修し方が異なるが、時に臨み機に応じて修するべきとされる。

 

(4)二種観:
 唯識観と空観のこと。やはり様々な種類があるが、これを修するに当り智解を働かせると却って妄境が生じることになるので、心相を息めるための助けとして、@真如辨、A即空辨、B唯識辨、C妄想辨、D縁起辨の五辨を以てするとよいと云う。

 

2.華厳特殊観

 

(1)寄顕門

 重重無盡の教義を一相一寂たる大小乗の観門に寄せて顕わそうとするもの。澄観『五蘊観』・『十二因縁観』などが相当する。

 

(2)直顕門

 華厳観法を直接的に顕わすもの。根本的直覚に立ち、華厳別教の真理を直ちに開示。

 

 a.五教浅深観

 五教の次第によって淺より深に及ぶ観行の順序を立て、法界に悟入する過程を段階的に説示。杜順『五教止観』・法蔵『遊心法界記』・『探玄記』などの十門唯識観などが相当する。

 

 b.円教奥旨観

 華厳観法の真髄。華厳のあらゆる観法は@縁起観とA性起観の二観に統摂される。



   (a)縁起観

一切諸法の縁起において円融無礙・相即相入の奥旨を観じ、重重無盡の境に達して法界に悟入すること。無念成仏とは異なり、開解立行を主とする。

 

   (b)性起観

自己心中の本覚を直指して本来の面目を発揮し、頓修頓悟して、旧来清浄本明の体を悟ること。無念成仏であり、円頓至極の観門。


 

2.華厳観門の真髄

 


1.縁起観

 

 縁起観を説く論疏には次のものがある。

杜順『法界観門』一巻・法蔵『発菩提心章』一巻・澄観『法界玄鏡』一巻・宗密『註法界観門』一巻(ここまでは同一系統)・法蔵『普賢観行』一巻・『華蔵世界観』一巻・『義海百門』一巻・『妄尽還源観』一巻など(『妄尽還源観』は、一体・二用・三遍・四徳・五止・六観と次第して述べられるが、一体・二用は理事に通じて性起観を説き、三遍以下が縁起観に相当。)

 

 縁起観とは、法界縁起の法たる「一塵」を観じ、その一塵に十玄・六相が円具していることを悟るものである。

 一塵に十玄を観ずるとは、一塵において@同時に一切の無盡の事法を具足し(同時具足相應門)、A諸法遍満し(廣狹自在無礙門)、B一多互いに容摂し(一多相容不同門)、C諸法相即し(ゥ法相即自在門)、D万法隠顕し(穩密顯了倶成門)、E無量仏刹に示して安立しており(微細相容安立門)、F万法重重に顕現し(因陀羅網法界門)、G真法を表わし(託事顯法生解門)、H十世を成じ(十世隔法異成門)、I主伴具足す(主伴圓明具コ門)と観じること。

 一塵に六相を観ずるとは、万法は総じて一塵の事法を成じ(総)、一塵を開けば万法差別して(別)、また、万法同じく是れ一塵の相にして(同)、万法互いに異なるも(異)、同じく成じて、ここに同異の相をなし、万法ともにこの一塵の法を成じ(成)、しかも万法各々その自位に住して(壊)、ここに成壊の二相をなすと想うことで、一時において六相具足し円融の相を顕わすと観ずること。

 

 一塵はもとより無染無妄であり無盡自在である。『華厳経』に「一塵能く百千の経巻を出す」と云う如く、松風の声も浜辺に響く波の音も、本来法界自然の妙法であり、みな常恒華厳の説法であると観る。是れ刹説・衆生説・三世一切説の相であり、日月星辰の風光、みな無盡自在たる一塵にほかならない。このようにして、華厳行者は法界無礙自在の妙境界を身読する。

 

 法蔵の『妄尽還源観』に

夫れ満教は難思なるも、一塵を窺えば頓現す。圓宗測り難きも、繊毫を覩るときは以て斉しく彰わる。

 

と云っているのは、その端的を示していると言えよう。『義海百門』では、「縁起の法は一塵これなり」と述べ、法界証入の要路を示すについても、義海百門の一々はみな一塵について縁起観の要道を示している。

 

 要するに、縁起観は一切諸法の縁起において、相即相入・事事無礙・円融の大旨を観じ、重重無盡の境を味得し、主伴具足の法界無礙を体験して悟入するの観法なのである。

 したがって、その実修においては、まず見聞し、開解して、立行するという程序に則ることを要する。もし、これに反すれば、ただの理想のみに走って何ら得るところもない。

 

 

2.性起観

 

 性起観を説く論疏には、次のものがある。

  澄観『華厳心要観』一巻・『三聖円融観』一巻・『妄尽還源観』の一体二用。

 

 性起観とは、自己の一心であり真如本覚たる「真心」を観じ、この真心(己心)こそは本来これ万徳の庫蔵なりと諦観し、一心中に六相十玄を具足していることを悟ること。

 

 因果不二・生仏不二の本覚を己心に直観して、法界に悟入せしめるのが性起観である。森羅万象日月星辰の風光は、すべて自在円明の一心本覚にほかならず、自己はこの一心本覚旧来清浄円明であると観じ、この一心本覚は自性清浄であり、無染無妄であるのみならず、その徳は無盡自在であり、一念心が起これば、そこに十玄六相を円具すると観ずる。

 

 すなわち、この一心において@同時に一切の森羅万象を具足し、A諸法遍満して、B多法を容摂し、C諸法相即して、D万法隠顕し、E万徳を具えて安立しており、F万法重重に顕現して、G理事に即し、H十世を成じ、I主伴円明を成ずると観じる。

 

 また、万法は総じて一念心を成じ(総)、一念心を開いて万法差別し(別)、万法は互いに異なるが(異)、万法は同じく一心の相であり(同)、万法はともにこの一心を成じて(成)、しかも諸法各々その自位に住する(壊)と観じて、此に総別同異成壊の六相を現ずるのである。

 

 真心は、自性清浄、無染無妄、無盡自在であるから、断破すべき何ものも無く、直ちに本来浄化の面目を発揮し、頓修頓悟、旧来清浄、円明具徳の法を悟るところの無念成仏である。したがって、縁起観のように、見聞・開解・立行を主としない。

 

 このように、性起観は、法界自爾の徳として、真心(己心)に因果依正の体も用もそのまま円具していることを観ずるものであり、在纏位中に本来出纒の果徳を具足するものであるから、もとより生仏不二の本覚であることを強調する。

 

 『華厳経』性起品に云う。

衆生身に如來の智慧を具足せざる者は無し。但だ衆生顛倒して如來の智を知らず。顛倒を遠離せば、一切智・無師智・無礙智を起こす。(晋訳T09.623c)

 

 唐訳『華厳経』の同箇所では

一衆生として如來の智慧を具有せざるは無し。但だ妄想顛到を以て執著して證得せず。若し妄想を離るれば、一切智・自然智・無礙智の則ち現前せるを得ん。(T10.272c)

 

 彼の三乗教では、生佛不二・因果不二・煩悩菩提・生死涅槃の即を説きながら、その不二といい、即というのは、単に理体に制約された、いわゆる策励修養によって漸次に顕現されるべき体徳として具足すると説くが、これはもとより華厳の性起観とは全然相違するものである。

 

 澄観は『華厳心要観』で次の如く述べて、性起観の心要を説いている。

 

至道は其の心に本づき、心法は無住に本く、無住の心体は霊知不昧なり。性相寂然として徳用を包含し、内外を該摂して能く深く能く広く、有に非ず空に非ず、生ぜず滅せず、終わりも無く始めも無く、之れを求むるも得ず、之れを棄つるも離れず。現量に迷わば則ち惑苦粉然たり、真性を悟らば則ち空明廓徹たり。即心即佛にして唯だ証者のみ方に知ると雖も、然して証すること有り知ること有らば、則ち慧日は有地に沈没せん。若し照無く悟無くんば、則ち昏雲は空門に掩蔽す。若し一念も生ぜざれば、則ち前後裁断して、照体独立し、物我皆な如にして、直ちに心源を造り、智ることも無く得ることも無く、取らず捨てず、対も無く修も無し。然るに迷悟更依し、真妄相待して、若し眞を求めて妄を去らんとせば、猶お影を棄てて形を労するがごとし。若し妄を体して真に即せんか、処陰の影滅するが似し。若し無心にして忘照なれば、則ち万慮都べて捐(す)つ。若し任運に寂知せば、則ち衆行爰に起つ。放曠して其の去住に任せ、静かに鑒みて其の源流を覚り、語默は玄微を失わず、動静未だ法界を離れず。言止まば則ち双亡して寂を知り、観を論ぜば則ち雙照して寂かに知る。証を語らば則ち人に示す可からず、理を説かば則ち証し了わるには非ず。是こを以て、寂を悟らば寂無く、真の知は無知にして、知寂不二の一心を以て、空有双融の中道に契う。住すること無く著すること無く、摂も莫く收も莫し。是非両亡し、能所双絶す。斯の絶も亦た寂なれば、則ち般若現前せん。般若は心外に新生するには非ず。智性は乃ち本来具足せり。然るに本より寂なれば自現すること能わず、実に般若の功に由れり。般若と智性とは、翻覆して相成す。本智と始修とは、実に両体無し。双亡正入せば、則ち妙覚円明にして始末該融す。則ち因果交徹して心心に作佛す。一心無くして佛心には非ず。処処に成道す。一塵無くして佛国には非らず。故に真妄物我、挙一全收す。心佛衆生、渾然として斉致なり。是れ知りぬ、迷うときは則ち人が法に随い、法法万差して人同じからず。悟るときは則ち法が人に随い、人人一智にして万境を融ず。言窮まり慮絶え、何れの果も何れの因も、体は本より寂寥たり。孰れ同の孰れ異も、唯だ忘懐虚朗、消息沖融。其れ猶お透水の月華、虚にして見る可きがごとし。無心に鑑象し、照して常に空なり。

(『景徳伝燈録』所収「五臺山鎭國大師澄觀答皇太子問心要」全文、T48.459b-c)

 

 

3.縁起観と性起観のまとめ

 

 「縁起観」:観法=一塵に六相十玄を観ずる。見聞・開解・立行を主とする。

       ex.智儼・法蔵は縁起門趣入。おもに法蔵の『義海百門』

 「性起観」:観心=一心に六相十玄を観ずる(一塵も一心の顕現)。無念成仏を主とする。
        ex.澄観・宗密は性起門趣入。おもに澄観の『華厳心要』

 

 上来述べたように、一塵を観じ、一塵は是れ十玄六相なりと縁起繁興の相状から観ずるのが「縁起観」であり、自己の真心を観じ、その一心に万法万象を円具し、一念一塵は是れ如来なり、如来の化用なりと直ちに観ずるのが「性起観」であるが、一塵は自己の一心の現われであることに注意せねばならない*3。つまり、両者の間に隔たりが有るわけではなく、縁起観と雖もその窮極するところは無修無念の成仏であり、性起観と雖もまた開解立行を除外すべきものではない。、勝劣の違いを論じるべき性質のものでもない。実際修観においては、互いに相い由り相い成じて、法界悟入の大道をたどるべきであり、一切無礙の心境に住して一歩一歩、無礙の大道を力強く歩むべきである。

 

 性起観について特筆すれば、「性起」の“性”とは、本具の性徳である。この“性”がそのまま十玄六相として繁興全顕しているから“起”といわれる。故に染浄の区別を以てすれば、“性起は唯浄”であり、“性起は如来であり如来の化用”であるといわれる。つまり、「性起観」とは、縁起の諸法の一々が、みな直ちに“如来”であり“如来の化用”であると観ずるものとなる。

 

 古来、日本の伝統的華厳教学では、智儼・法蔵は縁起観趣入と云われ、澄観・宗密は性起観趣入と云われる。澄観・宗密は共に真心を観ずることを主要とし、性起の定義は意を得ているが、その趣入については、因入について「自己の一心真如本覚」を観ずるのであると主張する。したがって、法界縁起事事無礙の立場から云えば、事理無礙のものである。鳳潭上人はこの点を痛撃する。されど、淵源するところ、『六十華厳』が因果門、果上現、縁起建立、事事無礙であるのに対し、『八十華厳』は理事門、性起趣入であって、結局「性」そのものに重きを置くからである。しかのみならず、「性起品」についても、『六十華厳』は性起は如来なり化用なりと説かれているのに対し、『八十華厳』は専ら菩薩因人の説相となっているからであると見るべきであろう。

 


*1 湯次了榮『華厳大系』(東京、国書刊行会、1915年10月、pp.545-547)、および龜谷聖馨『華厳哲学研究』(名教学会、1921年、pp.326-329)における観法の分類法は、律蔵の分類に拠っていると思われる。

*2湯次了榮『華厳学概論』(龍谷大学出版部、1935年)pp.180-181を参照。

*3 法蔵は『義海百門』の冒頭において次のように述べている。

縁起を明かすとは、如し塵を見る時は、此の塵は是れ自心の現われなり。自心の現われなるに由りて、即ち自身の与に縁と為る。縁の現前するに由りて心法方に起こる。故に塵を名づけて縁起法と為すなり」(T45.627b)


華厳教海INDEX