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親父の詩(upload10.4/pm6:30)

私が北陸は福井の方田舎に生まれ落ちた時、きんさんぎんさんは63才、父は51才だった。手で絞った最後の絞りかすの一滴で生まれた…といつも周りに自慢していた。物心ついた時から父はお爺さんだった。その名を松右エ門(まつうえもん)という。どうだカッコイイだろう。あまりのカッコ良さに、兄弟全員が学校の授業参観だけは絶対に来てくれるな…といつも叫んだといういわくつきの名だ。

その父が亡くなって10年が経つ。あの世に見送る時、不思議と涙が一滴も出なかった。親戚や近所の人の手前、万感こもってむせびなく仕草でもした方が世間体は良かったかもしれないが、出来なかった。激しく号泣する悲しみは、時が涙と共に悲しみを過去へ置き去りにする効用がある。しかし淡々と見送った。人の死に際して涙もでないと、誰もが自分は本当は血も涙もない薄情者ではないか…と自問自答する。だが、私にとって父は心の中で生きている。その身が焼かれて亡くなってもその精神は生きているから、悲しくなかったのだ…と自信を持って言い切れる。

うちの親父は不器用な生き方しか出来なかった。利に疎く、どちらかと言えばお人好しな所があった。だけど、そんな親父を私は美しいと思うし、その精神を尊敬もしている。そして親父みたいに生きたいといつも願っている。

死の1年ほど前、生まれたばかりの子を連れて、病院へ親父を見舞った。親父は新聞片手にノートを付けていた。とーちゃんはな、新聞読んでも分からない言葉が多くて、調べても最近ものおぼえが悪くなって…すぐに忘れてしまうから、ノートに付けているんや…と言った。そして、インサイダー取引…と書いて、その説明を一生懸命に鉛筆で書いて反芻していたのだ。親父は勉強家だった。その時86才だった。

親父は、自分の人生をまるで夢のような人生だったとのたまった。もうすぐ死ぬ。あっという間に過ぎ去った一生やった…と。その時親父はガンだった。何いうてん、まだまだ生きてもらわんと…などと気休めを言うのは簡単だ。でも言えなかった。もうすぐ死ぬ…それは半ば口癖のようになってはいたが、親父は自分の死期が近いのを悟っていたかのようだった。

後で聞いた話だが、親父はノートをもうひとつつけていて、そのノートには「夢の断片」というタイトルがつけられていたそうである。夢のような人生だった…と呟いた事と符号が一致していた。過去の悔しい出来事や心情を綴っていたらしい。些細な事だが、村の役をしていた時に自ら損をしても調整に動いていたのに利に動いた…と言われた事がひどく悔しくて、その事を書いていたらしい。親父にとっては許しがたい事だったのだろう。長兄がそんな事を言ったのは誰や…と聞いたが答えてはくれなかったらしい。それはその人間がまだ生きていた証拠でもあった。人の事をとやかく言うのはさらに許せない美学であったに違いない。それは小さい時から背中で教えてもらった。もくもくと勤勉に働き、誠実に動き、一生懸命に勉強する姿をいつも目にしていた。

松右エ門という名はカッコ悪いと思っていたが、松右エ門という人間そのものは、私にとって最高にカッコ良い親父だったのだ。そして、夢の断片は誰に語られる事もなく、結局墓の中に持っていってしまった。今では
松右エ門という名も最高にカッコイイ名前だと思える。

人は生まれた時から死を宣告されている。誰もその死から逃れる事は出来ない。だが身は滅びても精神は生きる事が出来る。父の精神は私の中に生きている。今でも目をつぶれば、語る姿や表情が鮮やかに浮かんでくる。まるでそこにいるかのように。激しい涙は出なかった代わりに、いつまでも忘れる事が出来ない。父は無口で決して能弁ではなかった。だけど背中はいつも多弁だった。そこから学んだ事は多い。いや、無視する事なんて私には出来なかったのだ。老いた父だったからいつも行動に規制がかかった。無茶をすると父が悲しむのではないか…と思ったからだ。

父が私の種を植え付けた年齢に少しづつ近づいている。まだまだ時間はあるが、はっきり言える。その時になっても手で絞らなくても種は植え付ける自信があると…。(自慢にもならん)だけど種を育てる畑が無理なので、おそらく記録の更新は出来ないに違いない。

果たして自分は自分の子に何を残してやれるだろうか。財産?言葉?背中?そんな事をつくづく考えさせられる。そして親父の魂はやっぱり自分の中に生きているのだ…と実感するのである。

(ふゆき)