牧村健一郎著『新聞記者夏目漱石』
  (平凡社、平成17年6月刊)
  新書判、229ページ、¥781+税
 本書の帯には、「現役の朝日新聞記者が漱石に迫る!時代精神を感得し、新聞小説に新境地を拓いた漱石を活写する」とあり、新たな視点からの漱石論である。といっても、難しい学術書ではなく、新書判の読みものである。読みやすい文体で、引き込まれる面白さがある。

 著者は、現役の朝日新聞記者(企画報道部)で、学芸部(現文化部)に長く在籍して、読書欄も担当していたという。

 本書は、漱石争奪戦から始まり、明治期の新聞事情、朝日新聞社での漱石の活躍、作品との関わりが丁寧に描かれている。


 冒頭、漱石争奪戦がドキュメンタリータッチで描かれている。

 漱石は、洋行帰りの超エリートで、教授が目前の東京帝国大学専任講師、すでに『吾輩は猫である』、『草枕』で文壇に颯爽とデビューを果たしていた。各新聞社は、争って漱石に新聞小説や随筆などの執筆依頼をしていたが、明治40年、東京朝日新聞は漱石招聘に動く。その条件交渉が面白い。漱石としても羽織ゴロとも呼ばれた新聞社への転出には覚悟がいる。彼の几帳面で律儀な面が顔をのぞかせる。


 次に、明治期の新聞事情が紹介されるが、現在の新聞と大分様子が違っていたようだ。維新政府は、文明開化を推進する方針に沿って、新聞の発刊を奨励した。これに応え、元武士、洋学者、地元名士などが知識階級を対象に漢文崩しの文体の新聞を創刊していった。一方、同じく地元名士などが庶民を対象に市井の話題を扱い、漢字にはルビを付した口語体の文章の新聞も各地に続々と創刊された。後者の新聞には、事件や事故や噂話を戯作者に書かせた「続きもの」が掲載された。これが後の新聞小説となる。

 明治11年、大阪朝日新聞が大衆向け新聞として創刊され、明治21年東京に進出し、東京朝日新聞が発刊された。明治29年、大物ジャーナリスト池辺三山が朝日新聞に入社し、社説を書き社論をリードするとともに、新聞紙面や組織の大改革をはかっていった。その一環として漱石と、辣腕社会部長として渋川玄耳が招聘された。

 本書には、漱石と交流が深かった池辺三山、渋川玄耳らとともに、半井桃水や二葉亭四迷や石川啄木なども登場する。
  桃水は、現代では樋口一葉の「恋人」として知られているが、朝日新聞社の小説ライターとして多くの時代小説を書き、朝鮮にも特派され新聞記者としても活躍した。四迷は、ロシア事情に詳しい記事を書くが、あまりにも重厚な論文調の文章であったため滅多に採用されずに、代わりに新聞小説を執筆させられる。また、啄木は校正係として働いていた。


 次に、朝日新聞社にける漱石の活躍が活写される。

 漱石は、朝日新聞専属の作家として、人物の性格描写だけでなく、博覧会など当時の時事性も描いた『虞美人草』を連載した。続いて、同時代ドキュメント『鉱夫』、青春小説『三四郎』を書き、新聞小説の文体を完成させていく。『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『こころ』、『明暗』など、その後の漱石の小説はいずれも朝日新聞に連載された。

 漱石は、自分が新聞小説を書かない時は、他の作家に執筆を依頼した。それに応え、泉鏡花、永井荷風、長塚節、徳田秋声、中勘助、武者小路実篤、小川未明、野上弥生子、久保田万太郎、谷崎潤一郎らが執筆した。漱石は近代文学の佳作を世におくったのである。

 また、文芸、美術、音楽など文化全体を扱う文芸欄を創設し、門下生に随筆や評論などを書かせた。しかし、書かせたものが専門的過ぎたものや思わしくないものは書き直せたり、時には、自分の書いたものに差し替えたり、エディターとして苦労も多かったようである。

 漱石は、朝日新聞主催の文化講演も各地でこなした。当時は、数時間にわたる講演会で、時事問題の後、漱石の講演があり、時には数千人の聴衆が集まったという。ジョークを飛ばしながら文明批評、社会評論を格調高く語り、かなりの盛況であったという。


 漱石が朝日新聞に入社し、活躍した意義は、はかり知れなく大きい。漱石は、同時代のニュースを作品に取り入れ、時代精神を感得して小説家となった。もし朝日新聞社に入らなかったら、文芸欄の創出も、数々の名作も、存在しなかったかも知れない。また、本書は、新聞小説を懸命に書き続けていた時代の東京朝日新聞社の雰囲気をよく伝えてくれている。

 漱石のファンならずとも、読みものとて楽しめる本とて、本書の一読を是非お勧めしたい。

 ただ、書名に漱石を「新聞記者」としているが、「新聞社員」の方がふさわしいのではないかと思う。「新聞記者」というと、取材して記事を書く人をどうしてもイメージしてしまう。現に、新聞記者から小説家となった井上靖や司馬遼太郎などがいるだけに………。


〔本書の中から〕

○ 彼(=小西勝一)は初対面の漱石について「先生風の高慢らしい人かと思った
 ら、むしろ東京の町家の旦那といった風采で驚いた。学者や文士らしく投げやり
 やずぼらを自慢するような人だと思ったら、おそろしく几帳面な人で、事務的に
 忠実な人だ」と、人柄に感じ入ったことを長谷川如是閑に話した。

○ 「漱石は、柳家小さんの口語体を下地に当時の最高の言語学を学んで、平明でし
 なやか、しかも意識の内側のことや、大局的な事柄も搭載できる現代日本語を作
 り上げた。それには新聞、とくに当時の朝日新聞が舞台だったことが大きい。
 ………未来の日本語が、漱石をイギリスに留学させ、朝日に入らせたのだと思う。
 その遺産である現代日本語は今も生きています。」(井上ひさし)

○ しかし、こうも言えるのではないか。新聞は俗の代表、娑婆の鏡である。社会の
 中の様々な「つまらぬ」問題を毎日追いかけ、報道する。漱石はそうした娑婆に
 いたからこそ、作家として鍛えられたと。娑婆っ気がなくては、小説は書けない。
 漱石と新聞は、結局、相性がよかったのだ。

                            (05/9/1)



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