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自衛隊のイラク派遣にからんで新聞テレビが色々と騒がしい。違憲だ、いや合憲だという問題より先に、派遣される方を考えれば、責任の所在がはっきりしない。日本はいつも責任の取り方が曖昧である。派遣される方はたまったもんじゃないと思えて仕方ない。古賀某さんの学歴詐称問題もそうだが、自分で間違えた事に対する責任の取り方が実に杜撰だ。
今の世の中、自己責任という言葉をよくきく。自分の事に関しては自分で責任をとろうという実にまっとうで当たり前の話しなのだ。お前はどうなんだと言われそうだが、サーバーぶっ飛ばして途方にくれてる私だが、責任を他人になすりつけたくても責任転嫁する他人がいないのであるから仕方ない。全ては自分の責任としか言いようがないのである。逆に言えば他人のせいで飛んだ訳ではないのが救いである。全て自分でかぶると言うことはある意味すっきりして気持の良い事だ。
ま、私はローカルの一デザイナーであるので、インターネットに精通していたり、機械に精通している訳でもないので仕方ない。諦めるしかないという実に潔い姿勢である。それしか方法がないとも言える。それでも責任感が強いので、いつも仕事に使っていた人は困っているだろうな…と思うと、心の奥で申し訳ない…と呟くのである。さらにその心の奥底で、シェアウエアっていったって、たかが1000円やん。ごちゃごちゃいわんといて…という気持ちを必死で押さえつつ…ごめんね…と謝るのである。
さて、私は、そのデザインの仕事をしているせいか、どこの美大を出たんですか?美術専門学校とかデザイン専門学校を出たんですか?…とよく聞かれた。いわば作品を作るとその作品はどこそこの学校を卒業した人の作品である…と主張するわけだ。つまりは卒業生は学校に対する責任みたいなものをどこかに背負ってしまうのである。
そこで、いや、私は高校の普通科…って言うと、は?ってな顔をされ、いや、そう言うことではなく、それからの事ですわ…みたいな事を聞かれた。ああ高校を卒業してからの事ですね。高校を卒業してからそのまんま住宅設備関連の会社に行きまして、そして現在に至るですわと答えた(…って全然意味が通じてない。)そうである。全然そういう関係の会社に携わらずに、普通に高校を出て普通に会社に入って、突然独立したのである。独立ったって住宅設備の設備会社を作ったっていうなら話しは通るが、なんでいきなりデザイン事務所やねんって不思議に思う方もいるかもしれません。いやあ、実は自分でも不思議なんですわ。何でやろね〜〜。あっはっは。
そんな起点になったのがもう29年も前の事になる。29年ちゅうたら凄いですねえ。むちゃむちゃ古い話しですわ。高校卒業して大阪に出てきて、右も左も分からない当時の私に、もしも29年前の話しをしてくれる人が居たとしたら、それはきっと大東亜戦争の話しでしょうね。原爆がどうたらこうたら言われても何せ生まれるかなり前の話しですから、何じゃそれ〜ってなもんですわ。今20才位の人が、30年まえってむっちゃ古いやん…と思うでしょう。もう太平洋戦争も東京オリンピックも万博も札幌オリンピックも生まれる前の事で区別がつかず、全部同じに感じるに違いありません。(そんな事はないか)
その札幌オリンピックの三年ほど後の話しである。私は高校を卒業して大阪へとやってきて、とある住宅設備の会社に就職した。私の入った会社は二人一組で車で一般家庭にサービスに回る。新入社員で西宮営業所に配属された私は浅尾さんという嘱託のおっちゃんの運転手をまかされた。当時19才。浅尾さんは仕事が出来て実に器用な人だったが、大のコーヒー好きで、仕事の途中ですぐ喫茶店に行こうと言い出す。名前は忘れたが、行きつけの喫茶店が西宮の小松町というところにあり、そこに行くと小皿に山盛りのピーナツが出てくるのだ。コーヒーを飲みながら、このピーナツをかじるのが無常の喜びのように見えた。どんなに忙しかろうが、どんな大事な仕事を抱えていようが、喫茶店に行くのだけは絶対に欠かさない人だった。私はその時19才。当然逆らえない。
ある時、これは大事な客だからどんな事があっても片付けるように言われた仕事があった。いやあ、新入社員なんてもんは、誰でも経験があると思いますが、例えどんな仕事でも責任を負わされると張り切るもんでございます。ご多分に漏れず私も、運転手から脱皮して一人前になるチャンスである。責任感を感じ張り切った。しかし、時間になると浅尾さんは、どうしても喫茶店に行けと私に命令するのである。
「上司にこれはちゃんと片付けろと言われましたが…」と私が言うと、
あいか、あいつならにワシがちゃんとゆうたる、心配すな!と言うので仕方なしに喫茶店に行く。しかしどこか落ち着かない。責任感の強すぎる一面が災いするのである。そして、5時になるといつもの如く帰るぞ!といって無理やり会社に帰還する。だが、車を駐車場に片付けて戻るわずかの瞬間に浅尾のおっさんの姿は消えていた。あ!ど、どこに行った!と会社の外に飛び出すと、自転車に乗って去り行く浅尾のおっさんの姿があった。会社の事務所から、仕事を残して帰って来た事に腹をたてた上司の怒鳴り声が聞こえた。
わしがゆうたるって話しはどないなっとんねんとばかりに「あ、浅尾さ〜〜〜〜ん!」と、私は必死で叫ぶ。
だが、振り向いたおっさんは、
「おーっ、たなかぁ〜〜、あとは頼んだぞぉ〜〜!」
そう叫ぶと、国道2号線沿いに小さく消えて行ったのだった…。
こうして上司ににひどく叱られた私は、責任感の薄い奴だというレッテルを貼られ、次第に信用を失っていったのだ。今思い出しても実に悲しい出来事だ。責任という奴は人にかぶせられない。今も昔も実に潔い男であったのだ。(誰や、そこで首振ってる奴は)
しっかし、一体この話しのどこがデザイン事務所を作った起点になる話しやねんと思うかもしれない。実は私にもよくわからないのである。昭和49年の出来事。話しはこれからまだまだ続くのであった。

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