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| 宮一穂著『古典読むべし歴史知るべし』 (ミネルヴァ書房、平成17年3月刊) A5判、169ページ、¥ 2000+税 |
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| 本書の前半は古今東西の古典を読む醍醐味が語られ、後半では歴史への親しみ方が述べられ、巻末には著者の推す世界の名著名訳99冊が掲載されている。著者は元『中央公論』編集長。 著者は、自分は古典とは何かについて語れるような碩学でなく、一編集者という黒衣であるので、その立場から話したいとしている。まず、アメリカの政治哲学者ブルームの言葉を引用し、昨今教育水準が低下し、西欧の文化遺産が多くの学生たちに受け継がれていない、これでいいのだろうかと指摘し、一般教養教育をほんとうに充実させるためには、もっと古典教育をすべきだと述べている。古典を読んでいなければ、その国の文化や歴史も本当には理解していないので、旅行をしても美術館に行っても皮相しか見ることができない。 かつて、西欧では、ラテン語とともにギリシャ・ローマの古典を学ぶことが必須であったが、今日フランスではデカルトかパスカルか、イギリス人にはシェクスピアが、ドイツ人にはゲーテが、イタリア人にはマキャベリが、スペイン人にはセルバンテスがいるというように、それらの古典が国民の精神に根付いている。 ところが、アメリカや日本には、そうした古典をもっていない。その代わり、すべての古典を自分達の財産とし共有することができた。その例として、アメリカでは、シカゴ大学学長ハッチンスが1930年代「グレート・ブックス」全巻を編纂し、日本では昭和40年代に中央公論社が『世界の名著』全81巻を出し、当時は「全巻読むべし」との熱気に満ちていた。また、それ以前、昭和初期から岩波書店は古典を個別に廉価で読めるように文庫本として世に送り、その普及をはかってきた。その後、昭和40年代を最後に、文学も思想や哲学も全集ものは廃れ、現在では「ここといまがすべての時代」との風潮となってしまったのは残念である。 しかし、編集者として著者と接する場合、古典をしっかりと読んできた人の方が信頼がもてる。例えば、政治学や経済学の著者で、その後付き合いを続けたいと思う人は、その著作の背景にそっと古典をおいてあるような人である。 古典の中でも、歴史、文学、哲学、思想は、誰もが本当は共通にもっていたい財産、人と人をどこかで結びつける地下水脈である。 続いて東洋、主に中国の古典が紹介され、極論すると、現在の中国のかかえる問題(役人の汚職、賄賂、その使い方、えこひいき、刑罰の凄さ、民衆の政治への不信など)を分かるのに、『水滸伝』一つ読めば十分であるとしている。 後半には、一変して、歴史――それも日本史に限定し――への親しみ方について述べられている。 「人は誰でも歴史家である」。それは、誰でも何十年も人としての営みをしている間にその人なりの死生観や歴史観を持つようになるからである。また、奈良時代は84年で、これは人の一生と同じであるが、このように歴史の長さを等身大で見ることができるとしている。また、日本史を百年ごとに区切ってみる見方や、一つのテーマ、例えば遣唐使を初めとする海外留学の視点からの見方などが紹介されている。 巻末には、著者の推す世界の名著名訳99冊が寸評入りで紹介されている。99冊としたのは、残り1冊は自分で選んでくださいとの、心憎い配慮からである。 本書は、編集者の立場から「古典読むべし」との含蓄のある話で、大変興味深いものであるが、残念なのは後半の「歴史」との関連性がまったくないことである。折角、古今東西の古典について述べてあるので、それぞれの古典の背景にある文化や伝統、国民性を含めた意味での「歴史」を知る楽しさに話が展開していけば、もっと面白くなったのではなかろうか。 蛇足ながら、昭和40年代は私が学生から社会人になった時で、当時発刊された中央公論社の『世界の名著』は人類の共通の遺産であり、全巻読むべしと熱気をもって迎えた一人であった。ニーチェの『ツァラトゥスラ』やホイジンガの『中世の秋』、マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』などを毎月の配本に従って懸命に読み始めたが、すでに読んでいた本も数冊あったものの、結局ついていけなかった苦い経験をもっている。いま私の書棚には『世界の名著』全巻が埃をかぶっており、再度挑戦すべきか迷っているところである。 〔本書の中から〕 ○ こうした若者がルーヴルやウフィツィを歩きわっている光景を想像してほし |
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