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堕ちた価値(upload.6.4/pm5:50)

毎日誰もが何がしかのお金を稼ぐ為に働いている。それは食うため、遊ぶため、理由は色々あれど、稼がなくても良いという幸運を持った人など殆どいない。お金だけが人生ではない。お金は時として人の心を歪めてしまうものである。それでも財布にお金がいっぱいあるとゆとりが生まれるのもまた事実である。誰だって福沢諭吉があると嬉しいのである(この表現、聖徳太子の方がしっくり来るのは私だけではないだろう)

いや別に福沢さんとは言わない。新渡戸稲造でもかまわないし、値打ちが落ちぶれたりといえども夏目漱石さんだっていっぱい有ればそれなりに嬉しいものである。しかし、少しも嬉しくないものがある。

それは1円玉。

強制通用権があって20枚も渡そうとすると拒否されても仕方ないという事になっている。その強制通用権を行使されるまでもなく、20枚も使おうとする事自体が恥ずかしいと思われ、相手に受取を拒否される前に、使用する側から自主的に使う事を拒否されてしまう事が哀れである。10円だと自動販売機が受け付けてくれるが1円だと機械たる販売機にすら拒否される。

例え落ちていても誰も拾わない。これはもう拾う動作が1円に値しないという、アルミでは…いや、ある意味では貨幣としての価値を失ったに等しい悲しい存在である。もしも拾って警察に届けたら、警察官にこの忙しい時にふざけているのかと思われて迷惑がられる事必定である。拾得物をポケットに入れたら罪である。届けなければいけないのだ。だが、法の番人から届ける事を否定されるということは、有る意味では貨幣としての価値を認められていないに等しい。

消費税が出来てから失われていたその存在価値をアピールし出したが、お釣りでもらった財布の中から1円玉を抹消したい衝動に駆られる。お釣りで1円玉をいっぱい貰うと実に不愉快である。これは邪魔であるという証拠で、もう財布の中に入れておくにも値しないという、ある意味では貨幣としての価値を失ったに等しい。いわば塵のようなものである。しかし、昔の人はこう言った。塵もつもれば邪魔となる。…って、やっぱり邪魔なのだ。だが、うまくできたもので1円を軽んじると1円に泣かされる。1円を始末したがために、買い物で1円の端数が出た時に9円になって復讐されて跳ね返ってくるのだ。実に嫌な奴である。

その昔、1円と言えば大金だった時代もあったと聞く。千円あれば家が建ったとかいう話も伝え聞く。だが、今では子供ですら1円には見向きもしない。1円上げるからと頼み事をして聞いてくれる子供なんて最近ではいない。子供にすら見捨てられた1円。こう書きながらその存在が何かに似ている事に気がつく。だがそれを私の口から言う事はとても出来ない。あぁ、哀れな1円の行く末や如何に…。

これを読みながら人ごととは思えないお父さんもいるのかもしれんなぁ。見捨てないで拾ってあげましょう。

(ふゆき)