世の中どこに行っても携帯電話がはびこっている。中学生すら持っている。お陰で公衆電話ボックスの意義はかなり失われつつある。これで公衆電話に並んで待つ時のイライラから解放される。急ぎの用事があるとき、電話ボックスの中で長話をしている場面に遭遇すると、どれほど苛立った事だろうか。待っても待っても、気に留めるようすもなく、100円玉を手に話し続ける。諦めて違う公衆電話に行けば良いのだが、そこには意地もある。それまでの待った時間を無駄にしないために待ち続けるのだ。 女子高生なんかになると、延々と話し続ける。もう犯罪に近い光景に何度出逢った事だろうか。時折こっちに横目をやるが、無視をする。今なあ、うちが掛けてる電話ボックスの前に人が待ってるねん、なかなかしつこい奴やねんこれが。メガネを掛けた誠実そうな男やねんけどな。顔はめっちゃうちの好みなんやけどな、でも他へ行けっちゅうねん、ほんま…とでも言いたいように、しまいには背を向け出す。早くあっちへ行けというサインであろうか。これが無茶無茶ハラが立ったものだ。 公衆電話ボックスがいくつも並んだ所でこれをやられたらたまらない。隣に並べば良かった…と思うのだが、もう終わるに違いない、もうすぐ終わるに違いない、今さら隣に行けないという気持ちが出る。隣に並び直して、場所が空いたら無茶無茶後悔するからだ。そんな経験をした方は大いに違いない。 思えば、その逆の時もあった。それは大阪から遠距離で電話を掛けた時の話だ。まだ私が20才になる前の事、テレホンカードは勿論の事、100円玉の公衆電話もなくて10円玉がなければ電話はかけられなかった頃の事だ。当時住んでいた独身寮の近くの公園に、何回かに一度10円が落ちない公衆電話をみつけた。つまりはどこでも掛け放題になるのだ。夜になると彼女に電話を入れる為にいそいそと10円を山ほど握りしめて公園へ出かけた。最初にコインが落ちないと心の中でやったー!と叫んだものだ。 だが、世の中そうそう思った通りに運ばない。10円玉が落ちない幸運に恵まれたある日、後ろにおっちゃんに待たれたのだ。辺りは誰もいない公園。ぽつんとひとつだけあるむき出しの公衆電話。あっちへ行けよ…というべきあっちもない場所である。これが10円玉がガチャン、ガチャンと落ちている時ならば迷いはない。だが、その時は今度はいつか分からない掛け放題の特典が無になる。簡単に譲る訳にはいかなかった。しかし気の弱い私は後ろで咳払いをしながらタバコを吸いつつ待たれる事に段々耐えられなくなった。 振り返ってみると、おっちゃんの眉間のしわは、こら〜〜、メガネを掛けた誠実そうな顔した軟弱な若者よ、君の気持ちは分かるがええ加減にせんかい!くだらん話はわしが電話を掛けてから後にせいよ!…とでも言っているように感じた。後ろで人が待っているから…と電話を一旦切り、おっちゃんの後にもう一度かけ直した時、無情にもコインは電話機に吸い込まれ天を仰いだ。それはまだ若き私がコインに落ちていた、やがて昭和40年代が終わろうとしていた頃の話だ。 待つも地獄、待たれるも地獄、それぞれの立場で公衆電話は利用されてきた。だが、待つ為に並ぶというのはそれだけ需要があるからに他ならない。家に電話がない家庭はごく希である。だから公衆電話は家では掛けられない秘密の話が多い。たわいもない連絡から恋のたわごと。不倫の会話のかけらや、いけない密談、犯罪や恐喝に至るまで、電話ボックスは様々な人間模様を見てきたに違いない。しかし、その公衆電話も今ではすっかり携帯電話に主役を奪われ、インターネットの時代に取り残され、待ち並ぶ人もなくひっそりと道の脇に身を横たえている。 それはずっと続いてきたひとつの時代の終焉を予感させるかのようでもある。 (ふゆき) |
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