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Vol.1●100円頂戴

それは、今から二年ほど前の事になるだろうか。丁度、暮れも押し詰まった寒い夜の事だ。事務所から駅に向かって歩いていた私はいつも途中のローソンでコーヒーと新聞を買うのを日課としている。ここで大抵小銭が棚卸しされる。時には小銭がなくて千円札が棚卸しされることもある。ローソンで受け取ったお釣りの小銭をポケットに押し込んで駅に向かって歩いていると私を呼び止める声がした。自転車に乗った60代とおぼしき老婆が私にこう言ったのだ。

兄ちゃん、100円ちょ〜だい。

確かに戦後のギブミーチョコレート世代かもしれない。だけど、最終電車も近い夜に言われると虚をつかれる。

なあ、兄ちゃん、今日な、ワシ何も食べてへんねん。腹が減って仕方ないねん。

これが若い美しい女性なら60分二万円出したであろうことは想像に難くないが(…って、ちゃうちゃう)一体、このおばあちゃんの家族はどないなっとんねん。もしかして天涯孤独か?それともぼけて身体だけは元気なおばちゃんか?きつい嫁にいびられて放浪してるんかいな。こんな夜遅くに自転車に乗ってる事態、尋常とは言えない。老婆の生きてきた人生の背景が浮かんでは消えた。そしてあまりにしつこい100円頂戴という声に負けて、遂にポケットから適当に小銭を取り出し手渡した。

老婆は鬼のような形相で数えだした。

やるせない気分だった。今のこの世の中で見ず知らずの人間に100円頂戴ってのが異様である。その割に身なりは小綺麗だったが、人には人の事情があるのだろう。老婆の辿ってきた人生を想像しながら駅に向かって歩いていると、健脚を飛ばした老婆が颯爽と自転車で横を南に向かって駆け抜けながら、兄ちゃんありがと〜と声を残して消えていった。中年に兄ちゃんもないが、老婆から見れば立派にお兄ちゃんなんだろう。

良いことをしたのか?あのおばあちゃんはこの寒い中をどうやって寝るんだろう。家は近くか?あの小銭で何を買って食べるのだろう。食べた後どうするんだ?明日の生活はどうするんだ。解けない謎と複雑な疑問を残しながら電車に乗った。

情けは人の為ならず…という言葉が頭の中を駆けめぐった。それは情けをかけてはいけないのではなく、人に情をかけるのは結局自分の為だよという諺である。鶴の恩返しという話がある。鶴と言うよりダチョウに近いがまあいい。人に受けた恩を後で返すのだ。ここほれワンワンの花咲じいさんの話だって似たようなものだ。人に親切にするとどっかで回り回って善意は返ってくるのだ。毎日同じ道を歩いて同じ頃の時間に帰る。ぼけた老人の話を聞いて家族がお礼にやってくる事も考えられる。

その昔、丸太のような腕をした知り合いの人が暴走族にそういう事をするな…と善意で注意したところ、後で待ち伏せされてきっちりお礼をされた話を思い出した。

だが、繰り返しの日常はどんな異様な事も、そのうちに遠い場所へと追いやってしまう。私はすっかりそんなことは忘れてしまっていた。帰り道を今時珍しい奇特な人を捜して待っているかもというあり得ない妄想も、もしかしたらお金持ちの家のおばあちゃんで、家族が金に糸目を付けず親切な人を捜すかもしれないということも、話を聞いた美人の娘が、そんな人となら一夜を共にしたいという、いかにもありそうな願いもみなすっかり頭から消え去っていたのだ。偶然はそんな簡単にやってはこない。

だが、なんと偶然はやってきたのだ。一ヶ月ほど過ぎたある寒い夜、ローソンの前で、私を呼び止める声がしたのだ。振り返って私は驚かずにはいられなかった。そして、声の主は私にこう言ったのだ。


兄ちゃん、100円ちょ〜だい。今日な、ワシ何も食べてへんねん。

情けは人の為ならず…という言葉が頭の中を駆けめぐった。情けは決して人にかけてはいけない。クセになるとろくなことないぞという軽挙を戒める諺だ。鶴の恩返しは昔話にあるが、サギの恩返しは聞いた事ないもんなあ。

何はともあれ、第一回。不定期にこのコラムは更新していきます。どうぞよろしく。

2003.12.17(ふゆき)

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