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History of Kannonji temple
観音寺の歴史

◆觀音寺の由来◆

 観音寺は現在、臨済宗妙心寺派に属す禅寺です。
 観音寺の本尊さまは十一面観音(じゅういちめんかんのん)さまです。この十一面観音さまは、今から一四〇〇年以上前の推古天皇九年(六〇一)、聖徳太子(しょうとくたいし)さまが二八歳の時に、一刀三礼(一つ鑿(のみ)を入れるごとに三度礼拝すること)して刻まれたものと伝えられています。

 平安時代、この観音さまは牟礼山法(ほう)満(まん)寺(じ)というお寺をお守りするほとけさまとして、お祀(まつ)りされていました。この法満寺は、文武帝の大宝元年(七〇一)に金(こん)蕭(しょう)大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)が開いたお寺で、奈良の東大寺を開いた良辯(ろうべん)上人(六八九ー七七三)が、天平十一年(七三九)に伽(が)藍(らん)を整えました。最も栄えたときには山中(やまなか)という地を中心に広大な寺(じ)領(りょう)をもち、僧房(=お坊さんが修行したり生活をする建物)が五六棟もある大きなお寺でした。観音寺はその後、仁寿三年(八五三)に法満寺の五別院[註]といって、法満寺を代表する五つのお寺のうちのひとつとして、いまの小口松ヶ岡の観音谷というところに建てられました。

 小(お)口(ぐち)は、むかし牟禮山と呼ばれた土地と箱石山と呼ばれた土地とのちょうど境にあります。小口より南、山(やま)中(なか)までは「牟(む)礼(れ)山(ざん)」といい、小口の北側にある薬(くず)師(し)から鏡(かがみ)までは「箱(はこ)石(せき)山(ざん)」と呼ばれていました。そのころは、「箱石千軒、牟礼千軒」と言われるほど、このあたりの山丘地帯には合わせて二千戸もの家が建ち並び、賑わっていようです。そのころの法満寺には、たくさんの僧(そう)兵(へい)がいました。また、鏡(かがみ)山(やま)の一峯にあった箱石山雲(うん)冠(がん)寺(じ)(雲観寺)もたいへん大きなお寺で、ここにもたくさんの僧兵がいて、何百年にもわたり、この二つのお寺の間には、たびたび争いが繰り返されたと記録にあります。

 時代はくだって戦国時代、天正年間(一五七三ー一五九二)に織田信長の兵によって雲冠寺とともに法満寺は焼き討ちに遭(あ)い、数多くのお寺や仏像が焼け落ちてしまいました。しかし、すべてが焼け野原となってしまったこの山に、不思議にもこの十一面観音さまだけは、厳(おごそ)かなお姿で、たたずんでおられました。そのお顔は慈悲にあふれ、ひとびとの争いを憐(あわ)れんでおられるようでした。

 それから一〇〇年ほどの間の様子はわかりませんが、江戸時代になって、列(れつ)岑(しん)鈞(きん)禅師(?ー一七〇二)という和尚さまがこの村におられました。ある夜のこと、この和尚さまの夢の中に観音さまが現われました。観音さまは「ここより少し南の臨川山(いまの場所)にわたしを迎え、末代までこの村(小口)の氏(うじ)仏(ぼとけ)として崇めよ」と言われました。そこで、和尚さまは現在の地に寺を建て、寺号を牟礼山観音寺としました。それは寛文二年(一六六二)のことでした。まもなく西(せい)鮮(せん)禅(ぜん)東(とう)禅師という和尚さまがこの寺の住職をされ、新たに臨済宗の禅寺としました。

 明治末から大正初め頃には、住職不在の時期もありましたが、大正七年(一九一八)に瑞岳玉道尼が住して諸堂の修復に力を尽くしました。その後三代にわたって尼僧さんが住職をされていたことがあります。

 観音寺の本尊さまは秘仏とされています。普段はお廚司の中に入っておられ、そのお姿を直接拝むことができませんが、六〇年に一度だけ行われる大開帳のときと、三〇年に一度行われる中開帳のときに、そのお姿を拝むことができます。最近では平成十二年に大開張が盛大に行われました。

 なお、観音寺の山の奥には、小口出身の蘭学者・奥(おく)東(とう)江(ごう)先生の塋(えい)域(いき)があります。奥家はいまの観音寺が建っている土地を所有していましたが、観音寺を移築する際に、この土地を観音寺に寄進されました。

[註]

「法満寺の五別院」
 薬師寺・法鏡寺・尊乗寺・弓削寺・観音寺の五箇寺をいう(『弓削寺史』)。
  • 薬師寺は、薬師の沖に現存。本尊薬師如来。
  • 法鏡寺は、山野上にあったが今は廃寺となっている。僧房十二宇、金蕭菩薩開基、応安二戊申年(1369)、寛律師再建。
  • 尊乗寺は、山之上に法蓮寺と改称して現存。本尊薬師如来。建保二年(1214)、下司大江定澄、大村入道覚円再建。
  • 弓削寺は、弓削にあったが今は廃寺となっている。本尊釈迦如来、僧房二宇。
  • 観音寺は、小口邑に現存。本尊觀世音菩薩。僧房三宇、仁寿三年(853)草創。
 また、『興福寺官務牒疏』(『大日本仏教全書』119 )によると、法満寺は寛治六年(1092)、堀川天皇の御代(1086-1107)に官寺となり、同寺の別院としてこの五箇寺が再建されたことを知る。なお、同史料によれば、それ以前、現在の観音寺の本尊である十一面観音は、岡屋・山之上・磯部・宮川・野殿の鎮守として祀られていたことがわかる。
「法滿寺。在蒲生郡牟禮山。僧房五十六宇、交衆十二口。文武帝大寶元年、金蕭大菩薩開基。続良辯僧正天平十一年伽藍建立。本尊丈六釋迦佛、十一面大士鎮守五箇所、岡屋神・山之上神・磯部神・宮川神・野殿神也。堀河帝、寛治六年<1092>賜官載伽藍、再建法満寺別院五箇所、薬師寺・法鏡寺・尊乗寺・弓削寺・観音寺」
(文責:観音寺住職・吉田叡禮)



牟禮山觀音寺年表

●推古天皇九年(601)
聖徳太子、一刀三礼にて十一面観音を御作。

●大宝元年(701)
金蕭大菩薩、法満寺を開基。

●天平十七年(745)
良辯僧正、法満寺の伽藍を建立整備。

●仁寿三年(853)
観音寺創立(法満寺五別院の一つ)。

●承暦二年(1078)
法満寺衆徒、箱石山雲冠寺全焼。

●寛治六年(1092)
堀河天皇、官寺として観音寺を再建。

●天正年間(1573−1592)
織田軍の兵火により全焼。観音像のみ厳然として残る。

●寛文二年(1662)
列岑鈞禅師、再建。

●元祿十五年(1702)正月十九日
中興開山列岑鈞禅師遷化。

●元禄年間(1688−1704)
西鮮禅東禅師、法脈を立てて開創。

●正コ四暦甲午(1714)正月初七日
再中興開山西鮮禅東禅師遷化。

●正保三年(1646)
奥家、践祚の所有山林を寄進。

●明治九年(1876)十二月九日
当山第六世臨山惠温禅師遷化。一度法脈絶えるも、俊道志英禅師、次いで清嶽文冷禅師が歴住。清嶽文冷禅師遷化後、無住となる。

●大正七年(1918)
瑞岳玉道尼、諸堂の修復に尽力。

●平成19年(2007)
京都花園大本山妙心寺より絶學叡禮和尚が住持拝命。 それまで尼僧寺であったのを比丘寺に改める。

 

■余話

 小口には俗に観音谷といわれる地名がある(今の松ヶ岡団地内)。観音寺は法満寺の五別院の一として、仁寿三年(853)に開創された。建立は此の地なり。

 後、元禄五年(1692)、奥東江先生の奥家に遺されし「遺誡の条条」に依れば、同年より四十六年前、同家の践祚の所有山林より観音寺に寄付されしことを明記しあり。即ち今より350年前のことなり(正保三年(1646)に当たる)。山號の牟禮山は、法満寺からの山号で、観音寺には別に臨川山の山号がある(祖父川に臨むという意味かも知れぬ)。東江先生の塋域も臨川山の奥に葬ると記されている。

 京都花園妙心寺の末寺にして、僧西鮮を中興とす。
十一面觀音菩薩で、聖徳太子廿八歳の御時、一刀三礼の御作と伝う。六十年に一度開帳、三十年に中開帳を務めるを例とする。近くは明治四十年(1907)・昭和十一年(1936)・昭和四十二年(1967)・平成十一年(1999)に当たる。開帳毎に縁起説きを行う。其の文下の如し。

抑モ、當寺本尊十一面觀世音菩薩ハ、恭クモ聖コ太子二十八歳ノ御時、一刀三禮ノ御作ナリ。是ヨリ西方牟禮山千坊御建立アリシ御本地佛ナリシガ、鳴呼時ナル哉、天正年中兵火ノ爲数多佛像皆灰塵ニ帰スト雖モ此ノ尊像ハ厳然トシテ残サセ給フ。或夜開山列岑和尚夢ノ告ゲニ隨ヒ此ノ山ニ迎ヘ奉リ、一村末代ノ氏佛ト崇メ、即チ寺ヲ牟禮山觀音寺ト號ス。所謂十一面トハ阿彌陀如來ヲ頂上ニ戴キ、寶冠ノ内ニ九体ノ菩薩ヲ勧請シ、末世諸人ノ機縁ニ應ジ、一度拝禮ノ輩、慈悲廣大ノ手ニ攝取セシメントノ御本願ナリ。
各謹ミテ拝禮ヲ遂ゲラルベシ。


かつて観音寺が在った観音谷
(現・松ヶ岡の東端)

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