■はじめに
誰も見ていないでしょうが、一庵堂のトップページの独り言の欄に
2003/03/11-03/20 うーむ、体力の限界かな〜〜
2003/05/06-06/メンタルな問題も絡んでいるよう....疲れた、鬱かな
と書いているように、2003/3/11-3/20に気管支喘息で入院してから不定愁訴が続き、
5/6頃に鬱の可能性を感じて心療内科に通い始めました。
その後、休職時に診断書を見た時には”自律神経失調症”とか”慢性疲労症候群”
と書かれていました。
現在は当時より苦痛は減りましたが、まだまだ不安定です。
たぶん、職業エンジニアにとって鬱とは他人事では済まされない、非常に身近な恐怖だと思います。
もう既に罹患してしまった方もいらっしゃるかも知れません。
そんな方々に私の経験した事を話して、復帰への手掛かりとしていただけるようにこの文書を書きました。
普段、エンジニア向けの技術的な内容を書くのは比較的得意だと思っている私ですが、今回はいささか赤裸々な感じがして、ちょっと気が引けますが、同じ苦しみを味わっている同輩達を救いたい、
最悪、自分がもう一度同じ状態になった時に参考にする物を持っていたいという欲求からまとめてみました。
■社会的背景
今、ある程度健康になったからここまでわかったのだと思いますが、
当時のエンジニアは年功序列制を背景に家庭的な雰囲気があったのだと思います。
まあ、只働きだけど同僚の分をカバーしてやるとか、あの人がそういっているからやりたくないけど、恩義があるから、やってやるかとかそんな感じで職業エンジニアとしてデビューしました。
男女雇用均等法は私の世代より前に施行されたため、数は少ないながらも女性のエンジニア
がいた為、それには違和感を感じていませんでした。
当時、女性は「腰掛けだから」とか「女性だから」というだけで、劣るように言う人がいましたが、私はそう感じた事は有りませんでした。
そう、男性だからといっても、使える人間は非常に少ないと感じていたため、問題は性差では無い事は明白に思えました。
むしろ「子供の頃にラジオを作った事がある。」>「夏休みの自由研究や工作をちゃんと自分でやっている。」>>「それ以外」
みたいに考えていました。(この印象は今も払拭していません。)
その後、成果主義の時代が到達しました。成果主義といってもエンジニアの成果というのは
漠然としていて、
うちの会社では実際”成果を出したエンジニア”よりもゴルフなんかで愛嬌を振りまいている
YESマンの方が”成果を出したエンジニアの出した成果”を二つ上くらい上の上長が割り当てて
しまって、直接の上長も当然YESマンなので”成果を出したエンジニア”が冷遇される状態が
続きました。
当時はまだ年功制の名残もあり、今から思えば、まだ我慢の出来る状態だったと思います。
実際、フロントラインの開発には莫大な開発費がかかり、直近の顧客から得られる利益と比較して
あまりにも多いため、十分な開発費を得られず、予算オーバーをしばしば咎められていました。
その後、事業として利益が出てくるのはフロントラインの開発を流用して、比較的低予算で利益を得られる2番目、3番目のプロジェクトでした。
当然、そう言うリスクが少なく収益性の高いプロジェクトは上述の通りYESマンがあてがわれ、
開発に苦労し、”成果を出したエンジニア”は次のフロントラインに飛ばされるというスタイルが当然のように行われていました。
難しいタスクを優れた者にやらせる事は、理にかなっています。ここでの問題はタスクも難易にかかわらず、負荷が等しいと仮定しているところです。
当時の私は昇進とか興味もなかったので、下手に昇進していけ好かない連中の派閥の構成員とされて、休日まで
ゴルフのつきあいをさせられるとか全く持ってイヤだったし、開発自体好きだったので
それでも十分だと思っていました。
それでも、そんなYESマンと比較して給料が安い=会社から格下に見られている事は不満でした。
*
それから、ネオコンの時代と言うのでしょうか?
金融商品が世界経済を支配し、その上で新興国による安い労働者賃金を武器にした
ワールドワイドな殴り込みが行われ、製造物の価格破壊の時代に突入します。
社会は派遣労働形態を普及することによって解決を試みます。
派遣労働は長期的スパンの福利厚生関係の費用や諸々の維持費が発生しないので、労働者賃金の低価格化が可能になりました。
結果的に見て、終身雇用、年功序列制等の戦後の復興を支えてきた社会保障的な資本主義は、この次点で崩壊したのでは無かろうかと思います。
金融商品の問題としては好景気により借入金依存率が高まり、不景気により金融機関の貸し渋り
と、その繰り返しによって、不透明な社会が形成されます。
そこで、巨大資本を背景に”金融工学という名前の博打”や自称”モノ言う株主”というヤカラが増えていきます。
比較的規模の大きい会社に就職していた(現在もですが…)私は幸運にも”キャッシュフローが滞って倒産”と言う直接的悲劇的な事態には陥りませんでした。
しかし、こんな風潮を背景に私の苦しみは増えました。
- 短期に投資回収可能な仕事が優先され、長期的に費用が発生する事に対して、会社は金を出さなくなりました。
結果として見かけ上の人件費を抑圧するために開発工程が極端に短くなりました。
同様な理由で開発機種の背景とか、成文化されていない常識等を知らない派遣社員の人も
同じ戦力として数えられました。(RPGの経験値がMAXとMINでも同じ戦力見積もりという事です。)
-
この頃にはS/W開発にべらぼうな金がかかる事は認知されていたため、少ない開発費のほとんどをS/W屋が持っていってしまいました。
-
私にとって一番堪(こた)えたのは、この頃ブームだった、カリスマ経営者風の
文句を言うだけで責任を取ろうとしない権力バカが上がそれなら下もそれ式に
連鎖反応を起こして、将棋倒し式に一気に指揮系統に蔓延したことです。
(年功序列制を背景にした時代には、創業家の同族経営みたいな緩慢ではあるけど、長期的展望及びリスク見積もりがあったように思います。)
簡単に言うと、会社全体が人工(にんくと読む。man manth:マンマンスの事)でしか、
物を把握できない人間が非常に多くなり、そいつらが指揮系統を動かしていたと言う事です。
(こういった問題は「人月の神話―狼人間を撃つ銀の弾はない "The Mysthical man-month:essay on software engineering")
」
にすら書かれている事ですから、1970年代にはナンセンスとわかっていた事で、
それが経済の衰退とともに、無視されたのです。)
まあエンジニアの力量、経験が大きな要因に成らないずに知的作業が出来るように
(簡単に言うと、単純作業労働者でも高度に知的な論文を書けるようにするような事です。)、
あまたの高級言語、UML、VHDL
とかの道具が開発されたわけですが、そこまでブレークダウンする人の力量及び必要な時間を
無視しいたら無駄なのは自明です。
勇気あるエンジニアたちは”自分の付加価値”を認めない会社に嫌気がさしてさっさと
給料の良い=付加価値を認めてくれる、会社に旅立っていきました。
この時代、半導体やLCDの分野で従事している日本のエンジニアを、韓国企業が
土日だけ非常な高給で雇っていた事が、技術流出として騒がれた事がありました。
たぶん裏には”自分の付加価値”を認めない会社に対する”見切り”みたいのがあったのだと
思います。
私の場合、義を重んじる私の良心(フロイトの言葉で「良心とは心の両親である」と言うのがあります。)は
年功序列をベースにした家族的な階層構造に義を感じ、転職の二文字は思い浮かびませんでした。
そして、自己同一性のない(=責任感の無い)YESマンor己の昇進しか目がない権力志向の馬鹿どもが
開発規模も考えず適当に書いたWBS(Work Breakdown Structure)を実現するために、
尻ぬぐいを押しつけられた、高付加価値をつける人間ほど負荷が高くなる。と言う図式が成り立ちました。
トップレベルのエンジニアが不眠不休で働き続けてやっと実現できるようなWBSを
前提条件を全く把握していない、モバイト君レベルの人間を1人工としてあてがわれるのですから、
開発の状況は地獄です。(死屍累々と言う言葉以外に適当な言葉は思いつきません。)
そんな状況が続き、ついに私も死屍になる順番が廻ってきたのです。
■始まりの出来事
私は当時、会社に計上している時間と実際の就業時間の乖離に危機を感じていて、毎日、
計上した就業時間と実際の就業時間をデータとして取っていました。(ちなみに今は勤怠時間と実際の入退社時間が同時に管理されるようになったのでやめています。)
当然、理由は私の身に何かあった時に発生する”労働争議時”に有利に運ぼうと思ったからです。
2003年この頃の私は3つの仕事を同時に並行して行っていました。
負荷ばっかり高くて、収益性が見込まれず、と言って、無視できない重要顧客の難しい仕事を押しつけられた形です。
言うべき事は言う主義なので、納期と比較して布陣が絶望的に貧弱なので必要スキル及び人数を上長に連絡を常にしていました。しかし、救援来ずという状況が続きます。
(ちなみに、この上長、元同僚で権力志向があまりにも強いので私は避けていたのですが、あろう事か2002/4より私の上長として居座りました。案の定、自分の出世に都合の悪い事はすべて無視されました。)
その後の一落千丈な過程をまとめると次の通りです。
| 2002/11-12 | 日曜日はかろうじて休み、その他は23時以降に退社。(でも時々10:30出社する時もありました。)、腰痛で2日休んだり、別部署の同僚に非道くなじられ「この開発が終わったら設計を辞める。」と誓う。 |
| 2003/1/31-2/6 | 連日の過負荷、精神的ストレスおよび新幹線の移動に耐えきれずに40℃の発熱。 |
| 2003/3/10 | 40℃の熱を出し、近所のT医院に行く。医者の帰りに風が吹いたら息が出来なくなる。 |
| 2003/3/11 | 状況変わらず、再度T医院に行く。前日の話をするとパルスオキシメータで指を挟まれた後、血相を変えられて総合病院にタクシーで行かされる。総合病院ではボロボロな状態にもかかわらず色々な検査をされ、結局の所パルスオキシメータで指を挟まれて、そのまま酸素吸入器をつけられて車椅子に乗せられて入院。病名は気管支喘息。 |
| 2003/3/11-19 | 酸素吸入が常に必要で、病院ではベットから移動は出きなかった。しかし、酸素吸入をしながら横になっている状態では比較的楽になってきたので、その月のトラ技を差し入れてもらって、暇な時は読んでいた。上長が見舞いに来た。(たぶん、このとき異動を思いついたのだと思う。) |
| 2003/3/20 | 退院。体力が無くなっていて、ほとんど歩けず。タクシーで家に帰る。 |
| 2003/3/21-23 | 土、日、休日とカレンダー通りに休み、リハビリに散歩などする。 |
| 2003/3/25 | 突然、全く関係のない工場に異動を命じられる。 |
| 2003/3/27 | 自分の送迎会に参加。ビールをコップ3杯呑んで呼吸困難になる。(ここ半年ほとんど飲酒していなかった) |
| 2003/3/31 | しばしば呼吸困難に襲われ、花粉症の時期でもあるので、アレルギー検査を
受ける。後日、花粉、ダニ、カビ、ハウスダストでアレルギー反応が無い事がわかる。 |
| 2003/4/1 | 新しい職場に出社するも呼吸困難の発作がでる。 |
■自律神経失調症、鬱とは
自律神経失調症、鬱関係の本を読んでいると色々な症状が書いてあります。
しかし、自分がなった経験から想像するに、罹患した人の、その時の環境、状況、性格(=それまでの環境、状況が生み出した物)から
病気の個性というか、もの凄く多くのバリエーションがあるような気がします。
私の場合の愁訴を列挙すると、
- 疲労症状が強い。
とにかく疲れます、立ってる事は当然として、横になっている事すら苦痛です。体温の常温が変な温度になっていたため、かも知れません。
- 食欲が無くなる。
まあ、病気だから食欲が無くなるのはある程度、当たり前なんですが、これが思わぬ伏兵になりました。疲労感が高いのでほとんど動けなくなります。そこで、食欲が無くなっているわけですから、物も食べなくなります。すると物を食べないでいると、いよいよ疲労感が高くなり動けなくなるという悪循環にはまります。運の悪い人は、この悪循環で餓死してしまった人がいるそうです。
- 体温が安定しない。
概ね、起床時は35℃の前半代で、ちょっと疲れると、すぐに37℃後半になってしまい、36℃代とどめる事が出来ませんでした。その関係でしょうか、午前中は気分が優れず、お昼頃からゆっくりと楽になってきて、夕方5時位になると37度位まであがって疲れにピークがきます。その後、少し楽になるパターンでした。
- 呼吸が苦しくなる。
特に湿度が高くなると起こりやすかったのですが、呼吸が苦しくなる事が頻繁にありました。
私の場合、トリガーが気管支喘息だったので努めて大きく呼吸をするようにしていたのですが、一度過呼吸、過換気を起こした事があります。
過呼吸、過換気
聞いた感じで、たいしたこと無い。って思う人がいると思いますが、実際なってみるとかなりやっかいです。
何が大変と言って、酸素が少ない時も、二酸化炭素が少なくなっても、感覚的に全く同じ感覚の息苦しさです。つまり、息苦しい時、呼吸をしていると何時かの時点で過呼吸に切り替わっていても苦しんでいる本人には全く区別が付かないのです。
この息苦しさを少しでも緩和しようと診療所に行ったら、精神安定剤を処方されて2時間位休んでいたら少し楽になりました。
2003/05/06この事件をきっかけに自分が”鬱”では無いかと言う疑念は、確信にかわり心療内科を訪れるきっかけとなりました。
- 眠れない。
最初、自律神経失調症、鬱関係でダウンをしたのが、眠れないことでした。普通の人は眠れない事くらいたいしたこと無いと思うかも知れません。
しかし、非常に弱っている状態で2日眠れないと全く動く事が出来なくなります。
で、疲れまくっているのに眠れないとこれもまた結構苦痛です。
- 情報がつらい
五感に入る情報がすべて辛くなります。
- 視覚(その1)
光のコントラストが変わります。私は、かなり酔って、醒めてくると、コントラストと視力が上がる気がするのですが、それと似たような感じに物が見えて、クッキリ見えすぎてまぶしく感じる事がしばしばありました。
- 視覚(その2)
仕事がいそがしい頃から、その傾向があったので、もしかすると体がアラームを発していたのかも知れません。脳の動きが落ちているため、人の話を理解するために良く目を閉じて話を聞いていました。(というか、酷くなると目を開けていられませんでした。)
有る程度元気になってみて、他人の話を普通に目を開けて話を聞く事が出来るようになりました。
- 聴覚
TV、ラジオ、音楽すべて苦痛になりました。
NHKの”手話ニュース”みたいなゆっくりとしたニュースや、静かになっている空調音とかはなんとか、聞けていたと思います。
- 触覚
これについては大して記憶に残っていません。あまり、私が生活する上で重要な感覚ではなかったのかも知れません。
- 味覚
一番酷い時は味が全くなくなり、何を食べても味がしませんでした。比較的”塩味”だけは
最後まで残っていて”うどん”を食べている時、塩水を飲んでいるような気がしたのを覚えています。
- 嗅覚
香水のにおいはダメなのは当然として、意外ときついのが、雨がさーっと降った後ににおう、カビの臭いです。この臭いがすると今でも息が苦しくなります。
- 平衡感覚
立ちくらみ等で、もの凄くふらつきます。
こんな状況ですから、人混みなんかはもってのほかでした。
- 病気にかかりやすい
たぶん、免疫力が落ちているからだと思いますが、もの凄く、簡単に様々な病気にかかりました。
- 胸焼け
- 胃痛
私は以前にもストレス性の胃炎、十二指腸潰瘍なんかをやった事があるのですが、この時期の胃痛の痛みは耐えられない位の痛みでした。ここ最近の私の胃痛はブスコパンの注射、投薬では効かずにガスターの注射、投薬後、時間がたってから楽になる傾向がありました。もしかすると、SSRIやマイナートランキライザーの影響があったのかも知れません。
- 下痢
兎に角、色々な原因で下痢をしました。下痢をすると、それだけでもの凄く体力を使います。それも、すぐピッって感じの状態になるので、トイレの心配だけで家から出られない状態の日もありました。正直言って一人暮らしですが、介護用のおむつを買おうかと思った時が何度もあります。(おむつを買いに行く体力すら残っていなかったので、トイレにへばりついていました。)
- 腰痛。
腰痛については別の機会に詳細に書こうと思いますが、治ってからわかった事ですが、心理的ストレスは腰痛を生じ、腰痛の痛みはそれ自体がストレスになる事によって、鬱や自律神経失調の状態にスタックする可能性がある気がします。
- 発熱、その他。
今までかかった事のある病気はこの期間に再度かかりました。
- 涙もろくなる
苦しくて泣き言は随分に言いました、でも実際に泣く事は有りませんでした。
しかし、確かに涙もろくなっていて、ふとした瞬間に何かがフラッシュバックして、涙がだくだく流れる事は有りました。(涙が出ている時に、既になんで涙が流れているかわかっていないことがありました。)
これは私が一人暮らしをしているために、泣いても誰もかまってくれ無いってのと、他人の面前で泣いたら、いよいよ社会から隔離される。→そのまま孤独死。
と言うのを恐れていたから、のような気がします。
- 自殺念慮
「鬱病は自殺する可能性があるので、死ぬ危険性がある病気」と言われていますが、幸運な事に自殺をしたいと思ったことはほとんどありませんでした。今は苦しいのはヤマヤマだが
自殺したら世間に敗北を認める事になると思って自殺には向かいませんでした。(調子の悪い時は、全く動けませんでしたし…)
まあ、病気になった時点で既に世間で敗北していますが…、
私の事を目障りと思っているヤツらが「ああ、やっぱり死んだ」と言うことが、容易に想像できたので、そう言うヤツらに「絶対、勝利宣言はさせない!!」という執念が勝った結果と思います。
- 貧乏ゆすりが出る。
貧乏ゆすりが我慢できなくなりました。
- 得意な事、好きな事が全く出来なくなる。
私は文書を書く事は、結構好きな事の部類に入ります。この時期、仕事の関係で何回か文書を書かなければいけない時がありましたが、頭にはまったく何も浮かばなくなりました。ただ、時間が過ぎていくプレッシャーだけが残って非常に辛くなりました。長い時間をかけてやっと出来た結果もボロボロの物でした。
と言うところに特徴があったと思います。
私の場合をランダムに列挙したので理解しづらいと思いますので、最近マンガで鬱について、うまく書いてある本を見つけたので紹介します。
私の場合と病気の個性の部分で違いがありますが、概ねこんな感じでした。
■最後に
まだ、私は寛解(かんかい)への道のりを歩んでいる状態ですが、
模索した過程で発見した事を習慣化する事によって、社会的に問題のある部分を解消して行っているように思います。完全に習慣化された時に、その問題は解消しますが、習慣化されてしまった後では
他の人に伝えるべき事に気が付かなくなっている可能性が高いです。
そこで、忘れないうちに文書化し、今後、再び同じような状態になった時に役立てようと思い文書にしました。
Last Up Date '09/08/02
Original '09/07/28