中川右介著
 『カラヤン帝国興亡史
 ―史上最高の指揮者の栄光と挫折―』
  (幻冬舎、平成20年3月刊)
  新書判、 302ページ、¥820+税

 今年(年2008年)は、クラシック音楽界の帝王カラヤンの生誕100年にあたり、それを特集するCDや放送、新聞記事などが出ているが、本書もその一冊である。本書では、帝王カラヤンが類い稀なる才能と権謀術数を駆使し、ベルリン・フィル、ザルツブルク音楽祭、ウィーン国立歌劇場他、名門オーケストラを次々に掌握し、ヨーロッパ音楽界に君臨し栄光を極めながらも、やがてそれらが崩れていった過程を克明に辿った、帝王カラヤン栄光盛衰の物語である。


 著者、中川右介氏は、1960年生まれ、カメラ雑誌編集長等を経て、『クラシックジャーナル』編集長。著書に『カラヤンとフルトヴェングラー』など。


 ヘルベルト・フォン・カラヤンは、1908年オーストリアのザルツブルグに生まれ、ウィーンで工科大学に入学したが、同時に音楽アカデミーでピアノと指揮を学んだ。その後ウルム歌劇場の指揮者やアーヘン歌劇場の音楽総監督をし、その活躍がベルリンにも伝わり、ベルリン・フィルにも招かれ指揮し、好評を博した。しかし、若いカラヤンの前には異常な敵愾心を燃やした巨匠フルトヴェングラーが立ちはだかった。「カラヤンを呼ぶなら、自分は演奏しない」と。このため、カラヤンは、ベルリン・フィルにも、ウィーン国立歌劇場にも、ザルツブルク音楽祭の舞台にも立つことができず、ベルリンでは州立歌劇場を中心に活躍せざるをえなかったが、そうした中で名声を高めていった。また、アーヘン歌劇場のポストと引き換えにナチス党員となったことから、戦後はドイツ音楽界の活動を停止された。このため、彼はイギリスのフィルハーモニア管弦楽団の指揮やイタリアのミラノのスカラ歌劇場のドイツ・オペラ音楽監督をした。ナチス党員追放から戻った時、彼の前にはふたたび絶大な影響力を誇示するフルトヴェングラーが立ちはだかった。このため、カラヤンはフィルハーモニア管弦楽団やスカラ座歌劇場の他、ウィーン交響楽団の主席指揮者や各地のオーケストラ、オペラ劇場に客演して名声と実績を高めていった。

 1954年巨匠フルトヴェングラーが亡くなった後、カラヤンは一気に最高の座を手にする。1955年春ベルリン・フィルのアメリカ公演が予定されていたが、アメリカ側から代役はカラヤンにとの強い要請があった。それを知ったカラヤンは、引き受ける条件として自分をベルリン・フィルの終身の主席指揮者とすることを突きつけ、それを飲ませた。しかも、その就任発表はカラヤン47歳の誕生日。1956年には、ザルツブルク音楽祭芸術監督に就任し、また、ウィーン国立歌劇場芸術監督にも就任した。ザルツブルク音楽祭には運営者側のカラヤン親派に働きかけ、ウィーン国立歌劇場ではフルトヴェングラーの後任ベームの辞任騒動を画策したとも伝えられている。

 カラヤンは、これら世界最高峰のオーケストラ、オペラ、音楽祭の3つのポストにほぼ同時に就任することになったが、就任にあたっては、巧みな駆け引きを繰り返し、3つのポストを競わせ、それぞれから最大の条件を引き出し、それらの実権を掌握していった。
 ベルリン・フィルでは、単なる主席指揮者ではなく、インテンダント(総支配人)の人事や楽団員採用などの絶大な権限を持ち、海外公演は別として、自分の演奏する定期演奏会の回数を少なくした。
 ウィーン国立歌劇場では、国からの財政支援を増大させ、ドイツ・オペラだけでなく、本場のイタリア・オペラも上演した。それまでのイタリア・オペラは、ドイツ人の歌手がドイツ語で歌っていたが、カラヤンの監督の下、イタリアの著名な歌手陣、プロダクション(衣装、舞台装置、照明等)で上演した。さらに、それまでの定期的なオペラの上演しかしなかった劇場を、各地のオペラ劇場と提携し、一年中、最高の歌手陣、プロダクションで開催する「祝祭」にしようとした。
 ザルツブルク音楽祭では、それまでモーツァルトのオペラ、コンサートをウィーン・フィルが演奏する、いわば「モーツァルトの音楽祭」であったものを、カラヤンは音楽祭全体にわたる権限を掌握し、ヨーロッパ中の有数のオペラ、オーケストラを招き、幅広い作曲家の作品をとりあげ、ヨーロッパ最大の音楽祭、「カラヤンの音楽祭」につくり変えていった。
 このザルツブルク音楽祭は夏に開催されたが、1967年以降、ワーグナーの楽劇もベルリン・フィルで上演するザルツブルク・イースター音楽祭もつくりあげた。

 この間、1969年にはパリ管弦楽団音楽顧問をし、一時はニューヨーク・フィルを客演指揮したことも、メトロポリタン歌劇場で一連のワーグナーの楽劇も上演している。また、ウィーン・フィルとともに世界一周ツアーに出かけたり、ベルリン・フィルとは、ヨーロッパ各地はもちろん、海外ツアーに出かけ、とくに日本には9回も訪れている。

 カラヤンはレコード会社とも有利な契約を結んだ。不遇の時代にカラヤンは辣腕プロデューサー、ウォルター・レッグと組んでイギリスのEMIにフィルハーモニア管弦楽団との演奏を録音していたが、ベルリン・フィル、ウィーン国立歌劇場を掌中に治めると、ドイツ・グラモフォンと英デッカから強い働きかけがあったため、3社に契約条件を競わせ、EMIとは契約を続けるものの、ドイツ・グラモフォンにベルリン・フィルとの演奏を、英デッカにウィーフィルとの演奏を録音する契約をそれぞれ高額な条件で結んだ。その後、録音技術の優れたドイツ・グラモフォンに次第に多く録音を残すようになった。
 さらに、カラヤンは映画会社を設立し、自分の演奏する姿やオペラを映像として残した。その後、映画会社の運営は失敗したが、映像は他の会社に移された。

 カラヤンはホールの建設にあたっても強い力を発揮した。1960年に完成したザルツブルグ祝祭大劇場と、1963年に完成したベルリンのフィルハーモニーホールは、カラヤンの意向が強く反映されており、それぞれ「カラヤン宮殿」、「カラヤンサーカス」とも呼ばれている。

 この間、カラヤンは多忙を極めていた。びっしりと組まれたスケジュールの中で、いくつもの都市を行き来し、コンサートやオペラに臨んでいた。大曲の隅々まで暗譜し、リハーサルでは細かく指示し、自分の意図するオペラや曲づくりをし、本番では多くの名舞台、名演奏を残した。オペラでは、歌手陣やスタッフも決め、時には演出にも手がけた。このため、自分が主役だと思っている歌手ともしばしば衝突した。また、リハーサルと兼ねながら膨大な録音(録音曲目数は1302曲)や映像を残した。その合い間に、運営者側に折衝や駆け引きをし、歌劇場や音楽祭をつくり変えている。さらには、彼より25歳も若いフランスのトップモデルと3度目の結婚をし、自家用ジェット機を操縦するなど、いつもスーパースターとして注目を浴びていた。

 しかし、すべてが順調に推移したわけではなかった。ウィーン国立歌劇場では、劇場側と衝突し、1964年に芸術監督を辞任したが、その後、復帰と辞任を繰り返したように、劇場や楽団、またはその運営者側、あるいはレコード会社といつも折衝、駆け引きをし、時には抗争、対立を繰り返していた。本書では、その経緯が詳しく語られている。

 また、フルトヴェングラーばかりではなく、カール・ベーム、レナード・バーンスタイン、ギョルグ・ショルティなど、他の指揮者とカラヤンとの関係も、確執と抗争の観点から詳しく述べられている。


 著者はカラヤンの人物像を結論づけている。「カラヤンは、巨大な帝国を築いた、人並み外れた権力志向の強い男であったが、彼の目指したのはクラシック音楽の民主化であった。民主化のために権力を欲した男――20世紀のアイロニーの典型例をカラヤンに見ることができる」と。


 このように、本書は帝王カラヤンの栄光盛衰をカラヤン・センターの資料、関係者の本や手記から丹念に辿ったもので、カラヤン・ファンにとっては、超一級の面白い読み物である。しかしながら、私は本書についていくつかの不満もある。

 まず、本書のタイトルが「カラヤン帝国興亡史」としてあるため、「帝国」という言葉にこだわり、ヨーロッパを「カラヤン帝国」、ウィーン、その後ザルツブルグを「首都」、ベルリンは「首都」とはなりえなかったとし、アメリカには「征服」の野望を果たしえなかった、日本はカラヤン帝国の「植民地」としてとらえている。これは比喩としては面白いのであるが、少しムリがあるような気がする。タイトルは「帝王カラヤンの栄光と挫折」でいいと思うのだが………。

 また、「帝国」との関係で、クラシック音楽の「民主化」という言葉を使っているが、これもムリに「民主化」と呼ばないで、素直にクラシック音楽の「大衆化」と呼んだ方がいいのではないか。「大衆化」という言葉は、必ずしも「低俗化」を意味するのではなく、コンサートやオペラに足を運ばない人にもクラシック音楽のファン層を広げ、レコード鑑賞も芸術や趣味とさせるという、クラシック音楽の「普及化」も意味するからである。

 さらに、本書ではカラヤンの演奏スタイル、カラヤンのつくり出す音楽についてほとんど触れていないのが残念である。カラヤンとフルトヴェングラーの対立を「新進気鋭の若手指揮者」と「猜疑心が強く嫉妬深い性格の巨匠」との対立だけでとらえていいのだろうか。そこには両者の求めていた音楽に決定的な違いもあったのではなかろうか。それは、カラヤンと他の指揮者との関係でも同じで、確執と抗争からだけでなく、求める音楽の違いからも述べて欲しかった。


 本年(2008年)4月5日はカラヤンの生誕100年にあたり、NHK BS hiでは11時間にわたり「まるごとカラヤン~生誕100年記念、その人と音楽大全集~」を放送していた。カラヤンの業績を記録した映像と、本人や彼と親交のあった人々へのインタビューと、彼の演奏した曲で構成されていた。曲は、彼の得意としたブラームスの交響曲第1番、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ばらの騎士」であった。この番組はよくできており、カラヤンの全体像を知るのには、こちらの方が向いていると、私は思った。
 カラヤンについて、関係者が異口同音に「彼は自制心の強い、自己に厳しい人だった」と言っていたのが、印象的だった。


 カラヤンの演奏は実にうまいし、彼のつくり出す音は磨き抜かれて美しい。夥しいレコードやCDはいずれもきわめて高い水準の演奏ばかりである。しかも彼の演奏は感情に流されることがなく、常に冷静で客観的である。例えば、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は7回も録音を残しているが、いずれも悲愴感が迫ってくるような演奏ではなく、ただ、ただ美しい、ひたすら磨き抜かれた美しさだけである。そこが彼の演奏スタイルであったと思う。


 なお、余談であるが、かくいう私自身はカラヤンの熱烈なファンというわけではない。私にはもっと強く惹かれる指揮者がいる。カラヤンの演奏とはいわば対極にあるオットー・クレンペラーである。クレンペラーの演奏にはカラヤンのような磨き抜かれた美しさはなく、リズムも明快ではないが、独り静かに聴いていると、そのつくり出す、とてつもなくスケールが大きく精神性が高い世界にいつしか惹き込まれる。クレンペラーが一見無骨に見えながら内面では激しく燃えるような指揮をしているブルックナーやマーラーの交響曲は、とくに素晴らしい。



 〔本書の中から〕

 ○  帝王(カイザー)や天皇、あるいは女王という「呼び方」には、尊敬の念も含ま
  れているが、「あの人には逆らえない」という畏怖の念と、民主主義の世の中に
  あっても独裁的・独善的振舞いを平気ですることに対する揶揄というか皮肉も含
  まれているだろう。

 ○  カラヤンの兄ヴォルフガンクは、「ヘルベルトはヒットラーを嫌っていたよ。独
  裁者はひとりで充分だと思っていたのさ」と、皮肉とも揶揄ともつかぬコメントを
  残している。

 ○  しかし、それでも、カラヤンは何よりも美の探究者であった。権力欲、名誉欲、
  そして金銭欲に取りつかれた男と認識するのは、おそらく、誤りであろう。


                              (08/5/23)



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