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今日の動力源(up2002/03.11/pm8:00)

俺達に明日はないと銘打ったこのコーナー。実は明日もそうなのだが、過去を切り捨ててもいる。過去を振り返らない。過去ログを公開していないのは1日で消すというのが売り文句だから仕方ないのだが、そうしているうちに過去がどーでも良くなってくる。今日の事しか考えなくなってくる。あまりに刹那的ではある。

時たま過去を振り返ったりするとショックを受けたりする。それが調子の良い時のものだと、何でこういうもんが書けたのに今は何も浮かばないのだと思うからだ。しかし出来上がったものに、その時の心境やら、掛かった時間やら、何か突然ヒントがあってすっと出来た時の事など微塵も記録されていない。結果があるだけだ。

それは仕事でもよくある。徹夜に徹夜を重ねて、無理に無理を言われ、コスト的に難渋を強いられてようやく出来上がったものも、予算がたっぷりあって余裕たっぷりで作ったものも結果はひとつしかない。良いか悪いかのどっちかだ。そして、それは決して制作過程にのみ依存している訳ではないのが難しい。

まあ、自分たちの作るものとは、まるで価値が違うが、作家の人間性と作品の質とは別のものだと私は思っている。それが絵画であれ、音楽であれ、聖人君子が作ったから優れているとはならない。どんな悪人であろうが、性格が歪んでいようが、出来た作品は独立のものだと思っている。ものを作るものは結果として作品の質が良ければ良いのである。犯罪を冒したものは別の法律で裁かれるべきであって、それと作品の価値とは別であるべきなのだ。

時の経過に耐える、色あせないもの。そんなものが出来たら嬉しいといつも思う。それが何だって構わない。だが考えて出来るとも思えない。自分が世に希な才を持っているなら別だが、そんなものがあれば今こうしていない。かくなる上は多作で何でも良いから作り続けて偶発的に何かを産み出すきっかけを求めるしかない。その発展形に何か新しい今までにない形が出来るかもしれないと思うからだ。いや自分にとってはそれしか選択肢がないと言った方がいい。自分で自分の器量位は、年令を重ねると分かってくる。だからこそ毎日何かを続ける事できっかけをつかむしかないと自分で分かっている。こうして毎日毎日追い立てられるように文を書き、絵を描く。ばかばかしいと思いつつ続けている。

私にとって手塚治虫はおそらくは過去の誰より、未来の誰よりも唯一絶対的に尊敬出来る存在であると断言できる。マンガを描いていたからではない。彼の姿勢そのもの、ものを創る事への取り組み方を尊敬している。手塚治虫は多作でなければいけないんだ…と力説したらしい。寡作ではなく作って作って作り続ける事に価値を見いだしていた。

手塚治虫が亡くなったのは、忘れもしない平成元年の2月9日だ。その日は私にとっては昭和天皇が崩御した事よりも昭和が平成に変わった事より遙かに重大事だった。まさに手塚崩御だったのだ。一度も会う事がなかった。そして二度と会う可能性すら失われた事を知って、本屋に行ってありとあらゆる手塚追悼本を買い漁った。半ば神格化された手塚礼賛文を読みたかった訳ではない。生身のぬくもりのある手塚治虫を感じとりたかった。結果さらに手塚治虫が好きになった。彼の産み出した作品は勿論なのだが、手塚治虫本人がさらに好きになったのだ。

そして、手塚治虫と同時代に生きていた事だけでも誇りに思える。

かの天才にして悩みに悩み抜いて作り続けた。凡才である自分が普通の事をしていて何かが叶う筈もない。例え、身を削ろうが命を縮めようが、誰もが考えていない何かを産み出す誘惑には勝てない。逆説的だが、その為には明日を考えず、昨日をも考えない。ただ前だけ見て今日の事だけ考える。今日ひとつ何かが出来れば良い。明日は明日になって考えよう。それが今こうして続けられる原動力かもしれない。

昔、情熱だけは人の何倍もありながら、いくら考えてもどんな手段を講じても、どうしても出来なかった事がある。


今思えば…それは続けるという事だった。
継続は力という言葉の重みをひしひしと感じる…。どんなに困難にぶちあたっても、今日何かを作る。これだけは続けていきたいと思う。

(ふゆき)