立花隆対話篇『生、死、神秘体験』
 (書籍情報社、平成6年6月刊)
 四六判、341ページ、¥1600+税
 本書は、脳死、臨死体験など人間の生と死に重大な関心を持ち続けてきたジャーナリスト、立花隆氏が、現代の生と死の問題の代表的論客たち10人と、さまざまな角度から生と死をめぐる対談をまとめたものである。


 ジャーナリスト、立花隆氏の知的好奇心はもの凄い。その動機について、彼は「人間としての見当識を得たいという願望だ」と述べている。

 「見当識」というのは、本来、医学用語で、「自分の置かれている状況を客観的に正しく把握する能力」である。一般に、医者が認知症の患者に対して「ここはどこ」、「あなたはだれ」、「いまはいつ」と聞くのが、見当識を判断する質問である。立花氏の場合、この質問に対してケタ違いのスケールで答えようとしている。

 例えば、「ここはどこ」という質問でも、どこそこの町と答えても、その町は日本にあり、日本は地球上にあり、地球は太陽系にあり、太陽系は銀河系の一部であり、銀河系は宇宙の中にある。さらに、その宇宙はどこにあるかということになると、不可知の領域に達する。したがって、「ここはどこ」という質問に対して、この宇宙を解明しなければ、本当に答えたことにはならないが、それはすべて不可知の領域に達する、と立花氏は言う。

 そのほかの二つの質問、「あなたはだれ」、「いまはいつ」についても同じようなことが言える。こう考えると、実は人間はみな、三つの質問の答えを知らない状態、つまり「失見当識」の状態で生きているのではないか、と彼は言う。

 この失見当識の状態を解消するために、科学は不可知の領域を一歩ずつ解明してゆくのだが、その到達点も、あくまでも現段階における知識の仮説であって、真理そのものではない。その先には、いつも不可知の領域が広がっている。


 そして、立花隆氏の「見当識を得たいという願望」は、「人間としての見当識」であるとしている。つまり、「人間存在」に対する知的好奇心である。

 われわれ人間の知っている世界は、生と死という境界線で区切られた内側だけの世界である。「生とは何か」、「死とは何か」、さらに生と死の境界線にある「臨死体験とは」、境界線の外側に通じる「神秘体験とは」………などを各界の代表者との対談により求めようとしている。

 対談の相手とテーマは次のとおりである。

  山折哲雄氏「臨死体験と宗教」
  荒俣宏氏「生と死のパラドックス」
  河合雅雄氏と養老猛司氏「人間とは何か」
  遠藤周作氏「魂は何を見たか」、「天命なき時代」
  カール・ベッカー氏「臨死体験が意味するもの」
  河合隼雄氏「一瞬に永遠を聴く―モーツァルトと神秘体験―」
  岡田節人氏「生命への実感―生と死の操作はどこまで許されるか―」
  中川米造氏と中村雄二郎氏「死の輪郭線―脳死と臨死医学の知―」

 本書は、このように対談を通して、人間存在、生と死、脳死、臨死体験、神秘体験、サル学、分子生物学など様々なジャンルにわたって最先端の状況や現在の課題を、学者ではなくジャーナリストの立場から明らかにしており、興味深い話を多数引き出ており、読んでいて非常に面白い。

 しかし、残念なのは、広いテーマで、多くの人との対談という形式をとったため、話題が個別断片的となり、言いっ放しで終わってしまう点である。

 例えば、利根川進氏と対談した『精神と物質』(文藝春秋刊)のように、テーマを絞って対談すれば、体系的、学問的にもっと掘り下げた内容となり、読み応えのあるものになったのではないかと思う。

 あるいは、多数の宇宙飛行士へのインタービューを材料にとりまとめた『宇宙からの帰還』(中央公論社刊)のように、ひとつのテーマに絞って(この場合、宇宙飛行士の宗教的な体験)多くの体験者から深く話を聞き出し、それを精力的にまとめあげれば、もっと読み応えしたものになったのではないかと思う。

 もっとも、本書のように広く、漠としたテーマであり、それぞれ違った専門家との対談であれば、体系的、学問的に掘り下げまとめることは難しく、本書のように言いっ放しという形式にならざるをえなかったのかも知れないが………。


  〔本書の中から〕

○ 私の場合、臨死体験というものは脳の中で起こる現象なのか、あるいは現実に
 起きる死の体験の一部なのかという、「あれかこれか」という考え方をあまりと
 らないんです。それが真であるか、偽であるかを問わず、そういうものを見たと
 いうことが、その人間にとってどういう意味をもつのか、そのところが非常に大
 事と思うのです。その人にとっては、それで人生観が変わったり、死の恐怖が薄
 れたりすれば、それだけで意味があったということになるのです。(山折哲雄)

○ 結論としては、臨死体験で見る死後の世界が現実にあるかどうかは別にして、
 死ぬというのはそんなに苦しいものではなく、むしろ楽なことじゃないかと感じ
 ました。                   (立花隆)

○ それ(超常現象)についてウィリアム・ジェームズ(1842〜1910年)が興味深い
 ことを言っている。つまり、それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれ
 るけれども、それを疑う人まで信じさせるに足る証拠は出ない、超常現象の解明と
 いうのは本質的にそういう限界をもっていると。………臨死体験とか、超常現象と
 いうものは、そういった領域の問題なのであって、最終的には説明不可能なものが
 どうしても残る。それを各人がどう考えるかによってどちらの立場もとりうる現象
 なんだと言っている。             (立花隆)

○ 以前、アメリカの宇宙科学者と話をしていましたら、「科学にできることという
 のは結局、あるレベルの無知を一つ上のレベルの無知に置きかえるだけのことで、
 わかるわからないという点から言えば、科学の最前線の周りは全部わからないこと
 だらけなんだ」と言われたことがありました。………その後、僕は科学の最前線を
 ルポする仕事をかなりやるようになったんですが、科学の現場を取材すればするほ
 ど、確かにそれはその通りだなと思うようになりました。(立花隆)

○ (生死の)最後の段階はやはり気力が決定するようですね。去年、日本からグア
 ムへ向かうヨットレースの途中で転覆して漂流した「たか号」の場合ね、六人のク
 ルーのうち五人が死んでしまったんだけど、死んだ五人は助かる見込みがなくな
 ったと思ったときに、突然気力がなくなって、その途端にパタッと逝ったと、生き
 残った佐野さんという人が書いていました。    (立花隆)

○ 全世界で見ても何十万、何百万という単位のネアンデルタール人の時代なら
 ば、生きるために動物、植物、環境をどんなに利用しても体勢に影響しなかった。
 ………ところが、何十億の単位になってしまうと、人間にご飯を食べさせるために
 地球がかかりっきりになってしまい、他の動物まで余力が回ってこなくなってし
 まった。                    (荒俣宏)

○ 文明人は少なくともまだ氷河期を1回も経験していないし、人間なんてたまた
 ま間氷期の条件のときに大発展しただけ。いずれ瓦解しますよ。………いまは地
 球の小春日和なんですよ。           (荒俣宏)

○ 私がモーツァルトの言葉で好きなのは、「自分は交響曲を一瞬に聴いている」
 という言葉なんです。つまり、自分の一瞬の体験を書いたらこれだけになると。
 ………モーツァルトにしたら一瞬にあったことを、われわれにわかるように書く
 と、二十分くらいになる。           (河合隼雄)

○ 臨死体験というのは、キリスト教の神秘思想における聖者の神秘体験にそっく
 りだというのがありました。神秘思想というのは、神秘体験による瞬間的な真理
 の把握から生まれてくる。一瞬のうちに、あらゆる知恵、あらゆる知識が流れ込
 んできて、自分はすべてを、全世界を理解したという感じになる。(立花隆)


                             (06/5/19)



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