カルロス・ルイス・サフォン著
/木村裕美訳
 『風の影』上
 (集英社文庫、平成18年7月刊)
 文庫判、414ページ、¥743+税
カルロス・ルイス・サフォン著
/木村裕美訳
 『風の影』下
 
(集英社文庫、平成18年7月刊)
 
文庫判、427ページ、¥743+税
 37ヵ国で出版され、500万部を突破したという世界的なベストセラーとあって、読んでみた。文庫本二冊、841ページの大作であるが、評判に違わず、読み応えのする作品である。訳者の言葉を借りれば、「ゴシック小説の香りがただようミステリー、歴史を背景にした恋愛ロマン、推理、冒険、庶民の風俗喜劇………、読ませる要素を余すところなく内包している小説」である。

 著者、カルロス・ルイス・サフォンは、スペイン育ちで、アメリカ在住の現代作家。


 物語は、1945年、内戦の傷跡が残るスペインのバルセロナを舞台に始まる。少年ダニエルは、古書店主の父親に連れられ「忘れられた本の墓場」を訪れ、そこで偶然『風の影』という一冊の本を手にする。その著者、フリアン・カラックスは、幻の作家といわれ所在不明で、しかも彼の本を探し求めて焼却している謎の男もいて、彼の書いた本自体がほとんど残っていない。ダニエルは、その作家の謎の生涯を追っていくという物語の展開。


 まず何よりも、この小説は本をめぐる壮大なファンタジーである。

 この小説は、「忘れられた本の墓場」に始まり、「忘れられた本の墓場」で終わる。父親は少年ダニエルに説く。本にはそれを書いた人と、それを読んだ人たちの魂が宿っており、本は読まれるたびに育まれ強くなると。そして、世間から忘れ去られた本がたどり着く先が、この「忘れられた本の墓場」であると。ここで一冊の本を選び、その本を永遠に生きながらえるように守れと。そこで、ダニエルが選んだ本が、フリアン・カラックスの『風の影』である。フリアンはその本の中に生き、彼の魂はその本の中にあった。

 著者は、この小説について「これはねえ、本の物語なんだ………呪われた本たち、それを執筆した男、その本を燃やすために小説のページから抜けだした人物、裏切りや、失われた友情の物語だ。風の影のなかに生きる愛と、憎しみと、夢の物語なんだよ」と語っている。

 また、ビクトル・ユーゴの使ったといわれる高価な万年筆が、小道具として物語全体を貫いている。これは、作者のちょっとした余興か。


 また、この小説は実に凝ったミステリー仕立てになっている。

 フリアンとは何者なのか。なぜバルセロナの街を去り、パリに行かなければならなかったのか。彼の恋人の消息はその後どうなったのか。なぜ彼の本がすべて焼かれようとしているのか。謎を追っていくと、また次の謎が現われる。

 話は、3つの時代をまたいでいる。フリアンの「過去」が横たわっているスペインの内戦前と、出版社にいたヌリアの回想に記される内戦時代と、ダニエルの「現在」が進行する内戦後である。

 ダニエルがフリアンをめぐる「過去」に向かってさかのぼり、隠された事実が少しずつ明るみに出ていく一方で、ダニエル自身を中心とした「現在」も進行する。反対方向に進んでいた筈の、二つの時間帯の出来事が、ある時点で微妙に同一した動きを始める。フリアンの悲劇的な「過去」が、これから起ころうとするダニエルの「現在」なのか。読者をハラハラとさせながら物語は進んでいき、最後に「過去」と「現在」とが交差し、すべてが解決する、という仕立てとなっている。


 登場する人物も多彩である。

 本の中に生き続けるフリアンの悲しみ、無政府主義者の皮肉屋、フェルミンの友情、彼らをつけ狙う体制の権化フメロ刑事の恐ろしさ、幸薄いヌリアのカラックスに寄せる愛、ミケルの醒めた愛、ペネロペ、ベアトリスが織りなす切ない恋、さらに少年ダニエルの内面的成長などが生きいきと描き出されている。


 また、機知に富んだ比喩と、警句に満ちた会話がいたるところに散りばめられており、一言一句面白い。


 さらに、スペイン内戦時代のバルセロナの暗い世相や風俗、街かどや商店の風景、食べ物などすべてが息づいている。


 この小説は、以上のような要素を余すところなく含んでいる。文体が濃密にできており、一言一句おざなりにできない。また、登場人物が多く、複雑に絡み合いながら物語が展開していく。このため、細切れの時間を接いで読むのに向いていない。時間をとって一気に読むにふさわしい傑作である。


 なお、「訳者あとがき」は、この作品とスペイン内戦とを巧みに解説し、親切である。このため、「まえがき」として初めに読んだ方がいいかも知れない。


〔本書の中から〕

○ おまえの見ている本の一冊一冊、一巻一巻に魂が宿っている。本を書いた人間の
 魂と、その本を読んで、その本と人生をともにしたり、それを夢みた人たちの魂
 だ。一冊の本が人の手から手にわたるたびに、そして誰かがページに目を走らせ
 るたびに、その本の精神は育まれて、強くなっていくんだよ。

○ でもわたしには、フリアンが過去に生きているように見えたの。思い出のなかに
 閉じこもってね。フリアンは自分のなかで、自分の本のためだけ生きていた。彼
 は本のなかに住んでいたのよ。ぜいたくな囚人みたいに。

○(機知に富んだ比喩と、警句に満ちた会話がいたるところに散りばめられている)

 ・「話すは愚か者、黙るは卑怯者、聞くは賢者のわざなり」

 ・「誰でも信用するようなやつを信じるな」

 ・「あと一週間しか命が残っていない人間にかぎって、その最後の時間をむだに
  する」

 ・「人間というやつははねえ、人生で、まちがいばかり犯しつづけているもんで
  すよ。ただ、年をとってからしか、それに気づかんのだ」

○(とくにフェルミンのシニカルなトークが面白い)

 ・ 「わたしぐらいの年になるとねえ、自分のゲームがはっきり見えはじめるか、
  もう完全に投げだしてしまっているかのどっちかなんだ。人生なんて、せい
  ぜい三つか四つのことのために生きる価値があるんであって、それ以外のこと
  は、畑にまく肥やしみたいなもん」

 ・ 「本は鏡とおなじだよ。自分の心のなかにあるものは、本を読まなきゃ見えな
  い」

 ・ 「なにかを相手にあたえられるかじゃなくて、どれだけ譲れるかってことが、
  時にたいせつ」

 ・ 「親子の関係というものはね、ちっぽけな、心やさしい、数えきれないほどの
  嘘のうえに成り立っているんです」

                           (06/10/31)



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