人は速さに常に憧れる。そして速さを競う。誰よりも速い…それはとてつもなく優越感を感じるものだろう。100メートルであったり、42.195キロメートルだったり、F1だって、ヨットだって、山登りだって時間という覇を競い合うのだ。ある意味でそれは他人との闘いより、己との闘いと言えるのかもしれない。 10年以上前の事である。当時、時間がないと昼御飯によく出前を取った。その店の名を弥次平という。当時の事務所は弥次平から歩いて2分位の所にあった。出前迅速という言葉はよく聞く。だが、この弥次平の迅速さは中途半端ではなかった。仰天動地、迅速にもほどがあるという位迅速なのだ。そばとおにぎりがセットになったおにぎり定食というメニューがあった。その昔よく頼んだ。注文の電話を掛けてタバコに火をつけて、二度三度吸ってふーっと息を吐き出して灰皿の上におもむろにタバコを置くと、ドアをノックする音がする。お客さんかな…と思って戸を開けると、そこには今頼んだばかりの定食を手に持ったおっちゃんがいたのである。な、なんでや、まだ30秒ほどしか経ってないやんか…。 弥次平と以前の事務所の間には車の通りは少ないが広い道がある。信号もある。仮にたまたま信号が青で電話を切ってすぐ全速力で走ったとしても30秒で辿りつくのは至難の業である。なのにそばとおにぎりを持って、どうやって30秒で持ってくる事が出来るねん。しかも当時、事務所は二階にあった。階段を昇ってドアをノックするにも時間が掛かろうというものだ。作る時間は一体どないなっとんねん。 だが何度頼んでも1分と掛かる事はなかったのだ。当時いたアシスタントの女性は目を丸くして絶句し、しかる後にそっと呟いた。は、速い…。これは冗談ではなく、は、速いと、一度合いの手に「は」をいれるのだ。もうそれしか言葉が出てこない。たまたま電話をしている時に得意先が来て、出前を頼んだ電話を切って、打ち合わせの為に机に座った瞬間、ドアをノックする音がして、そこにそばを持ったおっちゃんの姿を見た時の驚きと言ったらなかった。ただただ、しばし唖然、ぼーぜんとしつつ、まるでもののけを見ていたがの如くに、はっと我に返ってつぶやく。い、今のは一体…何ですか? 事務所の真ん前がそば屋だとしても、こうも速くないだろう…という位に速い。店の中で頼んで待つそばより速い。下手したら中途半端な立ち食いそばで頼んで出てくるより速い。一体どうなっているのだ。こんなバカな事があって良い筈がない。 ある日、偶然にもその一端を目撃した事があった。それはたまたま弥次平の前を通って事務所に戻ろうとした時の事である。開けっ放しの戸から突然、一匹の獣が飛び出してきた。まるで絵に描いたように手の平を肩に乗せて出前のお盆を持った獣は、出前の丼をさらにその上に乗せ、そのままの姿勢でエンジンかけっぱなしのスクーターに飛びついた。 もうそれはまたがる等と言う甘い表現ではない。殆ど獣の動作である。そして飛び乗るが速いかアクセルをフルスロットルで回すのが速いかという位の俊敏さで目の前から瞬時に消え去った。およそこの世のものとはとても思えない神業である。何千回、何万回と繰り返したものだけが持ちうるナノテクノロジーを身につけた職人技の獣である。そして出前の目的地というゴールに向かって走り続けるゴールハンターである。まさに堺市のサファリを駆け抜けるチータのような堺市上最速のゴールハンターと言っても良かった。や、弥次平恐るべし…。 そして、10年の歳月が流れた。事務所は二度目の移転を繰り返し、今の場所に落ち着いている。階下の整骨院に行ってる時、突然しゃべりの院長が、弥次平の話をし始めた。何と弥次平伝説は離れた今の場所にまで及んでいたのである。弥次平の出前ははええぞぉ〜〜〜。あっという間に持ってくるぞぉ〜〜〜と、その速さを具体的に言ったら、廻りにいた患者達が、そんなバカな話があるかいな…と冷ややかに見ていた。すると、院長は真顔で怒り、お前ら知らんからや、いっぺん頼んでみぃ〜〜!むっちゃ速いねんぞぉ〜〜〜!と大声を張り上げた。その時、私の脳裏にあの伝説の獣が沸々と蘇って来るのが分かった。 不思議なもので、そういう時に限って記憶を呼び覚ます出来事が続く。数日後事務所のポストに弥次平の出前迅速と書かれたチラシが投函されたのだ。普通ならさっさと捨てるところを、どういう訳か持って上がって、打ち合わせ用のテーブルの上に置いた。ある日、無造作に置かれた弥次平のメニューをみた取引先が息を飲むように言った。な、何や弥次平から出前取っとんかいな…。そして衝撃の記憶を噛みしめて思い出すかのように呟いた。はっっっっっっっやいでぇ〜〜〜ここは〜〜〜〜。1〜2分とかからんで〜〜〜〜。もうそれは、職人技の神業出前を語り継ぐのは、我々近隣の人類の責務であると言わんばかりの口調だった。今では双方とも引っ越しして違う場所であるが、この得意先と以前の私の事務所はすぐ近くにあった。やっぱりその迅速さは私の事務所だけではなく、もはや生きた伝説となって語り継がれていたのである。 その言葉を聞いて、私は突き上げてくる衝動を抑える事が出来なかった。そう、もう一度あの伝説の弥次平を見たくなったのである。ある雨の昼に、遂に私は電話の受話器を取ると、メニューをみながらあの懐かしのおにぎり定食を頼んでいた。住所を聞かれた。それはそうである。以前とは随分北の方角に移動していた。弥次平からは700〜800メートルの距離になっていた。すかさず注文時に時計を見て何時何分何秒までをとっさに記憶した。それは弥次平伝説を知るものだけが取る、本能のような行動である。 出前が事務所に届くのには12〜3分掛かった。昔のおっちゃんではなく若い男だった。もしかしたら息子か、アルバイトか…。しかし、最初の注文と雨とが被さっている。これは仕方のない事だった。しかも間には一旦止まると最低2分は待たなければならない異様に長い信号もある。情状酌量の余地があった。割り引いて考える必要がある。如何に弥次平といえども、初回から昔のようにはいくまい。次のお昼も頼んでみた。電話を掛けて事務所の名前を言いいかけただけで、はいわかりましたと答えた。一旦聞いたら二度と同じ事はきかない。ここらが弥次平の凄い所である。 5〜6分後に持ってきた。まあ速いと言えば速いが、弥次平伝説を知るものにとっては、到底納得がいくものではない。しかし、1日で半分以下に短縮した所が、さすが弥次平である。さらに私は次の日も頼むことにした。三日連続である。三日目に本領を発揮してくるに違いないと直感したからである。あのゴールハンターの真価を発揮して欲しい、見せて欲しいと願ったからである。伝説のあの弥次平をもう一度見せてくれ〜〜。満を持して秒針を記憶しながら私は電話を掛けた。ストイックなまでに時間にこだわり、己と戦いつつ、獣となって市街地を駆けめぐる最速の出前。獣の本能を見せてくれ。弥次平〜〜〜〜!君ならそれが出来る!電話を掛けるとすぐに窓に飛びつき、ブランド越しに獣が走って来る様を見たかった。身体が震えるほどの感動をくれ。弥次平〜〜〜〜!き、君ならそれが出来る筈だ〜〜〜!弥次平〜〜〜〜! そして… 十数分掛かって持ってきた…。な、何でやねん。 弥次平伝説が遂に終焉を迎えた瞬間だった…。嗚呼…。 (ふゆき) |
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