22.その後―「あとがき」に代えて―
以上は、拙著『生かされて―ギラン・バレー症候群からの生還―』(健友館)をベースに全面的に加筆整理したものであるが、その後現在までの回復過程を「あとがき」に代えて書き添えることとしたい。
2002年(平成14年)9月6日、発症後約1年3ヵ月目に国立身体障害者リハビリテーションセンター病院を退院し、自宅に戻ることとなった。
戻るにあたり自宅をバリアフリーに改築し、電動ベッド、リフトも設置した。
その時の私の状態は、四肢はほとんど麻痺したままであった。ベッドから車椅子に移るのも自分ではできず、妻に電動リフトで移してもらった。車椅子は、自走ではなく、すべて押してもらった。食事は、両手をバランサーで吊り、その両手にはL字型に曲がったスプーンとフォークを装具とともにつけて、それによって食べ物を口に運んだ。飲み物にはストローを使った。
衣服の着脱も自分ではできず、トイレもリフトでシャワーチェアに移し連れて行ってもらった。風呂は、裸にしてシャワーチェアに乗ったまま体を洗ってもらった。
つまり、四肢麻痺の全面介助の状態であった。
前に入院していた東京医科大学八王子医療センターに、妻の運転する車で週1回リハビリに通うこととした。しかし、週1回40分程度、脳梗塞など他の患者と一緒のリハビリでは手足の機能はなかなか回復せず、むしろ両足の先が内側に反り始めた。
発症後長期間経って関節の拘縮と筋肉の萎縮が進んだためで、これでは手足の機能の回復は難しくなってきたと考えざるをえなかった。この段階では、まだ自分の力でリハビリはできず、理学療法士にリハビリをしてもらう必要があった。しかし、妻に八王子医療センターのリハビリに週1回以上連れて行ってもらうことは、事実上できない状況にあった。
私は焦りを感じた。この時、「ギラン・バレー症候群は治ったが、後遺症として四肢麻痺は残った」と、あきらめざるを得なかったのかも知れない。しかし、私はどうしてもこれからの残された人生を四肢麻痺、全面介助のままで送りたくはなかった。
そんな私に幸運が訪れた。自宅に帰ってから半年後の2003年(平成15年)3月、入院仲間Kさんの奥様に八王子医療センターで会った時に、「訪問機能訓練」の制度があることを教えてもらったのだ。
これは、マッサージ師が自宅に来て、医療マッサージとともに相対で機能訓練をしてくれるものであった。西洋医学と系統が違うためか、八王子医療センターの医師も理学療法士もこの制度を全く知らなかった。この制度を教えてもらわなければ、私は手足の機能回復をあきらめていたかも知れない。
私は、八王子医療センターの週1回のリハビリはそのまま続け、それに加えて、この訪問機能訓練を直ちに依頼し、週4回受けることとした。私を担当したM先生は非常に熱心な方で、私の体の状況をよくみて毎回工夫して機能訓練をみっちりしてくれた。
最初は、ベッドで寝返りも打てない状態であったので、あお向けのまま片足ずつ引き寄せ膝(ひざ)を立てる訓練をした。しかし、足に力がないため、足先を引き寄せるのに体が震え汗がにじんだ。次に、うつ伏せから四つん這いにしてもらった。それも体がすぐに崩れてしまうため、M先生は大変だったと思う。四つん這いの状態で片足ずつ曲げ伸ばしをした。
歩行器につかまり、立った姿勢を維持する訓練もしたが、これも体が崩れるため、長く続けられなかった。妻は、私を「糸の弛んだマリオネットのようだ」と言った。歩行器につかまり、歩く前の段階として足踏みもした。
暑い季節に向かっていることもあり、毎日、汗だくになり、何度も着替えた。来る日も来る日もリハビリに励んだ。暫くすると、自分でもできるリハビリの範囲が広がってきたため、空いている時間は、休みを入れながらひたすらリハビリに打ち込んだ。
訓練が始まってから半年間で、驚いたことに、足腰が少しばかりしっかりとしてきて、脚に装具をはめ室内で歩行器を使って歩けるまで、メキメキ回復した。自分でも信じられないほどの回復だった。
この時なって、本当の意味でのリハビリの必要性が分かり、それこそ本気になって取り組んだ。
私は、またしても、この時まで一番大事なことが少しも分かっていなかったのだ。
私のように非常に重症で、診断が遅れ、治療が遅く始まり、しかも60歳と高齢である場合には、自然治癒力(=自己回復力)がきわめて低い。黙って待っていても回復するものてはない。自ら積極的にリハビリに取り組む以外に、私にとっては、回復の道はないのだ。「もうこの程度しか回復しない」とあきらめたら、それ以上は絶対に回復しない。
自分には甘えがあったのではないか。誰かが治してくれると思っていたのではないか。これまで、本当に真剣になって自分からリハビリに取り組んだと言えるだろうか。
ギラン・バレー症候群の回復過程は患者によって様々であり、神経内科医は患者を退院させるまでが、主な仕事となっており、2、3年以上のリハビリの症例はほとんど持ち合わせていないため、確かなことは誰も分からないと思う。発症して半年以上経つと、リハビリは難しい(リハビリの効果は現れにくい)と言われているが、それは一般論であり、個人によって違う。やってみなければ分からない。また、ギラン・バレー症候群は、言葉は適切でないが、脳梗塞や頚椎損傷などの脳神経や中枢神経の障害のような、治るのが難しいと言われている障害とは異なる。抹消神経の障害であり、治る可能性が高い。
そこで、「自らの力で絶対に回復させる」という強い信念で、リハビリの方法を工夫して粘り強く続けていけば、慢性期になっても、たとえわずかずつでも着実に回復していくと、私は信じ頑張った。
私は、来る日も来る日も、それこそ真剣になってリハビリに取り組んだ。ある数学者の言葉を借り、「数学」を「リハビリ」に置き換えれば、私は「とにかくリハビリに命を懸けねばと、朝から晩まで、寝ても覚めても、阿修羅のごとくリハビリばかりやった」。
この間の出来事についても、簡単に述べておきい。
2003年(平成15年)3月、発症後約1年9ヵ月目に職場を休職のまま定年退職を迎えた。H研修所長とK総務部長がわざわざわが家まで来られ、退職の手続きをした。職場は最後まで私を厚く処遇してくれた。
職場には大変迷惑をかけてしまったが、自分の40年近くにわたる職場の最後の姿がこんな想像だにしていなかった形となり、万感の思いが去来した。
病院から自宅に戻ってからも、その後退職してからも、職場の先輩や同僚、部下は遠路をわが家に見舞いに来てくれた。
2003年(平成15年)5月、『生かされて―ギラン・バレー症候群からの生還―』を健友館から出版した。国リハ病院で書きあげたが、発刊は大分遅れた。健友館とは「共同出版」となっているが、ほぼ自費出版で1000部発刊。関係者には贈呈したが、この種の本としては珍しく、書店を通して多くの方に読んでいただけたようだった。在庫は数十部残すのみとなり、増刷か改訂版を出すか、そうすれば印税が入るかなどと甘いことを考えていた。
しかし、2004年(平成16年)6月、健友館は自主廃業(倒産)してしまった。そこで、在庫をオンライン古書店「パラメディカ」様にお願いし、委託販売していただくこととした。
2003年(平成15年)11月、当ホームページ「ギラン・バレー症候群のひろば」を開設した。入院中にインターネット上にあった、ギラン・バレー症候群にかかられた方々の闘病記を妻に何度も繰り返し読んでもらい励まされたが、退院後、あの闘病記を集めたホームページはすでに閉じられていた。個別のホームページはそれぞれ有用な情報であったが、多数の方の闘病記を集めたホームページはついに見つけ出すことはできなかった。
そこで、私は慣れない手つきで苦労したが、当ホームページを立ち上げた。かつての私と同じように、現在闘病中の方々やそのご家族、友人に対して、患者の目線での情報提供、励ましのメッセージを送り、少しでも役立つことができればと思った。当初はかなり簡素なものであったが、多くの方々から投稿や協力をいただき、次第に充実していった。これも、現在の私にできるささやかな「社会への貢献」であるかも知れない。
しかし、人のために尽くすこと以上に、このホームページを通して、私自身が得たものは大きかった。ギラン・バレー症候群にかかられた方々と交流が図られたこと、ギラン・バレー症候群についてよく勉強させてもらったこと、リハビリの必要性を教えてもらったこと。さらには、社会とのつながりや、やりがいをもたせてくれたことなど。
2004年(平成16年)7月、米国夏期ビジネス講座受講30周年のOB会がシアトルの州立ワシントン大学キャンパスで開催された。結局、私は参加できなかった。参加されたメンバーの何人も方々から手紙や写真をいただいた。Nさんは大学の名前の入ったキーホルダーを送ってよこした。
現在、2006年(平成18年)12月、発症後5年半、本格的にリハビリを始めて3年9ヵ月目になり、手首、足首から先に麻痺が残っているため介助されながらも、何とか日常生活を送れるまでに回復した。妻に支えられ、それなりに日常生活を楽しんでいる。読書も、音楽を聴くことも、テレビを見ることも、おいしいものを食べに行くことも、………。
家族や家庭生活や、あるいは読書や音楽や金融・銀行の研究などについていろいろと書きたいことがあるが、ここでは省略する。ただ、「生かされて」いることに感謝し、今ここを精一杯に生きていることだけは、付け加えさせていただきたい。これまでの生き方を深く反省し、家族を、家庭を何より大切に考えるようになったことも。
衣服の着脱や風呂では介助を必要としているが、食事は普通のスプーンで食べている。箸を使うことや筆記具を握ることはできない。トイレは一人で行ける。歩く方は、室内では伝い歩き、外ではロフストランドステッキを握らせてもらい歩く。足首がクネクネするので、平らな所でないと怖いが、装具は着けない。
週1回通っていた病院のリハビリは、例の「リハビリの日数制限」のため取り止めたが、「訪問機能訓練」は引き続き週3回受けている。
自分でリハビリができるようになったため、(1)腹筋、背筋、スクワット、腕立て伏せ、鉄亜鈴を使っての腕、肩の運動などを取り入れた、自己流の柔軟と筋力トレニーングをし、(2)ロフストランドステッキを握らせてもらい、家の近くにある広場を歩き、(3)階段を4つん這になって上り下りをしている。これらを一日何回も実行している。リハビリと総合的な体力づくりである。
食事には気をつけ(良質の蛋白質、緑黄野菜、海草を取り、塩分、脂肪は避ける。規則正しく、腹八分目を守る)、酒は飲まず、夜はぐっすり眠り、ストレスはまったくない。薬は、ビタミン剤以外は一切服用していない(花粉症の季節には、ステロイド系でない薬は飲む)。1ヵ月前の採血、採尿の検査では、30以上の全ての項目が正常値に収まっていた。絶好調である。
回復も慢性期に入ったような気もするが、これからも回復していくことを信じ、毎日リハビリに励んでいる。たとえ回復が難しくても、体力をつくり、体調を整え、後遺症と「うまくつき合う」方法があると信じているからである。
<了>
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