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法蔵の著した『華厳五教章』義理分斉では、(1)三性同異義、(2)縁起因門六義法、(3)十玄縁起無礙法、(4)六相円融義が説かれている。いずれも別教一乗といわれる華厳円教そのものに特徴的な教理を示す内容である。このなかで(1)以外は、すべて法蔵の師である智儼の教学を承けたものであるが、(1)三性同異義だけは法蔵の独創である。そもそも、三性説とは阿頼耶識説と並んで唯識学派に特徴的思想であるが、法蔵は、この三性説を自己の教学の中に接取し、華厳教学の立場によって改変を加え、華厳教学の中心思想のひとつとして纏め挙げた。玄奘の法相唯識教学に対する彼の強い対抗意識が感じられる所以である。
以下、『華厳五教章』義理分斉に即して三性説を概観しよう。
| 1.三性各説 |
(1) 円成実性 (真実性ともいう/真如のこと)
a.不変(真如は変わらないこと)
真如は生滅変化することがなく、本来的に自性清浄である。自性清浄とは無自性のことであり、この無自性であるという真理は不変である。
b.随縁(真如が縁に随って諸法となること)
真如が染または浄なる縁に随って起動し、染あるいは浄なる色心の諸法となること。
(2) 依他起性 (色心の諸法すなわち縁起法。自性が無いから他に依って起こる)
a.似有(仮に存在すること)
色心の諸法が因縁によって仮に縁起して生じた存在(仮有)であること。実有に似ている。
b.無性(本質が無いこと)
色心の諸法(縁起法)は衆縁和合したものであるから実体が無い(無自性)こと。
(3) 遍計所執性(妄執・迷情)
a.情有(迷いの心において存在すること)
妄執することで心の外に実我実法が有ると執著すること。
b.理無(道理として存在しないこと)
道理を以て情有を見れば、それは迷情そのものであり、実体はないこと。

| 2.三性の異の義 |
体に即して見れば、本即末・末即本であり、三性同一であるが、義に即して見れば本は無為で末は有為であるから不一である。敢えて三性に各々二義を開いて見せるのは、空か有かに偏ること(断常二見)を起こさせないため。→三無性につながる。
| 3.三性の同の義 |
3-1.本の三義は同一 ── 末が本に撤する/末を壊せずしてそのまま本=本即末──
理無と無性と、そのものは無体であり、不変に異ならないから、これらは同一体である。なぜなら、もし、真如が変ずるものであるなら、依他の事法は実有とせねばならないが、真如は不変であるので依他は無性でなければならないからである。また、もし、依他に自性があるとすれば所執(認識されるもの)も実有とせねばならないであろう。しかし、依他は無性であるから所執は妄執なのであり理無である。故に、三性は真如と同一際であり、体不二なのであって異なるものではない。
3-2.末の三義は同一 ── 本が末を摂める/本を壊せずしてそのまま末=末即本 ──
真如が無明という因縁によって随縁し、挙体起動して依他である色心の諸法を現じる。この依他の似有なる側面に執著して実我実法とするのが情有であるから、随縁と似有と情有とは無異無別であり、同一体である。
(1)円成実性の不変と随縁は同一
喩えば明鏡(不変)が染浄の諸法を映しても(随縁)、鏡の明浄であることは失われず、あるがままに浄らかに映し出すようなもの。不変であるまま染浄諸法を成じるのが随縁の義である。随縁であるからこそ不変であることが知られる。すなわち、不変と随縁は不離の関係であり、不離であるから不変即随縁・随縁即不変である。互いに相収していて無二であり、一つの円成実性である。
(2)依他起性の無性と似有は同一
諸法は無自性であり、衆縁によって生じた法であるにすぎないから似有といわれる。何故なら、もし、諸法に自性があるなら衆縁を必要としないで、そのまま永遠不変に存在しているはすだからである。衆縁を必要とする限りは自性が有るはずがない。似有だから無性なのであって、因縁所生の似有は即ち無性である。逆に言えば、無性であるから似有である。したがって、二義は単に相違しないというのみならず、全体相収して不二である。
(3)遍計所執性の理無と情有は同一
喩えば切り株(依他)を見て鬼(遍計所執)がいると思った場合、鬼が居ると見るのは勝手な分別(横計)なのだから、鬼が理として無である(理無)ことは明らかである。理として無であればこそ、それは妄執であること(情有)なのである。したがって、二義は無二であり、一つの遍計所執性である。
| 4.三性総説 |
三性のうち、遍計所執性は迷情であり、根本無明と枝末無明とに通じている。真如はこの根本無明の迷情と真如との因縁によって起動し、その結果、真妄和合の阿頼耶識(依他起性)となる。真如を本とし、依他を末として、本末や真妄の関係を明らかにしているのである。
法蔵の三性説は、真如を基体として、本と末、真と妄、性と相との関係を論じており、いわゆる如来蔵縁起説が解釈の仕方の基礎となっている。 しかるに、この三性同異義は終教位の教説かといえば、必ずしもそうではない。法蔵は、『華厳五教章』で三性同異義を説き、その総結として、
三性一際にして随一に全収し、真妄互いに融じて性に障礙無し。
といい、また、
此の上の論文、又た、真は妄を該ね、相として摂せざること無く、妄は真源に撤し、体として寂ならざるは無きことを明かせり。真妄交徹し、二分双融して無礙全収せり。
と説いて結んでいる。すなわち、三性おのおのは、任意の一を取り上げて見るに、他の二性を全く収め尽くすのであり、他の存在価値を失わないまま、真と妄とは互いに相融しているといい、真は妄を該摂しているから、性は相を摂め尽くし、妄は真の源に撤しているから、真それ自体として変わることはないという。これは別教一乗の立場からの見方に他ならない。いずれの立場から解釈するかによって、三性の見方も変化するのである。

| 5.性相対弁 |
華厳の立場から見た三性に対する性宗と相宗とによる解釈法の対比
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宗 相 |
性 宗 |
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遍計所執性 |
・能遍計(遍計の主体)は六七識に限る。 ・所遍計(遍計の対象)は依他の色心二法。 ・妄情の前に現ずる当情現とする。 |
・能遍計は諸八識に通じる。 ・所遍計として依他法の外に真如も立てる。 ・有体と無体の二義を立てる。 能遍計の迷心=有体 当情現の相=無体 |
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依他起性 |
事法上に縁起を立てる。 事のみに限る。 |
真如が他に依って起こるとする。 理事に通じる。 |
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円成実性 |
不変の一義のみ。 理・性・有 |
不変と随縁の二義を立てる。 不変=理・体・有 随縁=事・用・空 |
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真如と依他 との関係 |
真如は実性、依他は現象であるから、二者は不離の関係ではあるが、真如は凝然常住・平等無差別、依他は有生滅・有差別だから、実体と現象は各別であり、互いに融即するとは説かぬ。 |
真如は理であり平等ではあるが、差別の現象を全うした実体であり、依他は事であり差別ではあるが、平等の実体を全うした現象であるから、真如と依他、理と事は不二であって、現象即実体、実体即現象であると説く。 |
■玄奘(唯識学派)の三性説
遍計所執性:
種々な縁から生じた実体の無い存在を実我実 法であると分別し、執著する迷いの心。
依他起性:
種々な縁に依って生起したもの。これに染分 と浄分とがある。染分とは有漏のすべて。
浄分とは無漏有為のすべてを指す。浄分は煩
悩を離れているので、円成実性に含めれば、
依他の本分は染分をいうこととなる。
円成実性:
依他起性の真実の体である真如のこと。
※円成実性・遍計所執性は心法のみに限るが、依他起性は色心二法に通じる。

蛇縄麻の喩:
愚人(能遍計)が闇夜に縄を見て本当の蛇(実我の相としての遍計所執性)と思い込み驚くが、覚者(仏菩薩)に教えられて、それが蛇ではなく(生空)、蛇に似た縄(依他起性が仮我であること)であると知り、さらに実際にあると執着している縄(実法の相としての遍計所執性)も真の意味で実体的に存在するのではなくて(法空)、その本質は麻であり(円成実性)、その縄(依他起性)とは種々な縁によって麻が仮に縄という形態をとっているにすぎないと知る(勝義)。