私の20世紀
著者のコメント

この一連の短文は、別掲の『光と陰』一部として書いたものである。
 人間の生きている総体的な現実をトータルなままでとらえるとはいっても、しょせん小説はすべてを描くわけにはいかないのだから、方法としては部分を切り取ることになる。つまるところ、どのような方法を使って全体(らしきもの)を切り取るのかに尽きる。そこで考えたのは、本編とは別に、1つの筋を通すという方法である。私は、それを不当に自由を奪われた人の精神のあり方を、歴史の中から取り出し、本編とは別に付記するという方法によって実現しようと考えた。20世紀を丸ごとつかまえるにはどこまで遡ればよいかについては、大いに迷った。結果としては、やはり1917年のロシア革命から始めるのが妥当だろうということに決め、挿話を拾い始めた。それが、この一連の短文である。しかし、いざ本体にとりかかってみると、そこまで時間を遡らせると収拾がつかないことがわかった。*で、いろいろ迷った末に本体は44年から書き始めることにした。あらゆる意味で、私の原点はそのあたりにあり、ここより後ろまで始点を下げるわけにはいかない、と考えた結果の結論である。
 当初の計画では、編年体で行う叙述全体の然るべき場所に埋め込むことを考え、事実、そのように書いたのだが、ここでは別のものとして扱うことにした。そのようにした理由についていえば、いくつか挙げることができる。が、ここでは、G・グラスの『私の一世紀』に目を通したことが、ヒントになったことだけを挙げておく。「そういう方法もありだな」と思ったからである。
 標題の『私の20世紀』は仮のものであって、本編の進み具合によっては元に戻すことも含めて考えている。今回の公表に際して、本編に合わせることも考えたが、あえて準備したものをそのまま全部を載せることにした。この段階では、発想の痕跡をとどめておくのも便法だと思ったからである。
*ソルジェーニツィンも同様の発想から書いている。が、大長編の第1部『1914年8月』で第2部の発表を予告しながら、40年たったいまに至るも、2部として書かれているはずの『1916年10月』を発表できずにいる。かのソルジェーニツィンにして書き継げないものを、比較することすらおこがましい私にできるはずがない。
          05.02.17

 【補遺】
 今回このホームページをリニューアルするにさいして、冒頭の部分だけ旧稿を書きかけののものに差し換えた。この小説は、こういう形で書き続けるかという問題も含めて、本格的な作業にとりかかれるのはもう少し先のことになる。
          09.5.6


<1917〜1923>

【16/17】

 革命の一年まえにモスクワで秘密の政治集会が開かれた。これらの集会には知識階級の左翼の分子もまた参加した、しかし過激な者は参加していなかった。穏健な社会民主党員と社会主義革命家および左寄りの立憲民主党員、いわゆる「カデット」が出席するのをつねとした。E・クスコヴァとS・プロコポヴィチが中心人物であった。A・ポトレソフはヴェーラ・ザスーリッチと腕を組んでやって来た。彼女は当時すでに高齢に達していた。ボリシェヴィキ派のスクヴォルツェフ・スチェパーノフ、のちの『イズヴェスチヤ』の主筆、も二、三度出席した。私はこれらの集会に積極的に参加し、ときおりは議長席にもついた。さまざまの革命的、野党的傾向を代表しているこれらの人々はすべて、自分たちが統御することも、自分自身の意識にしたがって操縦することもできぬ自然力的、運命的な力に支配されていると思っている、このような印象を私はうけた。いつもそうであるように、私はこの団体との連帯感をまったくもたなかった。実際、私が能動的に振舞ったときでさえ、私はよそ人であり、遠くかけ離れた者であった。二月革命がはじまったとき、私はこれらの団体のどれにも親近を感じなかった*。革命が勃発したとき、私は私自身を無縁、無用の余計者と感じた。私ははなはだしい孤独を感じた。革命的インテリゲンチャの代表者たちが臨時政府のなかで出世欲にとりつかれ、掌をかえして顕栄の官吏になったことが、私の嫌悪を非常にそそった。人間の豹変性は私の生涯のなかでもっとも苦渋にみちた印象の一つである。私はこの現象を敗北後のフランスでもふたたび観察した。「自由を愛する」二月革命のあまたの事柄が私を反撥させた。恐怖に満ちた一九一七年の夏のあいだ、私はとくにいやな思いをした。私は当時の数多くの集会に出席し、その環境のなかで限りなく不幸を感じ、ボリシェヴィキの力の増大を明瞭に感得した。私は二度とそこを訪れなかった。革命が二月の段階で停止しようはずのないことは、私には火をみるよりあきらかであった。革命は無血的で同時に自由愛好的でありえようはずがなかった。奇妙に聞こえるであろうが、一九一七年の夏と秋よりも十月革命いごのソヴェート時代の方が、私には快よかったのである**。すでに当時私は内的な震憶を経験しており、諸事件を独自に解釈することができるようになって、きわめて積極的に働きかけはじめていた。私は多くの講義を行ない、講演会を催おし、執筆にはげみ、論争し、著作家連盟のなかで非常に積極的に活動し、「精神文化のための自由アカデミー」を設立した。前線でロシア軍の大規模な逃亡がはじまったとき、私は大きな衝撃をうけた。おそらくこの場合には、私が古い軍人家族に属し、私の先祖たちがゲオルギ勲章凧用の騎兵であったことと結びついている伝統的感情が、私の内部に燃えあがったのであろう。しばらくのあいだ私は名状し難い苦悩におちこんだ。私は旧軍隊の将軍たちとの連帯性を宜明する用意があった、しかし実際には、そのようなものは私には縁もゆかりもなかったのである。そののち私の内部に一つの決定的な深化過程がおこった。私は諸種の事件をより多く精神的地平において体感した。そして私は、ボリシェヴィズムの経験を通過することがロシアにとって絶対的に不可避であることを、認識した。これはロシア民族の内的運命の瞬間であり、その実存的弁証法である。ボリシェヴィキ革命いぜんにあったものへの逆行はありえない。旧秩序再建のすべての試みは無力、有害である、たとえそれが二月革命の諸原理の復元であったとしても! もし可能なものがあるとすれば、それはヘーゲル的意味における「止揚」だけであろう。しかし意識のこの深化は私にとっては決してボリシェヴィキの暴力との和解を意味しなかった。一九一七年の十月には私はまだはげしい感情の嵐につつまれていて、十分に精神的ではなかった。なんらかの理由で私は短期間ソヴェート共和国の構成員、いわゆる「予備議会」に所属させられたが、これは私にはまったく似つかわしくなく、きわめて愚かしいことであった。私はそこであらゆる色合いの革命的ロシアに通暁した。そこには多くの昔の知人がいた。そこでいぜんの被迫害者、かつては非合法的に、或るいは亡命者として生活し、そしていまは――権力のあたらしい坐についている! そういう人々に再会することが、私を苦しめた。私はどんな国家権力にたいしてもつねに嫌感を感じた。私は、非常に戦闘的な気分になっていたので、数人のいぜんの知人にはもはや挨拶もしなかった。のちになって私はこれらすべてのことに超然たる態度をとることを学んだ***。

* 二月革命の日々N・A(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ)の革命活動はつねに非凡な、英雄的な行動としてのみ示された。私はいまもあの日のことをありありとおぼえている。ぺテルブルグから革命勃発の報知がとどいた。モスクワの通りを人々の群れが行進し、口から口へありそうもない噂が伝わった。市の雰囲気は灼熟していた。いまにも爆発がおこりそうな気配であった。N・A、私の姉妹、それに私は、馬場をめざして押し寄せていた革命大衆に加わろうと決心した。私たちがちかくまで行ったとき、馬場はすでに大群衆によってとりまかれていた。馬場に隣接した広場では隊列を組んだ軍隊がまさに火ぶたをきらんとして行進していた。威嚇的な群衆はしだいしだいにちかづき、びっしりと広場をとりかこんだ。恐ろしい瞬間であった! いまにも一斉射撃の音が炸裂するかと思われた。私はその瞬間にふりかえって、N・Aになにごとかをいおうとした。彼はそこにはいなかった。彼の姿は消え失せていた。私たちがあとで聞いたところによると、彼は群衆をかきわけて軍隊のところまで達し、そこで一場の演説を試み、射たないように、血を流さないようにと、兵士たちに勧告した……軍隊は射撃しなかった。彼がその場でただちに指揮官によって射殺されなかったのが、こんにちでも私にはまるで奇蹟のように思われる。(エフゲニア.ラップ)

** 十月の日々、つまりボリシェヴィキ革命がおこるまでの会期間中、N・Aはいいようもなく暗鬱な気分におちこんでいた。私たちの多くの友人が感激に満ちて「ロシアの無血革命」という言葉を使ったり、ケレンスキーの美辞麗句を褒めそやしたり、自由と正義の政体の開始を期待したりしたとき、彼が洩らした皮肉な微笑を私は忘れることができない。彼は無血革命が血まみれに終らねばならぬことを知っていたのである。彼は口数がきわめてすくなくなり、悲しげであった。ただときおり、有頂天になって革命を信じている話相手に答えるとき、怒りをこめて、のみならず憤怒を爆発させて、邪悪な革命的要素を糾弾することができた。すると話相手は身をひいた、N・Aを反動者とみなしたからである。

 或るとき私は家にひとりでいた。呼鈴がなった。客間の敷居ぎわにA・ベールイが立っていた。挨拶も交わさずに、彼は興奮して訊ねた、「私がいまどこにいたかご存知ですかで」答も待たずに彼は言葉をつづけた、「私はみましたよ、彼を、ケレンスキーを……演説をしていたのです……なん千人という聴衆……彼は 演説を……」そしてベールイは恍惚となったように両腕を天にさし上げた。「私はみましたよ」、彼はつづけた、「一条の光が空から彼のうえに降り注ぐのを。私は(あたらしい人間)の誕生をみました……彼――は――人間――です。」
 そのあいだにN・Aは客間に気づかれずに来ていて、ベールイの最後の言葉を聞くと同時に、はじけるよ うな哄笑を爆発させた。ベールイは彼に燃えるような眼差しを役げつけ、いとまも告げずに部屋から走り去った。それからながいあいだ、彼は私たちのところに姿をみせなかった。   E・R

*** 十月の日々、ボリシェヴィキによるモスクワ包囲の際、私たちの家は射程圏内にあった。弾丸が家の窓下で炸裂した。N・Aは平静に彼の書斎にこもって、或る論文を書いていた。炸裂するたびに女中(当時はまだ使用人を雇うことは禁じられていなかった)が金切声をあげたので、物凄い悲鳴が家中を満たした。N・Aは書斎からでできて、しずかに訊ねた、「どうしたというんだね?――べつに変ったことはないのに……」或る晩私たちは彼の書斎に集まった。私たちの上の部屋に同居していた一人の大佐もそこに居合わせた。とつぜん――猛烈な爆裂音。家全体が震動した。それは獰猛な巨人が家を土台から揺さぶったような感じであった。「迫撃砲が命中したんだ」、大佐が叫んだ、「はやく地下室へ!」私たちは階段を駈け下りた。N・Aはしかし一緒ではなかった。彼はまず愛犬をさがし、それを腕にかかえでから地下室へおりて来た。天井がいまにも頭上におちかかってくるのではないかと片唾をのみながら、私たちはそこに数分間とどまっていた。物音一つ聞こえず、あたりはしんかんと静まりかえっていた。翌日大佐づきの女中がN・Aの書斎の上の部屋に不発の留弾をみつけた。E・R


【18/19】

 ソヴェートロシアで過した私の生涯のまる五ヵ年のあいだ、小ヴラス横町のわれわれの家では(私の記憶に間違がなければ)毎火曜日に集会が開かれた。そこでは講演や討論会*が催された。この時期には私はまた公開の席上で、あとにもさきにも経験したことのない大聴衆のまえに登場した。このような或る集会のことを私はとくによく記憶している。アナーキストのクラブ(当時はまだ許されていたのである)がキリストに関する討論会を開催しようとした。彼らは私の参加を望んだ。主教や司教もまた招待された、しかし彼らは姿をみせなかった。出席者はトルストイ信奉者や復活についてのN・フョードロフの埋念をアナーキ的コミュニズムと結びつけようと試みたフョードロフ信奉者、そのほかに単純なアナーキストや単純なコミュニストであった。人々で満ち溢れた広間に入ったとき、私は沸騰点にまで高まって極度に緊張している雰囲気を感じた。そこには多数の赤軍兵士や水兵や労働者がいた。それは革命時代の雰囲気、しかしまだ十分に完成しておらず、まだ十分に組織化されておらぬ雰国気であった。それは一九一九年のはじめのころのことであったか、或るいはたぷん一九一八年末のことであったろう。
* N・Aは、このテロの時代には他の人々との精神的連繋は絶たれてはならず、精神生活は死に絶えてはならないという意見をもっていた。すべての集会が、それがどこで開催されようと、禁止されていた時代に、私たちの家では講演が行なわれ、種々の問題が論議された。もちろんボルシェヴィストを除外してのことだが、極左にはじまって極右におわるさまざまの党派に所属している人々が毎火曜日に集まってくる、こんなことはモスクワで私たちの家一軒であった。冷えきったサロンに、招待された人々は短い毛皮の半外套をっけ、フェルトの長靴をはいて腰を下ろしていた。敷物の上には一面に雪溜りができた。凍えている出席者をすこしでもあたためようと思って、私は白樺の皮でつくった熱い茶を出し、それに人参を細かくすりつぶしてこしらえた小さな菓子を添えた。砂糖はなかった。或るとき友人の一人がルミャンツェフ博物館からフランスの新聞をもってきた。その記事のなかで筆者のP氏は、ボリシェヴィキ革命の時代にロシアには言論の自由が支配していることを指摘し、その証拠として、つぎのようにのベていた。毎火曜日に高名な哲学者ベルジャーエフの邸に多種多様の党派の代表者が会合して、えぞいちご色の絹布で張られた豪華な安楽椅子によりかかり、金めっきの古代茶碗からお茶を飲み、そのうえ小型の素敵な菓子を食べながら、こころおきなく多種多様な問題を論じている、と。この記事の筆者はたいへん素朴で、素晴らしいコミユニズムの神話に感激したあまり、もっとも幸運な場合でも、この記事のためにN・Aが逮捕される危険のあることを夢にも考えていなかったのである。これらの集会こそ彼の逮捕の機縁を与えたのだと、私は信じている。たぶん同じ筆者の手になったと思われる記事が「イズヴェスチャ」にのったことがある。それにはつぎのように書かれていた、木曜日の或る晩、N・A・ベルジャーエフの邸で、レーニンはアンチクリストであるかいなかの問題が論議され、彼はアンチクリストではなくして、ただその先駆者にすぎないという決論が下された、と。  エフゲニア・ラップ


【19/】

 私は、私がソヴェート極力の側からとくべつに迫害されたということはできない。それにしても私は二度逮捕され、チェ・カーとゲ・ぺ・ウに――ながいあいだではなかったが――収監され、そして、これははるかに重大なことであるが、ロシアから追放されて、それいらいほとんど二十五年のあいだ外国でくらしている。最初に私は一九二〇年にいわゆる「戦術中央本部」の事件に連坐して拘置された。この機関とは私は直接の関係をもっていなかったが、私の親しくしていた知人が多数逮捕されたのである。これは結局大きな裁判沙汰になったが、それに私は捲き込まれずにすんだ。かつて私がチェ・カーの内部刑務所に拘留されていたとき、真夜中の十二時ごろに尋問のために呼びだされた。私は暗い廊下や階段を数限りもなくひきまわされ、ついにあかるく照らしだされた、絨毯の敷かれてある清潔な廊下に達し、そこから床に北極熊の毛皮の拡げられている大きなあかあかと照明された書斎に入った。事務机の左手に私に面識のない一人の男が赤色の屋形勲章をつけた軍服姿で立っていた。彼はブロンドで、細いとがった髭をもち、灰色の、濁った、憂鬱そうな眼をしていた。彼の外貌や身のこなしは教育のよさと洗練さをあらわしていた。彼は私に腰をおろすようにすすめて、いった、「私はジェルジンスキーです。」このチェ・カーを創設した男の名前は血にまみれたものと取沙汰されて、全ロシアがそのまえで震えていた。移しい拘禁者のうち、ジェルジンスキーみずからによってとり調べられたのは私一人であった。私の尋問は厳粛な性格を帯びた。この尋問にはカーメネフが姿をみせ「チェ・カーの議長代理であるメンジンスキーもまた立会った。彼とは昔からすこしばかりの面識があった(私はぺテルブルグで彼と出会ったことがあった。当時彼は著述家で、芽の出ない長篇小説作家であった)。私の性質の顕著な特徴は、人生の危険に満ちた、のみならず破局的な瞬間にも、すこしもうちひしがれず、またすこしもたじろがないで――むしろ反対に、躍動を感じて、ただちに攻撃に移ることである。おそらくこれは、私の体内に流れている軍人の血の仕業であろう。私は尋問の際には自分を弁護しないで、問答の全体をイデオロギー問題にひきこむことによって、攻撃をかけようと決心した。私はジェルジンスキーにいった、「私は私の考えていることを卒直にのべることが思想家、著述家としての私の品位にふさわしいことと考えます、このことに御留意願いたい。」ジェルジンスキーは答えた「それこそあなたからわれわれが期待するものです。」そこで私はまだ私に質問がむけられないさきに語ろうと決心した。私はおよそ四十五分間語った。それはまぎれもないひとつの講義であった。私ののべたことはイデオロギー的な性質を帯びていた。私は私がどのような宗教的・哲学的・道徳的根拠から共産主義の敵なのかを、示そうと努めた。同時に私は、私が人間として非政治的であることを頑強に主張した。ジェルジンスキーは注意深く耳を傾け、ただときおり簡単な所見を挿んだ。たとえば彼はこんなことをいった、「理論においては唯物論者、生活においては観念論者の人がいる。また逆に、理論においては――観念論者で生活においては唯物論者の人もいる。」私のながい議論はその誠実さのゆえに、あとで聞くと、彼の気に入ったとのことである。しかしそのあとで彼は特定の人々に関係をもつさまざまの質問を私にむけた。これらの人々に関してはなにひとつ言うまいと私は固く決心していた。私は旧政体のもとにおける尋問にすでにいささかの経験があった。もっとも不快なひとつの質問にたいしては、ジェルジンスキー自身が答を与えて私を困惑から救ってくれた。逮捕された者の多くが自分で自分に不利な申立てをして、その結果彼ら自身の供述が告訴の主因をつくったことを、私はあとで知った。尋問のおわったのち、ジェルジンスキーは私にいった、「私はあなたをただちに釈放します、しかしとくべつの許可なしにモスクワを離れることは禁止されるでしよう。」それから彼はメンジンスキーの方をむいて、「おそくなった。このあたりには迫剥が徘徊している。ベルジャーエフさんを自動車でお宅までお送りできたらよいのだが。」自動車はみつからなかった。しかしオートバイが私を私の手荷物といっしょに自宅まで送ってくれた。刑務所を出るとき、いぜんに近衛騎兵の曹長であった刑務所長が自分で私の所持品をつみこみながら私に訊ねた、「われわれの所はお気に召しましたか?」チェ・カーの監獄行政ははるかに苛酷で、革命の監獄規律は旧政体時代の監獄に比べて非常に俊厳である。われわれは互に完全に遮断されていた。このようなことは昔の監獄ではおこらなかった。ジェルジンスキーはきわめて信念の強固な、公明な人物という印象を私に与えた。彼は卑劣な人間ではなく、彼の本性はたぶん決して酷薄ではなかったと、私は信じている。彼は狂信者だったのだ。彼は魅入られた人間という印象を与えた。彼には或る不気味さが漂っていた。彼はポーランド人であった、そして彼の挙措には或る洗練さが窺われた。彼はかつてカトリックの僧侶になろうと欲したことがあった、それから彼は彼の熱狂的な信仰をコミュニズムに移したのである。逮捕があってからしばらくして、「戦術中央本部」の裁判が開始せられた。それは公開して審理された。傍聴が許可されたので、私はすべての公判に出席した。被告席には私が個人的関係を結んでいた人々の姿も見出だされた。この裁判は私に陰鬱な印象を与えた。一切が演出であって、すべてはすでにあらかじめ決定されていたのである。被告のうちの数人はなみなみならぬ威厳を示した。しかしまた不面目な、卑屈な振舞をした人々もいた。判決はとくべつにおもくはなく、執行猶予が下された。




22/】

 ソヴェート機構は当時にあってはまだ完璧に組織化されていなかった。それはまだ全体主義的とは呼べず、幾多の矛盾を蔵していた。多数の人々に支給された学界用配給切符の実施いぜんに、著名な十二人の著述家が特配切符を受取った。世間は彼らのことを冗談に――不滅者と呼んだ。私はこの十二人のなかの一人であった。しかしなぜ私が選ばれた人々の仲間に入ったのか、つまりどうして私が食糧に関して特権者に数え入れられたのか、私にはまったく不可解なことになった。配給切符を受取ったちょうどそのときに、私は逮捕されて、チェ・カーに監禁されたのである*。当時は旧ロシアのインテリゲンチャの代表者、カーメネフ、ルナチャルスキー、ブハーリン、リャザノフはまだクレムリン宮殿にいた――そしてコミュニズムに同調しなかった著述家や学者等、インテリゲンチャの代表者たちにたいする彼らの態度は、チェ・カーの役人たちの態度とは異なっていた。彼らは恥じていた、そして知的ロシアの苦難にはげしくこころを動かされて、煩悶していたのである。
* N・Aの逮捕の前夜、彼と私は公共事業にかりだされた。N・Aは病気にかかっていた。彼は高熱を発していた。朝の五時にわれわれは起床し、点呼にならばねばならなかった。零下三十五度であった。石油ランプに薄暗く照らされた天井の低い、寒く暗い部屋のなかに「ブルジョワジー」の一群が集められた。人々はみな番号で呼ばれた。寒さに震えているみなりの貧しい人々。蒼白くやつれた顔。武器の触れ合う音。号令者の兇暴な怒声。これらすべてがさながらダンテの「地獄」の一場面を偲ばせた。点呼ののち、われわれは縦隊で行進しなければならなかった。そして、氷を「かち割り」、鉄道線路の雪かきをするために、数露里はなれた田舎へまるで重罪人のように兵隊にとりまかれながら追い立てられるのであった。重い足をひきずって駅に到着したとき、男は女からひき離された。男たちは重い鉄挺で氷を「抉りだし」、女たちは氷塊を車輌に積み込まねばならなかった。一車両ごとに二人の女が配置させられた。私といっしょに働らいたのはまだうら若い少女であった。私は決して彼女の顔を忘れないであろう。彼女は短いブラウスをつけ、軽い靴をはいていた。いま彼女は霜やけで紫色になった両手を震わせながら、これらの氷塊を持上げるのであった、そしてそのあいだ彼女の眼からたえず涙があふれでた。薄暗くなってから、われわれは積込作業をおわった。私はN・Aのところへ行った。彼は蒼ざめ、疲れ果てていた。彼はほとんど立っていることもできなかった。われわれは終日なにも口にしていなかったのである。仕事のおわったあとで、各人にひときれの黒パンが配給された。
 われわれが死ぬほど疲れ切って帰宅したとき、日はとっぷり暮れていた。私は小型の暖炉を焚きつけるために、大急ぎでN・Aの寝室に入った。燃料は、私が母の領地から運びこんでおいた古代家具であった。N・Aは?のテーブルと安楽椅子を割った。われわれは強いて彼をベットにつかせた。真夜中に騒々しいノックの音がきこえた。それはちょうど誰かが扉を打ち破ろうとしているかのようであった。すぐに私はとびおきた。私のまえには一人のチェ・カーの役人に引率された武装した兵隊たちが立っていた。「ここはベルジャーエフの住まいだね?」 その役人はたずねた。N・Aに警告するため、私は大声で叫んだ、「チェ・カーの役人よ!」兵隊の一人が私の口をふさいだ。チェ・カーの役人はN・Aの部屋を教えるように私に命令した。われわれが彼の部屋に入ったとき、N・Aはすでにおきあがっていて、落着いた声でいった、「家宅捜索は無用です。私はボリシェヴィズムの反対者です、そして私の思想をかくしたことはありません。私の論文のなかに書いてあることはみな、私が講演や集会で公然と語ったことばかりです。」それにもかかわらず、チェ・カーの役人はあらゆる書類をかきまわした。家宅捜索は早朝までつづいた。それから彼はうさんくさく思った書類をえりわけ、調書につぎのように記入した、「ベルジャーエフは、キリスト教徒であるがゆえに、ボリシェヴィズムの反対者であると声明した。」そののち、あたたかい衣類をいくつか持参することを許されて、この病み疲れ、さいなまれた人はルビヤンカの刑務所へとひきたてられて行った。 エフゲニア・ラップ 


22/夏】

 しばらくのあいだ私は比較的平穏に暮らすことができた。一九二二年の春いらい情況は変った。反宗教的戦線が形成せられ、反宗教的迫害がはじまった。一九二二年の夏をわれわれはズヴェニゴロドスク都のボルヴヒですごした。そこはモスクワ河畔の魅力に富んだ土地で、近隣には当時トロツキーが住んでいたユスホフ家の領地アルハンゲルスコエがあった。ボルヴヒをとり巻く森林はまったく素晴らしかった。われわれは茸がりに熱中した。われわれはおそろしい政体のことを忘れた。事実また田舎ではそのようなことはなにも感じとれなかったのである。或るとき私は一日の予定でモスクワへでかけた。はからずもその日の夜、この夏を通じて私がわれわれのモスクワの住まいですごしたただ一度の夜――家宅捜索が行なわれ、私は捕えられた。ふたたび私は、爾来ゲ・ぺ・ウと呼ばれたチェ・カーに拘禁された。私はおよそ一週間そこに拘留されなければならなかった。予審判事のまえへ連れて行かれた私は、彼からソヴェートロシアを退去して、外国へ立ち去るように通告された。ふたたびソヴェートロシアの国境を踏むときは、射殺されなければならないという宣言に、署名させられたのち、私はふたたび釈放された。外国旅行の準備がととのうまでに、それからおよそ二ヵ月が経過した。コミュニズムへの転向を絶望視された著述家、学者、社会政策家たちの二団が外国へ追放された。これはのちに二度とは適用されなかった異例の処置であった。私は故郷から追放されたのである――政治的な理由からではなくして、イデオロギー的な理由から。君は追放されるのだと聞かされたとき、郷愁が私を襲った。私は亡命者になりたくはなかった。私は亡命者たちからのけ者にされているのを感じた、もともと彼らとは共通ななにものをももっていなかったのである。しかしまた同時に、よりいっそう自由な国に行けるだろう、そしてよりいっそう自由な空気を呼吸することができるだろうと、私は感じた。私は私の追放が二十五年以上もつづきうるとは思っていなかった。



<1924〜1933>



 1929

 この本(A・マルザゴワの『地獄の島にて』であろう)はヨーロッパを驚愕させた(そして、おそらく、この脱走した著者は誇張した話を書いたとして非難を受けたのだろう。いや、《新社会》の友人たちはこの誹謗中傷した本を信じるはずがなかったのだ!)。その本はすでに知られていることと矛盾していたからだ。『ローテ=ファーネ』紙に載ったソロフキ諸島の天国に関する記述(その特派員ものちには《群島》ヘ送られたと思う)とも矛盾し、ヨーロッパにおけるソ連邦の全権代表部が配っていた写真集、上質の紙に刷られた居心地のいい僧房のもっともらしい写真とも矛盾していたからである(ナデーシダ・スロフツェワというわれらが女性党員はオーストリアにおいてウィーンの全権代表部からこれと同じ写真集を受け取り、ヨーロッパで流布されていた中傷を憤慨して否定した。ちょうどそのころ彼女の未来の夫の妹はソロフキ特別収容所にぶちこまれていたし、彼女自身は二年後にヤロスラーヴリの隔離監獄で「膝を曲げて一列になって」散歩する運命となった)。いや、中傷は中傷としても、それはなんともいまいましい出来事だったのだ! そこで、《党の良心》たる同志ソリツを議長とする全露中央執行委員会の調査委員会が、例のソロフキ諸島でいったい何が行われているのか(彼らは何も知らなかったのだ!……)と調査のために出かけた。しかし、その委員会はムルマンスク鉄道だけしか見て回らず、なおそこでも何一つとして特別なことはしなかった。そして島へはプロレタリアートの祖国へ帰ってきたばかりの偉大なプロレタリア作家マクシム・H・ゴーリキーに行ってもらうほうがいい。いや、行ってくれるようにお願いしよう! と、決めたのである。ゴーリキーの証言なら、外国で流布している例の根も葉もない中傷の最も有効な論破になるだう!

 この噂が本人より一足先にソロフキ諸島まで達した。すると、囚人たちの胸は期待にふくらみ、警備兵たちは右往左往しはじめた。囚人たちの期待を想像するには、彼らを知らなければならない。無法と暴挙と沈黙の巣窟へ鷹と海燕の詩人、ロシア最高の作家がやってくるのだ! 彼ならすべてを暴露してくれるだろう! 彼なら連中をこらしめてくれるだろう! あの親父さんならわれわれを守ってくれるだろう! ゴーリキーの到着を囚人たちは全面的な恩赦のように待ちこがれていたのだ! 
 当局も落ちつかなかった──できるかぎりのことをして醜悪なものを隠し、見かけだけをよくした。城砦内の囚人の数を減らすために遠方の出張所へどんどん護送した。衛生部では多数の病人を退院させて、きれいに掃除した。根のついていない縦の木を土に差して、孤児収容所のところまで〈並木路〉を急いで造った(そんな木でも数日は枯れないはずだ)。その孤児収容所というのは、三カ月前に開設されて、ソロヴェツキー諸島特別収容所管理局の誇りでもあった。そこの子供たちは服装もよく、社会的異分子もいなかった。いや、いかにして子供たちを未来の社会主義生活のために教育し救済するかについては、当然のことながら、ゴーリキーも興味を示すだろうと考えて、この施設はつくられた。


 1932

 ソロフキ島がいかに陰惨に見えても、刑期(時には命まで)を終了させるために白海運河建設に護送されてきたソロフキ島の囚人たちは、そこではじめて冗談はもう終ったことがわかった。真の収容所とはどんなものか、そこではじめて明らかとなったのだ。いや、その後はわれわれもそれをしだいに理解するようになった。ソロフキ島の静けさの代りにそこにあるものは――教育的煽動にまじったやむことのない卑猥な罵言と粗野な喧嘩騒ぎであった。白海=バルト海運河収容所管理局付属のメドヴェジェゴルスク収容地点のバラックでさえも一台の組立て板寝床(この時すでに発明されていた)に四人ずつではなく、八人ずつ寝ていた――つまり、一枚の敷板に二人の人間が頭を反対方向に向けて寝ている始末である。石造りの修道院の建物の代りにあるものは――隙間風の通る臨時のバラック、でなければテント、時には直接雪の上でも寝たものだ。同じく一日に十二時間労働していたベレズニキー収容所から移ってきた人びとも、やはりここは以前よりつらいことを認めていた。記録の日々とか、突貫作業の夜々とか。「われわれからすべてのものを、われわれにはゼロを」などのスローガン。人びとの密集して混雑しているところで岩石の発破作業を行う――そのために怪我人が多く、死人まで出る始末だ。丸石の陰に隠れて食べる冷たい野菜汁。どんな作業か―― すでに読んだとおりだ。どんな食事か――いや、一九三一年から三三年にかけていったいどんな食物があったというのか(スクリプニコワの話によると、メドヴェジェゴルスク収容地点の食堂では自由な雇人でさえも、魚の頭と脱穀した黍がパラパラと入っている濁った煮物を食べていたという)。


<1934〜1945>

 1936

 刑期も終え、〈無期限の流刑〉さえも終った。だが、どこでも、収容所の〈文化教育部〉でも、州の図書館でも、中くらいの都市でも、私はソビエト法の法典を見たこともなければ、手にとったこともなかうた。買うことはおろか、ただ入手することも、いや、たずねることだってできなかった。私の何百人という知合いの因人は、審理と裁判を体験したあと一回ならず収容所と流刑をつとめあげているが、その誰もが一度として法典を見たこともなければ、手にとったこともないのだ!
 そしてこの二つの法典が、その三十五年の生命を閉じようとして、新しい法典に変ろうとしていた時、その時になって初めて私はこのUKとUPK(刑事訴訟法)という二人兄弟の未製本版に、モスクワの地下鉄の売店でお目にかかったのだった(不用になったために処分することになったのだ)。今や私は感動してそれを読んでいる。たとえば、UPK――
「第一三六条――取調官は暴力やおどしによって被告から供述あるいは自白を強制する権利はない」(予見的中!)
「第一一一条――取調官は、被告を正当化する、もしくは罪を軽減する事情をも、解明しなければならない」
「第一三九条――被告は自分自身で供述書を書く権利を有する。また取調官によって書かれた供述書に訂正を加えるよう要求することができる」


 1937

 とにかくその日、壁をたたく音が「あいさつ!」だと解読できてから、わたしの頭の中にヴェーラ・フィグネルの『わが心の手記』のぺ−ジがありありと目の一前に浮かび出てきたのには驚かされた。そのぺ−ジには牢獄のアルファベットの手がかりが書かれていた。わたしは額をおさえ、夢遊病者のようにリャーマに言った。そのことばにわれながら驚きつつ
「アルファベットは全部五列に分かれている。各列に──五文字ずつだわ。それぞれの文字は二種類のたたきかたで表わされるの、独立音と、連続音でね。はじめの音は列、あとの音が──その列にある文字の位置だわ」
 わたしたちはその発見に胸を躍らせ、当直看守に聞き取られる危険さえもつい忘れて、われ先にと、はじめての通信をはじめた。短い通信だった。
「ア・ナ・タ・ダ・レ?」
 わたしたちは隣人に尋ねた。そう、やはりそうだった! わたしたちは石の塊を通して隣人の歓喜を感しることができた。やっと判ったのだ! かれのたぐいなき忍耐はりっぱに実を結んだのだった。
 トン・トン・トン・トン。トン! かれは、判ったぞ、とうれしいメロディーを送ってきた。このときから、この音が相互理解の符号になった。かれは返事を打ってくる。もう、何べんも何べんも「P・R・I・V・E・T」ということばを繰り返してやらなければならないおばかさんたちにではなく、自分の名を伝えれば理解してもらえる人たちにたいして送られるのである。


 1939.7

 車両の腹に「特殊設備」と書いてあるのは、乗車するときすでに気づいていた。しかし、とくにもの珍しいものではない。貨車だから、なにかのプラントでも運んでいるのだろう、前の便の貨物がそのままになっているのかなと思っただけだった。護送隊長から、護送中の規律について説明を受けて、はじめて「これはおかしいぞ」と思った。仲間も察しがついたようだった。
「つまり、私たちがその特殊設備なるものだよ」と、ターニャ・スタンコフスカヤが3段目の寝棚によじのぼりながらいった。「だってどうも変じゃないか。列車が動いてるときはいくらしゃべってもいいけど、停まったらひとこともしゃべるな、コトリとも音をたてるな、だろ。ちっちゃな音を出しても営倉だぞ、だなんて」
 ターニャのうしろ姿は、わんぱくではしっこい少年を思わせた。綿入れ外套を枕もとに巻く動作もがさつで、男の子みたいだった。上段から聞こえてくる大声も若やいでいた。「申しあげまーす! 私は自発的に上段へまいりました。見よ、この自覚性を! 私の骨はここにいてもとろけやしないからね。肉がまだ残ってるやつのほうが、ここじゃ生きにくいのさ」
 ターニャに返事する者などひとりもいなかった。彼女のことばはほとんどだれの耳にも入らなかった。7号車では人間の塊が押し合いへし合いし、のべつまくなしにがやがやと騒いでいた。縦横に奇妙な褐色の縞模様の入った、薄汚いおそろいの上衣とスカート姿の女が76名。彼女たちのうち、だれひとりとして、いっときも口を閉じている者はいなかった。このおしゃべりには聞き手というものがなかったし、テーマすらなかった。だれもが貨物列車がヤロスラヴリを離れたその瞬間から、自分勝手なことをしゃべっていたのである。なかにはまだ寝棚に落ち着きもしないうちに、詩を読んだり、歌をうたったり、おしゃべりをはじめる者もあった。めいめいが自分の声にうっとりとしていた。とにかく、彼女たちは2年ぶりで、同じ境遇に置かれている仲間といっしょになれたのだ。全ソ的意義を持つヤロスラヴリ監獄では、独房因たちは730日間沈黙しつづけてきたのである。1日に使われたことばは2年の間たったの6つ。――起床、白湯、散歩、用たし、食事、消灯、である。
 エヴゲーニヤは下段の寝棚で押し潰されそうになっていた。身じろぎもできなかった。けれど熟練した囚人感覚によって、しめた! と思った。すばらしい席だ。第一に、端だから、押されたところで一方からだけだ。それに、高い格子窓に近い。窓越しに大気の細い流れが吹き込んでくる。彼女はしばしばことばを止め、両肘を張って体を伸ばし、深呼吸をした。やはりそうだ。野原の香りがする。車窓には7月が輝いていた。1969年のうだるような7月の日が。
 エヴゲーニヤはふたたび大声でしゃべりはしめた。みんなと同じように、しゃがれ声で口ごもりながらも、人のことばをさえぎり、なにもかもいっしょくたに話をし、しかも他人の話も聞いてやり、わかってやろうと精一杯努めるのである。ことばのきれはしが、混乱したエヴゲーニヤの頭の中へ突き刺さるようにくいこんできた。
「そりゃ、しあわせだよ! どこへやられようとね。あの石の袋から出してもらえさえすりゃあね」
 禁固10年、公民権剥奪5年。ここにいる者はみんなそうだ。「きのうの囚人スープがほんとに食べられたの?」エヴゲーニヤはだめだった。見ただけでむかむかしてきて……。
「聞かなかった? チャパーエフ軍の機銃手をしてたアンカがここにいるってさ」
 「食事って出るのかしら?」
 ターニャ・スタンコフスカヤは、上段の寝棚から、43号(29センチ)の囚人靴を履いた、異様に細く、ふくらはぎもない両足をだらっと垂らしていた。ターニャを前から眺めると、はしっこい少年どころか、まるで老婆のように見えるのにはびっくりした。ぼさぼさに乱れた白髪。かさかさの皮がへばりついている骨ばった顔。いったいいくつになるんだろうか? 35歳だって? まさか。
「びっくりしてるんだね。暦で数えりゃ、たしかにそうなるね。けど、ヤロスラヴリの2年は20年と数えな。しめて55になる。それに、取り調べを受けた1年は最小限10年だな。だからちゃんと65歳になるさね。どいてくれないかえ。降りてちょっぴり息がつきたいよ」
 エヴゲーニヤの表情を読みとり、そういい放つと、ターニャはドア近くの床にべたっと腰を落ろした。ドアはぴったりとは閉まっていなかった。手のひらくらいの幅の隙間から風がすこし入ってくる。ところが、息を吸い込む間もなかった。車輪はゆっくりしたテンポをさらに緩めた。護送兵たちがせわしなげに車両のまわりに駆け寄り、大きな木の閂でドアをいやというほど締めつけてしまったのである。護送兵が車内へ入る必要が生じたときにしかこの閂は緩めてもらえない。
「停まったわ! 停まったわ!」とたんに車両ののど首にくさびが打ちこまれたかのように、死の静寂が訪れる。。神経が昂り、髪は乱れ、汗にまみれ、運命の変化を信じるのをこわがっている総員76名は、いい残したままで話をぷつりと切り、顔を見合わせる。どうにも辛抱できない連中だけが、身ぶりや手ぶり、それに監獄の壁信号の要領で、し残した話をつづけるのである。半時間ほどして列車がふたたび動きはじめたころには、みんな声がかすれてしまっていた。みんなしゃがれ声で話している。
「喉頭炎よ。強度の喉頭炎だわ」と、ドクトル・ムーシカことムーシヤ・リュビンスカヤは、笑いながら診断を下す。仲間のうちでは最年少者のひとりである。
「神の檻に入れられた獣たち」これはドイツの諺だが、7号車に乗せられたこれらの道連れと知り合いになるたびに、このことばがエヴゲーニヤの頭に浮かんでくる。そこには本当にいろんな種類の女がいた。
 車中の朝は早く始まった。ヤロスラヴリ獄で植えつけられた習慣は、どんな疲労にも勝ってしまうのだ。だからターニャ・スタンコフスカヤが上段の寝棚にすわろうとして、髪の乱れたしらが頭を天井にぶっつけ、「起床!」とわめいたときには、もうみんな目を覚ましていた。昨日の興奮も多少おさまり、みんなわれに返ったような目であたりを見まわしていた。ブトウィルキで顔を覚えた女たちもいた。自由の身だったころの知人もいた。組長のフィーサ・コルコジノワはもう、きちんと定量になるようちょっぴりおまけをつけたパンを配り終えた。目の前で逓送囚団の生態が形をつくりはじめた。初日は、移動するということ自体にショックを受けたせいか、列車がのろのろとはうように進んでいることなど気づきもしなかった。ところがいまは、それを感じている。スローモーション撮影そっくりだった。十二月党員を乗せた幌馬車が進んでいるかのように車両はぎしぎしと苦しそうにきしみ、車輪はごとごと鳴っていた。それもリズミカルではなく、ガツン、ガツンと響き、湯呑みの中の貴重な水がこぼれてしまうのだ。
 7月のシベリア鉄道を東に向かって進む締めきたっままの護送車の中で、1日コップ1杯きりの水が、どれほど貴重なものかは、日ならずしてあきらになるのだが、長い拘禁から解き放されたばかりの彼女たちは、まだそのことに考えを及ぼす暇はなかった。護送車は、停車場だろうが待避駅だろうがしょっちゅう停車し、とくに、護送兵が食事を配ったり点呼をするようなときなどは、野っ原に停まった。昨日までの独房囚たちは、ブトウィルキでおなじみの、あの獄窓生活のしきたりをよみがえらせて大はしゃぎだった。宿直、日直……ちっちゃな格子窓を覗く順番。ヴォロネジ州の農業技師アーニャ・シーロワは、この順番をみんなから譲ってもらっていた。アーニャには思いのままに窓外の穀物を眺めさせてやろう。なにしろ身もやつれるほど穀物に恋い焦がれているんだから。アーニャは頑健そのものの格好のいい女性ではなかった。ずんぐりむっくりしていて、エネルギーの塊、それでいて、笑うときにはまぶしそうに目を細る。
「なんだね、ここいらの穀物ときたら! ヴォロネジあたりのいま時分の出来を一度見てほしいもんだよ」
 他方、ターニャ・クルペニクは、ウクライナ娘の生きた象徴である。黒い瞳、黒い眉をした優しいターニャは、大声をあげて、アーニャ・シーロワに話しかける。
「うれしいわー、アーニカ。私たちもうすぐ働くのよ! 私とあんたはここじゃいちばんしあわせよ。農業技師だもの。私たちだけに、そう、ひょっとしたらドクトル・ムーシカにも専門の仕事をあてがってもらえるかもしれないわ。けど、文科出の人たちは分が悪いわね。専門の仕事なんてあてがってくれはしないんだから……」
 アーニカも、ターニャ同様、これから先の仕事のことだけを考え、陶酔している。
「永久凍土を手で掘ってもいいね。ほんとだよ。あそこだってあたいたちの土地に変わりはないんだから。なにもしないでいるのは、もうごめんだね。あの独房にあと1年もぶちこまれてたら、壁にぶつけて頭をぶちわっちゃうだろうよ。どんなことでも我慢できるけど、なにもしないことほど辛いことってないからね」
 専門の仕事さえあてがってくれたら、彼女は悪魔といっしょに働くことさえも厭わないにちがいなかった。



 44.7〜9

 :ワルシャワ

 あらゆる情報が、ごく近い将来にポーランドがロシアの手に入るであろうことを示していた。ロンドンにある政府に忠誠をつくすポーランド地下軍の指導者たちは、いまや、自分の国の解放を早め、また、ドイツ軍がポーランドの領土で、とくにワルシャワで、一連の激しい防御戦を戦うのを防ぐために、いつドイツ軍に対する総反乱を起こすかを、決定しなければならなかった。ポーランドの司令官ボル=コモロウスキーとその文官顧問は、ロンドンのポーランド政府によって、いつでも彼らが適当と思うときに、総反乱を宣言する権限を与えられた。これは、じつに時宜に適した措置だと思われた。7月20日、ヒトラーに対する陰謀のニューズが入り、つづいてノルマンディの上陸拠点からの連合軍の突撃が、すぐさま行われた。7月22日ころ、ポーランド地下軍は、ヴィスラ川西方への総退却を命令する独軍第4戦車師団の無電を傍受した。その日、ロシア軍は渡河し、その偵察隊はワルシャワのほうへ押し進んだ。総瓦解が間近になったことは、ほとんど疑いなかった。ニュールンベルグ裁判で、グデリアン将軍は、その情勢を、つぎのようなことばで述べている。
――1944年7月21日、私は、東部戦線のドイツ軍の参謀長に新しく任命されました。私の任命の後、全戦線(もしそれを戦線と呼びうるならば)は、ヴィスラ川の線へ退却しようと努めているわが軍の生き残りの塊に過ぎませんでした。25個師団が完全に全滅しました。
 そこでボル将軍は、大蜂起を起こし、このワルシャワを解放することに決めた。彼には、7日ないし10日の戦闘に必要な食糧と弾薬をもつ約4万人があった。ヴィスラ川の向こう側から、ロシア軍の砲撃の音が聞えた。ソ連空軍は、ワルシャワに近い飛行場(これらは最近獲得したもの)から、この都市におけるドイツ軍を爆撃しはじめたが、そのいちばん近いものからの飛行時間は、わずか20分だった。同時に、国民解放共産党委員会が東部ポーランドで形成され、ロシア軍は「解放地域は彼らの支配下におかれるであろう」と発表した。ソ連放送局は、それまでかなりのあいだ、ポーランド国民に「あらゆる用心を捨ててドイツ軍に対する総反乱を開始するよう」に勧めてきた。蜂起の始まる3日前の7月29日、モスクワ放送局は、「解放の砲はいまや聞える範囲にあり、1939年と同様、今度は決定的な行動のためにドイツ軍に対する戦いに参加せよ」というポーランド共産党からワルシャワ市民への要望を放送した。「屈服したのではなく、戦いつづけたワルシャワにとって行動のときはすでにやってきた。」防御陣地を建設するドイツ軍の計画は、この都市を漸次破壊する結果となるであろうことを指摘した後、「積極的な努力によって守られないものはすべて失われる」こと、「ワルシャワの市街、家々における直接の積極的な努力によって、最終的な解放のときが早められ、われわれの兄弟の生命が失われずにすむ」ことに、住民の注意をうながした。

 7月31日の夕方、ワルシャワの地下軍司令部は、「ソ連軍の戦車が市の東のドイツ防御陣を突破した」というニューズを手に入れた。ドイツ軍の無線は「きょうロシア軍が南東からワルシャワに対して総攻撃を開始した」と告げた。ロシア軍は、いまや16キロも離れていない地点にいた。首都自体では、ポーランド地下軍司令部が、翌日の午後5時を期して総反乱を起こすことを命令した。ボル将軍は起こったことを、つぎのように書いている。
――正5時、何千という窓があけ放されて、光を発した。四方八方から弾丸が雨あられと通行中のドイツ兵を射ち、彼らの建物や行進中の隊形を、穴だらけにした。一瞬にして、残っていた非戦闘員は街から消えた。家々の入口からわれわれの兵士が流れ出て、攻撃に突進した。15分で、百万の市民をもつ全市が戦闘に巻き込まれた。あらゆる種類の交通がとだえた。ドイツ軍の前線直後で、東西南北からの道路が集中している連絡網の大中心としてのワルシャワは消滅した。同市の争奪戦はつづいた。
 このニューズはロンドンに翌日届き、われわれは心配しながらつぎを待った。ソ連放送は沈黙し、ロシア空軍の活動は止った。
 8月4日、ドイツ軍は、市と郊外に確保していた強固地点から攻撃を開始した。ロンドンのポーランド政府は、軍需品を空から送り込む激しい緊急事をわれわれに告げた。反乱者は、いまや急いで集中された独軍5個師団と対抗した。ヘルマン・ゲーリング師団もイタリアからやってきたうえに、親衛隊師団が2個、すぐ到着した。
 したがって私は、スターリンに電報を送った。

首相からスターリン元帥へ
44年8月4日
 ポーランド地下軍の緊急要求に応じて、われわれは天候に左右されるとはいえ、約60トンの装具と弾薬をワルシャワの南西地区に投下しつつあります。ここではドイツ軍に対するポーランドの反乱が激戦中であると伝えられます。彼らはまた、ひじょうに近くにあるらしいロシアの援助を求めているといいます。ドイツ1個半師団が彼らを攻撃中です。これは貴下の作戦を助けるかもしれません。

 返事はすぐきたが、冷酷なものだった。

スターリン元帥から首相へ
44年8月5日
 ワルシャワに関する貴方のメッセージを拝受しました。
 ポーランド人による貴下への情報は、はなはだ誇張されており、信頼できるものではないと思います。すでにポーランドの亡命者が在本国軍の少数の離ればなれの部隊で、ヴィルナをほとんど占領したと自称し、ラジオで放送さえした事実からも、こういう結論に達することができます。しかし、これは、まったく事実と一致しません。ポーランド人の在本国軍は、彼らが不適当にも師団と呼ぶ少数の分遣隊からなっているのです。彼らは砲も飛行機も戦車も持っていません。どうしてそんな分遣隊でワルシャワが占領できるか、私には想像できません。ワルシャワの防衛のためドイツは4個戦車師団を作り、その中にはへルマン・ゲーリング師団もあるのです。

 こうするうちに、街々ではドイツ軍のタイガー戦車に対して戦闘がつづけられ、8月9日までに、ドイツ軍は市を横切ってヴィスラ川まで楔状隊形を打ち込み、ポーランド人が占拠した地区を粉砕して、孤立陣地にした。ポーランド人、英国人、自治領の人々を搭乗員とする英空軍の、イタリア基地からワルシャワを救おうとする勇ましい企ては、望みも少なく、数も足りなかった。
 8月4日の夜、2機が現われ、4晩後には3機現われただけである。
 ポーランド首相ミコライツックは、7月30日以来、モスクワにあってソ連政府となにかの関係を確立しようと努めていたが、ソ連政府はポーランド国民解放共産党委員会を同国の未来の行政府として承認していた。これらの交渉は、ワルシャワ蜂起の初期を通じて行われた。弾薬、対戦車砲、および赤軍の援助を求めるボル将軍のメッセージは、毎日、ミコライツックの手元に届いた。その間、ロシア人は、ポーランドの戦後の国境に関する協定と共同政府の設立を強要した。スターリンとの最後の無益な話合いが、8月9日、行われた。
 8月12日、私は彼に電報を送った。

首相からスターリン元帥へ
44年8月12日
 私はワルシャワのポーランド人から、つぎの悲しいメッセージを受け取りました。彼らは10日後のきょう、いまだに市を3分した相当のドイツ軍と戦っているのです。
 (以下)「共和国大統領、政府、および参謀長へ。副首相より。
「第10日、われわれは血みどろの戦いを指揮しています。町は3つの道によって分割されました……これらの道は全部独軍の戦車によって確保され、その横断はきわめて困難です(沿道の建物はすべて焼き払われています)。グダンスク駅から西駅に至る鉄路上の装甲列車2台と、プラハからの砲は、空軍に掩護されて、連続的に町を砲撃しています。
 これらの条件の下で、戦闘がつづいています。われわれは、貴方からただ一度、少量の物資投下を受けました。独ソ戦線は、3日以来、静かです。したがって、われわれは、なんらの物質的なあるは精神的な援助を受けていません。8日に行われた(ポーランド)副首相の(ロンドンからの)短い演説を除くと、われわれの行動は、貴方に認められてさえいません。首都の兵士と市民は、連合軍からの援助を期待しながら、絶望して空を見つめています。煙を背景にして見えるのは、ドイツ軍の飛行機だけです。彼らは意外に思い、深く鎖沈し、悪口をいい始めました。われわれは、実際、貴方からなんのニューズも、政治情勢についての情報も、なんの忠告も、なんの指示も受けていません。モスクワでワルシャワ救援を討議したのですか。私は強調して繰り返しますが、武器弾薬の投下、敵が確保している目標地点の爆撃、および空からの降下よりなる即刻の援助がなければ、われわれの戦闘力は2、3日中に崩壊します。上述の援助があれば、戦闘はつづくでしょう。
 私はこの点での最大尽力を、貴方から、期待します。」(以上)
 彼らは機関統と弾薬を懇願しています。貴下はなにかこれ以上の援助をしてやれませんか。イタリアからの距離は遠すぎるのです。

 14日、私は、アレキサンダーの軍隊を見るためにきていたイタリアから、イーデンに打電した。

 もしワルシャワのポーランド愛国者が見捨てられた、という暗示が動き出すとロシア人にとって困ったことになるだろうが、彼らは能力内の操作でそれを防ぐことが容易にできる。地下軍が反乱した瞬間、ロシア軍がワルシャワに対する攻撃を中止し、いくらかの距離を撤退したことはまったく妙だ。彼らにとって、ポーランド人がその英雄的な戦闘に必要とする多数の機関銃と弾薬を送り込むことは、160キロ飛べば十分なのだ。私は、当地からできるだけの援助を送ろうとして(空軍中将)スレッサーと相談してきた。しかし、ロシア軍はなにをしたのだろう。貴下は、モロトフを通じてスターリンに各方面で動きつつある暗示に言及し、また、ロシア人ができるだけの援助を送ることを望むメッセージを送ったほうがよいと思う。この過程は、私がスターリンを通じてやるよりも非個人的だろう。昨夜28機の飛行機がイタリアから1000キロを超える飛行を行った。3機が失われた。これは、かかるまったく異常な状態の下に当地から行われた4回目の飛行であった。

 8月16日の夜、ヴィシンスキーはモスクワの米国大使を呼んで、誤解の可能性を避けたいと説明して、つぎのような驚くべき声明を読み上げた。

 ソ連政府は、英国あるいは米国の飛行機がワルシャワ地区に武器を投下することに、反対しえない。これは米英両国の仕事だからである。しかし、英国あるいは米国の飛行機がワルシャワ地区に武器を投下した後、ソ連領土に着陸することには、断固として反対する。ソ連政府は、直接にも間接にもワルシャワにおける冒険に関係したくはないからである。

 同じ日、私は、スターリンから、つぎのような柔らかいことばづかいで表されたメッセージを受け取った。

スターリン元帥から首相へ
44年8月16日
 ミコライツック氏と会談した後、私は赤軍司令部がワルシャワ戦区に武器を集中投下すべし、という命令を出しました。一人の落下傘連絡将校も降下しましたが、司令部の報告によれば、彼はドイツ軍に殺されて、目標地点に達しませんでした。
 なお、ワルシャワ事件の真相がよくわかってきた私は、これが国民に大きな犠牲を払わせる無鉄砲で恐ろしい冒険であることを確信します。もし、ソ連司令部が、ワルシャワの行動の始まる前にこのことを知らされており、また、ポーランド人が司令部と接触を保っていたならば、こういうことにはならなかったでしょう。
 これまでは、生じた情勢に基いて、ソ連司令部はワルシャワの冒険から自身を分離しなけれはならない、という結論に達しました。直接にも間接にもワルシャワの行動に責任はもてないからです。

 ミコライツックの話によると、この最初の節はまったく事実でない。2人の将校が無事にワルシャワに着き、ポーランド司令部に迎えられた。1人のソ連大佐も、数日、同地にいて、反乱者に対する援助をうながすメッセージをロンドン経由モスクワに送っている。

 18日、私は、ふたたびイーデン氏に電報を送った。

首相から外相へ
44年8月18日

 貴下に最後のメッセージを送った後、私は米国三軍参謀部からアイゼンハウワー将軍へ送った8月15日付の、まったく気乗りのしない電報を見た。
 当地の空軍当局は、米国が英国からワルシャワへ援助を送ることを望み、また、この操作はまったく実際に則したものであることを私に保証したが、もちろん、これはロシア人が同意すればである。この操作の実際性をドゥーリットル将軍が検討したのでなければ、ロシアに着陸施設を要求したことなど、私にはほとんど信じられない。もっとも重要なのは、それが実行しうるかどうかを貴下が見つけ出すことだ。
 大統領が私あるいは両方が、なんらかの個人的なあるいは共同の訴えをスターリンにする前に、軍事上の困難を解決すべきは、もちろん必要である。

 同時に、私は、大統領に訴えた。

首相(イタリア)からローズヴエルト大統領
44年8月18日
 ワルシャワの英雄的な反乱者に、米軍機が救援をもたらすことをロシアが拒否したことによって、深刻で影響の大きな挿話が作られます。これが悪化したのは数10キロしか離れていないのに、空から軍需品を補給することをロシア軍自身が完全に怠ったからです。もし、とはいえほとんど確かなことですが、あの首都におけるドイツ軍の勝利に大量虐殺がつづけば、それから起こる結果は測りしれません。
 2 私は、もし貴下が賢明だとお思いになり、また、貴下自身も同様のメッセージを別にお出しになるのでしたら、スターリンに個人的なメッセージを送るつもりでいます。それよりはるかにいいのは、2つの別々のメッセージよりわれわれ両人が署名した共同のメッセージでありましょう。
 3 フランスにおいて米英両軍が獲得した輝かしく偉大な勝利は欧州の情勢を変えつつあり、また、ノルマンディにおいてわれわれの軍隊が得た勝利はロシア人が特別の場合に獲得したなにものをも大きく覆いかくすでしょう。したがって、率直簡単に表現してある限り、彼らは、われわれのいうことを尊重するでしょう。われわれは崇高な大義に仕えている国家であり、スターリンが怒るという危険を冒しても、世界平和のために真の意見を出さねばなりません。彼が怒ることは、ありますまい。

 2日後、われわれは、つぎのような共同要望を送ったが、これは大統領が起草した。

首相(イタリア)とローズヴエルト大統領からスターリン元帥へ
44年8月20日

 われわれは、ワルシャワの反ナチ主義者が事実上見捨てられる場合の世界の世論について考えています。われわれ三者は、かの地の愛国者をなるべく多く救うために最大限まで尽くさねばならないと信じます。われわれは、貴下が物資と軍需品を、即刻、ワルシャワのポーランド愛国者に投下されることを望みますが、それともわれわれの飛行機がひじょうにすみやかにそれを行うのを助けることを承諾してくださいますか。貴下が賛成してくださることを望みます。時間の要素は、きわめて重要です。

 われわれの受け取った返事は、つぎのようなものだった。

スターリン元帥から首相およびローズヴェルト大統領へ
44年8月22日

 ワルシャワに関する貴下とローズヴェルト氏からのメッセージを受け取りました。私は自分の意見を述べたいと思います。
 2 遅かれ早かれ、権力を握るためにワルシャワの冒険に乗り出した犯罪者のグループに関する真相が、誰にでも知られるようになるでしょう。これらの者は、ワルシャワの住民の誠意を利用し、ほとんど武器を持たない多くの人々をドイツ軍の砲、戦車、飛行機に対して投げ出したのです。くる日くる日が、ワルシャワ解放のポーランド人の役に立たず、非人間的にもワルシャワの住民を撃ち殺しているヒトラー主義者の役に立っているような事態が、起こったのです。
3 軍事上の観点からいえば、ますますドイツ軍の注意をワルシャワに向けることによって、ポーランド人にとっても同様に赤軍にとっても不利になるのです。一方、ソ連軍は、最近、反撃に転じようとするドイツ軍の新しく顕著な奮闘に遭遇しましたが、ヒトラー主義者のこれらの反撃を粉砕し、ワルシャワ地域で新しく大規模な攻撃に転ずるため、できるだけのことをしています。赤軍がワルシャワ周辺のドイツ軍を破り、ポーランド人のためにワルシャワを解放する努力を惜しんではいないことは、疑いありません。これは反ナチであるポーランド人たちにとって、最良でもっとも効果的な援助となるでしょう。

 そうこうする中に、ワルシャワの苦悩は、その極に達した。

首相からローズヴェルト大統領へ
44年8月24日

 以下はワルシャワの蜂起の目撃者の報告です。写しはすでにロンドンのソ連大使に与えてあります。
 1 8月11日
 ドイツ軍は、ポーランド地下軍のあらゆる奮闘にもかかわらず、残忍な恐怖方式をつづけています。多くの場合、彼らは家の建ち並んだ街々を焼き払い、これに属しているすべての男を射ち、安全な場所まで行くために戦闘の行われている街路へ女こどもを駆り出しました。クロレフスカ街では、多くの民家が爆撃でつぶされました。1軒は別々の4発を受けました。ある家にはポーランドの大学を引退した老教授たちが住んでいましたが、親衛隊員が強引に入り込み、その多くを殺しました。何人かは、地下室を通って他の家々へ逃げることに成功しました。ポーランド地下軍と一般市民の士気は、きわめて旺盛です。合ことばは「ドイツ人に死を」です。
 2 8月11日
 ドイツ戦車隊は、昨夜、市内にある彼らの強固地点を救援するために思い切った努力をしました。しかし、これは楽な仕事ではなく、というのは、どの街角にも巨大なバリケードが建っていて、これは、この目的のためにとくに街路からめくり取ったコンクリートの鋪装板で築かれているからです。多くの場合、企ては失敗し、戦車の搭乗員は失望をぶちまけるために数軒の家に火をつけ、他の家を離れたところから砲撃しました。多くの場合、彼らはまた、街の多くの場所に散らばっている死骸にも火をつけましたが……ドイツ戦車兵団は、ポーランド人のバリケードに一目おきはじめました。彼らは、それぞれのバリケードのうしろに、ポーランド地下軍の決死隊がガソリン瓶を持って待っていることを知っているからです。これらのガソリン瓶は、大きな破壊を引き起こしました。
 3 8月13日、ドイツ軍は聖ラザルス、聖カロル、聖マルサの各病院に寝ていた男女の傷病者を残忍にも惨殺しました。
 ドイツ軍は、戦車でその前哨地点の1つへ物資を持っていったとき、ポーランド地下軍の軍隊が彼らに対して行動をとるのを防ぐために500人の女こどもを自分たちの先に追いやりました。その多くは殺され、傷つけられました。同種の行為が、市の多くの場所から報告されています。
 武器の欠乏にもかかわらず、ポーランド軍はワルシャワの戦いで主導権をもちつづけています。数ヵ所ではドイツ軍の砦に突入し、ひじょうに必要な武器や弾薬を捕獲しました。8月12日、小銃弾11,600発、機関銃5、小兵器弾8,500(発)、拳銃20、対戦車地雷30および輸送車輌を捕獲しました。ドイツ軍は必死に戦っています。ポーランド地下軍がドイツ軍が要塞として占有している建物に火を放ったとき、2人のドイツ兵が白旗を持ってポーランド陣地に逃がれようとしましたが、親衛隊の一将校が彼らを見て射殺しました。8月12日から13日の夜、ポーランド地下軍は、連合軍の飛行機からいくらかの武器を受け取りました。
 4 8月15日、死者は裏庭や広場に埋めてあります。食糧事情は次第に悪化しつつありますが、いままでのところ飢餓はありません。きょうは水道がまったく断水しました。少数の井戸と家庭の貯蔵分から水を汲んでいます。町の全区域は砲火の下にあり、方々で火事が起こっています。物資の投下は士気を高めました。誰もが戦いたいと思い、そして今後も戦うでしょう。しかし、すみやかな結末が確かでないことは、心を重くさせます。
 5 8月16日、ワルシャワにおける戦闘は引きつづきひじょうに激烈です。ドイツ軍は寸土を求めて戦っています。数ヵ所では全区が焼かれ、住民は射殺され、あるいはドイツ軍に連行された、という報告があります。住民は繰り返していっています――「武器が手に入れば、報復してやる」と。
 発電所に対する戦術は、8月1日午後5時10分、始まりました。ポーランド在本国軍の23人の兵士が、その時間の前に工場に配置されました。というのは、彼らは当然の成り行きとして蜂起の勃発を予期しながら勤務していたのです。ドイツ軍は前日、コンクリートのトーチカや防舎に配置した守備隊の兵力を 290人の武装警察に増しましたが、これはあらゆる工場建物でも同様でした。行動への合図は、建物の1つの下にある地雷の破裂でした。19時間の戦闘の後、発電所は完全にポーランド人の手に入りました。ポーランド側の損害は死者17、負傷者27でした。ドイツ例の損害は死者20、負傷者22、捕虜56でした。発電所を獲得した分遣隊は、もっぱらその工場の手仕事と金属の職工から成り立っていました。発電所の建物は、毎日ドイツ軍の75ミリ砲弾で砲撃されているのにもかかわらず、職員は少しの支障もなく一般市民に対する電流の供給を維持することに成功してきました。
 戦闘は、文字どおり地下でも荒れ狂った。ポーランド人が占拠している異なる戦区間の連絡の唯一の手段は、下水で通じていた。ドイツ軍は、マンホールから手榴弾と毒ガス弾を投げ込んだ。戦闘は、真暗闇の中を腰まで排泄物につかった兵士たちの間で、時にはナイフでわたり合い、あるいは相手を泥水に溺れさせて展開された。地上では、ドイツ軍の砲と戦闘機が市の大部分を炎上させた。
 私はこの罪悪と恐怖の話のあるものが、世界中に届かねばならないと思った。

首相から(イタリア)情報相へ
44年8月23日

 ワルシャワの苦悶に関する事実の公表は中止したのか。新聞をみると、実際、禁止されているようだが。ソ連政府を非難するのはわれわれのすることではないが、これらの事実の公表は確かに許されねばならぬ。ロシア人の奇妙で邪悪な振る舞いに触れる必要はないが、こういう振る舞いの結果を公にしてはならぬという理由が、なにかあるのか。

 大統領がこのとき、私の電報に答えてきた。

ローズヴェルト大統領から首相へ
44年8月24日

 ナチの非人道的な振る舞いとワルシャワのポーランド人の悲惨な立場を述べた貴電に、感謝します。
 ワルシャワのポーランド人を援助するというわれわれの共同提案に対するスターリンの返事は、いっこうにわれわれを鼓舞しません。
 ワルシャワのポーランド人に対するわれわれの補給はソ連飛行場に離着陸することを許されなければ不可能である、と私は知らされました。ワルシャワ救援のためにそれらを使うことは、現在、ロシア当局によって禁じられています。
 現在、われわれとして効果を約束すること以上のどういう処置をとることができるのか、私にはわかリません。

 私は、翌日、答えた。

首相からローズヴェルト大統領へ
44年8月25日

 スターリンの回答は、問われている明確な質問をいい逃がれてわれわれの知識になにも加えないのですから、私は以下のような回答を提案します。
 (以下)「われわれは米軍機を英国から送ることを熱心に欲します。ロシア軍戦線の背後でわれわれに割り当てられている燃料補給地を彼らが途中でこの活躍に関して尋問されることなく着陸に使用してはならぬ、という理由があるのですか。この方法で貴下の政府は、この特殊な挿話から離れているという根本方針を維持することができるのです。飛行不能になった英米の飛行機がソ連軍の戦線の背後に着陸することがあれば、貴下は平素のご考慮からそれらが助けられることを保証してくださると、われわれは確信します。その独得の信念によってドイツの戦車、砲、飛行機を攻撃するにいたったこれらの「ほとんど非武装の人々」に対して、われわれの同情が生れたのですが、確かにモスクワ放送が繰り返し要求したこの蜂起を扇動した者について、われわれは判断を下そうとするものではありません。われわれには、ヒトラーの残虐行為が彼らの抵抗によって終るとは思えませんし、かえってそれが完全な凶暴性をもって始まる瞬間であろうと思います。ワルシャワの虐殺は、われわれが戦争の終りにさいして集まるときに紛争に満ちた問題となるでしょう。したがって、われわれは、もし貴下が直接禁止なさらなければ、飛行機を送ろうといっているのです。」(以上)
 彼がこれに返事を怠った場合、われわれは飛行機を送ってなにが起こるかを見るべきである、というのが私の気持ちです。虐待されたり抑留されたりするとは思えません。これに署名した後で、私は、ロシア人が、ボルターヴァスのほか彼らの戦線の背後におかれた英国側の飛行場を取り除こうと努力さえしているのを知リました。

 返事は、反対であった。

ローズベルト大統領から首相へ
44年8月23日
 スターリンに提出するメッセージで、貴下と一緒になることは広範囲で全般的な戦争の見通しにとって有利になるとは考えませんが、もしそうしたほうが適当だとお考えになって、あのようなメッセージをお送りになることには反対しません。この結論に達するにさいして、私は、貴下と私に対するメッセージに示されているワルシャワの地下軍救援に対するアンクルJの現在の態度、その目的のためにわれわれがロシアの飛行場を使用することの許可を最終的に拒否したこと、および他のロシアの基地をその後使用する問題に関してただいま行われつつある米国の非公式会談を、考慮しました。
 私は、米国が、思い切ったやり方でわれわれを支持してくれることを希望したのだった。9月1日、私は、モスクワから帰ってきたポーランド首相ミコライツックと会ったが、慰めになるよぅなことは余りなかった。彼は、リュプリン委員会に連合政府の議席を14提供して、彼らに政治上の和解を申し込む覚悟ができていると語った。これらの申し込みは、ワルシャワのポーランド地下組織の代表者たちによって砲火の下で討論された。提案は満場一致で受諾された。これらの決定に参加した者の多くは、1年後、モスクワのソ連法廷で「反逆者」として裁判された。
 9月4日の夜、閣議が開かれたとき、私はこの問題が重要なので、幾分熱があったがベッドから地下室へ出かけた。多くの不愉快な問題で会合したことがあったが、いかなる場合にも、これほどの怒りが、保守党、労働党、自由党その他すべての閣僚によって示されたことを、私は記憶していない。私はこういってやりたかったのだ。「われわれはワルシャワに物資を引き渡した後で、貴国の領土に着陸するため飛行機を送る。もし貴下が彼らを正当に取扱わぬならば、この瞬間からわれわれによるすべての護送船団は中止されるであろう。」 しかし、後年、これらの記録を読む者は、世界的な闘争で戦っている何百万の兵士の運命を誰でも心の中に留めておかねばならないこと、また、恐ろしくみじめでさえある屈服が全体の目的のためになされねはならないことを、理解しなくてはならぬ。したがって、私は、この思い切った処置を提案しなかった。これは効果があったかもしれない。われわれは感情によってではなく、計算によって支配されているクレムリンの人々を扱っていたからである。彼らは、ワルシャワでポーランドの闘志をふたたび高める意志はなかったのだ。彼らの計画は、リュブリン委員会に基礎おいていた。彼らが気にかけたポーランドは、これだけだった。偉大な前進の危機にさいして護送船団を中止することは、名誉、人道、慎みのある平凡な誠実の考慮が、通常、ふつうの人々に重きをなすと同程度に、クレムリンの人々の心の中で恐らく重要と思われたことだろう。つぎの電報は、われわれとしてはこうしたほうが賢明であろうと考えた最善を示している。

首相(ロンドン)からローズヴェルト大統領へ 44年9月4日

 戦争内閣は、ワルシャワにおける形勢と、スターリンの飛行場使用拒否によるロシアとの未来の関係の遠くに及ぶ影響に、深く不安を感じています。
 2 そのうえ、ご承知のようにミコライツックは、ポーランド解放委員会に政治上の和解のための提案を送りました。私は、ワルシャワの陥落が、たんに進歩の希望を壊すのみならずミコライツック自身の立場の土台を致命的に侵蝕するのではないかと恐れています。
 3 このすぐ後につづく私の電報は、戦争内閣がその共同の資格でモスクワの英国大使に送った電報の本文、およびワルシャワの婦人たちが法王に伝え、法王庁から英国の公使に渡されたメッセージを含んでいます。
 4 ワルシャワで戦っているポーランド人に対して迅速に物質的援助をもたらす唯一の方法は、米国の飛行機がこの目的のためにロシアの飛行場を使って軍需品を投下することです。どれほど危機に頻しているかを知っているわれわれは、これに伴う大きな利害関係を貴下が再考慮されることを、願うのです。米空軍に、この操作を(もし必要とあらば、ロシアの正式な同意なくして、その飛行場に着陸し)遂行することを認可していただけないでしょうか。西部におけるわれわれの偉大なる勝利に鑑みて、ロシア側がこの既成事実を否認するとは考えられません。彼らは、具合の悪い立場から引き出してくれるものとして、これを歓迎さえするかもしれません。われわれは、もちろん、貴下の空軍によってとられるいかなる行動に関しても、完全な責任を分担します。

首相からローズヴェルト大統領へ
44年9月4日

 以下は今夜モスクワへ送った電報の本文です。これについては、つい先ごろ私の電報で触れておきました。
「戦争内閣は、きょうの会議でワルシャワにおける情勢の最近の報告を考慮しましたが、これによると、かの地でドイツ人と戦っているポーランド人たちは、絶望的な窮地にあります。」「戦争内閣は、英国の世論がワルシャワにおける出来事とかの地のポーランド人の恐るべき苦痛に深く感動していることを、ソ連政府に知ってもらいたいと思います。ワルシャワ蜂起の発端に関して、正邪はどうであろうとワルシャワ市民自身が決定されたことに対して責任がある、と考えることはできません。英国民には、なぜワルシャワのポーランド人に対して外部から物質的援助が送られないのか、理解できません。米軍機が、ロシアの支配下にある飛行場に着陸するのを貴下の政府が拒否しているため上述の援助を送ることができなかったという事実は、いまや公然と知られつつあります。もしこのうえ、ワルシャワのポーランド人がいまやドイツ人によって圧倒されるようなことにでもなれば(われわれは2、3日中にそうなるに違いないと、聞いています)、当地における世論への衝撃は測り知れないでしょう。戦争内閣自身、ワルシャワのポーランド人を援助する英米両政府の義務を貴下の政府が拒絶されることは、理解に苦しみます。この援助が送られることを妨げている貴下の政府の行為は、貴下とわれわれが現在および未来のために、重きをおいている連合国の協力と矛盾するようにわれわれには思われます。」
「将来も共に働くことをわれわれが心から望むスターリン元帥とソ連国民への敬意から、戦争内閣は、私に、ソ連政府が可能なる範囲内でいかなる援助をも与えられることと、とくにこの目的のため米国航空機が貴下の飛行場に着陸することの許可とをさらにお願いしてくれと私に申し出たのであります。」

首相からローズヴェルト大統領へ
44年9月4日

 以下は、私が先の電報で触れておいたワルシャワの婦人たちからのメッセージの本文です。

「法王閣下。私どもワルシャワのポーランド婦人は、深淵なる愛国心と祖国への献心の感情に燃えております。
 砦を守る3週間、食糧も薬品も不足していました。ワルシャワは廃墟になりました。ドイツ人は病院で負傷者を殺しております。彼らは自分たちの戦車を護るため婦人こどもにその前を行進させております。こどもたちが戦い、ガソリン瓶で戦車を破壊しているという報告に、誇張はございません。私ども母親は、わが子が自由と祖国のために死んでいくのを見ています。私どもの夫、こども、兄弟を、敵は戦闘員と見なしません。閣下、誰も私どもを助けてくれないのでございます。3週間、ワルシャワの入口にいたロシア軍は1歩も前進しておりません。英国からの援助は十分ではございません。世界じゅうが、私どもの戦いのことを知らずにおります。ただ神様のみが、私どもとともにましますのでございます。地上におけるキリストの代表者たる閣下。私どもの声がお耳にはいりますならば、教会と自由のために戦っている私どもポーランドの婦人に祝福を与えたまえ。」

ローズヴェルト大統領から首相へ
44年9月5日

 貴電に返事を書きながら、私は軍事情報局から、ポーランドの闘士はワルシャワを離れ、いまやドイツ軍が完全に支配していることを聞きました。
 したがって、ワルシャワのポーランド人を救援する問題は、不幸にも遅延とドイツ軍の行動によって解決され、彼らを助けるためわれわれにできることは、なにもないようです。
 われわれがワルシャワの英雄的な防衛者に適当な援助を与えることができなかったことを、私は、長い間、ひじょうに悲しく思っていました。そして、私は、われわれがなお一緒にポーランドをナチに対するこの戦争の勝利者の中に入れる助力をしたいと希望します。

 9月10日、ポーランドの苦悩が6週間つづいた後で、クレムリンはその戦術を変えるように見えた。その午後、ソ連砲兵隊からの砲弾がワルシャワの東郊外に落ち始め、ソ連機がふたたび市の上空に現われた。ソ連指揮下のポーランド共産軍が市の周辺へ戦いに入った。9月14日以降、ソ連空軍は軍需品を投下したが、落下傘は少ししか開かなく容器はほとんどつぶれて、役に立たなかった。翌日、ロシア軍はプラハ郊外を占領したが、それ以上進まなかった。彼らは非共産ポーランド人が完全に滅ぼされることと、同時に自分たちが救援に行きつつある、という考えをもたせることを欲した。こうする中に、ドイツ軍は、一軒々々、全市を通じてポーランド人の抵抗運動の中枢を一掃することをつづけた。多くの人がドイツ軍によって放逐された。ソ連軍指揮官、ロコソフスキーに対するボル将軍の懇請には、返事がなかった。飢餓がはびこった。
 米国の援助を得ようとする私の努力は孤立してはいたが、大規模の作戦を惹起こした。9月18日、104の重爆撃機が市の上空を飛び、補給品を投下した。しかし、それは、遅すぎた。10月2日の夕方、ミコライツック首相がきて、ワルシャワのポーランド軍はまさにドイツ軍に降服しかけている、と告げた。この英雄的な都市からの最後の放送の1つが、ロンドンで傍受された。

 これはまったくの真実である。われわれはヒトラーの衛星国よりもひどく、イタリア、ルーマニア、フィンランドよりもひどく扱われた。正しき神よ。ポーランド国民の蒙った恐るべき不公平に審判を下したまえ。また、それに従ってすべての罪ある者を罰したまえ。神の英雄は、拳銃とガソリンをつめた瓶のみを戦車、飛行機に対する武器とする兵士たちであります。神の英雄は、負傷者を看護し、砲火の下に通信文を運び、こどもやおとなを養うため爆破された地下室で料理し、死につつある者をいたわり慰めた婦人たちであります。神の英雄は、くすぶる廃墟で静かに遊びつづけたこどもたちであります。これがワルシャワ市民であります。
 かくのごとき万人共通の英雄心を振い起こすことのできる国民は、不滅である。なぜならば、死者は勝利を得たのであり、生きつづける者は戦いつづけ、勝利を得、ポーランド人が生きている間はポーランドも生きていることを立証するからである。

 これらのことばを消すことはできない。ワルシャワにおける奮闘は、60日以上つづいた。ポーランド地下軍の40,000の男女のうち、約15,0000 が倒れた。百万の人口のうち、200,000近くが罹災した。反乱の鎮圧のためドイツ軍の出血は、死者10,000、生死不明7,000、負傷者 9,000であった。この割合は、戦闘が白兵戦であったことを証明している。
 3ヵ月後、ロシア軍が市に入ったとき、粉砕された街と埋めてない死者以外には、ほとんどなにもなかった。これが彼らのポーラソド解放であり、いま、彼らはここを支配しているのである。しかし、これが、この物語の終わりではありえない。


 1944.10.9
 :モスクワ

 われわれは10月9日午後モスクワに着陸し、モロトフその他のロシア高官から暖かく、完全な儀礼をもって迎えられた。今回われわれはあらゆる注意と安慰をもって、モスクワそれ自体の中に泊められた。私は一軒の小さいが申し分なく設備された家をあてがわれ、アンソニイは近くの別の室にはいった。われわれはふたりきりで食事をとり、休息することができて喜んだ。その晩10時、クレムリンで最初の重要会見を開いた。出席したのはスターリン、モロトフ、イーデン、私だけで、バース少佐とバグロフが通訳をつとめた。そこでポーランド首相、外相ローマア氏、それから魅力に屈み、りっぱな人である灰色の髭の老学士院会員グラブスキイ氏を直ちにモスクワに招く話し合いがついた。よって私はミコライツッグ氏宛てに電報を出し、われわれが彼と彼の友人がソ連政府並びにわれわれ、それからリェブリンのボーランド使節団と、討議することを期待するといった。私は会談のために来ることの拒絶が、われわれの忠告をはっきり否認することになり、これ以上在ロンドンのポーランド政府に対して、われわれは責任を持たないでもいいことになるのを、明確にした。
 機は熟していたのである。それで私は「バルカン地方における問題を、片付けようではないか。貴下の陸軍は、ルーマニアとブルガリアにいる。われわれはその地に関心と、使節と、諜者を持っている。つまらぬことで誤解するのはやめよう。英国とソ連に関する限り、貴国がルーマニアで90%の優位を保ち、たとえばギリシァについてはわれわれが90%の優位を保ち、ユーゴスラゲィアでは五分五分で行くとしたら、どんなものだろう?」といった。そしてこれが翻訳されているあいだに、私は半葉の紙に、
  ルーマニア
    ロシア…‥………90%
    他 国……………10%

  ギリシァ

       (米国と一致して)

   英 国……………90%
   ロシア……………10%
 ユーゴスラヴィア……50/50%
  ハンガリー…………50/50%
  ブルガリア
    ロシア……………75%
    他 国…‥………25%
と書いた。
 この紙をテーブル越しにスターリンの前へ押してやると、当人はそれまでに翻訳を聞いていた。*
*チャーチルとスターリンとの間で,バルカンにおける戦後の勢力配分とポーランド国境の策定に関する会議が行われおりに、チャーチルがスターリンに示したメモのコピー。ここには,戦後バルカン諸国を両国がどういう割合で支配していくかが,各国ごとに数値で記されている。削除、訂正されている箇所は、スターリンの手となるもの。20世紀後半を支配した「冷戦構造」は、この取引から始まった。

 英国への同僚には、次の手紙を送った――

ロンドンの閣僚各位へ              44年10月12日
 一 百分率の法式は、各種バルカン国家への委員会を構成する数字を規定する意図でなされたのではなく、むしろ英ソ両国政府がかかる国々の問題に近づく興味と感情を表示し、かくてお互に理解しうる何らかの方法で、相互に心の中を見せ合うためのものである。これは一つのガイド以上を意図したものではなく、もちろん米国に言質を与えさせるものではなく、勢力圏の厳然たる系統を立てようとするものでもない。
 だが米国は全体として見る時、その二つの主要同盟国が、この地域について、どう感じているかを、知ることができるだろう。
 二 かくて全く当然のことながら、ソ連はバルト海に接する国々に、重大な関心を抱いていることがわかる。その一つ、ルーマニアは、26師団を用いて最も乱暴にソ連を攻撃し、他の一国ブルガリアとは、古くからのきずなをもっている。英国としては、この二国に関するロシアの意見と、共通なる大義の名において、彼らを指導する実際的なやり方に、先鞭をつけようというロシアの望みに、特別な敬意を示すことが正しいと感じる。
 三 同様にして英国は、ギリシァと友情の古い伝統とをもっており、地中海国家としてギリシァの将来に、直接な興味を抱いている。この戦争で英国はギリシァの独伊侵略に抵抗せんとして、30,000人を失っており、現在までこの地区における英米政策の特徴だったあの緊密な一致を米国と保ちつつ、ギリシァを現在の困難から導き出すのに、先鞭をつけたい希望をもっている。当地で理解されることは、英国が軍事上の観念で先鞭をつけ、現存する王立ギリシァ政府が、可能なる限り広くて統一した基礎に立ち、アテネでそれ自体を確立するのを助けることである。ソ連は英国がロシアとルーマニアの緊密な関係を認知するのと同じやり方で、英国のこの立場と機能を是認するであろう。これはギリシァ国内に互に内戦を戦う敵対分子が発生して、英ソ両政府を腹立たしい議論と、政策の衝突に巻き込むことを、阻止するであろう。
 四 ユーゴスラヴィアの関係となると、50/50という数字上の象徴は、今や緊密に掛り合っている二大国閉の共同作業と一致した政策の、基礎になることを意図し、同国の諸分子がナチの侵入者を追い払うため、最大限度に合併した上で、統合ユーゴスラヴィアの建設に、好都合であるようにしたのである。
 一例としてこれはグロアーツとスロヴュヌスを一方とし、セルビアにおける強力で多数な分子を一方とする、武力抗争を避け、チトー元帥に対して合同し、友情的な政策をつくり出すことを意図するかたわら、後に与えられた武器が、国内目的よりも、共通の敵ナチを目当に使用されることを確かめる。英国とソ連が、両者の特別な利益を何ら考えることなく、かかる政策を共通して実施すれは、本当の役に立つことだろう。
 五 ハンガリーを支配しているのがソ連軍だから、影響の大きな分け前がソ連軍に属するのは当然だが、もちろんこれは英国の同意と、恐らく米国の同意を条件とする。米国は事実上ハンガリーで作業していないが、これをバルカンの一国というよりも、中部欧州の一国として見なくてはならぬ。
 六 ここに強調すべきは、上述の国々に関するソ連と英国の感情の広範な提示が、直接な戦時の将来への一時的なガイドにすぎず、欧州の一般解決案をつくるため、休戦合議乃至は講和合議に集まる各大国が改めて考慮すべきだということである。


 1945.2
 :ポーランド北部、ブロドニッツァ付近の前線

 私の場合は、おそらく想像できるかぎりのもっともたやすい逮捕であったにちがいない。すがりつく近親たちの手を振り払って私を連行したわけでもないし、かけがえのない家庭から無理矢理に私を引き離したわけでもなかったからである。憔悴したヨーロッパの1945年2月、私はバルト海沿岸の敵陣営にくさびのように入り込んだ前線で逮捕された。そこではわが軍がドイツ軍を包囲しているのか、ドイツ軍がわが軍を包囲しているのかはっきりしないような戦況であった。私は慣れ親しんだ大隊から引き離され、最後の3ヵ月間の戦争絵巻を見る機会を奪われただけであった。
 旅団長から司令部に呼び出された私は、なぜかピストルを差し出すようにいわれ、それが策略とは露知らず、私がピストルを渡すや、突然、それまで緊張した面持ちで部屋の一隅に不動の姿勢で立っていた幕僚将校たちの間から防諜機関員がふたりとび出し、5、6歩跳ぶようにして部屋を横切り、同時に4本の手で、軍帽の星、肩章、帯革、野戦カバンをつかみながら、芝居がかった口調で叫んだのである。
「貴官は逮捕された!」
 頭のてっぺんから足の爪先まで突きさすような痛みが走り、私はこう聞き返すのが精いっぱいだった。
「私が? なんのために?!……」
 ふつうなら、この問いかけには答えがないものだが、驚いたことに、そのときは返事が返ってきたのだ! このようなことはわが国ではきわめて異例なことに属するので、特記しておくだけの価値があろう。スメルシュ員たちが私のポケットというポケットを捜し終り、野戦カバンといっしょに私の政治的所感を書き記したメモを取り上げ、炸裂するドイツ軍の砲弾で窓ガラスが震動するのに辟易しながら私を早く出口ヘ連行しようとせき立てていたとき、突然、私に呼びかけるどっしりしたことばが響きわたったのだ。そうだ! どすんと落ちてきた《逮捕された》ということばのために、他の人びとと私との間に生じたこの無言の間隙、もう音ひとつしみ出しそうもないこの防疫線を越えて、思いもかけない魔法のような旅団長のことばが聞えたのだ。
「ソルジェニーツィン。戻りたまえ」
 私はくるりと体の向きをかえて、スメルシュ員たちの手を振り払い、旅団長のほうへ一歩戻った。私は旅団長をあまりよくは知らなかった。彼は、私とざっくばらんな話を交わすようなくだけた態度を一度も見せた試しがなかったからだ。彼の顔は、いつも私の目には指令、命令、怒りを表していた。だが、いまやその顔がもの思わしげな輝きを帯びたのだ。こんな汚ない仕事に心ならずも巻き込まれたという恥ずかしさにとらわれたのだろうか? いままでずっと哀れな服従のうちに過してきたが、突然それを乗り越えたいという衝動にかられたのだろうか? 10日前、重砲12門からなる彼の砲兵大隊が包囲されて《袋のねずみ》となったさい、私は自分の偵察砲兵中隊をほとんど無傷でその包囲から脱出させた。ところがいまや彼は、判の押してある1枚の紙切れを前にして、そういう私と縁を切らなければならなかったのだろうか?
「君には……」と、彼は重々しい口調でたずねた。「第1ウクライナ方面軍に友人がいるね?」「いけません!……許されておりません!」と、防諜機関員の大尉と少佐が旅団の大佐に叫んだ。幕僚の参謀将校たちは、旅団長の前代未聞の無謀さに肩をかすことを恐れるかのようにおびえた顔で(また政治部員たちは旅団長に資料を与えようとして)、隅にかたまった。だが、私にはもうそれで十分であった。私は学校時代の友人と交わした文通のために逮捕されたのだとすぐわかったし、また、どんな方面から危険が迫っているかも見当がついたからである。
 旅団長ザハール・ゲオルギエヴィチ・トラフキンは、その辺でもうやめにしてもよかったのだ! ところが、やめるどころではなかった! 彼は相変らずみずからの良心の前に身を清廉にし、姿勢を正そうとするかのようにテーブルから立ち上がり(彼はこれまで私を前にして起立したことは一度もなかったのに!)、防疫線を越えて私に手をさしのべ(自由の身であったときの私には、彼は一度も手をさしのべたことがなかったのに!)、握手しながら、幕僚が恐ろしさに口もきけなくなっているのを尻目に、いつものきびしい顔の表情をやわらげ、恐れるところなく、はっきりとこういったのである。
「君の仕合せを祈るぞ、大尉!」
 私はもはや大尉ではなかったばかりか、暴かれた人民の敵であった(なぜなら、わが国では逮捕された人間は、もう逮捕の瞬間から完全に暴かれたことに相場が決っているからだ)。すると、旅団長は敵の仕合せを祈ったことになるのだろうか?……
 窓ガラスが振動していた。ドイツ軍の砲弾が200メートルほど離れた場所に炸裂し、大地を引き裂いていた。その音で私は思った――こんなことははるか後方の安定した生活の下ではけっして起らず、だれに対しても平等な死神の息づかいが間近に聞える戦場でこそ起るものだ、と。


 1945.3
 :ルビヤンカ

 散歩のとき、私とスージはいつも同じ組になるように努めている――私たちは監房の中でも話をするが、最も重要なことは散歩のときにするようにしている。私たちは一日で親しくなったわけではない。だんだんに親しくなったのである。それでも彼はもうかなり多くのことを私に語ってくれた。私は彼から自分にとってまったく新しい課題を学びはじめている。これまで一度も私の計画になかったものを、いや、私がはっきりと定めた人生の筋道とはまったく無関係にみえる事柄を、辛抱強くかつ継続的に、把握していくということである。私は子供のころからどういうわけか、自分の人生の目標はロシア革命の歴史であって、その他のものは自分にまったく関係がないとっていた。革命を理解するためには、もうずっと前から私にとってマルクシズム以外のものはまったく不要であった。その他のものはすべていくらつきまとっても、私は切り捨てて、二度と振り返ろうとはしなかった。ところが、運命は私とスージを引きあわせた。彼の生きてきた世界はまったく別であった。今や彼は私に対して自分を夢中になって語ってくれる。彼が自分のことというのは、エストニアの民主主義のことである。私はこれまでついぞ一度もエストニアのことを知りたいと思ったことはなかった。ましてブルジョア民主主義についてはなおさらである。それが今や私は、長い伝統に根ざした習慣をもつ頑丈な男たちからなっている、この控え目で勤勉な小国の二十年にわたる自由な歳月の物語を、彼が愛情をこめて語ってくれるのをじっと聴き入っている。ヨーロッパの最も優れた法をもとにできあがったエストニア憲法の原理について教えられている。そしてなぜか、それは私の注意を惹きはじめ、そうしたことはすべて私の人生経験に蓄積されはじめているのである。私は進んで彼らの宿命的な歴史に深入りしていく――チユートンとスラヴの、二つのハンマーの間に昔から小さなエストニアという金床が投げ出されていたのだ。その金床に東と西から交互にハンマーが降り注いだ。そしてその交互の打撃には終りがないように見えた。いや、今なおそれは続いている。一九一九年にわが国は一挙に彼らを征服しようとしたが屈服しながったことはあまねく知られている(いや、まったく知られていない……)話である。その後、白衛軍のユデーニッチは彼らのなかのフィンランド的伝統を軽蔑したし、私たちもエストニア人を白匪と罵った。当時エストニアの中学生たちは志願兵として入隊した。わが国はエストニアに一九四〇年にも、四一年にも、さらに四四年にも攻撃を加えた。ある者はロシア軍に引っ張られ、ある者はドイツ軍に入れられ、ある者は森の中へ逃げのびた。タリンの年配の知識人たちは、この悪循環から抜け出して、何とか独立して自主的に生きることを夢見ていた(たとえば、首相にはチイフを、文部大臣にはスージを据えるなどして)。だが、チャーチルもルーズヴュルトもエストニアには関心を示さなかった。その代り《アンクル・ジョー》(ヨシフ)が強い関心を寄せた。わが軍が侵入すると、最初の五、六晩で、これらの夢想家たちはタリンの自宅から逮捕されてしまった。今はモスクワのルビャンカにも十五人ほどの者が一人ずつ別の監房に入れられていた。彼らは第五八条二項によって民族自決という犯罪的欲求の容疑で取調べを受けていたのである。


【45/】

 さきの一九四五年に、私の名声は大いに広まった。私は昔よりもはるかに高く評価された。私が世界的名声の持主だという声を、私はあまたたび聞かねばならない。外国人がつぎつぎに私を訪ねてくる、そして見渡し難い音信にとりかこまれる。この大量の文通は私の不幸である。私にとって手紙を書くことはひとつの責苦である。それに私は手紙を書く術を心得ていない。ときとして私は、返事をださねばならないかずかぎりない書面の山に絶望する。驚いたことに、私は崇拝され、尊敬されている。つまり私はいつのまにか、人の精神を導く人生の教師のごとく、謹直な紳士になっている。これは私の自己評価と符合しない。この自叙伝の読者はどうか私のいうことを信頼していただきたい。私は決して謹厳でも実直でもないのである。私は人生の教師とあいかかわるところがすこしもない。私はたんに真理の探求者、怒りっぽい天性、実存哲学者――この意味を哲学者自身の緊張した実存性と解してくださってのことだが、にすぎない。決して教師でも教育者でも指導者でもない。私の名声が広まることは私にいささかの人生のよろこび、いささかの幸福ももたらしていない。そもそも私は幸福を信じない。私には微塵の野心もない。私の内部には強いメランコリーの要素がわだかまっている。これはたぶん私の抑制的な性質や冗談、皮肉にたいする私の傾愛のために覆いかくされているであろうが。だが右にのべたようなことはすべて私の生涯のきわめて不幸な週期と時を同じくしておこったのである。リジャははげしい頚部筋肉の痙攣にかかり、しだいに話すことも、嚥下することも困難になっていた。彼女がこの苦痛のはげしい病気を堪えた様子はまことに驚嘆すべきものであった。彼女の力は衰えた。結局彼女は一九四五年九月末に死んだ。このことは私の生涯のもっとも苦痛な、しかし同時にもっとも意味深い内的事件のひとつであった。リジャの死は決して悲惨ではなく、精神(霊)的に変容していた。私は彼女の死をともに体験することによって、多くのことを学んだ。この体験は私にとって異例の重要性をもつ体験であった。リジャはまったく非凡な信仰の力をもっていた。これほどの信仰力を私はまだなんぴとにも見いだしたことはない。彼女の死は彼女の緊張した精神(霊)性によって崇高であった! 最後まで彼女は明瞭な意識をもっていた、そして彼女が死ぬまえにいったことは、いな、もっと適切には――書いたことは、まことに驚嘆にあたいした。ほとんど最後の息をひきとるまで、彼女は詩を書いた。私は彼女の詩を出版したい。彼女自身はその気持をもたなかった。彼女には功名心がまったくなかった。功名心は彼女の高貴さに照応しなかったのである。彼女はいつも神秘主義の著作に読みふけり、読んだもののメモをつくっていた。彼女はしだいに深く来たるべき聖霊の宗教を讃仰して、それに信仰告白をした。しかし彼女は教会にたいして不壊の信実をまもった。毎日私は寝るまえに彼女の部屋に赴き、神秘説について会談を交えた。一日のこの時刻を私は非常に愛した。いま私は自分が失ったものをくりかえし憩わざるをえない。私はかくも私にちかしい、かくも愛したこの存在の死と和解することはできない。
(中略)
 死はわれわれにとってパラドックスである。死は最悪であり、われわれが和解することのできぬ別離である。しかし他方、死は彼岸の光、愛の啓示、変 容のはじまりである。愛と死はたがいに結ばれている。しかし愛は死よりも強い。死は別れざるをえないことにたいする畏怖である。しかし同時にまた、死は精神(霊)的合一性の継続である。われわれが死のちかくから生に帰還するとき、死に比較すれば一切は空しい、ということを感ずる。死は時間のなかでの出来事である、そしてそれの告知するものは――時間の権力である。しかし死はまた時間の彼岸の出来事、、永遠性にむけられた出来事である。私はリジャの死に参与したことによって、彼女の死を体験した。私はそのとき感じたのである、死がどのようにして恐怖すべきものであることをやめるかを。死において或る親近なるものが開示されたのである。いまやわれわれは二人きりで、私とE〔リジャの姉妹であるエフゲニア・ラップのこと。〕とで、この世に残った。Eは私にとってことのほか親しい女友だちである。彼女の私にたいする配慮は感動的である。もし彼女がこの世から去ったら、どうして生きて行ってよいか、私にはわからない。毎日われわれは精神的に深い会話を交え、ときとしてはまた論争する。彼女は私の思想の多くを正しく理解し、私に親縁である。彼女にたいする私の関係はつねに世の常のものではなかった。私は私の生涯の深刻な劇的要素に想いをいたす。この自叙伝を読んでもおそらくこの要素は把握することはできないであろう。地上の生存の限界内には克服し難い葛藤が存在している。これらの葛藤は永遠の生において克服さるべきものではなかろうか。456-459(→p184-185参照のこと。)


 1946.4
 静岡県御殿場

 四月二十日
 役場から帰ってすぐ天皇宛ての手紙を書いた。といっても内容は手紙というより、海軍にいる間、天皇から受けたことになっている金品の明細書のようなものだ。主なものは昨日のうちに書き出しておいたが、あとからまたいろいろ思い出したり、計算に手間どったりして、結局、昼近くまでかかってしまった。昼すぎそれを郵便局から出す。金は為替にして同封した。端数を切り上げて四千二百八十二円。金のほうの工面はきのう父に、これだけは上京してから働いて返すという条件で、四千円出してもらったので、それに自分の持ち金をたしまってまかなった。そのため手もとにはもう百七十二円しか残っていないが、出がけにはまた汽車賃と当座の小遣いぐらいはもらえるだろうから、なんとかなるだろう。なくなったらその時はその時だ。とにかくこれでいくらか気持ちがさっぱりした。
 内容は次のように認めた。
「私は昭和十六年五月一日、志願し水兵としてアナタの海軍に入りました。兵籍番号は『横志水三七五二四六』です。以来、横須賀海兵団の新兵教育と、海軍砲術学校普通科練習生の七ヵ月の陸上勤務を除いて、あとはアナタの降伏命令がでた昭和二十年八月十五日まで艦隊勤務についていましたが、八月三十日、アナタの命により復員し、現在は百姓をしています。
 私の海軍生活は四年三ヵ月と二十九日ですが、そのあいだ私は軍人勅諭の精神を体し、忠実に兵士の本分を全うしてきました。戦場でもアナタのために一心に戦ってきたつもりです。それだけに降伏後のアナタには絶望しました。アナタの何もかもが信じられなくなりました。そこでアナタの兵士だったこれまでのつながりを断ちきるために、服役中アナタから受けた金品をお返ししたいと思います。
 まず俸給ですが、私がアナタからいただいた俸給は次のようになっています。
四等水兵―六円二〇銭(月額)〜四月=二四円八〇銭
三等水兵―一一円六〇銭〜十五月=一七四円
二等水兵―一三円一〇銭〜十二月=一五七円二〇銭(十七年十一月二日上等水兵と改称)
水兵長―一六円〜十二月=一九二円
二等兵曹―二一円六〇銭〜十月=二一六円
普通善行章加俸(一本)四五銭〜十五月=六円七五銭
艦船航海加俸〜一〇〇円(概算)
僻地(戦時)在勤手当〜二五〇円(概算)
計一、一二〇円七五銭
 つぎに食費ですが、食事は上官から汁一杯、米一粒といえども畏れおおくも天皇陛下がくださるものだと言われ、日に三度三度、ありがたくいただきました。食費は主計兵から士官で一食三七銭、下士官兵で一食二五銭かかると聞いていましたが、このほかに戦闘航海中と夜間訓練のたびに夜食をいただき、また月二回ぐらいの割で給与令による嗜好食料品もいただいたので、それらをふくめて一食三〇銭に計算しておきます。そこで私の在籍日数は復員の当日まで加えて「五八二日、このうち往復八日と七日の休暇を二回もらっているので、その日数を差し引くと一、五六七日になります。なお、休暇のほかに自前で外食する半舷上陸と入湯上陸が何回かありましたが、正確な日数がわからないので、それは計算にくわえませんでした。したがって食費は一日三食、九〇銭として、〆て一、四一〇円三〇銭になります。
 次は被服ですが、私は上官から被服は「靴下一足、ボタン一個にいたるまで天皇陛下からお借りしたものだから大事にせい」と言われ、次の員数をきちんとそろえておくことにたいへん気をつかいました。
軍衣 三(うち一着は古着)
軍袴 三(うち一着は古着)
夏衣 三(うち一着は古着)
夏袴 三(うち一着は古着)
中着襟 四(うち二枚は古着)
襟飾 二
軍帽 二(うち一着は古着)
軍帽前章 二
帽日覆 三
略帽 二
外套 一
雨衣 一
袴下 三
夏袴下 三
襦袢 三
夏襦袢 三
事業服袴 三(うち一着は古着)
事業服上衣 三(うち一着は古着)
掃除服 一
腹巻 二
脚絆 二
半靴 二(うち一足は中古)
靴下 八
毛布三(うち一枚は中古)
毛布覆 三
衣嚢 一
帽子罐 一
手箱 一
戦闘略衣上衣 二
 ただし右にあげたこれらの被服は昭和十九年十月二十四日、レイテ沖海戦で乗艦の武蔵が撃沈された際、すべて沈めてしまいました。不可抗力でした。
その後横須賀の海軍衣服廠で再度支給を受けた被服は次の通りです。
軍袴 一
軍衣 一
軍帽 一
軍帽前章 一
略衣袴 一
略衣上衣 一
略帽 一
袴下 二
夏袴下 二
襦袢 二
夏襦袢 二
事業服袴 二(うち一着は中古)
事業服上衣 二(うち一着は中古)
事業帽 一
外套 一
雨衣 一
脚絆 一
半靴 一
ズック靴 一
靴下 四
毛布 二(二枚とも中古)
衣嚢 一

 前記の沈めてしまった被服はすべてアナタからの貸与品でしたので、借料として三〇〇円、後記の再度貸与された被服は、復員の際、艦長令達によりいただいてきたので、この分は五〇〇円に計算しておきます。なおそのとき離現役一時手当金として八五〇円をいただきました。
 最後にこれは一番気になっていたことですが、私はアナタから「御下賜品」として左記の品をいただきました。
昭和十七年一月五日 戦艦長門にて恩賜の煙草一箱
昭和十七年八月十六日 駆逐艦五月雨にて恩賜の煙草一箱
昭和十八年六月二十四日 戦艦武蔵にて恩賜の煙草一箱と清酒(二合入り)一本

 たとえ相手が誰であっても、他人(ひと)からの贈りものを金で見積もる失礼は重々承知のうえで、これについてはあえて一〇〇円を計算にくわえました。
 以上が、私がアナタの海軍に服役中、アナタから受けた金品のすべてです。総額四、二八一円〇五銭になりますので、端数を切りあげて四、二八二円をここにお返しいたします。お受け取りください。

 私は、これでアナタにほもうなんの借りもありません。




 一九四七年の補遺
【47/】


 一九四七年は私にとってロシアのための懊悩に満ちた年であった。ソヴェートロシアにたいする私の関係は本当の悲劇である。人はこのことを理解しようとしない。私はひどい幻滅を体験した。英雄的な戦闘ののち、ひきつづいてソヴェートロシアで遂行された過程は、希望されていたのとはちがった経過をたどった。自由は増大せず、かえってその逆になった。アンナ・アフマトヴァとゾシチェンコの事件はとくべつ重苦しい印象をあとに残した。弁証法的唯物論はいぜんとして国家的・支配的な世界観である。どんな場合にでもすべての雑誌、すべての新聞を指導する共産党の支配的グループの見地は、ほかならぬこの世界観である。雑誌は極度に不吉な印象を与えている。正教会にたいする態度は徹底的に変化した。教会はほとんど特典的な立場におかれている。しかし教会生活の範囲は局限された。しかもそのなかでの自由はまだ思想の自由ではない。ロシアにおける宗教運動が漸増しつつあることは疑いえない。キリスト教のさまざまの信仰はロシア民族には非常に強いのである。革命と戦争の経験を生きぬいた結果として、ロシア民族のこころの奥底では、まだ表現にまで達することのできない、非常に重要な精神過程が遂行されている。しかし私を不安にし、心痛させることは、公認の教会生活のなかで最高の僧侶団を支配している方向が保守的な方向であり、十六世紀および十七世紀にたちかえろうとする願望である、ということである。ここではキリスト教が永生のための個人的な霊魂救済の宗教としてしか理解されておらない。キリスト教のあたらしい創造的時節を見透した社会的および宇宙的変化の意味で、ロシア的宗教思想が提起したテーマは、ここには完全に欠けている。まさにこの保守的な教会方向こそソヴェート政府によって奨励されている方向なのである。国民感情の増大は怒るほど歓迎さるべきものであろう。しかしそこにはナショナリズムへ逆転する危険が存在する。これはロシア的な世界主義および世界におけるロシアの使命にたいする裏切であろう。さらに、しだいに強化される中央集権的な全体主義的国家の全能性に、われわれはまた反撥させられるのである。これにはまた、この二年間に亡命者の内部で形成せられた各種の方向において私をもっとも悩ませたところのものが結びついている。すなわち、一切が主としてソヴェート政府にたいしてどんな態度をとるかによって決定されたのである。つまりこの政府の百パーセントの無条件的是認という結果になったか、或るいはこの政府にたいする憎悪、革命後のロシアの一切にたいする否認という結果になったのである。しかしながら、ロシア民族にたいする態度、ロシア民族の歴史的運命における革命の意味にたいする態度、ソヴェート体制にたいする態度とソヴェート権力、国家権力そのものにたいする態度とは同義ではない。私は革命の積極的意味、その社会的成果を容認することができる、そしてソヴェート体制そのもののなかにあまたの積極的なもののあることを看取することができるし、ロシア政府の行為によってあらわされた多くのことにたいしては批判的態度をとることができる、つまり、イデオロギー的独裁にたいしてはともに天をいただかざるの態度をとりうるのである。私はかつてもそうであったごとく、亡命者たちのあいだで非常な孤独を感じる。極右的な正教徒が「権にして神より出でざるはなし」の原理にしたがってソヴェートロシアにたいする彼らの態度を規定するとき、私はまったくとくべつに反撥を感じる。使徒ポーロのこの言葉には歴史的意義が帰せられるべきであって、宗教的意義が帰せられるべきではないのである。この言葉こそ隷属の、教会の阿諛の、根源なのである。ソヴェートロシアで行なわれている多くの事柄にたいする私の批判的態度(私はそこで行なわれている歪曲のすべて、汚辱のすべてを知っている)は、他方では私が自分の祖国をそれに敵意をもつすべての世界にたいして擁護する必要があると感ずるがゆえに、ひどく面倒で複雑な性質をおびる。こうして私のような立場の者にとっては、調和的な解決を見いだすことなく、ただ懊悩のうちにもがきつづけるほかに道はないのである。最近私は私自身のうちにふたたびあの二つの原理のあることをとくに明瞭に感知した、すなわち、一方においては、貴族主義的な要素、人格と創造的自由の貴族主義的把握、他方においては、逆行を許さない歴史的運命にたいする強い感情、宗教的源泉から発する社会主義的同感という二つの原理を。私は私のうちでこの二つの原理を融合させることができない。ロシアにもし修正と改善がおこるとすれば、それはロシア民族の精神内の出来事を基礎とするのでなければ成功しえないということを、私は信じつづける。これと同じことを私はすでに二十五年まえにもいったことがある、そして亡命者たちの大部分と鋭く対立したのである。
 一九四七年の春、ケンブリッジ大学は私に神学名誉博士の称号を授与した。これは非常な名誉とされているものである。私の思想にたいしてイギリスが示したこのような関心、このような高い評価を、ヨーロッパのほとんどどんな国においても私はまだ出会ったことがなかった。イギリスのこの殊遇は重苦しい流謫生活にある私にとってひとつの支えであった。過去においてイギリスでこのような名誉をうけたロシア人はただ二人しかいなかった。それはチャイコフスキーとツルゲーネフであった。この場合は学位というよりはむしろ功績にたいする尊敬というべきものである。学界は決して私にとくべつの好意を示さなかった。学界は私を実存主義的に偏向しすぎた哲学者、学識のある哲学者というよりはむしろモラリストとみなした。そのうえ、私は神学者ではなくして宗教哲学者である。宗教哲学は格別にロシア的な所産である。西方のキリスト教徒はそれを神学とあまり区別しない。しかしともかく私はこれまで神的な事柄に関して多くのことを書いてきた。ケンブリッジ大学とその神学部は自由主義的とみなされている。それゆえ、候補者として同時に銓衡されたカール・バルトとJ・マリタンよりも私の方が選ばれたのである。七月に私は、学位をうけるために、ケンブリッジにでかけた。ケンブリッジとオックスフォードのような大学による名誉博士号の授与には荘厳な中世風の儀式が結びついている。人々は緋色のガウンをまとい、頭には中世風のビロードの帽子をいただく。学位が授与される満員の大講堂へ、粛粛と進む行列の先頭にたって、神学の、すなわち、一切の学問の最高位の、博士として、私は入場する。私のあとには、やや間隔をひらいて、外務大臣ベヴァンとさきのインド総督ウェーヴェル――いずれも法学博士号を授与された――がづづいた。
 このようなことはすべて私の天性と私の性格に合致しなかった。私はあたかも局外者として一切の出来事を傍観しているような気持がした。私は私の運命の不思議さを思わざるをえなかった。この同じ春に私はまたスウェーデンから、私がノーベル賞の候補に推薦された旨の通知をうけた。しかしこの賞は私には与えられないだろうと思う。受賞するためには、私のしたくないなにがしかのことをやらなければならないであろう。私がロシアの国外追放者であることもまた、私にとってひとつの不幸である。いまではもうすっかり「有名人」だということを、私はくりかえし聞かされる。だがそんなことは、人々はとうてい想像できないであろうが、いささかも私をよろこぼせることではない。私はいぜんとしてはなはだしく不幸を感ずる。克服しがたい私の矛盾、一切の無常なるものにたいする私の拒否的態度、最後に、私の永続的な焦躁、これらのことに起因するところの、私の満足不感性によって、外的運命に関してではなく、私の内的存在に関して、私は限りなく不幸である。外的にみれば、私はつぎのようにいわねばならない、私はすでに年老い、生に倦んでいる。しかし私の魂はなおきわめて若く、精神的な創造エネルギーに溢れている。ただ私は、私にみじかな親しい人々と同様に、さまざまの病気にみまわれる。それを度外視するとしても、物質的な事柄においては私はまったく無能であり、私の有名さから利益をひきだす術を心得ていない。そのために私はたえず物質的な窮迫にくるしむ。
 秋に私は「ジュネーヴ国際会合」からひとつの講演と会議への積極的な参加とを招請された。そのテーマは「技術の進歩と道徳の進歩」であった。これは私がこれまでにたびたび思案し、たびたび書いてきたことであった。私は承知した、しかし入国ビザやその他の堪え難い面倒を耐え忍ばねばならなかった。ヨーロッパの著名な「知識人」が参集した。「会合」のジュネーヴ側の主催者は「ブルジョア」的世界に属しており、スイス、とくにそのフランス語圏はコミュニズムにきわめて敵対的である。それにもかかわらず、九つの講演のうちその二つはコミュニストによってなされた。それにまた、講演はしなかったが、きわめて積極的なマルキストも出席していた。これは大きな寛容性の表明であった。私はこの「会合」がマルキシズムに与えた重視に驚きを感じた。或る人々は自分のマルキシズムを陳述し、他の人々は逆にマルキシズムを批判した。しかしすべてはマルキシズムをめぐって廻転した。私はまるで半世紀まえの時代におかれたように感じた。そしてその場合、マルキシズムにたいする私の知識によってのみならず、その教条にたいする私の内的洞察によって、どの程度まで私がマルキシズムの専門家とみなされていたかがはっきりした。私はマルキシストたちからさえその専門家たることを認められたのである。しかし私はいまさらマルキシズムを批判しなければならないとは信じなかった。この点で私自身としてはこの会議をかなり幼稚に感じた。世界はふたたび初歩の基本的な問題に移行したのだ、そしてこうなった以上はさっさとその道を通り抜けてしまわねばならない、私はこのように考えた。十九世紀末および二十世紀初頭にロシアやヨーロッパで支配的であった精神運動はふたたびおしのけられたように思われた。この「会合」には、マルキストたちよりも知的・精神的水準においてはるかに高い唯心論的立場の人々もまた参加していた。しかし彼らは一般の注目の的ではなかった。これはこんにちの時節の特徴を実によくあらわしている。私自身は非常に積極的な役割を演じた。私の講演には聴衆の数がほとんど最高であったといってよい。このことはしかしとりわけ、私がマルキシズムの精通者であるのに、その哲学にたいしては批判的であり、しかも或る種の社会的正当さをマルキシズムに認めたということと関連していたのである。私は完全にくつろいだ楽天的な気特になったことはなかった。私はマルキシズムに強すぎる攻撃を加えることができなかった。自分のまわりの世界をみまわして、私はたえずマルキシズムに或る種の正当さを認めずにはおられなかった。ともかく、資本主義的な構造が罪に汚れており、崩壊に瀕しているということは、ほとんど誰もが認めた。ただ精神をくびり殺されたくはなかったのである。批判的態度にたいするマルキストたちの応酬は哲学的な点においては非常に弱かった。ところが彼らが組織力を背景にしていること、そして或る意志的な活気によって導かれていることが感知された。これに比べると歴史的キリスト教は過去にもっていたような活力をもはや失っている。このことは世界危機に関する私の思想と完全に合致する。私の思想の趣旨を理解してもらうことは非常に困難である。いま勢力をえている環境はあまりにも初歩的である。そしてふたたび私は、私がどんなに孤独であるかを改めて痛感させられる。私はまた組織化された宗派の名において行動することができない。私は未来に、すなわち、すべての拒み難い、不可抗的な社会的事象が終熄しているあの時代に指向している。私の生の根底的な矛盾はたえずくりかえし立ちあらわれる。私は能動的である。私は理念の闘争において全力を尽くすことができる。同時にしかし形容し難い憧憬に満たされて、別なる世界、まったく別なる世界を想う。
 私はあたらしい精神(霊)性と神秘説について論じる一冊の本を書きたい。その中心には、人間の創造的奇跡行為についての私の生命の基礎的直観が立つことになろう。あたらしい神秘説は奇跡的神秘説でなければならない。(『わが生涯』A・ベルジャーエフ)463-469


 1947.12
 :コリマ、エリゲン中央収容所付属国営農場

   1

 コリマの冬は長く、厳しい。その厳しいコリマで、エヴゲーニヤ・ギンズブルグは、10年目の冬を迎えていた。いま、彼女は、エリゲン中央収容所付属農場の医務室で看護婦をしている。
 決心を早めなければならないようなことは、なにも起こらなかったはずだ。いつもながらの夜だった。エリゲン試験農場のありふれたラーゲリの夜勤である。ただ、あるいは、壁をはいずりまわる炉の影が、とくに不吉な幻想となったのかもしれない。なぜ人がにわかに、はっきりと、もうたくさんだと思うようになるのだろうか。目を閉じると、蒼白い、離ればなれの「もうたくさん」「もう飽きた」のふたつのことばとともに、7号車につながるいくつもの光景が浮かんでくる。

「さあ、入ろう、代診!」ためらう背中を押すようにして、規律将校がエヴゲーニヤに命令した。ラーゲリでは、医師がいない場合、看護婦は医師の代診として使われる。代診といっても、医療行為をするのではない。医師の代わりに書類の形式を整えるのである。
 エヴゲーニヤは、温室の低い扉の中へ突き入れられた。燃えにくい生木の薪が、しゅうしゅうと小さな音をたてながら、大きな炉の中で泡をふいていた。頼りなげな炎の影が、進む列車の窓から見る夜明け方の風景のように、暗い壁をはっていた。エヴゲーニヤには、温室が揺れ動きながら走っているように感じられた。つんのめってはと思い、かまちにつかまって目をこらすと、キャベツ苗の高い棚の真上の天井から、なにか長細いものがぶらりと垂れ下がっているのが目に入った。下端はラーゲリ用のブーツらしきもので、かちかちに凍りついていたのが、解けかけていた。靴からは、濁った薄い膿のようなものが棚へしたたり落ちていた。舌の出た気味悪い黒い頭は奇怪な感じをいだかせ、ゴーゴリのあの古い記念像を思わせた。とがった鼻、額にたれた横分けの髪束。ポリーナ・メリニコワではないか!
 当直警備兵が、だいぶ前からぶら下がっており、冷えきっていることを説明した。なぜ下ろさなかったのかと詰問するように尋ねるエヴゲーニヤに、彼は、気づいたときにはもう手遅れで、もうどうせだめだと思ったから指示があるまでそのままにしておいた、と言い訳した。
 ポリーナのすぐ足もとの棚の上に紙きれがあった。泥炭壺が2ヵ所に重しにのせてあり、脇には、芯を出すためにかじったちびた青鉛筆が転がっていた。綱が切られ、ポリーナはいま、特殊施設の障害児がこねてこしらえたような生温かいふたつの壺の間の棚に横たわっている。ポリーナ・メリニコワ、7号車でいっしょだった中国専攻の研究者である。

   2

 エヴゲーニヤがラーゲリの医学というものをはじめて体験したのは、コリマに送られる最後の中継所になったウラジオストークの収容所でのこと。コリマに移送する前の身体検査が行われたさい、ターニャ・スタンコフスカヤに、健康度1級のお墨付きが与えられたのを知ったときだった。検定は、当人に適用された罰状とものの見事に一致していた。ターニャは、ふつうなら護送列車の中で、死んで当然の状態だったにもかかわらず、中継監獄にたどり着くまでは死ねないという執念だけを支えに、死に神を追い払ってきたのである。
 7号車には、さまざまな経歴の持ち主が乗り合わせていた。革命の伝説的ヒーロー・カモーの妹のリューシカ・ペトルシャンもそのひとりだったし、これもまた彼女たちにとって伝説上の人物である社会革命党員のオーリツカヤも。革命前に政治犯としての経験があり、革命後にもラーゲリを経験している革命家オーリツカヤの言は、彼女たち「新人」にとって千金に値した。なにせ、新入りたちには、これがはじめての経験だったからだ。彼女たちは、ことごとく予期せぬ逮捕と長い取調で肉親や知人と切り離され、情報をたたれたままだったので、だれもが不安定な精神状態におかれていた。そういう新入りを前にして、オーリツカヤは確信をもって断言した。「中継監獄では男に会える。」先人の、このひとことと執念が、スタンコフスカヤの肉体を支えてきたのである。
 ターニャ・スタンコフスカヤは、ドンバスの炭鉱で生まれ、そこで育った。父も、ふたりの兄も、そろって炭鉱夫である根っからの炭鉱一家の娘だった。活発で、利発な彼女は、一見するとがさつに見える。しかし、表には出そうとはしないが、その裏側には人を思いやる優しさが溢れていた。加えて、真情を吐露することで、躊躇しない勇気の持ち主だった。水をくれと要求しようと提案し、先頭を切って声を挙げたのも彼女だったし、ナチスの追求を逃れて入ソしたドイツ共産党員に対して、この国を代表する党が行った処置を、恥じていたのも彼女だった。12号車が脱線し、そこに入っていた囚人が分配されたときにも、いちばん先に「ここにきなよ」と声をかけたのも、彼女だった。
 革命の前だったら、井戸端会議のおかみさんリーダーとしてドンバスで過ごしたに違いなかっただろうターニャを、17年の革命が州党宣伝部の指導員に押し上げたのは当然だった。彼女が逮捕されたとき、仲間の労働者が集団で陳情書を提出したのも、これまた至極当然だった。
「あのタチヤーナが反革命などするはずがない。おれたちはあの子が産まれたときから知っているんだ」
 50を超える仲間の署名が集まった。代表者が地区委員会に赴き、党書記のイワン・ルキーチに、連署してくれるようにと頼んだ。イワンは、ためらうことなく署名をしただけでなく、横に添え書きまで書いた。
――入党のおりに保証したとおり、現在もターニャ・スタンコフスカヤを保証します。
 結果は? 署名した全員がひとり残らずぶち込まれた。ターニャはいう。
「あたしはね。イワンに会って、ひとことだけいいたいんだ。余計なことをしてくれたと。いまはスターリンに逆らっちゃいけないときなんだ。そのうちに声を挙げられるときがくる。そういうときまで、イワンのような人は、じっとしてなくちゃいけないんだ。自分で自分の首を絞めるようなまねを、しちゃいけないんだ」
 そのことを伝えたい、その一念だけを支えに、ターニャは7号車の過酷な旅を生き残り、骨はニワトリの足のように細くなり、目もニワトリのように夜になると見えなくなりながら、ここまでたどり着いたのである。そのタチヤーナを、重労働可を意味する健康度1級と判定するのが、ラーゲリの医学だった。健康度1級と判定された4時間後、ターニャは帰らぬ人になった。

 ターニャの死に、ショックを受けて、沈んでいたとき、「お友だちのことでそんなに苦しんじゃだめよ」と声をかけてくれた若い娘がいた。その娘、アーロチカ・トーカレワは、KPTD(カ・エル・テ・デ=反革命トロツキスト活動)のかどで、10年の刑を宣告された既決囚だった。アーロチカとの遭遇は、自分たちだけが革命後初の政治犯だとばかり考えてきたエヴゲーニヤが、数年前から反対派の名の下に投獄された政治犯がすでにいることを知らされたはじめての機会だった。
「経験者」であるアーロチカは、新しい世界への親切にして誠実な道案内人だった。
「ねえジェーニカ、先ゆきいろいろと書類がつくられるわ。そのときには、文学部へ入る前には医学部に籍を置き、4年まで進んだというのよ」
「なぜ?」
「コリマで看護婦が必要になるとき、あなたが医学教育を受けたってことを思い出させるのよ。そうすれば看護婦になれる。外で働くことなく、建物の中にいられる。つるはしを持たなくてもいいし、山で伐採をしなくてもすむのよ」
「そういう嘘を私はつけないわ。それに経験したことがない看護婦の仕事などできないわ」
「できないことなんてありますか! まともな人がそうした仕事についたほうが、みんなのためになるのよ。死にかけている人たちを助けてあげてちょうだい。でも袖の下だけは取らないでね」
「でもどうして治すの」
「間違えないで。ラーゲリじゃ、治療法はただひとつ、1日か2日、作業を休ませるだけよ」「でも、私、嘘はつけないわ」「だめ、だめよ。このことは覚えなくっちゃだめなのよ」
 こどもっぽい、りんごのような顔をしたうら若い娘の口から出たアーロチカのことばは、ターニャの死の直後だっただけに、偉大なる狂気のつづきのようにエヴゲーニヤには思えた。
 あのときから、もう10年が経った。その間に、逮捕・投獄ということがなければ、とうてい味わうことがなかったであろう経験を、エヴゲーニヤは数え切れないほど重ねてきた。その経験は、アーロチカのことばが正鵠を射ていることを疑いの余地なく教えていた。彼女が指摘したように「ラーゲリでの治療法はただひとつ、1日か2日作業を休ませるだけだった」し、「袖の下を取らないまともな人がそうした仕事についたほうが、みんなのためになる」ことも確かだった。

   3

 スヴェルドロフスクの中継所でのことが浮かんでくる。囚人たちは消毒のための脱衣所に入れられた。護送兵は滅菌消毒の仕事に忙しく、別段せかせはしなかった。みんな生き返った思いだった。水を流す音は、さんざめく笑い声と呼び交わしていた。ターニャ・クルペニクは、すばしっこい動作でシャツを洗い、しんみりと「おおドニエプル、ドニエプル」と歌を口ずさむほどだった。ターニャの楽天性と人のよさには底知れぬものがあった。彼女が全車中で10年ではなく 20年の刑を背負ったただひとりの女性だったにもかかわらず、自分が虐げられた女だなどと感じさせることはたえてなかった。
 ターニャがこんな刑をいい渡されたのは、裁判が1937年10月5日だったからだ。ちょうどその日に新しい法律が出て、最高禁固刑が10年から25年に変更された。しかし、護送車の中では、ターニャはウクライナの前人民委員会議議長と近い親戚関係にあったからだと、囁かれていた。有名なコミュニストに近い者ほど刑も重くなるというのは、衆知の事実だった。
「10年だろうが20年だろうが、同じことだよ」いろいろ尋ねられると、ターニャははねつけるように答えた。
「そんなに長く入れられてる者なんかありゃしないよ。党が白黒つけてくれるさ。こんなことってありえないんだもの。エジョフもクビになったじゃない。ほかの妨害分子たちにもじきに順番がやってくるはずよ。妨害分子が内務人民委員部にまで入リ込んでるのは、もうはっきりしてるじゃないの。やつらはそのうち暴かれるわ……。そしたらあたしたちは出られるのよ。あたしたちの取り扱いでも、もうエジョフ時代よりいいでしょ。エジョフはあたしたちを2年間も独房へぶちこんでた。要塞にね。けどいまあたしたち、仕事をしに行くんだよ。極北の地を切り拓くために。つまり、党は、あたしたちが精一杯働くだろうと信じられてるんだわ」

   4

 ポリーナの死体検案書を綴りに綴じながら、エヴゲーニヤは思う。
――ポリーナ・メリニコワ。かつては女であり、かつては人間だった。いや、もしここコリマに、かつての人間がいるとしたら、それは、意のままにふるまい、このような行動によって人間の権利を確立したポリーナではない。知人の亡骸に泣きくずれもせずに、人間としての尊厳を喪失している遺体をそのままに、上司の指示を待つだけの警備兵に対して、口の中だけでぼそぼそと呪詛のことばを吐きつつも、遺体の横たわる棚の端で「死体検案書」を事務的に作成していた、この私なのだ。
「エリゲン」、それはこの地にすむ先住民であるヤクート人のことばで、「死」を意味することばである。
「10年だって、20年だって変わりはない」そういっていたターニャは、望みが叶ってエリゲンの農事指導所で働いていたが、そこで火災が起きた。火災の原因は不明だったが、だれかが罪を問われなければならない。それが収容所列島の掟である。その生け贄として選ばれた囚人農業技師・ターニャは、破壊行為と放火のかどでまた裁判を受け、刑が加重された。1920〜30年代の党員気質をもったさしもの楽天的なウクライナ娘の生きた象徴も、ここにきて生きる希望が尽きたのだ。

 エヴゲーニヤは大きな納屋鶏舎のまん中に立ち、満杯のバケツを両手でさげ、やけのやんぱちで、それを頭の上にまであげる。バケツはすごく重い。総合飼料、いわゆる「混ぜ合わせ」が入っている。これを飼料槽へ均等に撒いてやらなければならない。だがニワトリは、人間とまったく同じで、敵味方の見分けがつかず、一度でも余分についばむためには殺し合いも辞さないのである。鶏舎の扉を開けるのもやっとの思い。食事を待つニワトリが全部扉のところに屯しているからだ。全力を集中させてやる。ところが、数百羽がすさまじい群れとなって、クークー鳴きながら、バケツの飼料めがけてエヴゲーニヤのところへ殺到してくる。
 この世でもっともおとなしい存在――そのニワトリに関するエヴゲーニヤの教科書的なイメージは、一瞬にして吹き飛んでしまうのだ。「おじけ悲しめば、ニワトリが腹立てる」というが、雄鶏についてはいわずもがなのこと。雄鶏どもは乱暴にコケッコーと鳴きながら、エヴゲーニヤの素足のふくらはぎをつつき、バケツなどひっくり返してやるぞと脅さんばかりに舞いながら飛びついてくる。帝政時代の将軍みたいなばかでかい雄鶏がエヴゲーニヤの肩に舞い上がり、そこで耐え難い侮辱を振りかけた。いま1羽、やや格が下の、血の気の多いあんちゃんみたいなのが、エヴゲーニヤの頭によじのぼり、やはり極上のわるさをしてくれた。なんというたわけ者どもだ! 私はおまえたちに餌をくれてやろうとしてるのに、それをこの仕打ちはどういうことなんだ!
 エヴゲーニヤがこの生き物の扱いに難渋しているとき、運よくアーニャ・シーロワから救いの手が差し伸べられた。彼女は落ち着きはらってエヴゲーニヤのバケツを取り上げると、ロシア民話も顔まけの鮮やかさで、襲いかかる雄鶏の機先を制し、2分間で餌料槽へ餌を分配してしまった。アーニャは、さらにバケツ2杯分を運んでくるようエヴゲーニヤを飼料調合場へ行かせる。彼女は、オムレツを食うことはできても、糞で手を汚すのがきらいなインテリ女どもには、我慢がならないのだ。彼女は、自由の身だったときでも、そんな奥方さまは大きらいだった。だからといって、アーニャを鼻持ちならないと非難するのは的を射ていない。ただたんに、アーニャは、生きものは真剣に扱ってやらねばならないと考えているだけなのだ。このイタリア・レグホンというやつは相当なワルではある。こいつらはロシアのニワトリとは比べものにならない。それに比べると、ロシアのニワトリには良心がある。いや、そんなことだって、彼女にはどうだっていいことなのだ。生きものを扱うということは、木材伐採でもなければ土地改良でもないのだ。
 ターニャとともに、7号車で、コリマで働くこと――それは広大な手つかずの大地を自分たちの手で切り開くという20〜30年代の技術者党員の夢だった ――を熱っぽく語っていたアーニャ・シーロワも、過労がたたり、腎臓を患い、病床で失明の恐怖と戦いながら、ターニャに先立ち、この世から去った。

「それでも」いや「それゆえに」とエヴゲーニヤは思う。――私は生きる。夫であるアクショーノフの行方はわからない。党の幹部だった彼が生きている証は、ほとんどない。長男のアリョーシャのほうはといえば、もっと生きている証はない。次男のワーシャだけが、施設で生きているということだけが、わずかに残された救いなのだ。そのワーシャにも、いつになったら会えるかという保証はない。おのように、先の見通しなどなにも残されていないにもかかわらず、私は生きていこうとしている、そういう私、エヴゲーニヤ・ギンズブルグだけが、ここエリゲンで、唯一、「人間」として生きているのだ。


 1948.6
 :マガダン

 コーラスだ。昔から知っている歌もなにか奇妙に聞こえる。見まわす。舗道を、整然と、軍隊調で、軍服でもなければラーゲリ服でもない、見慣れぬ服装をした背の低い男たちが隊伍を組んで進んでいる。四方からわが国の兵隊が構え銃をして護衛している。
「捕虜の日本兵よ」とユリヤが教えてくれる。「よく働くわ。もう大きな家を数軒建てちゃったのよ。いま劇場を建ててるところだわ。なにうたってるのか、わかる?『谷越え、丘越え』よ」
 ユリヤは笑いながら話してくれた。ユリア・カレポア――大学の同級生であり、同じヤロスラヴリ獄の聖水盤で洗礼を受けた姉妹である。いまでは、アントンを別にすると、この世でたったひとりの頼れる肉親のような存在であるユリアは、一足早く刑期を満了し、コリマの首都であるマガダンで玩具製造工場の班長をしていた。列島の住人は、刑期満了後も自由ではない。流刑地を指定され、そこから出ることが許されないのだ。68条適用の政治犯の場合、いちばんの困難は、職に就くことである。エヴゲーニャは、ユリアの勧めでマガダンにきて、ユリアの家に寄宿しながら、職探しをした結果、やっとのことで保母の仕事をえて、やっとひと息がついたところだった。
「日本人将校たちがときどき、三々五々、町へ出稼ぎにやってくるのよ。つまり、自分たちが上手に編んだ防寒ミトンやソックスを売ってるの。どこであんなにいい毛糸を手に入れるのか、わかんないわ。きっと、自分の毛糸の股引きかなにかをほぐすのよ。ある男などわたしの仕事場まで売りこみにやってきて、マガダンの暮らしのことでね、ロシア語でとってもおもしろいことをいったわ。『日本人兵隊行く、ロシア人兵隊護る。それわかるね。戦争だ! ロシア人マダム行く、ロシア人兵隊護る。それわからない』。それはね、船便で続々と送りこまれ、マガダンの街をとぼとぼ歩かされている無数の女囚の姿を見て、その日本人は、この国には都会でも田舎でも、なぜ犯罪者が数かぎりなくいるのだろうと奇妙に感じたのよ」
 たしかに、エヴゲーニャがいなかったこの7年間に、マガダンでは新しいものがいくつも生まれている。けれど、その基本的には、牢固として変わりがない――逓送囚が、つぎからつぎへとやってくるのだ。
 涙の出るほど心が揺さぶられる街の風景もいくつかあった。たとえば、10代前半の子供と老人たち。以前はこうした世代の者はいなかった。密林中にはいまもいない。少なくともエヴゲーニャは、この10年のうちにそのどちらにもお目にかかったことはない。囚人には、老境に入るまで生きながらえる者はいない。幹部連中は以前はこんな山奥に両親を連れてはこなかった。コリマの子供といえば、この地で生まれた者だけだった。ローティーンはほとんど見かけなかった。ところが、いまはもうこのコリマの中心地へ光粁からローティーンたちを連れてきているのである。
 ひとりひとりの小学生をくい入るように見つめ、自分の息子たちと比べてみるのである。ほらこの子は、おそらくもう14歳だろう。こんな姿になったアリョーンヤをエヴゲーニャは知らないのだ。そう、ワーシャだっていまはもう15になる。どんな姿をしているのか、エヴゲーニャには皆目見当がつかない。
いま老婆が女の子と手と手をつないで歩いている。なんて気持ちのいいお婆さんだろう。丸顔で、こぎっばりしていて! うちの子守のフィーマみたいだ。女の子もお婆さん似だ。おそらく祖母と孫娘だろう。いつこんな風景を目にしたことがあったろうか? どんな夢の中で?
 さらに犬がエヴゲーニャの心を動かす。密林では彼女は犬と名のつくものはすべて憎悪していた。山にいたのはシェパードだけで、これは獄吏どもの忠僕だ。恐るべき仇敵である。この世にはほかに明るくて無邪気な番犬や、風変わりなダックスフントや、コケティッシュなマルチーズがいることを、なぜか忘れていた。エヴゲーニャはユリヤのバラックの入口で、血統書とは無縁の番犬の子孫で彼女の仕事場の番人カブィズドフ(くたばり犬)がしゃがれ声で吠えて歓迎してくれたときには、ついうれしくなって笑ってしまった。のどに向かって飛びかかってくることはなく、愛想よくしっぽを振ってくれる犬なのだ。そこにはいじらしい人間的なものが感じられる。彼女たち二本足への番犬が、シェパードの残忍な所業とは無縁なように、この貧相な犬は、有刺鉄線のそばで職務を遂行している自分の仲間の悪業とはなんのかかわりもないのである。エヴゲーニャはカブィズドフのもつれた毛をたたきながら、内心は犬族と和解するのである。

 日曜の一日を、エヴゲーニャはユリアと保育園児のエジックを連れて、休日の散歩を楽しんでいた。いまでは新興工業都市になったマガダンは、工場の煙突が吐き出す煙で町が包まれている。煤だらけになった運動場に、彼女たちはさしかかった。すぐ前の道路では、捕虜の日本兵が溝掘りの作業をしていた。エジックは、手にした錫の兵隊さんを高く放り上げた。と、錫の兵隊は柵を越え、深い溝の底に落ちて見えなくなってしまった。それを見た若くてすばしこい日本兵が、ひょいと溝に飛び込み、エジックの兵隊さんを拾い上げ、柵越しにエジックヘ差し出した。
「おじさんにありがとうをいいなさい」
「あいつはおじさんじゃないや。だって、あいつはイェポーシカだよ」
「たしかにおまえがいうように、あの人は日本人よ。だけど、イェポ−ニツにだって男の人も女の人もいるはずでしょう。あの人がおばちゃんでないとしたら、おじちゃんじゃないかしら」
 この動かせぬ論理は、エジックには衝撃だったようだ。しばらく考え込んだのち、エジックは反撃に出た。
「だけど、あいつはぼくたちと戦争したんだよ」
「たしかにそう。たしかにそうよ。だけど、悪いのはあの兵隊さんかしら。あの人は命令をされ、いうことを聞かないでいるのがこわかったのよ。あの人はどちらかといえば、戦争なんてしたくなかったんだじゃないかしら。お家にはおまえみたいなこどもがいるし、別れるのがとてもつらかったんじゃない」
 彼は、ちょっとのあいだ、躊躇した。そして、いきなりからだを一転させると、素早く柵の横木をよじ登り、大声で日本兵に呼びかけた。
「おじちゃん、日本人のおじちゃん。ぼくの兵隊さんを助けてくれてありがとね。こんどは上の人のいうことなんか聞かないで、ぼくたちと戦争しないでね。自分のこどもんとこへ帰ったほうがいいもんね」
 エジックが使った「スパシーバ」ということばは、日本兵に伝わったようで、彼は柵に歩み寄り、大きな黄色い歯を見せて、エジックに向けてなにごとかしゃべりだした。そして、おそるおそる柵の隙間から手を出し、エジックの袖を慈しむようになでた。
 エジックは、怪訝そうな顔つきで訴えるようにエヴゲーニャを見上げた。「おまえはね、きっとあの人の子に似てるのよ」といいながら、彼女は、エジックのアジア的な目尻の切れ上がり方は、日本人捕虜の目とそっくりであることに気づいた。



 1949.2
 :モスクワ、マールフィノ特殊収容所

 A・ソルジェニーツィンは、モスクワにあるマールフィノ特殊収容所で「囚人科学者」として働いていた。もともと彼は、文学を専攻したかったのだが、贅沢が許される状況になかった。文学を専攻するなら、モスクワかレニングラードの大学にいく必要があったが、母ひとり子ひとりの家計は、それを許さなかったのだ。で、やむをえず出身地の大学に入学し、物理学を専攻した。中継監獄から収容所に送致するさいに、当局は身上調書を囚人に提出させる。そのおりに、彼は、「専門」を記入する欄に「核物理学者」と書いて提出した。結果として、それが、彼を特殊収容所という特等席に引き上げることになったのである。マールフィノ特殊収容所は、数少ない学者専用の収容所で、そこには、各専門分野の錚々たる囚人学者が集められ、研究に従事していた。
 その特殊収容所で、彼は、友人たちと科学アカデミーの雑誌『自然』の誌上に注目すべき記事を見つけた。そこには小さな活字で、つぎのようなことが書かれていた。
――コリマ河の岸で発掘作業中、偶然、地下の氷層が発見された。それは凍結した大昔の流れであったが、その中から、これもやはり凍りついた数万年前の動物が発見された。
 その動物が魚だったかサンショウウオだったかはともかく、それがとても新鮮なまま氷づけになっていたため、記事を書いた学者の目撃したところによると、その場に居合せた人びとは氷を叩き割り、さっそくその場でそれらの動物をよろこんで食べてしまった。
 あまり数多いとはいえないこの雑誌の読者たちは、おそらく、氷の中では魚肉がなんと長持ちするものかと少なからず驚いたにちがいない。だが、不用意にも掲載されてしまったこの記事のもつ、きわめて意味深長な側面に気づくことのできた人は少ない。
 しかし、囚人たちにはすぐわかった。その場面が微細な点に至るまでありありと念頭に浮んできた――その場に居合せた人びとが、どんなに慌てふためいて氷を叩き割り、崇高な魚類学的興味などには目もくれず、互いに肘で仲間を押しのけながら、何万年前の肉の氷づけをちぎり取って、焚火のところへ引きずっていき、氷を融かし、がつがつと腹に詰め込んだか、が。


 1950.11
 :クイブイシェフ中継監獄

 クイブイシェフ中継監獄に護送される途中の「駅」で、ソルジェニーツィンたちのような古くからの囚人は、49年に投獄された新入りたちといっしょになった。彼ら全員が、変わった刑期を与えられていた。彼らの刑期は10年ではなく、なべて25年だった。25年の刑期をつとめることは、だれにとっても、不可能に思われた。かりにその囚人が50代だとすれば、刑期を終える前にこの世からおさらばしなければならないだろうし、20代の若さだとしても、刑期満了時には、50の坂に手が届く歳になる。もし、その歳まで生き残れるとして……である。
 護送車がカザン駅で停車していたおり、拡声器が朝鮮戦争の開始を告げた。アナウンサーは、戦闘第1日目の午前中に韓国側の強力な防御線を突破して10キロも敵地深く進攻しながら、「北朝鮮側は韓国からの襲撃を受けた」と主張していた。戦闘の経験者なら、どれほど頭が固い軍人でも、最初に襲撃したのが初日に進攻したほうであることを否定しないだろう。
 朝鮮戦争開始の知らせは、囚人たちを興奮させた。彼らは、こぞって嵐がくることを願っていたからである。嵐がなければ、もし嵐がなければ、嵐なしでは、彼らは苦しみながら、しだいに死んでいかなければならないからだった。

――私たちはなぜか長い間、この細長い馬小屋の監房に収容されていて、行くことになっているステップ収容所へはなかなか運ばれなかった。もっとも、私たちも急いでいるわけではない。ここは楽しいし、向うへ行けばずっと苦しいに決っている。
 私たちはニュースにも恵まれている。毎日、普通の新聞の半分ぐらいの大きさのへんてこな新聞が運ばれてきて、私がそれを朗読して、監房の皆に聞かせることになっている。そこで私は、感情を込めてその新聞を読んだ。感情を込めて読む価値があったからである。そのころは、ちょうどエストニア、ラトビア、リトワニア三国の解放10周年に当たっていた。バルト海沿岸諸国の出身者たちのうち何人かは、ロシア語がわかるので、そのニュースを仲間の人たちのために通訳する。私は、その間、黙っている。すると、ほかの人びとが、上段や下段のすべての板寝床にいるほかの人びとが、自分の国で史上はじめて自由な繁栄のある生活が始まったというニュースを聞くと、大声で泣きだすのだった。これらの国々の出身者たちは(この中継監獄では全員の3分の1を占めているのだが)、その故郷に荒廃した家を残してきていた。その家族が無事だったらまだしも、下手をすると、その家族も別の囚人護送団とともにシベリア送りになっているのである。
 しかしながら、中継監獄の人びとがなによりも注目していたのは、なんといっても朝鮮からの二ュースだった。そこでは、スターリンの電撃作戦が失敗に終わっていた。すでに国連義勇軍が召集されていた。私たちは朝鮮のことを、第3次世界大戦のスペインとみなしていた(おそらく、スターリンはこの戦争を予行演習のつもりで始めたのだろう)。国連義勇兵たちは、私たちに希望をもたせた――彼らはなんとすばらしい旗の下に結集したことか! この旗の下でこそ誰も彼も結集できるのではないか! それこそ未来の人類の手本ではないか! 私たちはあまりにも胸くそが悪かったので、もっと高尚な気持ちになることはできなかった。たとえ私たちが死んでも、「いま安楽な生活を送りながら私たちの死を見つめている連中さえ生き残ればいい」などとは、金輪際、祈ることはできなかった。いや、とてもそんなことには賛同できなかった。私たちは嵐のくるのを熱望していたのだ! いや、こんなふうに驚く人びとがいるかもしれない――なんというシニックな、なんという絶望的な状態に陥ったことか! いったいあなたがたは、広大な娑婆の受ける戦争災害のことを考えたことがないのか、と。 ――だが、そういう娑婆がこの私たちの身の上を心配したことがあるだろうか?――それじゃ、あなたがたは世界大戦を望んでいたというのか? ――それなら聞くが、あなたがたは1950年に、私たちに1970年代の中ごろまでの刑期をいい渡しておきながら、世界大戦以外に、私たちに、なにかの望みを残しておいたというのだろうか?

 ロマン・ロランの世代が若いころ、いつ戦争が始まるかという不安にたえず悩まされていたのと同様に、彼ら囚人の世代は、その「戦争がないこと」で悩んでいたのである。


 1951.8
 :カザフスタン・ジェズカズガン強制収容所

 病院は、通院患者の診察室、薬局、入院患者病棟、手術室、分析試験室、医務室、死体安置室などに分かれていた。
 われわれの収容所のほか隣のKTR、二キロ離れたZURも、この病院の管轄だった。KTRは極度の重労働を課せられる囚人の収容所で、大部分が、いわゆる戦争犯罪人だった。戦犯というのは、ドイツ軍の捕虜になった人びとのことで、対独協力の罪を問われた者もいる。ZURは脱走者や常習的な作業のがれを収容していた。
 入院中、気分のよい時間を選んで私はアダリチの指導で医者の見習いを続けた。死体室で盲腸の手術のまねごとをしたり、冬場に備えて凍傷の足や手の指の切断手術の心得も教わった。
 病院の用品係のクズネッォフとも親しくなった。退院患者がきまって病院用のスプーンを失敬していくので、紛失したスプーンの埋め合わせが、彼の苦労のたねだった。
 だから、スプーンを譲ってもらえるとなると、彼は患者用のパンや、砂糖などを持っていき、それと交換でスプーンを手に入れてくる。スプーン不足にせよ、食べものの横流しにせよ、見つかれは、たいへんなことになる。スプーン一本のことでびくついている毎日なのだった。
 クズネッォフには悪かったが、そういう私も二週間たって退院のとき、ひそかにスプーンを持ち出した。
 そのうち病院の仕事を見つけてやる、気ながに待て、とアグリチは私を慰めた。
 私が配属された班は、クレストワヤ村から遠くない建設現場が作業場だった。ドア、窓、家具などを作るので木工所が通り名だが、それ以外にも建築関係の金具類も手がけていた。うだるような暑さに、砂塵を巻きあげる乾いた風が連日、吹きまくった。砂ぼこりで息がつまり、髪はまっ白になる。番号札も二、三日で消えてしまう。毎朝、正門わきには筆を手にした二、三人がひかえていて、薄くなった数字にペンキを入れた。
 班長は話せる男で、よろよろしている私を見ると、一週間ぐらいはのんびりやれ、と声をかけてくれた。班長は作業量のごまかしにかけても一流の腕があると定評だった。
 私はぶらぶらと、旋盤、熔接、錠前づくりなどの作業を見てまわったが、どれも、気楽な仕事にみえた。
 特に目をつけたのは、熔接に使うアルミ材だった。これならスプーンが作れそうだ。溶かしたやつを鋳型に流せばいい。だが、溶かす方法は? 私は、隠れて仕事のできそうな場所、材料や道具をこっそりしまっておけそうな場所を、それとなく物色して歩いた。
 何日がかりかで、私はスプーン製造の下準備をすすめた。
 木ぎれを集めて浅い木箱を二つ作る、鉄板の切れはしで不恰好なるつばをこしらえる、燃料用に木炭や重油をくすねてくる、材料のアルミの屑をせっせと集める――これで万端ととのった。
 木工所に行くようになって二週間ぐらいになろうか、私は病院みやげの自分のスプーンを、うまく持ち出した。手本に使うためである。思いついて砂やセメントも調達した。鋳物のことなど、ずぶの素人の私だが、スプーン製造でかせいで生きのびたい一心である。その執念がなければ、あそこまで成功はしなかったろう。
 鋳型は初め、砂がくずれてどうにもお手あげだった。そのうち砂とセメント、それに煤をまぜると、これで細工はりゅうりゅうだった。少量のアルミをるつぼでとかし、溶けたやつを鋳型に流しこむ。試作第一号は砂だらけのお粗末な出来あがりだったが、私にしてみれば、鬼の首をとったような気持ちであった。しかもサンドペーパーを見つけて来て、ていねいに磨きあげると、ぴかぴかのスプーンになったではないか!
 翌日の朝めしまえ、私はクズネッォフのところに一号品を持参した。クズネッォフは、にこにこ顔で、いくらでも買う≠ニ約束してくれた。最初の一本の代金≠ヘ、一日当たりのパン四五〇グラムだった。前夜、患者が二人死んだおかげのごまかし分である。こうして私の事業は順調にスタートした。
 やがて私は、ざらざらの砂がスプーンに付着しない技術を開発した、砂の鋳型のふちに灰をばらまいておくだけのことである。ついで私はもう一つ鋳型をふやした。これで、ほぼ一日に二本の生産高を達成できた。
 ナチの捕虜だった男からはスプーンと交換にドイツ製のポケット入りびんを手に入れた。以来、そのびんに食用油を絶やさなかったのは、クズネッォフのおかげである。私はパンに食用油をつけて食べ、栄養補給を心がけた。
 これは、かなりのちのことになるが、私のスプーンが数百本もさばけてしまい、いわば市場が軟化したころ、私は窮状打開の策を思いつき、ある画家に相談をもちかけた。これは毎朝、ゲートのところでペンキの筆をふるわされていた一人なのだ。
 相談がまとまり、画家のウォロンキンは、スプーンの柄の飾りを考案してくれることになった。それは挑発的なヌード彫刻で、もりあがったバストとヒップ、おへその見える魅惑のおなかというセクシーなやつだった。ウォロンキンはこれを柄の大きさの木彫に彫りあげ、セクシー・スプーンは大当たりをとった。


 1953.2
 :マガダン

「なぜここはラジオが切ってあるんです? お入れなさいよ」
「とんでもない! あなた、どうなすったの? アントンが『赤い家』ヘ呼び出されたことをご存じないんですか」
 それには答えようとせず、ヘイスは壁へ歩み寄り、拡声器のプラグをコンセントに差しこんだ。と突然、パチパチ鳴る放電の音を通して聞こえてきた。ああ、なにが聞こえたのだろう。慈悲深い神さまよ!
「……悪化いたしました……鼓動不整……脈博きわめて微弱……」
 張りつめたアナウンサーの声には、抑えられた深い悲しみが響いている。もの狂おしく信じがたいような推測が頭の中を稲妻のように走るが、それを信じきる勇気が、エヴゲーニヤにはなかった。ヘイスの前で水がしたたり落ちる雑巾を手にしたまま、きょとんとして立ち尽くす。
「……以上で、……病状のお知らせを終わります。」
 ナガエボ湾から上げ潮の波音がここまで聞こえてきたかのように、頭の中がざわめき、エヴゲーニヤは官名・称号を聞き洩らしてしまった。だが、「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンの……」という箇所だけは、はっきりしすぎるほどだった。
 きれいな雑巾がエヴゲーニヤの手から滑り、汚れ水のバケツにパシャンと落ちた。静まり返っている。その静寂の中で廊下を急ぐアントンの足音がはっきりと聞こえてくる。
「帰ってこられたわね」
「身分証明書を取り上げられちまった」まるでいい知らせのように喜びにむせびながら、アントンがいった。「やつら、ぼくが流刑にも強制移住にもなってないことを思い出しやがったんだ。強制移住に鞍替えさ。ただそれだけのことだよ」
「でもそうなるかどうか、わからないぜ」とヘイスはいわくありげにいう。アントンは「赤い家」でのやりとりを話し始めたが、拡声器はふたたび声を大にしてピーピー鳴り出した。またもや「病状をお伝えいたします」である。
「ねえあなた」エヴゲーニヤはアントンの手を握りしめていった。「ねえアントーシャ、でも不意に、不意にあの人が治ったりすることは?」
「つまらんことをいうんじゃないよ、きみ」興奮したアントンは怒ったようにいった。「医者としてきみにいっておく。回復は不可能だ。いいかい。シェインストーグス(呼吸圧迫)、それは臨終の苦悶なんだよ」
「まったく赤ん坊みたいなお人ですな」ヘイスは氷のような声でいった。
「回復の望みがあるというのに、病状を一般に伝えるなんてことがあると思っとられるんですか? おそらく彼は、もう冷たくなっとるでしょうな」

 3月5日以後も、偉大な賢者を葬送する深く悲しい日々、ヨハン・セバスチャン・バッハが電波を支配していた。音楽は、放送において未曾有にして法外な場を占めていた。荘厳で心地よく、ゆったりした、澄明な文節がエヴゲーニヤたちのバラックにあるすべての拡声器から流れ出し、廊下を走りまわるこどもたちの騒ぎや女たちのヒステリックな泣き声を消していた。
 コリマの庶民が住んでいるエヴゲーニヤたちのバラックでは、女たちは気が狂ったように、「ああ、あんたはなぜわたしたちを放り出してしまったの」と大声で泣きわめいていた。わが女どもは礼儀をわきまえており、ほかの人たちから見くびられたくはなかったのだ。マガダンじゅうが泣けば、彼女たちも泣いたのである。
 けれど、ときおり、炊事場に集まった彼女たちは不意に泣きやみ、これから先、哀れな彼女たちはいったいどうなるのだろうかと、まじめに思惑を語り合うのだった。国際問題については、いまはわたしたちを守ってくれる者はだれもいないから、戦争は避けられないという意見に一致していた。しかし、国内問題になると、あれほど嘆き悲しんでいたものの、これからはさほど厳しい締めつけはなく、大陸へ行ける者も出てくるだろうといった楽観的なムードがとび出すことも間々あった。
「ねえ、ママはなぜ泣かないの?」トーニャはわけを知りたがった。「どこのおばちゃんでも泣いてるのに、ママだけが泣かないでいるのはなぜ?」
「ママはね、一度泣いたことがあるんだ」アントンが辛抱強くトーニャに説明した。「そのときおまえはここにはいなくて、ユリヤおばさんのところに厄介になってたけどね」
 服喪の間に、思いがけなくアントンに忙しい医者の仕事が舞い込んできた。たえずお偉方の家から往診の依頼があったのだ。ひどい気苦労、完全な心の動揺、将来への不安などから、寝込んでしまう者が続出した。そこで、不興をこうむって職を追われ、身分証明書を「赤い家」に提出した腕利きのドイツ人医師のことを思い出したのだ。このさい、そんな些細なことなどかまってはいられないというわけである。
 コリマ上層部は、指導者にして親しい友が病み、死の結末が知らされる前に動揺をきたしていた。事前の知らせで、もう幹部連中はひどくとまどってしまった。ほかの罪深い者どもと同じように、大元帥も不完全な肉体からつくられているという奇妙な事実は、すっかり忘れ去られていた。大元帥の病気そのものが、彼らが住み、主人となり、そしてかくも巧みに事を処理していた、この幸福で調和のとれた惑星本体の亀裂だったのである。
 血圧……蛋白尿……なんだこれは! みんな庶民用のことばではないか。こんなくだらぬものが、あの人といったいどんな関係があるのだ? おそらくは、古代スラヴ人も、もし雷神の血圧が上がったなどと突然宣告されたならば、同じようにその崇高な感情を傷つけられたことであろう。あるいはまた、古代エジプト人が、彼らが崇める生命力を象徴する神・オシリスの尿中に、蛋白が出ることを突然知ったとしても、事は同じである。
 大元帥の死は、それ以上に強力な破壊作用をコリマの高官たちに及ぼした。彼らのうちの多くの者に、狭心症の発作や高血圧の症状が見られたのは、この破棄作用の現れだった。彼らが、いかにリアルにものごとを考え、ありとあらゆる想像力をかき立てようとも、天才、領袖、父、創造者、霊感授与者、創始者、良き友、巨匠等々と呼ばれていた者が、そこいらの囚人や特殊強制移住者と同じ低級な生物学的法則に左右されるという卑俗きわまりない考えを甘受することは、とてもできなかったのである。これほど整然とした、これほど計画的な巨大なシステムに侵入した死の気まぐれは、理解を超えたもだったのである。彼ら高位高官は、ただ同志スターリンの個人的指示によってのみ死ぬことができるという考えに、慣らされていたのである。彼らにあっては、死ぬのは自分たちであって、けっして大元帥閣下ではなかったのだ。それがだし抜けに、セバスチャン・バッハである。そこには、あまり上品とはいえない、外聞の悪いなにものかがあったにちがいないのだ。ヨハン・セバスチャン・バッハの悠揚たる音楽は、凍えた偉大さを支えるべく要請されたのだ。
 政治流刑囚の間にも、心臓病の発作や神経異常に襲われた者が少なくなかった。数十年にわたり希望を奪われていた彼らは、最初にパッと光った稲妻になぎ倒されてしまった。奴隷根性に慣らされた流刑囚たちは、自由という考えじたいの誕生に圧倒されて、なかば自意識を奪われていたのだ。それでも、だれがモスクワの玉座に就こうとも、個人ほどには残酷ではなかろうという点では、衆目の一致するところだった。故人以上に残酷になれるのは、人間の尺度ばかりか、悪魔の尺度に照らしてみても困難だと思われたからだ。


1953.3.9
アレクサンドロフ中央監獄

 何かが・巨大な何かがソビエト全土を揺るがしている……

 新開の配給がぴたりととまって三日たつ。
 ラジエーター通信は・おそらくヒゲがくたばったのだ、と伝えて来た。ヒゲはラーゲリの暴動で卒中を起こしたとも言った。
 この数日来看守たちが空気を抜いた風船に似て来たこともわれわれの目は見逃していない。散歩の時間もきっちり三十分ではなくなっている……

 四日目――
 新聞が渡された。
 「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリソに全国民の哀悼を!」
 一瞬、房内はかげったようである。
 泣いている。
 イワンがみな泣いている。
 なぜ泣くのか? うれしくて出る涙か? それとも、悲しくて?
 何を言う!
 うれしいとか悲しいとかよく言えたもんだ。
 スターリンが死んだ!
 イワンたちのことばは、ナロードのことばは、それを伝えようがない。ことばは今、浅はかで、倭小で、なんとも非力すぎるのだ・…:涙が出る……

 誰かが告別式の写真をさして言った――
「見ろ、この目を!」
 そこには柩に見入るべリヤの横顔をわきあいからじいっと見据えたマレンコフの哀悼しない目があった。


 1954.6.25:
 カザフスタン、ケンギル特殊収容所

 暴動が成功したと伝えられることは、ない。それが勝利を収めたときには、呼び名が変わるからである。収容所列島最大の反乱といわれるケンギル収容所の蜂起が、歴史に残されなかったゆえんも、ここにある。

 6月の中ころに、村にたくさんのトラクターが現われた。トラクターは収容所構内の近くで作業をしたり、なにかを引っ張ったりしており、夜間でも作業をするようになった。列島の住民には、トラクターのこの夜間作業がなにを意味したものか、いっこうに理解できなかった。万一に備えて、通路の前にさらに穴を掘り始めた。
 このなんとなく気味の悪いエンジンの捻りが、それでなくても出口がない状況におかれていた彼ら心の中を、さらに暗いものにした。
 そして突然、疑い深い人たちが恥をかいた。絶望した人たちも恥をかいた。容赦なんかされないから、嘆願しても無駄だ、といっていた人たちもすべて恥をかいた。忠誠派の党員たちだけが、誇りをもてたのだ。6月22日に、外部からのラジオがこんな放送をした。――囚人たちの要求は受け入れられた。ケンギル収容分所へ中央委員会幹部会員がくることになっている。
 バラ色の点がバラ色の太陽に、バラ色の空に変ったのだ! これは自分の目的を達成できるということだ! わが国に正義がある、ということだ! 相手が私たちになんらかの譲歩をし、私たちもまた相手になんらかの譲歩をするわけだ。結局のところ、囚人番号はつけてもいいし、私たちは窓から出入りしないから、窓の鉄格子も邪魔になるわけではないのだ。いや、また欺されるのでは? でも、その前に作業へ出動せよ、という要求がないではないか!
 検電器に棒が触れることによって、帯電を取り、ピンと上がっていた羽根が落ちるように、この外部からのラジオ放送は、最後の数週の長くつづいた緊張感をやわらげた。
 あの無気味なトラクターでさえも、24日の晩からぴたりとその捻り声を止めた。
 暴動が起こってから40目の晩に、囚人たちは静かな眠りにおちた。おそらく、明日は彼も到着するのだろう。もしかしたら、もう到着したのかもしれない……それは明け方にだけ深い眠りにおちる、あの寝足りない6月の短い夜のことだった。ちょうど13年前と同じような夜だった。
 6月25日の金曜日の早朝に、空にパラシュート付きの照明弾が上がり、望楼からも照明弾が打ち上げられた。突然の襲撃に、バラックの屋根の上にいた見張りたちは、狙撃兵に射たれて、声を挙げる暇もなくあの世に旅立った。大砲が砲撃を始めた。収容所の上を飛行機が低空で飛び、囚人の恐怖心をあおった。トラクターの捻りをカモフラージュに使って所定の部署についた、かの有名なT34型の戦車が、四方から、外壁の通路を目がけて、前進を開始した。その中の1台は、囚人たちが掘った例の穴に落ちてしまった。一部の戦車は後ろから、有刺鉄線を張った三脚台を引きずっていた。それは、突入直後に、収容所構内を分断するために使うものだった。ほかの戦車の後ろからは、鉄かぶとをかぶった突撃隊員たちが自動小銃を構えて走ってきた。自動小銃を構えた兵士たちも、戦車兵たちも、その前にウオツカを支給されていた。どんな特別任務の部隊であろうと、やはり眠っている無防備の人びとを殺すには、酔っていたほうが都合がいいのだ。突撃する兵土たちの中には、無線機を持った無線手たちもいた。
 将軍たちは警備兵の望楼に登り、そこから照明弾に照らされて、昼間のように明るくなった収容所内の様子を眺めながら、命令を下した。1台の望楼は、囚人たちがパイプ爆弾で火をつけたので、燃えていた。
「どこどこのパラックを占領せよ……クズネツォーフはあそこにいるぞ!……」
 銃弾の飛んでくる恐れがなかったから、彼らはいつも監視所でするように身を隠すことはなかった。
 遠いところにあった建設現場からは、自由雇用人たちが鎮圧の模様を眺めていた。
 収容所はその眠りから覚め、囚人たちは大混乱に陥った。ある者はバラックに残り、床に伏して、抵抗は無意味だと考えて、自分の身の安全だけを案じた。また、ある者は彼らを起して、戦わせようとした。ある者は銃弾の飛び交うところへ飛び出して、戦おうとしたが、それは自分の死を早めることにもなった。
 応戦したのは第3収容地点だった。それは反乱を始めた収容地点でもあった。そこには25年の刑期を科された囚人たちばかりがいて、しかもその大部分がベンデル派の人たちだった。彼らは……自動小銃を構えた兵士たちや看守たちを目がけて石を投げ、おそらくパイプ爆弾を戦車に投げたのだろう……粉々に砕いたガラスのことはだれも想い出さなかった。どこかのバラックが「万歳!」を叫んで、2回ほど反撃に出た。
 戦車隊は行く手の人びとをすべて踏み潰していった。戦車隊はそのキャタピラでキエフ出身の女性アラ・プレスマンの腹の上を乗り越えた。戦車隊はバラックの玄関先に乗り上げて、そこにいた人びと(エストニア人の女性イングリッド・キヴィとマフラパ)を踏み潰した。戦車隊はバラックの壁に接近して、キャタピラを避けてそこにぶらさがっていた人たちをも押し潰した。セミョ−ン・ラックは恋人の女性といっしょに戦車の下へ飛び込み、そこで一生を終えた。戦車隊はバラックの板壁を突き破り、内部へ大砲を向けて、空砲まで鳴らした。ファイナ・エプシティンの思い出によると、夢の中でもあるかのように、バラックの一角がもぎ取られ、その上を、生きている人間がいるにもかかわらず、斜めに戦車が通った。女たちは飛び上がって、右往左往した。戦車の後ろからはトラックが続き、半分裸の女たちはその荷台へ投げ込まれていった。
 大砲は空砲であったけれども、自動小銃は実弾を吐き、ライフル銃の銃剣も本物だった。女たちが男をかばおうとして、その前に立ちふさがると、女たちも銃剣で突き刺された。保安将校のベリャーエフは、その朝みずからの手で20人ほどの人たちを射殺した。戦闘が終ったあと、彼は自分が殺した人たちの手にナイフを握らせ、カメラマンがそれら殺された暴徒たちの写真を撮った場面を目撃している囚人たちもいる。《委員会》委員のスプルンはもうお婆さんだったが、肺に銃弾を受けて、死んだ。便所に身を隠した者もいたが、彼らはそこで蜂の巣になってしまった。
 赤軍の元大佐クズネツォーフは風呂場にあった自分の司令室で逮捕され、ひざまずかされた。元上級中尉スルチェンコフは両手を背後にきつく縛られ、宙に持ち上げられ、地面にたたきつけられた。
 それから銃声がやんだ。「バラックから出てこい。発砲はしない!」と、囚人たちに呼びかけた。そして、実際に、発砲はしなかったけれども、銃床でなぐられた。
 捕虜たちは、つぎのグループが集まると、外壁の通路を抜け、さらに外側を取り巻いていたケンギル警備隊の包囲網を通ってステップヘ出、そこで身体検査を受けたうえ、頭上に両手を伸ばしたままの格好で、地面にうつ伏せに寝かされた。こうしてはりつけられたようにうつ伏せになっている囚人たちの間を内務省のパィロットたちと看守たちが歩きまわり、以前に上空から、あるいは望楼からよく見かけた顔の者を見つけては、引き抜いていった。
この事件のために、誰もその日の『プラウダ』紙を読む暇がなかった。ところが、その日は特集だった――わが祖国の一日。冶金部門にたずさわる労働者たちの大きな成果、大幅に機械化された収穫作業! これを参考にすれば、歴史家にとってその日のわが祖国がどんな状態だったか、容易に把握できるであろう。
 いまや好奇心の旺盛な将校たちは、どうして収容所に電気があったのか、そしてその《秘密兵器》とはいったいなんだったのか、という生産部門の秘密を知ることができた。
 勝利をおさめた将軍たちは望楼から降りて、朝食をとりに行った。彼らのなかにだれひとり知っている者はいないけれども、その6月の朝、彼らはうまそうに食事をとり、酒を飲んだ、と私は断言できる。飲んだ酒のために頭が少々ばんやりしても、彼らの理路整然としたイデオロギーにはまったく影響がなかった。胸の中にあったものは、そのまま胸の外に取りつけられた物に表われていたのだった。
 死傷者の数は、話によれば、600人ぐらいだったが、数ヵ月後に見たケンギル収容分所生産計画部の資科によれば、700人以上だっだ。負傷者たちで収容所内の病院が満員になり、市立病院へ運ぶことになった。自由雇用者たちへの説明では、軍隊は空砲しか鳴らさなかったが、囚人たちが互いに殺し合った、ということになっていた。
 墓掘りは生き残った囚人たちにさせたかったのだが、あまり実情を知られては困るので、結局のところ軍隊がやった。300人ほどの遺体は収容所構内の隅に埋め、残りの遺体はステップのどこかに埋めたのだった。
 6月25日、囚人たちは、一日じゆう太陽に照らされて(そのころは毎日うだるような署さだった)ステップでうつ伏せにされたままだった。収容所ではその間、壁や床の板をはがしたり、ふとんや衣類を振ったりして、シラミつぶしの捜査が行われた。その後はステップヘ水とパンが運ばれた。将校たちはリストを用意していた。苗字を呼んで、生きている印をつけて、パンを配った。そして、その場で囚人たちをリスト別に分けた。《委員会》の委員たちとほかに疑惑のかかった人たちは、もはや見学の対象でなくなった収容所の監獄へぶち込まれた。干人以上の囚人たちが引き抜かれて、一部は重監獄ヘ、残りの囚人たちはコリマ地方へ送られた。いつものように、これらのリストは半分当てずっぽうに作られたために、まったく関係のない多くの人たちもその中へ入ってしまった。


 1954.7.1
 :ハバロフスク収容所

 一九五四(昭和二十九)年七月一日、これ以上は延ばせないと思い、佐藤は山本の病室を訪れた。
 山本は佐藤の顔を見ると、枕の脇のノートに鉛筆で書いた。
「喉ガ痛イノデ話セマセンソチラカラ話シテ下サイ」
 鉛筆を握った痩せ細った手を見ているだけで、佐藤はなにもいえなくなった。
 ようやく意を決して遺書のことを口にだした。
「山本君、君がよくいっていたようにダモイはきっとくる。日本へ帰れば、リトワークなんかじゃない、良い医者に診てもらえるだろう。だけどダモイがいつになるかは分らない。…誠にいいにくいことだけれど、万が一、万が一を考えて、奥さんやお子さんたちへいい残すこどがあれば書いておいてほしいんだ。…こんなことをいうのはぼくとしても本当に辛いんだが……」
 山本は微かに頷くと、目をとじた。佐藤にとっては息がつまるような長い時間に思えた。
 しばらくして目を開けると、山本はかたわらのノートに鉛筆で、
「明日」
 と書いた。
 佐藤は山本の痩せ細った手を黙って握りしめると、病室をでた。

 翌七月二日の夕刻、営内作業を終えた佐藤が病室を訪れると、山本はかすかに頷きながら、ソ連製の薄い粗末なノートを開けたまま差しだした。
 佐藤は山本の目を見ながら、ノートを受け取った。
「ここで読ませてもらっていいかな」
 山本は頷いた。そして頭をゆっくり回して天井を見つめた。
 いつもは紙を大事にして細かい字でびっしりと書いていた山本だったが、開かれた頁の文字は大きかった。山本は黙っていたが、視力も薄れかけてきたようで、最後の力をだしきった澄んだ静けさが横顔から佐藤には感じられた。
 遺書は全部で四通、ノート十五頁にわたって綴られていた。一通は「本文」とあり、他の三通は「お母さま!」「妻よ!」「子供等ヘ」となっている。
〈山本幡男の遺家族のもの達よ!〉
 遺書の「本文」は、この呼びかけから始まっていた。


 1955.4
:ナホトカ、引揚船興安丸船上

   1

 1、2等船室が病人と女性に割り当てられ、この引き揚げで唯一の女性である赤羽文子には、上甲板にあるかつての2等船室が割り当てられた。着の身着のままの引揚者を一時期は千人の単位で乗せ、ピストン輸送で日本海を往復した船室は、引揚船として使われるようになったときから、蚕棚式のベッドに改装され、昔日の面影はない。それでも、明かりをつけることなしには歩くことさえできない3等船室とちがって、部屋は明るく、窓から外を見下ろせ、部屋のしきりがあり、ドアもついている。ラーゲリに強制収容されてからというもの、いちどとして女として扱われたことがなかった文子には、それだけで十分満足がいくものだった。
 大連で生まれ、大連で育った文子は、内地を知らない。18年前、25歳のとき、彼女は、中等教員検定試験を受験した。そのさいに、1ヵ月ほど上京したのが、後にも先にも内地を経験した唯一の機会だった。むろん、3等船室での航行である。だから、外洋を航行するのは、これで2度目の経験である。肌で感じるものとしての「祖国」は、ないに等しい。それでも、「帰国(ダモイ)」に対する期待と喜びに比べれば、不安はほとんど感じなかった。

 岸壁に係留されている興安丸を目の前にして整列した帰還者の表情は、いちように緊張していた。「ここまでくれば隊列から引き抜かれることはない」という思いとは裏腹に、「いつ、自分のなまえが呼ばれるかもしれない」という不安は、整列した全員に共通の思いだったからだ。隊列のそこここから「ここまでくればもう大丈夫だ」という不安をうち消す囁きが聞こえる。そうはいうものの、しゃべっている当人が自分のことばを信じてはいないのだ。だれもが、もう大丈夫だと思いながらも、一抹の不安を消せないでいる。その声を聞きつけて、「いや船に乗るまでは安心できない」という声。「なんてったって相手が相手なんだから下駄を履くまではわからない」という声が重なる。
 エンジンが、ひときわ大きく蠢動し、文子のいる船室までその鼓動が伝わってきた。ドラが鳴り、タラップが引き揚げられるのが見える。病人を除く乗船者は、それぞれの思いを込めて舷側に並んで、街区が途切れたあたりからに連なる森林帯(タイガ)を遠望している。タラップが完全に引き揚げられたのを確しかめて、文子は船室を出た。船は、静かに岸壁を離れようとしている。
 上甲板から眺めシベリアは、果てしなくつづいている。あのずっと向こうに、だれひとり頼れる相手もなしに、病弱の女がひとりで、なんやかやで10年も生き延びてきたのだと思うと、文子は、夢の中にいるような気分を感じていた。

 いわゆるシベリア抑留は、旧植民地と朝鮮半島北部に侵攻したソ連軍に逮捕された日本人がシベリアで強制労働ことを指していう。その数は日本政府推定で 57万余とされているが、大半は軍人である。軍人以外では、満州国官吏、国策会社、植民地統治機構、協和会、新聞社などの幹部役職員であり、純粋な民間人は数えるほどしかいない。それが、女性となると、両手で数えるほどしかいない。赤羽文子は、そうした純民間人のひとりであった。

   2

 車内は人でぎっしり詰まっていた。その人の群を容赦なく踏みつけて、見上げるような赤ら顔の大男が、近づいてくる。その顔が、はっきり見える位置まできたとき、文子は恐怖でからだが凍りそうになった。その男は、大連に監禁中の文子を調べた検事ウーソフだった。ウーソフは文子の腕をつかむと、むんずと引っ張った。動くまいとする。なにかいおうにも、声はひとことも出てくれない。周囲の人群は、まるで泥人形になったように眠りこけている。もみ合いになった。力任せにねじ上げるウーソフの膂力に、文子は悲鳴を上げた。
 自分のうめき声で、文子は目がさめた。冷や汗で、からだじゅうべっとりしていた。車輪の響きにかき消され、うめき声は、周囲の耳には聞こえなかったらしく、だれもが意地汚く眠っている。
それは文子が大連を発つ、一日前のことだった。その日の夜遅く、文子はウーソフに呼び出された。訊問は一ヵ月前にすべて終っていたあはずだったが、のん気な文子は、この再訊問を格別怪しみもしなかった。深夜のことであり、部屋は気味が悪いほど静かだった。
ウーソフは、文子が入ってくるのを見届けて、部屋にカギをかけた。いつものことである。だが、なぜか胸騒ぎがした。心なしかイスにかけるようすすめるウーソフの顔に、気味悪い微笑が浮かんでいるように感じた。ウーソフは、無言で、なにやら得体の知れぬものをポケットから取り出して、文子の前のテーブルに置いた。
「さあ、これを飲みなさい」
目の前には2種類の錠剤があった。ひとつは白かった。いったいこれはなんなのか。先にくることを考えるより先に、文子の全身は凍りついた。女としての直感が、この錠剤に隠された、ウーソフの意図を読みとった。文子は反射的に後ずさりした。
 追いつめられたのは部屋の隅だった。ウーソフは迫ってきた。大きな手で、こどものような文子の衿首をつかみ、押し倒そうとした。文子は悲鳴をあげた。
 しかし、文子ののどはからからに乾き、かすれた声が少しだけ出ただけだった。ウーソフのものすごい形相が迫ってきた。
叫ばなければ! 助けを求めなければ! 頭は破裂しそうに鳴っていながら、声が出なかった。身を縮めるのがやっとだった。扉にノックの音が聞えたのは、そのときである。ウーソフは急いで文子を離し、扉のカギを外した。ちらっと見えたドアの外には、別の検事が立っていた。ふたりはしばらく、なにごとかをか話していた。やがて、のっそりと戻ってきたウーソフがいった。
「もう帰ってよい」

 護送列車は、ハルビンから北西に折れて進み、チタで止まった。その収容所には、ソ連の各地から驚くほど多くの女囚たちが集められていた。文子は、ここの中継収容所で判決を待った。
生まれてこの方の36年間、文子は、およそ政治とか法律とは無縁な生活をしてきた。意識して近づかないようにしてきた、といってもよい。そんな文子でも、罪に問われた場合に、人定尋問や罪状の認否、証拠調べなどの手続きが行われるという程度のことは、常識として知っている。
 ウーソフとのあいだで交わしたやり取りについていえば、失敗だった。なにしろ、まったく予想だにしなかった事態だったから、そのことを悔いても始まらないことだった。ここは後ろ向きに考えるのではなく、じくり時間をかけて、順序立てて整理した主張を試みることだ。そうすれば、かならず納得してもらえるはずだ、と考えていた。文子なりに、裁判に向けての準備をしていた。

 年が明けて、6月も半ばをすぎたころ、呼び出しがあった。裁判のほかに、呼び出される心当たりはない。文子はそのことを尋ねたが、看守は、説明する代わりにつべこべいわずについてこい、という。
 半信半疑で監房を出た文子は、ある部屋の中に通された。法廷を予測していただけに、通された部屋が思ったよりも小さな部屋だったのは意外だった。中央にテーブルが一つ、イスが一つあるだけなのだ。
 軍服を着た男が、テーブルの前に立っていた。命じられるままに、イスに坐った。テーブルの上には、一枚の印刷した紙があった。
「よく読んで、署名しなさい」
 男は無表情にそういった。文子はテーブルの上にある紙をとり上げた。
「罰状 ロシア共和国刑法第五十八条第六項
 姓名 赤羽文子
 刑期 五年
 釈放される日 一九五○年十月十六日」
 これが判決というものなのか。目の前の視界がゆれ、定まらない。裁判はないのか。人定尋問も、罪状の認定も、証人の喚問もなしに、いきなり刑を宣告し、判決理由もいわない。しかも、即座に署名しろというのだ。
 足が、がくがくして、震えた。目の前に黒い渦が巻いている。判決文の文字が、かすんで見える。両目に力を入れ、思い切り目を凝らして2度、3度と判決文を読み直した。字と字の間も食い入るように見た。何回読み直してみても、単純明快なロシア語が、型どおり素気なく並んでいるだけである。準備もなにもなかった。
 裁判は行われないのですか、と問いただす気力が出てこなかった。どうやって署名したのか、署名をしたあとに男がなにをいったのか、監房に連れ戻される道すがら自分がなにを考えていたのか、そうしたことのすべてが、文子の記憶から抜け落ちている。覚えているのは、連れ戻された監房の寝棚で、悔しさと絶望にかられて号泣したことだけだった。

   3

「30分間で支度すること。すぐ出発する」
 つぎの瞬問、「この子たちをお願い」と掃除婦にいうなり、文子は上っ張りを脱ぎすてていた。どうやって丸木小屋にかけ戻ったのか、よく憶えていない。まだ家にいたアンナは、走りこんできた文子をけげんな目で見つめた。
「帰れるんです。帰国命令です」
 興奮のあまり、ことばがもつれ、自分でもなにをしゃべっているのかわからないほど興奮していた。文子の口から飛び出す「帰れる」「帰国命令」という2つのことばから事態を飲み込みながらも、アンナ・フョードロブナは、文子以上に驚いたようで容易に納得しようとしなかった。この帰国命令は、アンナにとっても信じ難いものがあったのだ。つね日ごろ、文子の帰国を自分のことのように願ってくれていたアンナだったが、いざそのときがきたというのに、祝いのことばひとつ出ないのだ。

 スターリンの死後、流刑囚のあいだでは、もっぱら恩赦が話題となっていた。いろいろな憶測が飛び交ったが、ふたを開けてみると、38条組で恩赦の対象になるのは刑期10年に満たない微罪人だけだということがわかった。期待はいっきにしぼむなかで、文子だけが例外に属していた。だれもが絶望の淵に立たされている。そういうとき、ひとりでも幸運をつかめる人物がいるということは、救いになる。いつかは自分の番が巡ってくると思いたい気持ちが、幸運をつかめそうな人物に対する期待につながる。文子は、そうした流刑囚の期待の星だったのである。
 3ヵ月経ち、半年が過ぎた。が、なんの知らせもこなかった。その年は暮れ、一九五四年になった。期待が大きかっただけに、文子の失望も激しかった。
 失意の底にあった文子の慰めとなったのは、このペイ村に、ひとりの日本人が送られてきたことだった。馬場と名のるその男は、8年の刑を受けて、マガダンで重労働を強いられていたが、成績優秀ということで刑期が軽減され、この流刑地にきたのである。馬場は、30歳前後の、日本人にしては珍しい立派な体格をしていおり、村外れの森で伐採作業をすることになった。
 住まいと働く場所が離れていたので、両者は、ほとんど会う機会がない。たまたま会うことがあっても、互いに周囲を警戒して、あいさつを交わす程度でしかなかったが、この村にもうひとり日本人がいるということは、文子にとって、大きな心の支えだった。気が滅入ってくると、「穴の中に棄てられているのは自分だけではない」そういい聞かせて、自分の気持を奮い立たせてきたのである。
 文子がはじめて、興安丸の名を耳にしたのは、一九五四年3月のことだった。『プラウダ』の紙上に、「興安丸が抑留者を迎えにナホトカに入港する」という記事が載っているのを偶然の機会に目にしたのが契機だった。信じられないことだった。引揚は前年から始まっており、すでに第一陣は舞鶴港に入港しているということもわかった。文子は、その新聞記事を切り抜いた。会う人ごとに見せた。そして、身の回りの整理を始め、通知が届くのを待った。友人たちに勧められて、モスクワのソ連赤十字宛に、嘆願書を送った。梨のつぶてだった。「一度だけでは駄目。返事がくるまで出しつづけなければ」といわれた。それが、この国の流儀なのだ。
 6月になった。シベリアのもっともさわやかな、夏である。5年の刑満了者全員に、青色の証明書が渡された。そこには前科と、流刑のすべてが取消されると明記してあった。文子は、天にものぼる心地だった。自由の身にやっとのことでなったのだ。すべてが輝やかしい夏だったが、ことは簡単には運ばなかった。ほかの人たちに出た身分証明書(パスボート)が、文子だけには出なかったのである。文子が手にしたのは、無国籍者用の居住証明書で、そこには、依然としてこの地区から出ることを禁じられ、3ヵ月ごとに、自分から役所がある町に出向き、暑名せねばならないと記されていた。これでは、自由の身とは名ばかりである。85キロの道のりを、トラックに激しく揺られて署名にいくことは、考えるだけでも憂鬱だった。私用ではないので旅費はかからないといわれても納得できなかったし、れっきとした日本人の自分が無国籍者扱いされることに、無性に腹が立った。
「私の流刑は取消されたのだ。証明書にも明記してある。もう日本へ帰してくれてもいいのではないか」
「帰国には肉親の書いた身柄引取状がいる」
「そんなことはない。日本では、国が責任をもって引受けてくれるはずである」
 いくら文子が説明しても、役所の身分証明者係は同じ返事を繰り返す。
 仕方なく、文子は日本の肉親に手紙を書くことにした。困ったのは、大連を去った両親の行く先が判らないことだった。東京には姉が嫁いでいたが、住所を忘れてしまっていた。憶えていた本籍地の住所だけを頼りに、そこに住む叔父宛に事情を記した手紙を書いた。
 書きはしたものの、いつになったら手紙が届くものなのかについては、皆目、見当がつかない。よし届いたとして、それがいつになったら戻ってくるのかもわからない。文子にとって、この年ほど、時の経つのが遅かった年はなかった。
 いったん整理した荷をほどいた。そして、アンナ・フョ−ドロヴナアンナとともに、託児所の保母としての生活を、表面は変りなくつづけることにした。しかし、心中は、帰国を知らせる通知をもって事務所の人間が現われるのを、きょうか、あすかと待ちわびていた

 一九五五年の正月を、文子はアンナと、診療所のドクトルと3人で過した。ドクトルは自家製のブドウ酒ご持参で、文子たちを訪れることになっていた。ドクトルは、ブドウ酒と香水を持って丸々とした姿を現わした。アンナにはジャスミンの、文子にはスズランの香水が贈られた。12月の初めに、町へ行く郵便夫に、彼が香水を2瓶頼んでいることを、文子たちは知っていた。だから、贈り物の中身はわかっていたのだが、それでも、ドクトルの好意が嬉しかった。目の前で拡げられる現物はもっと嬉しかったので、アンナですらいつもの謹厳さを忘れて、喜びを素直に表した。
 ドクトルご自慢のブドウ酒は、秋に、森に入って彼が採った野ぶどうが原料である。ひとつひとつ丹念に採った野ぶどうに、砂糖をまぜ、醗酵させて、ウオトカを少し加えたものだった。
ドクトルは、文子がつくった肉の煮こごりに舌鼓をうち、アンナご自慢の洋菓子ナポレオンを、まずいとくさした。しかし、アンナの作ったトマトの酢潰けにはご機嫌だった。文子が腕をふるったピローグは、大切れを2つも平げた。時間を忘れて、3人は、よく食べよく語らい、浮き世の憂さを忘れた正月を過した。
 この村にきたはじめての正月、文子は薄暗い寒い穴ぐらで、強制収容所いらいの友人であるダーシャとともに、じやが芋の選別をした。日常生活を営むに足る生活用具を、なにひとつ持たないスタートだった。あのときの先の見通しがつかない寒々とした思いを、文子は、忘れられない。そのときから数えれと、それは5度目の正月だった。
 それから2ヵ月が経った2月5日、馬場に帰国命令が出た。この知らせを聞いたとき、文子の心臓は凍りついたた。8年の刑を受けた馬場が、なぜ先に? 自分はいったいどうなるのだろうか。自分だけが、例外なのだろうか。馬場のために喜ぶことなど、考えの外にあった。絶望で、文子の気分はまっ暗になり、その夜は眠れなかった。暗い想像ばかりが拡がる。まぜ、私だけは帰してくれないのだろうか。スパイとして、使うべく、目をつけられているのだろうか?

 事務所からの使いがきて、官給品を返すように告げられるのは、これで2度めである。前回の文子は、冷静でいた。通告がされる前に、あらかじめ「アカハネが連れて行かれる」という噂が、村中でささやかれていたからである。心当たりはなかったし、見当もつかなかったので、不安で頭の中はあふれていた。そのいっぽうで、それまでに積んできた場数の数々が、「なるようにしかならないし、これ以上悪くなることはない」と文子を開き直らせていたからだった。

 奥まった部屋に通されれると、すぐに軍服の胸いっぱいに勲章をつけた将校が3人はいってきた。様子からして、かなりのお偉方であることはわかった。それまで、こんなに勲章を身につけたお偉方を見たことがなかったので、文子は目を見張った。が、山道を歩き通して綿のように疲れ果てていたために、畏怖の気持はおこらなかった。テーブルの前の椅子をすすめられたとき、文子は欲も得もなく両腕を出してうつぶせになろうとした。と、将校のひとりが、「だめだ」というふうに首をふり、文子をたしなめた。文子の背筋を、緊張が走った。容易ならぬことが、これから始まるような予感がした。真ん中の将校は年のころ40歳ぐらい。血色のよい、軍人らしいきびしい顔付の男だった。将校が文子に質間した。肉親の名、住所などについてひと通りの質問がすみ、ひと呼吸おくと、将校は口を開いた。「ソ連のために、スパイになりませんか」
 頭上で、雷が炸裂したような気がした。聞き違えかと思った。しかし、それは聞き違いなどではなかった。、将校は前よりゆっくりと、確実に同じことを繰り返した。
「ソ連のために、スパイになりませんか」
「あなたは病気ですね」将校のことばは、不気味なほど、穏やかだった。
「私のいうことを聞けば、すぐ、立派な病院に入れてあげますよ。回復は、ある都会にあなたを移します。十分な給料も払います。そこで、日本人の間で見たり、聞いたりしたことを、少し文子たちに伝えてくれればいいのてす。それだけのことですよ」
 部屋中が大きく揺れているような気がした。文子は目を伏せて、呼吸を整えた。考えるまでもなく、文子の心はきまっていた。「私には、とても、そんなことはできません」沈黙が続いた。文子の答えは、将校には意外なようだった。三人の顔は、かすかに硬張った。重苦しい時が流れた。
「それはどういうわけですか?」
「私にそんな仕事に向いておりません」
「そんなことはありませんよ。あなたはロシア語もできる。頭も良い。なみの女性ではない」
「いいえ、私はなみの女です。いや、それ以下でしょう。私は普通のからだではないのです。いまも、リュウマチで、からだは弱り切っています。せめて、私を静かに暮させてください。私の様子をご覧になればわかるでしょう。私はもう、長く生きられないような気がします。わずかな余生を、どうぞそっとしておいてください。お願いです」
 必死だった。訴えながら、文子の瞼に、ペイ村の寂しい共同基地の光景が浮かんだ。村外れの森の入口に、粗末な木の十字架が無造作に並んでいるだけの佗びしい墓地。村にきて間もなく、葬列がひっそりと雪の中をそこへ向って行った。そのときの葬列の黒い背を丸めた姿が、はっきりと思い出された。
 痩せこけて鉛色の顔をした文子に向かって、将校は、いたわるような、それでいて命令者の冷酷な目を注いでいた。
「なにも、あなたに積極的な行動をお願いしているのではないのです。ただ、あなたの目に写ったことを、こちらに伝えてくれればいいのですよ」
 将校のことばは、相変らず丁寧だった。文子は緊張に耐えかねた。からだが倒れそうになり、かろうじてテーブルに両手をついて支えていた。
「私はできません」
「本当に簡単なことなんですよ」
「私の性格は、そんなことに向いてないのです。村で、ひっそり暮すのがいちばんなのです。できるものなら引き受けます。でも、私にはできません」
「そんなことはありませんよ。どうして断わられるのか不思議ですね。なにかほかにわけがあるのでしょう。遠慮なくいってください」
 理由などなかった。私にはできない。ただそれだけだった。愛国心というよりも、これは私という人間の問題だった。私はそんなことのできる人間ではない。文子はそれを、夢中で繰り返した。文子の声が高くなると、将校はさっと厳しい目になり、文子を制した。その仕草からして、隣室に聞えることをはばかっているようだった。文子にはそんなことに留意する余裕はない。乏しいことばを必死で操り、懸命に訴える。で、ついついまた、声が高くなる。「しっ」という制止。そんなことが何度も繰り返され、将校は、しつこいほど、文子の拒否の理由を訊ねる。そのつど、文子は繰り返す。
「私にはできません。あなたにお訊ねしますが、もし、ソ連の婦人が、いまの私と同じ立場に立ったら、そして、スパイになることを承諾したら、あなたはどうお思いですか? 彼女を、立派な婦人だとはお思いにならないでしょう…?」
「………」
「ですから、どうか私に、そんなことを勧めないでください」
 将校は黙った。また部屋に静寂が流れた。熱っぽい静かさだった。
「日本では、年老いた両親が、私を待っているのです。スパイになれば、私は日本へも帰れないでしょうし……」
 それは半分、自分にいい聞かせることばだったのだが、将校は見逃さなかった。
「どうしてどうして。間違いなく帰してあげますよ」その声が、あまりに確信に満ちていたので、一瞬、文子はハッとした。日本に帰れればスパイになってもよいというのか。冗談にもそんなことを考えてはならない。文子は不注意な自分を叱った。
「どうです、やってくれますか?」
「いいえ、できません。もし私がそんなことができるような女なら、とっくにお引き受けしています」
「いや、あなたはきっとできますよ」それができるような強い、行動力のある、自らを責めずに済む女なら、文子はもっと違った人生を歩いていたはずだった。 40歳なのに50歳の女のように萎び、骨だけの目立つがさがさの手をしていることもなかっただろう……。将校の凝視にたえかねて、文子は自分の指をじっと見つめていた。かなりの時が流れていた。将校のことばには、かすかな苛立ちが感じられた。
「私はいますぐあなたの返事が聞きたいのです。そのために、ここまで馬を飛ばしてきたのですからね。あとから返事をしようと思ってもだめです。われわれはクラスノヤルスクに行ってしまうのだから」
 文子の答えは同じだった。3人は立ち上った。部屋の隅に行き、文子に聞えぬように、何事かを話し合い始めた。断わったことで、私の運命はどうなるのか。殺されるのかも知れない――そんな考えがさっと文子の頭をよぎった。秘密を知られた相手を殺すのは、昔からよくある手ではないか。彼らは決して私をこのまま帰しはしないだろう……。しかし、文子の心には、恐怖と怯えはなかった。その一瞬、心は水のように透明になり、生も死も、超越したような思いの中で、椅子に坐った小さな自分を、まるで傍観者のように眺めることができた。ひとりの女がいる。彼女はともかく生きた。いま、死はすぐ彼女の隣りにある。それがなんだろうというのだ。ただちょっと隣りへ行くだけてはないか。そこにはもう苦しみも悲しみもない。痛みもない……。ぽっかりと頭が真空になったような思いは、やがて戻ってきた将校の声で破られた。
「よろしい。この話はなかったことにしましょう。あなたはここに残りなさい」
 文子の心はパッと晴れた。狂喜にも似た思いだった。しかしすぐ、ここに残るということばが気になった。
「ペイ村に帰ってはいけないのですか。私、ここでは、どうして暮らしていっていいかわかりません」
 知人ひとりいないこの村で、生活することは、想像するだけで大変だった。将校はすぐに、願いを聞いてくれた。が、念を押すことも忘れなかった。
「しかし、村へ帰って、このことを他いしたら承知しませんよ。私と会ったことも。もし、そんな噂がちょっとでも立ったら、あなたはクラスノヤルスクの監獄行きですよ」
 穏やかだった将校の顔は、急に厳しくなり、目が鋭く光った。
「いいません。絶対にいいません。私はおしゃべりではありません」
「そうですね。教育のあるものは、余計なことはしゃべらない」
 将校たちは帰り支度をした。文子には彼らの身分は見当がつかなかったが、きっと保安省の、それも上級将校にちがいないと思った。恐ろしい相手だった。
「わざわざ私のために、遠い所をきてくださったのに、すみません」
 それは、同等に扱ってくれたことへのせめてもの感謝だった。
「どういたしまして。人生とはそんなものですよ。何事も思いどおりに行くとは限らないのだから、構いませんよ」
 意外な返事だった。保安省という機構に働く人のことばとは思えなかった。不思議な思いで文子は将校を見つめた。いままで、あれほどしつこく文子に翻意をすすめた人とは信じられないことばだった。
「また、そのうちお会いましょう」
 別れぎわに放たれたそのこのことばは、澄んでいた文子の心に、おりを残した。文子は清潔な宿屋に案内され、次の便の馬車でペイ村に帰るように指示された。そこには、文子がこれまで見たこともない清潔なベッドがあり、将校や作業部の幹部の宿泊所らしかった。文子は自分の見すぼらしい身なりが、気がひけてならなかったが、それ以上に心に引っかかるのは、別れぎわの彼のことばだった。

 文子は、スパイになれと強要されたことを、固く口をつぐんできたが、たったひとりアンナにだけには打ちあけた。アンナは、自分にも、もっと恐ろしいことがあったことを話してくれた。
 アンナによると、彼女の夫は、海軍の重職に就いていたが、ある日、突然、強制収容所に追われた。続いて彼女も。あとを追うようにふたりの息子も。彼女は死刑を宣告され、死刑室に送られた。死の一歩手前、命令が変更になり、強制収容所に送られた。そのおりの恐怖を経験したことで、彼女の髪はまっ白になった。強制収容所では10年を過し、この流刑地にきた。息子たちの消息は、生きているのか、死んでしまったのか、いまだにわからないという。
「ペイ村にくる少し前に、私もスパイになれとやかましくいわれたわ」
 物音ひとつつ聞えない丸木小屋の夜、石油ランプの灯の下で、文子は彼女の話を震えながら聞いた。

 10年もの刑を終えたアンナですら、まだ真の自由の身ではない。自分も同じ身の上なのであろうか。ラーゲルにも、刑期はとうに終えながら、2年、3年と鉄条網の中に閉じこめられている人は、たくさんいた。文子がもらった青色の証明書など、一片の紙片に過ぎないのかも知れない。
次の日は重い気分の中に過ぎたが、ひと晩寝ると、文子の気持はいくらか落ちつきを取り戻し、2月7日は朝からいつものように働いていた。正午になり、家へ帰って食事をし、昼休みを終えた文子は、託児所に戻って赤い長い上っぱりを着て便器をとりあげた。
「さて、また始めるか」
そのときだった。事務所の人間が文子に帰国の知らせを伝えたのは。

   4

「30分! 30分で支度」
 文子は、ばたばた家の中を走りまわるばかり。持って行くもの、置いていくものをより分けるのがやっとで、なにから手をつけてよいかわからなかった。そのありさまを見て、落ち着きを取り戻したアンナは、年長者らしく、てきぱきと荷造りをすすめてくれた。そのうちに、知らせを聞いた託児所の炊事婦がお別れをいいにかけつけてくる。文子は、彼女に編上げ靴を銭別にあげた。シベリアの10年間、文子を寒さから守ってくれた真綿の布団は、アンナに残した。そのほかこまかなものはみな、アンナに銭別として渡した。こうして持ち物はかなり減ったはずなのに、それでも、アンナの作ってくれた荷物は大きくなった。
 事務所の経理係が官物を調べにきた。官物を戻してから、文子は中国人のパーシャのところへ走り、川向こうの馬橇の出るところまで荷物を運んでくれるよう頼んだ。戻ってくると、アンナ・フョードロヴナは、ペチカの隅に腰かけ、両手で顔を覆って泣いていたるのが目についた。胸を衝かれる思いがした。2年近い共同生活で、彼女は文子のよき友だったが、このときほど熱烈に友愛の情をアンナから示されたことはなかった。上司として叱りとばされたこともあった。しかし、彼女は、表だって示してきた態度以上に、文子のことを思っていてくれたことが、その涙でわかった。胸が熱くなった。かけよって「ありがとう」と礼をいいたかった。が、なぜか文子の目から涙は一滴も出なかった。時間にせかされ、うわずってしまった文子は、宙を踏むような足で闇雲に片づけに走りまわるだけだった。
 すべての整理が終った。アンナは涙を拭き、文子を抱きしめて接吻した。これが最初で、そして最後となったアンナの口づけだった。
 親しくしていただれとも、別れをいう暇はなかった。アンナは川岸まで文子を見送ってくれた。バーシャは大きな荷物を持って先に行っている。文子は手荷物をさげて凍った川におりた。雪を踏みしめ、対岸に向って歩く気持は、文子が生まれてはじめて経験するものだった。ひと足ごとに、雪が文子の足の下で鳴る。その一歩一歩が、「自由なのだ。帰れるのだ!」といっているようだった。およそ1キロの、いつもなら難渋する歩きにくい雪道も、少しも苦にならなかった。
 対岸にたどりついて、馬小屋に入ると、思いがけないことに、そこには馬場がいた。姿を現したのが文子だとわかったとたん、馬場の顔に驚きの表情が浮かんだ。それは、すぐに喜びの表情に変わり、大きな手で文子の肩を力強く引き寄せた。帰国命令を受けた馬場は、きょうまでいつ出発するかについて、なんの通知もないままに放っておかれていたのである。その間、彼は「帰れる」という喜びとともに、いつ「あの命令は間違いだった」といわれまいかと戦々恐々の毎日を過ごしていたのだ。待たされた理由は、文子の姿を見たとたんに氷解した。同じ目的の逓送団を組むためだとわかったのだ。
いっしょに帰国できるのである。思いがけないうれしさに、ふたりとも我を忘れて抱き合った。
 文子の荷物を運んでくれたバーシャは、へたなロシア語で、文子たちの帰国を喜んでくれた。喜怒哀楽をあまり表わさぬパーシャだったが、その善良な顔はいかにも淋しげに見えた。かつて、文子は、パーシャには結婚を申し込まれたことがある。丁重にその申し込みを断ったが、いま、彼はなにを考えているのだろうか。彼に、帰国を喜べる日がくるのだろうか……。
 馬橇の用意ができる間、文子は土手に出た。アンナは、丸木小屋の脇で、村を背にして白いハンカチをふりつづけていた。文子はペイ村をじっと見た。目の底に焼きつけて行こう。そこから見える丸木小屋は、まるで人形の家のようだった。煙突からゆっくりと立ちのぼる煙。診療所のあたりにはドクトルが、販売所にはカーチャがいるはずだった。ナージャ、ニューラ、グーシャ、そのほか託児所のこどもたちの顔が浮かんでは消えた。

 およそ4百人、うち流刑囚は百人ほどで、そのほかはこの地に生まれ育った土着の自由人たち、それがペイ村の人口である。村を東から西にエニセイ川の支流が横切っているが、なまえはない。村人たちは、ただたんに「川(レカー)」と呼んでいる。川岸には貯木場がある。11月の革命記念日のあたりから、凍ったこの川の水が溶けるのはメーデーのころである。森と川、それがペイ村のすべてだった。流刑囚は、このドルゴモスト地区から外に出ることはできず、外に出るには許可証がいる。月に1度、巡査がやってくる。村の事務所で、流刑囚に署名をさせるためである。そのおりに事務所に現れる顔を見て、「ああ、あの人も流刑囚だったのか」と気づくのである。
 村の男たちは、役場で働くものを除いてほとんどが森林の伐採に従事していた。女でも、森で作業をする者にはよい給料が出るので、繁忙期には子守を人に頼んで森に出る。
主だった建物といえば、物品販売所のほかに村役場兼伐採作業部の本部となる事務所、小学校、クラブ、託児所、診療所、共同風呂、食堂、これですべて。その間を縫って、村人の住いが散らばっている。ひときわ大きいのは、流刑囚の男たちの合宿所で、これらはすべて国営である。雄大な川。青草におおわれた野原。その中で悠然と草をはむ村中の牛たち。都会育ちの文子には、厳しく貧しい生活であっても、自然に抱かれて過した4年間は、得難い体験だった。鶏がテーブルの下でときを告げるのも聞いたし、丸々した豚の子が、犬よりも早く走るのも見た。川辺を行列して行進するアヒルは、子供と見ればかみつき、少女なみの身体の文子はアヒルを見るといつも逃げ出した。
 4年間を過した丸木小屋。入口の3段の階段は、ロシアの小説でお馴染みの娘を送ってきた若者が、別れを惜しむ恋の場所である。文子には、恋こそ生まれなかったが、人人の素朴な人情と友愛を得た。担い棒を肩に、水汲みから帰ってくる村の女たち。たくましい彼女たちは、バケツを下におくこともせず肩にかついだまま行きあった仲間と、何時間でもおしゃべりをする。それがシベリアの女の井戸端会議の姿なのだ。
 春の訪れとともに、凍っていた川は動き始める。まず雪が消え、岸辺に近い氷からとけてくる。水汲みに行くときは、気をつけなければいけない。氷でまっ白だった川の表面は、その下を暖められて滔々と流れる水を映して、しだいに黒ずんでくる。村人たちは毎日何回となく岸辺に立って川を見る。川が割れて、動き出す瞬間、長い冬の終わり、春の訪れを、この目で見たいのだ。
 その日は、突然、なんの前ぶれもなくやってきて、「ざあーっ」というものすごい音がする。岸辺の男たちは、大声で叫ぶ。
「川が動き出したぞう!」
 村人たちは争って家を飛び出す。だれもが目を輝やかし、食いいるように川面を見つめる。ついさっきまで、滑らかだった氷面に、大きな亀裂が走る。大音響とともに、大地が動くような生のいぶきが、ゆっくりと動く。川の流れが大氷塊をもたげ、少しずつ少しずつ前進させる。ものすごい響きとともに、ぶつかりあった氷に縦横の亀裂が走り、その一部が砕けて岸辺にうず高くうち寄せられる。結氷していた川が流れ始めると、1週間ほどで流氷は姿を消し、春が訪れ、木々が芽吹く。年にいちどのこの日は、春の息吹と美しいシベリアの夏を告げる感動の一日なのだ。

 アンナのまわりに、人が増えてくるのが遠目にもわかった。担い棒をかついだ女が水汲みに岸辺におりてくる。穴のそばに立ち止った彼女は、文子のほうを見て手をふっている。ひとりひとりの顔はわからなからない。なにやら叫んでいるらしい声も、遠くて聞きとれない。村の女たちとは、だれとも親しかった。文子もハンカチを出して振った。そして声を限りに叫んだ。
「ダ・スビダーニャ!」
 声は雪の広野に吸いこまれ、かすかなこだまとなって返ってきた。向う岸でも同じことばを叫んでいるに違いない。人の数は増えこそすれ、いっこうに減りはしなかった。アンナが振るハンカチが、まだ見えた。
「ダ・スビダーニャ!」
 ひとり残されるアンナが憐れだったが、文子の心境は、別れの悲しみよりも、帰国へのはじけるような喜びのほうが強かった。もうふたたび訪れることもないであろうペイ村、もう2度と会うこともない人々を前にして、別れに伴う感傷や悲しみよりも、喜びのほうが大きく、不思議なことに涙は出なかった。それでも、心のなかにはいくばくかのかげりがあった。流刑囚にとって、ペイ村は、ひとつだけ世界から忘れられた穴のようなものである。この僻地に残される人々への心のいたみを、さようならの声に託して、文子はいつまでもハンカチを振り続けた。もう、馬橇の用意ができ上っていた。

   5

 馬橇は走り出した。ペイ村は瞬く間に文子の視野から消えた。何度も振り返り、文子は丸木小屋をしっかりと瞼の裏に刻みつけようと試みた。岸辺の人々の姿も……。しかし、たったいましがたのことでありながら、文子には荷造りの慌しさも、ダスビダーニャと叫びあった別れも、夢のなかのことのように思えた。
 次の村へ着くと、文子たちを迎える民警の巡査が待っていた。彼は文子たちと握手し、帰国の祝いをのべてくれた。ペイ村の駁者とは、ここで別れた。1時間ほど、村のクラブで休み、ストーブで冷えた足を温めたあと、馬場と文子は巡査の馬橇に乗って出発した。巡査が鞭を振うたび、馬は飛ぶように木々の間を縫うようにして雪道を馳けた。
 快くも恐ろしい速さだった。巡査は決められた時間までに、文子たちを次の便に引き渡す義務があるのだ。日本人は集結してナホトカに向うのだという。集結に遅れた場合、逓団の出発に遅れたものを待ってはくれない。
 馬橇を飛ばしたせいか、次の村には予定の時刻に着くことができた。「ここから先はトラックが迎えにきてくれるてはずになっている」そういい残すと、きたときとちがって鼻歌を歌いながら巡査は、文子たちをおいてペイ村に戻っていく。が、トラックは、待てども待てどもこないのだ。雪のために立往生したのである。文子たちは、仕方なくその夜はこの村に泊まることにした。しかし、朝になっても、トラックは現われなかった。村人たちの話では、車の往来は雪のため途絶しているという。昼近くなったとき、馬場と文子は不安な顔を見合せた。のんびりと迎えを待ってはいる場合ではないような気がしたのだ。
「歩いて行きますか。次の村までは18キロくらいらしい」と、馬場はいう。トラックが通れないほど深い雪道である。馬場にはそれほどでないだろうが、歩ききれる自信が文子にはなかった。かといって、このまま迎えがくるのを待っていて終結時間に間に合わなくなることを考えると、彼の提案に従うほかに術はなかった。
 文子たちは出発した。いまはこの足だけが頼りだ。馬場は自分のトランクのほかに、文子の大きな荷物を担いでくれた。道は赤松の大森林をぬって、どこまでもつづいており、見事なほどに人の足跡ひとつない。フェルト靴をはいていても、膝までもぐってしまう。小柄な文子には、難儀を極める深い雪道だったが、必死で馬場の跡を追った。一歩、また一歩、とひたすら足を交互に前に進めるのがやっとで、ことばを交すゆとりはない。集結時間に遅れて、おいてけぼりをくってはいけない、という一念だけが、文子の足を前へ進ませていた。
「村落だ!」
 馬場の声に、文子は、とっぷりくれた闇を見すかした。オレンジ色の灯が、林の彼方に点点と見えた。ぼんやりと、しかしランプの灯とは比較にならない明るさで輝く電灯の光を、文子は奇蹟を見るように眺めた。何年ぶりだろうか。文明の灯を見たのは。町はずれの村落だとはいえ、電灯があるということは間違いなくドルゴモスク町であることの証だった。日が落ちてからの時間から推して、時刻は9時を回っているはずである。歩きつづけてきた肉体は疲労の曲に達していたうえに、ここまできたからには急ぐ必要はなかった。 事情を話して、その日は民家に泊めてもらうことに決めた。
 集結地であるドルゴモスクの事務所には、抑留から釈放されたとおぼしい人が数人いた。しかし、長い間、馬場を除いて日本人を見なかった文子には、彼らがカザフ人かウズベク人なのか、区別がつかなかった。相手のほうも、こちらをじっと見つめている。その中のひとりが、先に声をかけた。
「きみは日本人か?」
 懐しい日本語だった。興奮した馬場が「そうだ」とうなずく。満面の笑みを浮かべてふたりは抱き合う。その光景を見て、周囲に輪ができる。互いに見ず知らずの仲なのに、文子たちは百年の知古のように無事を喜びあった。こうして集まった人数は、17名。女は、文子ただひとりだけだった。
 文子たち17名は、トラックに乗せられてクラスノヤルスク市に送られた。5年前に、カザフスタンの収容所から囚人列車で流刑囚として運ばれた町である。
 ペイ村からドルゴモスク町へ、ドルゴモスク町からクラスニヤルスク市へと、最終集結地であるハバロフスクに進むにつれて、逓団の数は増えていった。それは、あたかも下流に向かって進むにしたがって川幅と水量を増す川の流れに似ている。かつてレーニンも流刑されたことがあるクラスノヤルスクは、17世紀にはじめにシベリア開発の前進基地としてつくられた東部シベリア第一の都市である。流刑囚は、鉄道があるかぎり囚人列車で逓送される。鉄道が途切れたところから先の逓送は、トラックになる。が、それも町としての規模と機能をもつところまでで、そこから先には馬車しかない。中継地点で止まるたびに、流刑囚は振り分けられ、その数は少なくなる。いくつもの源流をもつ大河を遡るようにして、流刑地に配られるのである。

 すでに流刑囚ではない文子たちは、外国人として扱われ、ホテルが割り当てられた。役人たちは、あまりどんちやん騒ぎをしないようにと注意しただけで、部屋の鍵を渡され、門限もなかった。まだ到着していない帰還者全員が集結するまで、この町で待つことになった。文子たちドルゴモスク組は、なにをするにも一緒に行動した。一日じゅう自由なのだ。働かなくてもいいのである。文子は、彼らと一緒に毎日のように町を見物して歩いた。だが、東シベリア最大の都市といわれるクラスノヤルスクですら、店で売っているものは、ペイ村の売店とさして変りなかった。ペイ村になく、ここにあるのは市場である。市場では食料品が売られていた。それですら、ひらめの揚げものとゆでじやがいも、凍った小さな野生のりんご、それに丼の形に凍ったままパンのようにうず高く積みあげられた牛乳だけだった。そうしたもののすべては、ペイ村なら、どこの家庭にもあるありふれたものでしかなかった。
 流刑囚は、働けなくなったときに、だれも助けてはくれない。だから、だれもが、病気になったときのことを考えて、ルーブルを貯め込んでいた。それが、ソ連の貨幣は持って帰ることは許されていないという。持って帰ったところで、日本でルーブルを使えるはずがない。そうことなら、気前よく使おうじゃないかということで、連日、町に繰り出すことになった。10年分の遅れを取り戻すかのように、だれもが気前よく金を使った。文子は、手袋がほしくてあちこち探した。厳寒の2月というのに、どの店にも置いていないのだ。これには驚いた。話を聞いた仲間のひとりが、やっとのことで一つだけ見つけて買ってきてくれた革手袋は、70ルーブルもした。その値段を聞いて、文子はたまげた。70ルーブルといえば、文子がひと月働いて貰えた賃金の3分の1になる。
 1日に1度は、レストランに行って食事をした。外出しても、尾行されることはなかった。しかし、あるレストランで、テーブルについたとき、ボーイがコードのついた四角い箱のようなものを無造作にテーブルの上においた。盗聴器だった。あまりにも露骨なこどもじみたやり方に、文子は笑いを誘われたが、男たちは苦い顔をして黙りこんでしまった。せっかくのご馳走の味も、味気ないものになった。
 町を歩いているうち、美容院の看板が目にはいった。文子は、ふとおしやれに心を誘われた。10年のあいだ、髪油ひとつつけることがなかった文子が、10 年ぶりに女を取り戻した瞬間だった。実質的には、はじめて踏む祖国の土なのだ。あまりにみすぼらしい姿でいるのは、考えるだけでもいやだった。文子は美容院のドアを押した。男の美容師がいた。「洗ってパーマをかけて」と頼む。「わかった(ダア)、わかった」と愛嬌を振りまきながら、彼は道具を引っぱり出すと、いきなり洗いもせずに髪を巻き、たちまち電気で縮らせてしまった。それが終ると彼はクリップを外し、申しわけ程度に髪をとかしていった。
「できました。セットの道具はないから、家に帰ってしてもらいなさい」
 これには驚いた。あまりにも客を無視したやり方である。文子は、髪の汚れが気になった。料金は払うのである。しつこく頼むと、根負けしたように、髪に水をぺたぺたとぬり始めた。
「さあ、これでいい。これで済んだ」
 文子は、たまげてしまった。洗うどころではない。ただ水で濡らしただけなのだ。これで金を払えはないだろう。美容師の男は、すまし顔で、文子が出て行くのを待っている。こんなことで出て行くわけにはいかない。シベリアの3月は、まだ冬である。こんなに濡れた頭で外へ出たら最後、たちまち風邪を引いてしまうではないか。文子がやかましく抗議した。根負けした彼は、それならということで、セット用のこてを暖めるためのガスこんろをよこした。ぼうぼうとガスの火が燃え上がっているこんろを、頭にかざして髪を乾せというのである。ここまでくると、さすがの文子も呆れかえってことばが出なかった。やむをえず、髪の毛が焦げはしまいか、頭に火がつかないかと、びくびくしながら頭を動かす。やっと生乾きとなったと思ったら、もう十分だということで、店から追い出された。
料金として、文子が1週間働いて受け取る賃金に値する31ルーブルを取られた。10年ぶりに芽生えた文子のおしやれ心も、この国の流儀の洗礼を受けて、無惨にしぼんでしまった。振り返ってみると、この10年間、文子は髪油どころか、顔にクリームひとつ塗ったことがなかったのである。
 その時、ソ連の情勢は、パーマどころではなかったのかもしれない。
 クラスノヤルスクを発つ日がきた。駅の構内は、軍人で溢れていた。駅の壁という壁、柱という柱には、赤紙に印刷された注意が所かまわず貼られていた。ソ連軍特有の妙に長い外套を着た軍人が、広い駅を埋めつくしていた。その光景は、文子には、なぜかまた、戦争が始まるのではないかという異様な印象を感じさせた。列車具語気出したとき、文子はホッと胸をなぜおろした。

   6

 ハバロフスクの収容所では、ソ連の各地から逓送されてくる帰還者を待つことになった。ペイ村からドルゴモスク、クラスノヤルスクを経て、ハバロフスクまでのあいだ、文子は熱に浮かれたような毎日を送ってきた。時間はあるはずなのに、ゆとりといえるものがなかったのだ。ハバロフスクで、はじめて余裕をもつことができた文子は、ペイ村のアンナに手紙を書いた。ことばを選んだ。少しでも彼女の迷惑になると思われることは、慎重に避けて書いた。それなのに、その手紙は検閲に引っかかった。一語一語ことばを選んで書いたために、手紙でありながら清書したようにきれいなものになったことと、みすぼらしい小柄な女が独力でロシア語を操っていることが目立ったのである。
 検閲係りの将校に呼び出された文子は、心当たりがなかっただけに、いやな感じがした。案の定、将校は「これだけロシア語ができるのなら、ソ連に残れ」と勧めた。学校へも入れてやるといわれたが、即座に断わった。ソ連に残る気など毛頭もなかった。「これ以上、一刻でもこの国にはいたくない。1時間でも早く日本に帰りたい」というのが偽らない気分なのだ。しかし、10年に及ぶ抑留で身につけた知恵は、文子に本音を口に出さないことを教えていた。

 汽笛が激しく鳴らされ、船はゆっくりと岸壁を離れはじめた。ナホトカの港に連なるシベリアのタイガが遠く小さくなる。これで、この国とも永遠の別れになると思ったとき、文子はこの国にきてはじめて感傷的な気分におそわれた。
死にかけたこともあった。
 1度めは、収容所でリンパ腺炎にかかり、2年ものあいだ入退院を繰り返したときのことだった。のどにできた潰瘍に穴があき、膿が流れ出て止まなかった。薬といえばアスピリン、傷口には軟膏がつけられるのがすべてで、治療といえるものが、施されることはない。傷口がふさがれば、「治療の用なし」として退院させられ、「矯正労働」を強いられる。これでは、治るものも治らない。入退院を繰り返しているうちに熱発し、意識がなくなった。意識不明の状態は2週間つづいた。
「これでだめか」と死を意識したが、どうしたわけか快方に向かい、いらい、リンパ腺で煩わされることはなくなった。
 ソ連で晴れの日といえば、メーデーと革命記念日である。人々は、この日に向けて何日も前から準備する。この日ばかりは、党の幹部も流刑囚も置かれた立場を超えて食べまくり、歌いかつ踊る。
 ペイ村にきて3年目を迎えた革命記念日のことだった。寄宿先にしていたナージャの家の祝いの席に文子はお相伴することになった。宴がたけなわになり、底抜けに陽気な酒宴なのだが、冗談ひとついえぬ不器用な文子は、酒も飲めず、人々が興奮のるつばと化せば化すほど、水に落ちた油のように、溶け込めぬものを感じていた。その違和感に耐えかねて、フェルト靴を引っかけて外へ出た。
外はまだ明かるく、積もった雪がまぶしく目を射た。あてもなく村道を歩くと、あちこちの家からパーティの陽気な歌声と歓声が聞えてきた。そばを通れば、顔みしりの家なら、きっと呼び入れてくれるにちがいない。しかし、迎え入れられたところで、そこでも同じ気分になることが、文子にはわかっていた。人がいるところにはいきたくないという気持ちが働いていた。村落を除けば、踏み固められた道は、水汲みに向かう川に向かうものしかなったから、文子の足は、知らず知らずのうちに文子の足は川に向かっていた。厚く張った氷の上がさらに雪で覆われた川には、ところどころ水汲みのための穴が開いている。穴の周囲には青々したマツやモミの枝が、目印に刺してある。こうした囲いを作ったり、穴の凍った氷を割るのは、村の男の子たちの仕事だった。いまは小さいナージャの息子たちも、もう少し大きくなれば、世話をする水くみ穴がきまるのである。ゆっくりと川に向かって降りてみた。吸いよせられるように穴のそばまできて、中をのぞいた。辺り一面の雪に映える緑の枝は美しく、厚い氷の底の水は、青空と緑を写して、ねっとりと深く鎮まり返っていた。水の色は、ほとんど暗黒色に見えた。一瞬、文子はぎくりとした。水底からなにかが、文子を招いているような気がしたのである。文子は化石したように、穴のそばに立ちすくんでいた。祝日の賑わいもここまでは聞えてこなかった。文子の小さな身体を、誘いこむような深い水。滑りこめば冷たいと感じる暇もなく、一瞬のうちに凍死してしまうだろう。そうすれば、もう苦痛を感じなくてすむ……。
 底なしの闇に引き込まれていくような感覚があり、時間の感覚はなかった。と、どこからか別の声が聞こえてきた。
「なにを考えているのよ!」
 その声で、文子はわれに返り、水底をのぞき込んでいたのめり込むような姿勢を引いた。目の前の水底には、暗黒色に変わって、鏡のように姿を映す水面があり、やせこけたみすぼらしい自分の顔が映っていた。背筋を、悪寒が走り、思わず身震いをした。目を凝らすと、みずぼらしい自分の顔の背後に、抜けるような青い空が映っていた。文子は、飛び去るように穴を離れた。

 それもこれも、過ぎ去ったことなのだ。過ぎてしまえば、死ぬほど苦しいと思ったことでも、懐かしい記憶になるということを、消え去ろうとするシベリアを眺めながら、文子は実感していた。


 1956.3
 :ハバロフスク収容所

 山本幡男が亡くなって三ヵ月も過ぎた一九五四(昭和二十九)年十二月、日本では、吉田内閣のあとを受けて鳩山内閣が誕生していた。首相の鳩山一郎は、日ソ国交の正常化を外交方針の基本にすえ、日ソ間の国交回復に自らの政治生命を賭けていたので、さっそく日ソ交渉をめぐる動きが始まった。
 翌年六月一日からは、ロンドンに於て松本俊一日本代表とソ連のマリク駐英大使との間で日ソ交渉が始まった。会議は初日から対立した。日本側がソ連に抑留された人びどの即時帰還を要求したのに対し、ソ連側は北方領土をめぐる領土問題を前面にだしてきた。ソ連側は領土問題の交渉が妥結しなければ日本人抑留者は帰さないと主張し、交渉は決裂状態のままとなった。そうした国際情勢のなかで、一九五五(昭和三十)年十二月十九日の午前八時、ハバロフスクの第二十一分所(この頃には第一分所とも呼ばれた)で、日本人の抑留者たちが初めて団結して闘うという、いわゆる「ハバロフスク事件」が起きた。
 シベリアに連行されて約十年間、飢えと寒さと強制労働によって、ラーゲリでは衰弱する者たちが続出したり抑留者たちの平均年齢は四十二歳となっている。そして、この年の十一月には政治部将校と収容所長立ち会いのもとに老人や病弱者の体力検査が行なわれ、それまで医務室に寝ていた病人までを含む五十数名が、零下三十度の戸外の作業にかりだされた灯作業中に倒れる者が次つぎとでて、日本人の現場の作業班長たちが収容所側に嘆願運動をしたが、ソ連側はきわめて冷淡で、嘆願に応じようとはしなかった。「こんな毎日がつづいたら、日本人はみんな殺されてしまうぞ」と不安がる声が湧きあがった。
 十二月十八日の日曜日、各バラックの代表たちはひそかに会議を開いた。「党史研グループ」が日本人たちの行動をなにかにつけて収容所側に密告していたので用心したのだ。
 各バラックの作業隊に会議の結果が報告され、ついに翌十九日の月曜日の作業拒否が決定した。全員の作業拒否を収容所側に通告すると、元関東軍司令部付少佐の石田三郎を代表者に選び、十二月十九日からストライキに突入した。
 石田は、「この運動は闘争ではなく、あくまでも請願運動としたい。ラーゲリの非人間的な取り扱いをモスクワの政府に訴え、政府の代表者と現地で問題を解決することにある」と説明した。これまでもなん度かにわたってモスクワの政府宛てに請頼書をだしたが、ハバロフスクでことごとく握りつぶされている。石田はまた、自分たちのこの行動が日ソ交渉に悪影響を与えることを怖れて、いっさいの暴力行為を禁じた。
 この日本人たちの初めての作業拒否に収容所側は、すべての娯楽の禁止と、普段の食事の五分の二に量を減らす懲罰食で報復してきたが、作業拒否はつづいた。
 ストが発生して数日後、ラーゲリにいた朝鮮人のグルーブから、「いままで日本人はなんとだらしない民族かと思ってきたが、今度のことで見直した。我々も参加させて欲しい」という申し出があった。
 しかし、日本人側の代表の石田は、感激しながらも丁重に断わった。
「あなた方の場合は、我々と行動をともにすれば、永久に帰れなくなるかもしれない。たとえ帰国できても、かならず処罰されるだろう」
 朝鮮人のグループは、それでは黒パンだけでも自分たちの分を食べて欲しいと懲罰食の日本人たちへ、こっそり運んできてくれた。
 一九五六(昭和三十一年の正月も、このストのなかで迎えた。ラーゲリは緊迫した空気に包まれながらも、石田をはじめこの運動の幹部の者たちの指導のもとに、中央へ抗議行動の真意を綴った請願書を送りつづけた。その宛先は、ウォロシーロフ最高会議議長、フルシチョフ第一書記をはじめ、ソ連赤十字社長、タス通信やプラウダなどで、送った請願書は二十八通を数えた。
 しかし、二月末になってもモスクワからの回答はなかった。正月前には一時解かれた懲罰食がふたたび始まった。これがつづけば日本人の体力にも限界がくることは目に見えていた。石田たちは、相談の末に、モスクワから代表を呼ぶための非常手段に訴えることにした。「断食請願」を決めたのだ。
 完全な断食をすれば生命に危険が及ぶため、配給の黒パンの一部を保存食の乾パンにし、それを一週間分用意すると、病弱者や営内勤務の者たちを除いたおよそ五百名がいっせいに断食に入った。作戦として、「決死隊」と呼ぶ比較的若い志願者は、まさにひと口も飲まず食わずの完全断食を始めた。
「決死隊」のなかには若い山村昌雄、後藤孝敏、日下齢夫たちも加わっていた。彼らは、空腹でポーッとした頭のなかで、暗記した山本の遺書や詩をときどき思い起こした。
 坂本省吾はみんなを励ますビラの文章を書きまくった。
 断食に入って十日目の明け方、モスクワから派遣された内務次官ポチコフ中将の指導のもとに、二千五百数十名の軍隊がラーゲリを包囲した。百日間にわたる請願運動は、こうしてソ連軍の出動によって制圧されてしまった。八百人の日本人たちは四ヵ所に分散され、石田をはじめ幹部級の四十六名は監獄に移された。


 1956.7
 :カザフスタン・ジェズカズガン強制収容所

 管理部の建物のそとには、百人ほどが立っていた。面接は五分聞、終わると釈放が言い渡される。釈放でない場合は、いったん部屋のそとで待つように言われ、二、三分たつと監視兵がそれを伝えにくる――それが決まりになっているという話であった。委員会は腰ぬけで、面と向かって囚人に釈放できないと言いかねているのだ、と私は思った。
 どうせ、私は、だめに決まっている。証拠は何もない、チチューリンが、かってにでっちあげた調書しかない、それでも、やつらは、私のことをアメリカのスパイだと、どこまでも信じきっている。アメリカ政府が私の救出に動いた様子は、まったくない。私は棄てられた身だ、そして終生、そのままで終わる運命なのだ。
 私は、ふてくされた囚人の顔で、委員会の前に出、ぶつくさと私のお祈り≠唱えた。私は、ろくに顔もあげなかった。
「囚人は、スパイ行為ならびに反ソヴェト宣伝の罪状に対して、有罪を認めるか」
 その声を聞いて、私は目をあげ、同時に口をとがらせた――ばかを言え!
「あんたらは、調書を書いたMGBよりも、囚人の言うこと、人民の敵の言うことを、いまさら本気にしようってのかい。そうとも、有罪だ」
 私は気が立っていた。なかの一人が、おだやかな調子で言った。
「ドルジン、そとへ出て、たばこでも吸って、気を落ち着止りるんだな」
 ほう、もうおいでなさったかい――意気地のない野郎ども! 私は何も言わず、ここまで連れてきた兵隊に合図して、そこを出た。
兵隊と並んで二〇〇メートルも来たころ、だれか私を呼ぶ声がした。代表委員の一人が、かたわの足を引き引き一心に追いかけてくる。手を振りながら叫んでいる。
「戻ってこい」
 私は肩をすくめた。なんだい、いまごろ。兵隊も肩をすくめた。
委員は、立ちどまった私たちに近づくと、言った。
「たばこを吸ったら、戻ってくるんだ。すこしは、気が落ち着いたか」
 何だろう? 心の片隅で希望が首をもたげようとするのを、私はむりやり抑えつけた。そして、ふてくされた態度をつづけながら言った。
「まあね、落ち着いたかも」
 私はもう一度、委員会のまえに出た。委員長が言った。
「どこへ行きたいか、希望はないか」
「何だって? 行かされるところへ、行くだけだ」
「住むのは、どこにしたいか、と訊いているのだ。身内はあるか」
「おふくろが、モスクワにいる」私は、まだ、いまから起ころうとしていることが信じられなかった。
「モスクワに行きたいか」
私は、まじまじと彼らの顔をながめていた。それから声をつまらせながら、訊きかえした。
「モスクワに行かせてくれるんですか」
 全身の緊張、心の張りが、とたんにすっとんで、私は、ねこのようにおとなしくなった。さっきまでの牢名主のすごんだ声は、どこかに消えた。
「そうだ、釈放後は、モスクワにかえす。ただし、これに署名するように。条件つきの釈放ということになっておるから」
 議長は一枚の紙を差し出した。そこには、かなりの長文が書かれていた。
 私こと収容所在監中にソヴェト連邦に帰化し、同国籍を獲得したる(このおれに相談なしに!)上は向後、モスクワ居住にあたり、あるいはアメリカ合衆国大使館と接触し、あるいはソヴュト国籍を放棄して国外逃亡するなどの試みは、いっさい致し申さず、右に背馳する行為ありたる場合は、直ちに終身禁固刑に服するも差し支えこれなく、また右に関し、公判、再審などの権利は、これを放棄し、本人の行動はKGBの不断の監視下に置かれること全く異存なく、右の証左として署名するものなり。
 私は、署名した。
「行ってよろしい」委員長が言った。
 足の悪い委員――副委員長が、片足を引きながら出て来て、監視の兵に釈放を告げた。これで終わった。
 その日は一九五六年七月十三日――一九四八年十二月十三日の誘拐の日から、ちょうど七年七ヵ月だった(のちに受けとった国内旅券には、七月十二日付け釈放の記載があったところをみると、この日の再審は、ほんの形式にすぎなかったわけだ)。
 私は茫然として、兵隊を待っていた。
「私物をとりに行きたい」
「ひとりで行けよ。こっちは、釈放されないやつを待つだけだ」
そうか。見張りは、もう私に用はないのだ。私は建物の陰にまわって、地面に腰をおろした。
 黄色いあざみが、いちめんに咲いている、いままで、こんな花のあることに、気づいただろうか。蝶がとんでいる、静かだ……私は何本目かのたばこに火をつけていた。


 1957.1
 :埼玉県大宮市

 昭和三十二(一九五七)年一月半ばの底冷えのする晩、大宮市大成町の山本モジミの借家を、シベリア帰りのひとりの男が訪れた。男は、山村昌雄と名乗った。
 ちょうど勤務先の大宮聾学校から帰宅したばかりのモジミが玄関先にでると、山村は緊張した面持で、
「私の記憶してきました山本幡男さんの遺書をお届けに参りました」
 といい、一通の封書を差しだした。封書の表書きには、きちんとした楷書で、「故山本幡男氏の遺書」と記されてある。
 モジミは、「記憶してきた」といわれて一瞬、理解できなかった。受け取った封書を開けると、便箋二枚が入っていた。細い罫のコクヨの便箋には、万年筆で文章が書かれていた。
〈山本幡男の遺家族のもの達よ!
 到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった……〉
 夫の幡男の遺書だと分ったとたん、心臓が高鳴った。しばらくして、その字体が、モジミの見慣れた夫の癖の強い奔放な字とは違う几帳面な字体なのに気づいた。怪訝な顔つきになったモジミを見て、山村は、
「どうやら、私が最初に遺書をお届けしたようですね」
 と、ほっとしたように表情を緩めた。
 訪ねてきた山村を小さな玄関の三和土に立たせたままなのに気づき、モジミは慌てて居間に招き入れた。一軒家とはいえ、六畳と三畳に合所のついただけの古い借家である。この家に四人の子供たちと姑のマサトの六人家族が住んでいた。
 山村は台所につづく六畳の居間に正座すると、折目正しい口調で語りだした。
「私はシベリアのラーゲリで山本さんといっしょにいた者です。この遺書の暗記を頼まれたのは山本さんが亡くなられて直ぐのことでした。一字一句も漏らさぬように覚え、無事に日本へ帰ったらかならず御家族に届けてくれと頼まれたのです。暮れにシベリアから帰還して直ぐにでもお持ちせねばならなかったのですが、なにしろ御住所が分らず日が経ってしまいました」
 山村は考え抜いてきた口上を述べるようにひと息に語った。そして、モジミが彼の清書してきた便箋の字を読んでいるあいだ、じっと息をひそめるようにした。
〈……鉛筆をとるのも涙、どうしてまともにこの書が綴れよう!
 病床生活永くして一年三ヵ月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意の如く筆も運ばず、思ったことの何分の一も書き表せないのが何よりも残念。
 皆さんに対する私のこの限り無い、無量の愛情とあはれみのこころを一体どうして筆で現すことができようか…〉
 モジミは胸がつまってそれ以上、読みつづけることができず、顔をうつむけた。
 夫はシベリアの矯正労働収容所で昭和二十九年八月に死んだとされている。しかも、知らされたのは、三十年の春になってだった。最初は大宮市の市役所から夫が帰国すると知らされ、その日の朝、姑のマサトと舞鶴港まで迎えに行こうとしていた矢先、実は死んだと電報で告げられた。
 モジミは律儀そうな山村の顔をみつめた。夫よりは年齢もずっと若いようだが、シベリアでの永年の抑留生活の風雷にさらされてか顔は雪焼けしたように黒ずみ、頬も削げていた。そういえば、シベリアからの最後の抑留者が舞鶴港に帰還したと新間が報じていたのは、ほんの十数日前、昨年の暮れもおしつまってのことだった。新聞は見開き二頁にわたって小さな活字で帰国者の氏名を発表していた。


 1961.11
 :リャザン

 その後まる一カ月、リャザンでのわたしの生活は苦しかった。今やどこか目に見えぬところでわたしの運命が進行していたし、わたしは最悪の事熊に向かっているという確信をますます深めていった。矯正労働収容所中央管理局の申し子である、古くからの因人には、よりよい事態を信ずることなど、ほとんど不可能である。それに、ラーゲリ暮らしの間に、自分自身で決定するという習慣をまるで忘れたため(大きなことはすべて、ほとんど常に運命の流れに委ねられるのだ)、われわれは、何一つ決定せず、手がけない方が安全だという考えに慣れてきさえする。今生きているままに生きろ、というわけだ。
 ところが、わたしはラーゲリのこの掟を破ったため、今や恐ろしかった。それに、新しい仕事もすすんでおり、仕事はそっくりわたしの往居にあったのて、それだけにいっそう「ノーヴイ・ミール」相手のこの企てが破滅的な軽挙に思われた。
 たとえ第二十二回党大会がどんなに鳴りひびこうと、滅びた囚人たちにどんな慰霊碑を建てると約束しようと(もっとも、党員たちだけにであり、しかも今日まで建てていない)、真実を語る時がすでに訪れたなどということを信ずるなんて――そう、そんなことを信ずるわけにはいかない。われわれの頭は、心は、舌は、そんな習慣を忘れさせられすぎた。われわれは今後二度と真実を語りはしないし、二度と耳にすることもないと、あきらめているのだ。
 ところが、十二月はじめ、コーペレフから電報がきた。「トワルドフスキー、論文に感激」(われわれはあの短篇を『論文』と暗号でよぶことに取り決めておいた。論文なら数学の方法論に関してもありうるだろうから)。飛んでいる小鳥が窓にぶつかるように、この電報は飛びこんできた。こうして永年にわたる不動の状熊は終った。さらに一日おいて(ちょうどわたしの誕生日に)、トワルドフスキー自身からも電報がきた――編集部へのよびだしである。翌日にはもう、わたしはモスクワヘ行き、ストラスナヤ広場を突っ切って「ノーヴイ・ミール」に向いながら、ブーシキンの銅像のわきで迷信深くしばらく足をとめ、一つには援助を乞い、一つには、わたしは自分の道をわきまえているから誤りはしない、と約束した。祈りみたいなことになった。
 コーペレフといっしょにわたしは、「ノーヴイミール」の、貴族屋敷のような幅広い階段をのぼった──この階段は映画の舞踏会シーンに持ってこいだ。正午だったが、トワルドフスキーはまだ来ていなかったし、編集局も集まったばかりだった。それほど遅く彼らはじめるのである。散文部で顔つなぎがはじまった。散文部門の編集者アンナ・サモイロヴナ・ベルゼルが、トワルドアスキーの手にわたしの短篇を送りこむ上で重要な役割を演じたのだった。
 それはこういう経過をたどった(ただし、わたしはその年に話してもらったわけではない)。永いこと保存され秘められてきたわたしの原稿は、まる一週間というもの、むきだしのまま書類綴じにさえ入れられずに、どんな密告屋や窃盗でも手にとれる状態で、アンナ・ベルゼルのデスクの上におかれていた――アンナ・ベルゼルはこの作品の性質について何もきかされていなかったのだ。ある日、彼女はデスクを整理しはじめて、何フレーズか目を通し、このまま寝かせておいてはいけないし、ほかの場所で読む必要があることに気付いた。感動した。女友達である、評論部のカレリーヤ・オーゼロワの印象を確かめた。意見が一致した。「ノーヴイ・ミール」の状況をよく知っていたので、アンナ・ベルゼルは、編集スタッフのだれであれ、雑誌の安寧に対する彼らなりの理解にしたがって、必ずこの原稿を横取りし、揉みつぶし、没にして、トワルドフスキーのところまで行かせないようにするに違いない、とはっきり見てとった。つまり、彼ら全員の頭ごしに原稿を放って、慎重さと臆病の沼地をとびこえ、直接トワルドフスキーにぶつけるよう、知恵をめぐらさなければならなかった。だが! 揉みくしやになって貼りついた貧弱な外見を見ただけで、彼が原稿から顔をそむけでもしたら困る。アンナ・ベルゼルは編集局の費用でタイプし直すよう頼んだ。これに時間がかかった。さらに、トワルドフスキーが定期的な一時性アルコール中毒の発作から立ち直るのを待つのに、時間がかかった(不幸な一時性アルコール中毒だが、しだいにわたしが理解したところでは、救いであったかもしれない)。しかし、いちばんの困難は、いかに編集スタッフの間を巧みに縫って、トワルドフスキーのところに突進するかという点だった。とにかくトワルドフスキーはめったに彼女を相手にしてくれないし、不当にきらっていたからだ(彼女の芸術的趣味や、勤勉さ、雑誌の利害に対する全身をあげての献身などを評価していなかったか、だれもが彼女と仲よくなっていつも散文部にひしめいている筆者たちに嫉妬していたか、である)。それでも、自分の上司たちすべての本質と弱点をよく知りつくしていたので、彼女はそのうちまず最初に散文部長、E・ゲラーシモフにたずねた。「ラーゲリを書いた作品がありますけど、読んでごらんになる?」みずからも多作な散文作家である、順風満帆のゲラーシモフはあっさり断わった。「そんなラーゲリなんぞで、俺を釣ろうとしてもだめだよ」第二編集次長A・コンドラトーヴィチに、同じ質問をしてみた――そばだてたような耳と、匂いをかぎまわるような鼻をした、検閲に悩まされ怯えきっている小柄な男だ。コンドラトーヴィチは、ラーゲリのことなら自分はすでに何でも知っているから、何一つ必要ではないし、おまけに、どうせ活字にするわけにいかないのだから、と答えた。そこで、アンナ・ベルゼルは責任書記B・ザクスの前に原稿をおいて、老獪にもこうたずねた。「ごらんになって。お読みになりたいでしょう?」これ以上巧妙なきき方はなかった! 無愛想で退屈な紳士のザクスは、もう永年にわたって、余生や、俸給や、陽射しあふれるコクテベリ(クリミアの保養地)の十月や、冬のモスクワの最高のコンサートなどをそこなわぬこと以外、文学に何一つ望んでいなかったからだ。彼はわたしの短篇の最初の段落に目を通すと、無言のままおいて、出て行った。
 今こそアンナ・ベルゼルはトワルドフスキーに持ちこむ完全な権利を有していた――みなが断わったからだ! 彼女は待ち受けていて機会を捉えた。もっとも、コンドラトーヴィチが同席していて、さし向いにはなれなかったが、彼女は、ぜひ読んでもらいたい特別な原稿が二つある、リージヤ・チュコフスカヤの『ソフィヤ・ぺトローヴナ』(のちの『廃屋』)と、もう一つ何か、「百姓の目で見ラーゲリで、とてもナロード的な作品」です、と編集長に言った。またしても、わずかこれだけの言葉で、これ以上的確にトワルドフスキーの心に命中することはできなかった! 彼は即座に、それをよこしたまえ、と言った。しかし、コンドラトーヴィチがわれに返って、駈けよった。「明日まで貸て下さい、まずわたしが読みましょう!」彼は編集長のために防御フィルターの役をはたすことを忘れなかったのである。
 コンドラトーヴィは原稿を持ち帰ったが、最初の数行を読んだだけで、このラーゲリの短編の素性不明の、名なしの作者が(苗字は記されていなかった。そのことによってわたしは事件の敵対的な経緯を遅らせようとしたかのようであった)、文の基本的成分の配置すらわきまえておらず、その上何やらわけのわからぬ言葉を書くことをさとった。彼は主語や述語や限定辞をしかるべき場所に戻しながら、一ページ、二ぺージ、五ページ、八ページと、鉛筆で縦横に線を引かねばならなかった。しかし、短篇が最後まで全篇、無教育なものであるとわかったので、コンドラトーヴイチは何ページ目からか、その作業を放棄した。朝までに彼の胸にどういう意見が作りあげられたか、わからないが、どっちにでも容易にころび得るようなものだったと、わたしは思う。だが、トワルドフスキーは、彼の意見をたずねることなく、みずから読むために預かった。
 後日、編集部の生活を知って、わたしは確信したのだが、もしアンナ・ベルゼルがトワルドフスキーのところまで行きつけなかったら、そしてまた、これは百姓の目で見た作品だという感想で彼をひっかけなかったら、イワン・デニソヴィチは陽の目を拝まなかったに違いない。デメンチェフ、ザクス、コンドラトーヴィチという三人の、編集長のガードマンが、わたしのデニーソヴィチを生きたまま食ってしまったことだろう。
 それほど正確な計画があったとは言わないが、わたしに誤りない推測と予感があったのも、まさにそこだった。つまり、イワン・デニーソヴィチというこの百姓に対して、上流の百姓アレクサンドル・トワルドフスキーと最上流の百姓ニキータ・フルシチョフとが無関心でとどまれるはずはないのだ。その通りに実現した。わたしの短篇の運命を決したのは、ポエジイでも政治でさえもなく、まさに、大変革以来、それにそれ以前からもわが国であれほど笑いものにされ、踏みつけにされ、ぼろくそに言われてきた、この正真正銘の百姓の本質だったのである。
 後日トワルドフスキーが語ってくれたところによると、彼はその晩ベッドに横になって、原稿を手にとった。しかし、二、三ページ読んだあと、寝ころんでは読めないと結論した。起きあがって、服を着た。家の者はもう眠っていたが、彼は夜通し、台所でお茶を飲んで戻ってきて、短篇を最初まず一度読み、それからもう一度読み直した(それ以後のわたしの作品を何一つ彼は再読してくれなかったし、概して彼は、著者が譲歩したあとでさえ、何一つ決して二度は読まない人なので、そのために時折り過ちを犯すのだった)。こうして一夜がすぎ、農民流なら朝の時間になったが、文学者にとってはまだ真夜中なので、さらに待たなければならなかった。トワルドフスキーはもう横になろうとしなかった。彼はコンドラトーヴィチに電話して、作者がいったい何者なのか、どこにいるのかをベルゼルからききだすよう命じた(彼女にじかに電話したらどんなものだろう? 位階制度に合わないのだ)。こうしてコーベレフへの連絡が得られたので、今度はトワルドフスキーがそこへ電話した。とりわけ彼が気に入ったのは、これがだれか著名な作家の悪ふざけではなく(もっとも彼はそのことを確信していた)、作者が文学者でもモスクワ人でもないことだった。


 1962.6
 :ノヴォチェルカスク

 このノヴォチェルカースク事件を、当時の西側世界はまったく知らなかったのであろうか。ソルジェニーツィンは本書(『収容所群島』)のなかでこう書いている。「ソ連邦ではどんな重要な社会的事件が起きても、ふたつの道しかない──黙殺されるか、それとも歪曲されるか、である。わが国で起きた多少とも大きな事件で、この二つの道を免れたものは、ひとつもないのだ。
 そして、当時のソ連当局はこの〈事件〉を完全に〈黙殺〉したのである。従って、あらゆるソ連のマスコミはこの事件について一言も一行も報道しなかった。では、情報化社会といわれる西側世界では、この事件はどのように伝えられたか。約二カ月後の八月七日になって日本の各紙には〈ロンドン六日発=ロイター〉電として次のような記事が報ぜられた。
「六日の英紙デリーエキスプレスはヘルシンキ発で、食糧値上げに反対する暴動が、ソ連のドン河口ロストフ市近くのノボチェルカースクで起り、五日夜ロシア人五百人が軍隊の砲火で死んだと報じた。なお、この軍隊は他の地区から急ぎ派遣されたもので、暴動は鎮圧されたとしている。」
 各紙の〈見出し〉は、朝日新聞が「ソ連で食糧暴動説英紙報ず」読売新聞が「ソ連で暴動か食料品値上げで五百人死亡説」毎日新聞が「ソ連で暴動? 食糧値上げ反対で」といったものであるが、いずれもロイター電をそのまま九行から十一行で小さく伝えているばかりである。僅かに「読売」の記事がやや大きな見出しで人目を惹くが、朝日、毎日のものはよほど注意して読まなければ見過してしまう程度の扱いである。もっとも朝日のニュースだけ「五日夜ロシア人五百人が軍隊の砲火で死んだ云々」と報じており、他紙では〈五日夜〉は抜けている。すなわち、朝日の記事では〈暴動〉が八月五日に起ったかのように受けとられるけれども、他紙では漠然と〈暴動〉が起ったとしか読みとれない。いずれにしても、事件が発生してから二カ月ちかくたっての報道である。ところが、それからさらに二カ月ほどたった十月九日の朝日新聞朝刊には「ワシントン=フランケル記者七日発=ニューヨーク・タイムズ特約」として次のような記事が掲載された。その見出しも、「ソ連で六月に暴動説米政府、全容を追究中。(小さな字で)南部工業都市、食料品値上げ契機に」とかなり大きな扱いであり、記事は三段七三行にわたって書かれている。すなわち、

 今夏ソ連南部の工業都市で抗議集会と暴動がおこり、数十人の、おそらく数百人の死者を出したという話が、いま米政府専門家の手で集められ、徐々にではあるがその全容が明らかにされようとしている。
 ソ連の新聞はこのデモについて一度も直接報道したことはない。これは明らかに去る六月一日の突然の肉類(三○%)、バター(三五%)の値上げに激発されたものだが、同時に、食糧不足と労働強化に対する国民の不満を反映したものといわれている。
 事件はドン川流域ロストフから三十二キロの工業中心地ノボチェルカスク(人口九万四千)で起った。騒動が頂点に達した六月上旬には、ソ連陸軍部隊が同地民警の援助に派遣されたといわれるが、同地一帯の全域が外国外交官と新聞記者の立入り禁止区域となり、現地の党指導者が更迭され、青年は全員二年間の夜間外出禁止の措置をうけた。
 現地からの情報は第三者の手を経てはいってきたものだが、当地のソ連問題専門家は、これらの情報のもたらした話の大筋は事実とみている。ノボチェルカスク事件のニュースは、あっという間にソ連全土に知れわたり、去る八月、ヘルシンキで開かれた世界青年大会に参加したソ連青年の一部の口から外部へ伝えられたのだという。
 ソ連を旅行した人々もまた、同じ六月ごろロストフ地方の他の小都市やウォロネジ(ノボチェルカスクの北四百八十キロ)、クラスノダル(同南二百四十キロ)、グローズヌイ(同東六百四十キロ)で小事件の発生したことを聞いた。これらの報道からみると、ノボチェルカスク事件は、これまでの最悪の暴動のようである。同事件による死者数の推計は七十五人ともいわれ、他の情報では五百人にものぼるといわれているが、当時の専門家たちは死者件数百人〃とそれを上回る負傷者が出たとの見方をとっている。
 ノボチェルカスク事件は、六月初め女性の大群衆に労働者や学生が加わって同市中心部に集り、値上げの説明を要求したのが発端となって起ったものとみられている。このデモは初め平穏だったが、そのうち現地の民警が群衆を解散させるため空に向けて発砲したところ、樹本や街灯によじ登っていた少年をふくむ数人のものがこのため負傷したといわれる。群衆の間に不穏の空気が流れた。怒った群衆がそこここの広場に集り、不安が全市をおおった。宮公庁や学校が荒らされ、はじめ民警が、最後には陸軍部隊が発砲をあえてして、やっと不安定ながら治安が回復されたのだという。

 ところが、同日付夕刊には「ソ連暴動説を確認米国務省」という見出しのもとに、「ワシントン八日発=ロイター」電として次のような記事があらわれた。

 米国務省スポークスマンは八日、『国務省は今夏、ソ連南部のロストフ地方で暴動が起きたとの報告を受けとっている』と述べた。同スポークスマンはその詳細を明らかにすることを拒否したが、米当局者たちはこの暴動が大規模なもので、多数の人々が死亡したという報告をいくつかの筋から受けとっていると述べた。ソ連は、同地区を立人り禁止地区にした理由の一つとして、同地区にコレラが発生したことをあげている。しかしこの〃コレラ流行〃にかかわらず、八月ロストフで第八回全ソ・スパルキアーダ(運動競技大会)大会が開催されているし、またロストフのサッカー・チームは八月十日モスクワで試合している。

 読売新聞の場合も十月九日付の朝・夕刊で大体同じニュース・ソースの記事を流している。以上で見るかぎり、ノヴォチェルカースク事件は、約四カ月後に、その大体の輪廓が西側世界に知られたということになる。


 1962.11
 :モスクワ

 二週問ほどして、彼は十月半ばの宿命の星の下で戻ってきた。政治局の定例会議で(この時は「幹部会」だった)、フルシチョフは局員たちに作品発表に対する同意を求めにかかった。確かなことはわからないが、どうやら政治局員たちは同意をあらわさなかったらしい。多くの者は返答を避け(「どうして黙っているのかね?」とフルシチョフは要求した)、だれかが勇を鼓して「これがいったいだれの得になるんです?」とたずねた。しかし、当時フルシチョフはお伽噺でいう「俺はお前たちみんなを踏みつふしてやる!」という心境だったし、イワン・デニーソヴィチが誠実に煉瓦を積んでいるという賞讃も、おそらく、出ずにはすまなかっただろう。こうしで『イワン・デニーソヴィチの一日』を活宇にすることが決定された。いずれにせよ、決定的な反対の声はあがらなかったのである。
 このようにしてソビエトの検閲の奇蹟が、あるいは三年後にいっそう的確に名づけられた言を借りるならば、「文学の領域における政治的独断の結果」が、生じたのだつた。
 十月二十日の土曜日、フルシチョフは決定を言い渡すために、トワルドフスキーを引見した。これが最初だったかどうかは知らないが、最後の悠長な対談となった。トワルドフスキーの心には、おそらくすべてのロシヤ人の心と、そして人間の心と同様、信じたいという渇望がきわめて強かった。だからこそ、かつて農民階級の明自な破滅と、自分の家族の苦しみとにもかかわらず、彼はスターリンヘの信頼に一身をささげたのであり、そのあと彼の死を衷心から泣いたのである。その後、罪をあばかれたスターリンからやはり同じように本心からとびすさり、清められた新しい真実と、その真実の光を放つ新しい人間とを信じようと努めたのだった。この二、三時問の会見で彼はフルシチョフを、まさしくそのような人物として見た。ひと月後、わたしたちが互いに相手を受け入れていたもっとも親しい時期に、トワルドフスキーはわたしに言った。
「あれは実に人情味のある、賢い人間だよ! われわれを統率しているのがああいう人物だってことは、何という幸福だろう!」
 トワルドフスキーとのその会見で、フルシチョフは穏やかで、考え深く、哲学的でさえあった。これは信ずることができる。彼に敵対するスターたちは、すでに鋭い短剣となって結集していた。おそらく彼はすでにグロムイコからの電報を持っていたに違いない。その前夜、グロムイコはホワイト・ハウスで、「グロムイコさん、あなた方はキューバにミサイルをおいていますね?」と質問されたのである。そして、いつものように誠実に、自信たっぷりに、グロムイコは「いえ」と答えたのだった。トワルドフスキーと和やかに文学の話をしながら、フルシチョフは、キューバにあるソビエトのミサイルのパネルがすでにワシントンで用意され、月曜にはアメリカ大陸諸国の代表に提示されて、ケネディがソビエト艦船の検査という、前例を見ぬ大胆な措置に対して同意を得ることになっているのを、もちろん知らなかった。恥辱と恐怖と屈服の一週間からフルシチョフをへだてていたのは、僅かに日曜日一日だけだった。そして、ちょうどその最後の土曜日に、彼は『イワン・デニーソヴィチ』にビザを出すことになったのである。
「僕は何度も相手の言葉をさえぎったくらいでね!」みずから驚嘆しながら、トワルドフスキーはわたしに回想してきかせた。「僕は彼に言ってやったんだ。『接吻で子供は生まれやしませんよ、文学に対する検閲を撤廃して下さい! だって、写しで作品が出まわっているとしたら、これほどまずいことはありませんがらね!』って」そして、フルシチョフは辛抱強く話をきき、トワルドフスキーの受けた感じでは、彼自身もその考えに近いかのようだったという。(編集部で何回か蒸し返した話を比較してみると、トワルドフスキーは知らぬ間に自分自身の発言を沈黙しているフルシチョフに帰した、と仮定することもできる)。
 フルシチョフはトワルドフスキーに、スターリンの犯罪に関する資料がすでに三巻分も集まっているが、当分は公刊しない、と話した。「われわれが何を行なったか、歴史が裁いてくれるだろう」(人一般の死すべき定めや、人間の寿命の限界性について語る時、フルシチョフは常に調子が高くなり、和やかになった。このひびきは彼の公開演説にもあった。これは彼の、自覚されぬキリスト教的特徴だった。彼以前も、彼以後も、西にも東にも、共産主義の指導者のうちだれ一人として、決してこんなふうに話した者はいない。フルシチョフは、自己の本質も、自己の歴史的意義もまったく理解せず、彼を支持しようと望み、また支持することのできた層を常にぶちこわし「ただ一人の聡明な助言者をも求めず、また持たなかった皇帝だった。すばしこくて、抜目のない彼の娘婚も、やはり利口ではなく、舅の失脚をさらに早めた冒険主義者にすぎない)。スターリンによるキーロフ殺害をフルシチョフは確信Lていたが、キーロフそれ自体がとるに足らぬ人物であることを理解してもいた。
 どうやら、中篇に関してすべてが決定されたので、トワルドフスキーはそれを十一月号に載せるよう命令した。だが、ここでアメリカ相手のミサイル劇がはじまった。カリブ海の嵐から生じた旋風が中央委員会の廊下でわたしの中篇を掃きとばすことだってあり得た。
 しかし嵐は鎮まった! わたしが中篇を手放した時からちょうど一年後の、十一月の祭日直前に、わたしは最初の校正によびだされた。



 1965.10
 :リャザン

 長篇と文書の押収された時から、二カ月目が終ろうとしていたが、わたしは追討ちをかけて逮捕されたりしなかった。彼らの手もとにはわたしを刑法で有罪にするための材料が、単に十分というだけではなく、ありすぎるほど集まっており、シニャフスキーとダニエルに対する場合より十倍も多いのに、それでもやはりわたしを逮捕しなかったというのは? おお、何という素晴しい時代が訪れたことか!
 勇気は救いの半ばである!――諺の本がわたしにささやいていた。すべての状況は、わたしが大胆に、不敵にさえならなければいけない、と告げていた! だが、どういう点で? そして、どういうふうに? 災厄を厭わず、災厄を利用すべきではあるが、しかし、どうやって?
 ああ、あの秋にわたしにそれがわかったら! 理解した上でなしとげられる場合には、万事が簡単になるものだ。だが、あの時わたしはどうにも思案がつかなかった。
 もし西側でせめてわたしの長篇のことでも騒ぎたててくれていたら、もし長篇の押収が世界じゅうに知れわたってくれたら、たぶんわたしは心配せずにいられただろうし、キリストの懐ろにいだかれたような心境で仕事をつづけていられたに違いない。しかし、彼らは沈黙していた! 反ファシストも、実存主義者も、平和主義者も、アフリカの苦悩者も! われわれの文化の滅亡については、わが国の民族絶滅政策については、沈黙していた。なぜなら、彼らが手本と仰いでいるのはわが国の左翼の先端であり、そこにのみ彼らの力と成功もあったからだ。そして、結局のところわれわれの抹殺など、ロシヤの内政問題だからだ。他人の傷は痛くないのだ。シニャフスキーとダニエルの審理が終ろうとしており、わたしの文書と心を憲兵の爪が掻きむしっていた――そして、まさにその秋、ショーロホフの悪虐非道な手にノーベル賞がつかまされたのだった。
 西側への期待は、なかった。もっとも、わが国では決してありうべくもないことだったが。われわれが自由になれるとしても、もっぱら自力によるほかない。


 1966.10
 :リヤザン

 フルシチョフの暴露のあと、その成長は特に早くなった。作家同盟に入った時、わたしはそこに大勢の生きいきした、自由を愛する人たち――昔からそうであった人や、まだ腐敗しきらずにいた人や、汚物を棄て去ろうとしている人たちを見いだして、おどろき、喜んだものだ(十把一からげに批判するような真似は決してしてはならぬという、もう一つの例だ)。
 今ならいとも簡単に百人か二百人の良心的な作家を見つけて、手紙を送りつけることもできるだろう。だが、そういう作家は、原則として、作家同盟の中でなんら指導的なポストについていなかった。役職ではなく、精神的特徴で彼らを選りぬけば、わたしはその人たちを打撃にさらすことになるだろうし、抵抗の公開という自分の目的を少しも促進せぬことになる。かといって全ソ・全ロシヤ共和国作家同盟の数多い無能な幹部会員に送りつけるのは、労多くして無益だった。だが、先頃六月から延期された作家大会が一九六六年十二月に予定されていた――作家同盟にわたしが加入して最初の、そしてことによると最後の大会である。これこそチャンスだった――大会の時点では旧指導部はもはや権利がないし、新指導部はまだ選出されていないから、わたしが自分の解釈に従って立派な代議員を選り分けるのは自由である。それに、大会に訴えかけるというレーニンの戦術に頼らぬ法はあるまい? もう……でなく、まだ……でない瞬間を捉えよと、レーニンも教えたではないか。
 しかし、大会のある十二月はすぐにはこないし、わたしの作品に対して行なわれていることに何か抗議をしようと心ははやっていた。そこでとりあえずもう一度、中央委員会に最後の訴えをすることに決めた。わたしは党員ではないが、この半ば神格化された機関にはすべての勤労者が請願をする自由がある。わたしの伝聞したところだと、先方ではわたしの手紙を待ってさえいるそうだ。もちろん、誠意ある手紙をだ。つまり、悔い改めて、過去の自分のすべてを批判し、わたしが「完全にソビエトの人間である」ことを証明する機会を与えて欲しいと嘆願する手紙をである。
 最初わたしは、彼らにしても第二十回党大会以前に語っていたようなことをもはや二度と口にしないだろうし、大いに恥じ入って、過去の言辞を否定するだろうといった、かなり不遜な口調で手紙を書こうと思った。E・ヘンリーがそんなことをするなとわたしを説得した。なぜなら、お互いの関係を灼熱させる以外、そんな手紙は実際には、時間かせぎも、共存も、何一つもたらさないからだ。わたしは書き直し、非難を党指導者にではなく、文学者たちに向けた。その他の点では、実務的に説明し、しかもその際に毅然とした表現をしようと努めた。どうもこれはあまり成功しなかったようだ。そういう口調の伝統はわが国にはまだ存在しないし、伝統を創りだすのは容易なことではない。



 1967.11
 :リヤザン

 だが、新しい一九六七年にもう一発の榴弾が炸裂するという計算もわたしにはあった――日本の特派員、古本昭三に与えたわたしの最初のインタビューである。彼がインタビューをとったのが十一月半ばであり、それは正月に発表されることになっていた――だが、一月になって何日かすぎても、雪に埋もれたわたしの隠れ家のトランジスターラジオは、どの局でも――当の日本の局も、西側の局も、「自由」放送さえも、このインタビューに対する反響を伝えなかった。
 インタビューは十一月に即興で、正式の手続きをふんで――厚かましくも――行なわれた。外国人特派員にとっても、もし彼らがモスクワのポストを失ないたくなければ、必ず守らねばならぬ、ましてソビエト市民にとってはよけい義務的な、なにやら手のこんだ手続きが存在していた。作家は作家同盟外国委員会の承諾を得なければならないのだ(あらゆる機関の「外国部」というやつはすべて、国家保安委員会の支部である)。わたしはかつてはそんな手続きを知らなかったし、今は全然知りたいとも思わなかった。わたしの新しい役割は治外法権と、何をしても罰せられない点にあった。
 古本昭三はごく普通にインタビューの依頼をわたしに、コピーを外国委員会に送ってきた。外国委員会では心配もしなかった。なにしろ、ずっと以前からわたしがいっさいのインタビューを断わってきたからだ。ところがこつちは、これこそ例の失敗以来、もう1年以上も望んできたことなのだ――わたしの身に起っていることを、インタビューでぶちまけてやる。そして、今こそ来たのだ、突然の救いが――日本の特派員が(犯罪的な西側ではないかのようで、同時に完全に西側の)、もしじかに会いたくなければ、五つの質問に文章で答えてくれと頼んできたのである。彼はモスクワの自分のアドレスと電話を教えてくれた。僅か五つのこの質問でさえ、わたしを満足させるものだった。なぜなら、その中には『ガン病棟』についての質問もあったし(してみると、噂はかなり広まっているのだ)、わたしの「創作プラン」についての質問もあった。わたしは文章の回答を用意した。が、それでもやはり、完全な決裂に突走るだけの――わたしの長篇と文書が押収されたことを全世界に広く知らせるだけの、踏切りはつかなかった。しかし、二、三の作品の名をあげ、それらを「出版してくれる人を見いだせずにいる」と書いた。三年前にこの作者が引張りダコになり、あらゆる国語で出版されていたのに、今自分の祖国で「出版してくれる人を見いだせずにいる」という以上、それでもまだ何かはっきりしない点があるだろうか?
 だが、どうやって返事を特派員に渡せばよいだろう? 郵送するか?――きっと押えられるだろうし、わたしは着かなかったことさえわからないだろう。友人のだれかに頼んで彼のアパートの階段の郵便箱に、手紙を放りこみに行ってもらおうか?――おそらく、彼らの特殊なアパートの階段には、監視と写真があるに違いない(民警がいて、だいたい中に入れてくれないことを、わたしはまだ知らなかった)。となると、会う必要があるが、会う以上は、口頭のインタビューにも応じていけない理由はないだろう? しかし、どこで会えばいいだろう? リヤザンには彼は入れてもらえないし、モスクワでは、わたしはだれの個人の住居も打撃にさらすことはできない。そこでわたしはもっとも不遜な方法を選んだ。文学者中央会館にしたのだ――そこで『ガン病棟』の審議があった日に、建物の内部を十分よく見ておいたので、わたしは公衆電話から日本人記者に電話して、翌日の正午に文学者中央会館でのインタビューを提案した。このような誘いはひどくオフィシャルにひびいたから、彼はきっと、わたしがしかるべき場所で話をつけてきたと思ったことだろう。彼は通訳の女性(もちろん、国家保安委員会で点検ずみの)に電話し、通訳は文学者中央会館でのインタビューの撮影のためにカメラマンをノーヴォスチ通信社に頼んだ。これもまたきわめてオフィシャルなひびきを持っていたので、ノーヴォスチ通信社にも疑念の生ずるはずがなかった。
 わたしは指定の時間より三十分早く文学者中央会館についた。ウィーク・デイなので、作家たちはだれもいなかったし、昨日の活気といかめしさは跡形もなく、作業員たちが開け放した外側の戸口から椅子を運んでいた。浅黒い日本人の代りに色の白いロシヤ人の娘が入ってきて、管理人のテーブルに向った。わたしの苗字が耳に入ったので、わたしは彼女をつかまえ、日本人をよんでくれるよう頼んだ(彼らは二人で、車の中で待っていることがわかった)。門番は、先日このロビーで関心の的になっているわたしを見ていた連中だったから、わたしが「こちらはわたしのお客です」と言った時、彼らにとっては権威たっぷりにひびいたのである(あとで知ったのだが、外国人が文学者中央会館に入るには、そのつど、管理者の特別な許可が必要なのだ)。わたしは絨毯と柔らかな応接セットのある落ちついたロビーに彼らを請じ入れ、調度の粗末さがわれわれの事務的な会見の妨げにならねばよいがと、希望を表明した。そこへノーヴォスチ通信社のカメラマンも息せき切って駈けつけ、この文学者中央会館の巨大なスポット・ライトを引張ってきて、二十分にわたるインタビューはフラッシュの光の下ではじめられた。会館の管理者は予定されていないこの行事に気づいたのだが、その仰々しさと、ものものしさ、つまり許可されたものであることは、疑う余地がなかった。
 古本はロシヤ語がなかなか達者だったから、通訳は添え物にすぎず、何も訳さなかった。会見の終り頃にこんな事情も明らかになった。古本が、彼自身もシベリヤのラーゲリで三年間すごした、と語ったのだ。そうか、彼が囚人であるなら、この会見の欺瞞性もよく理解してくれたかもしれない――まして、十分語りえなかったこともすべて理解してくれるはずだ。わたしたちは別れを惜しんだ。
 だが、新年になって一週間、二週間すぎても、トランジスターラジオはわたしのインタビューに対する反響の四分の一も、ただの一句も、わたしの隠れ家にもたらさなかった――何もかも水泡に帰したのだろうか? 何が起ったのだろう? 古本自身が妨害され、脅されたのでは? それとも、新聞の編集長が日ソ関係の緩和という全体の状況を損なうのをきらったのだろうか?(彼らのロシヤ語放送は甘たるい取り入るような表現を用いていた)。ただ一つわたしに考えられなかったのは、インタビューが五百万部の四紙に、紙面の四分の一を割いて、たとえ日本の漢字にせよ、期日に全部掲載されたのに、西側のただ一人として気づかない、ということだった――中国の「文化大革命」の関係で毎日、世界じゅうのあらゆる放送局が日本の特派員記事を引用していたのだから、つまり彼らの新聞にも目を通していたわけだが、わたしのインタビューにはだれも気づかなかったのである――これは、地上の名声のはかなさだったのだろうか? スターリン時代のラーゲリの生活を扱った、へたくそに翻訳されたベストセラーで二週間ほど刺戟を与えてくれた、なんとかいうロシヤの作家なぞ、西側ではもうとっくに黙殺して当然だったのだろうか? そして、これはむろんのことなのだ。だが、かりに、ポリネシヤでもギネヤでもいいがどこかで、ギリシャの左翼活動家が自分の書いた一パラグラフのためにギリシャ内で出版してくれる人を見いだせなかったというようなニュースがちらと流れでもしたら――とたんに、バートランド・ラッセルやジャン・ポール・サルトル、イギリスの左派労働党員たちなどがいっせいに、それこそ大声を発して、イギリス首相に不信を表明し、アメリカ大統領に呪詛を送り、即座にギリシャの極悪人どもを呪うための国際会議を召集したに違いない。ところが、スターリン時代に息の根をとめきれなかったロシヤの作家が、集団指導の下でも首を絞められつづけ、しかも断末魔も間近いなどということは、彼らの左質的世界観を傷つけるはずがなかったのだ。共産主義の国で首を絞めているとすれば、つまりそれは進歩のために必要だからというわけだ!


 1968.4
 :リヤザン

 わたしの気持は一つのことを欲していた――それは簡潔に、ゲルツェンの言葉を変えて、ソビエト人であることは恥かしい――と書くことだった。この僅かな言葉の中にチェコ事件の全結論があり、またわが国の全半世紀の結論がある――紙片はすぐにたたまれた。さあ駈け出せ、車を走らせろ、と足元に火がついたような気持だった。そしてわたしはすでに車のエンジンをかけていた(手動クランク棒で)。
 わたしはこう考えていた――アカデミー会員カーピツァとか、ショスタコーヴィチとかいった、いろいろな有名人がわたしと交際を求め、客に招いたり、わたしのご機嫌をとったりしているが、わたしには名誉どころか、そんなサロン談義――浅薄で、なんの足しにもならず、時間の空費だ――は吐き気をもよおする。よし、それではひとつ、車で連中の所を廻ってやろう、それからレオントーヴィチのところへもゆこう、彼はサハロフと親しい(その当時わたしはまだサハロフと知り合っていなかった)、それからロストロポーヴィチ(去年リヤザンで彼は猛烈な勢いでわたしと知己になり、二回目に会ったときから、わたしに彼のところへ.来て住め、といっていた)、それにトワルドフスキーのところへゆき、各人の前にわたしの一行に足りない文章、ソビエト人であることは恥かしい! という簡潔な結論を差し出してやろう。そして――もう言い逃れはやめてもらいたい! これがあなたの人生の選択だ、署名しますか、しませんか? といってやる。
 さてそれで、この七名の署名入りで、サミズダートに流す! 二日後にはBBC放送の電波にのる! ☆うちの連中どんなに戦車があっても、歯ぎしりしても、もう間に合わない! 歯ぎしりのし損で、不発に終る!
 しかし、気まぐれな車「モスクヴィチ」のクランク棒をハアハアいいながら廻しているうちに、あの七人をふるい立たせることは、わたしにはできない、力に余る、とわたしは体で感じた。彼らはとても署名しない、育ちがちがうし、考え方もちがう! 呪縛された才能ショスタコーヴィチは手負いの如く、のた打ち、曲った手をたたいてびっくり仰天し――指はぺンを握るにたえないだろう。弁証法的プラグマチストのカーピツァは、それではわれわれはチェコに害を与えるだけだろう、まあ、わが国に害を与えることは言うまでもないが、とかなんとか屁理屈を言い、すくなくとも、修正に修正をかさね、一カ月もたってから、四ページにわたって「わが国の社会主義的建設は大いに成功を収めてはいるが、好ましからぬ側面もある……兄弟的共産党の社会主義へ向う意欲が真正なることを認め……」とかなんとか書いた方がいい、なんて言うにきまっている――つまり、一般的には絞め殺してかまわんが、社会主義上の同胞だけはそうしない方がよかろう、というわけだ。あとの四人も似たりよったりの考えで、わたしのテキストを歪めようとするだろう。そうなれば――署名はこっちがご免だ。
 エンジンはうなりだしたが、わたしは出てゆかなかった。
 こういうことは署名するなら、一人ですべきだ。それこそ正直で立派だ。
 そのうえ――わたしの首を刎ねるにはもってこいの時だ。つまり、いま、戦車の轟音がとどろいているうちに、彼らは目立たずにわたしの首を刎ねられるのだ。『イワン・デニーソヴィチ』の発表以来、これはキャンぺーンの廉で、一般の騒ぎにまぎれて、わたしをパクる最初の好機だ。
 ところが、わたしは、未着手の『R17』は別にしても、未完の『煉獄』をいまあたためている。
 いや、こういうやむにやまれぬ無謀行為――これはわたしにはよくわかるし、同感でもある。こういう時――わたしは怒鳴り声をあげることのできる男だ! ところが問題は――怒鳴り声が重要かどうか? だ。いま怒鳴り声をあげ、それでしくじる、ということになると、それほど恐ろしいことはわたしの今までの生涯になかったことだ。だが、わたしは遥かにこれより悪いことを見てきて知っている。『群島』は全篇そのことだ。そのことをわたしは怒鳴っていないだろうか? 全五十年はそのことから成り立っているのに――われわれは黙っているではないか? いま怒鳴り声をあげることは祖国の歴史を拒否し、その歴史の粉飾に手をかすことだ。☆重要な怒鳴り声のために喉を大切にしなければならない。もう永いことはない。間もなく『群島』の英語訳がはじまる……
 卑怯の弁解か? それとも理性的な理由か?
 わたしは黙り通した。その時から――わたしの肩に重荷が加わった。ハンガリー事件のときは、わたしはゼロに等しい人間だったから、怒鳴り声をあげても仕方がなかった。チェコ事件では黙り通した。チェコに対してはわたしは特別に個人的責任があったので尚更に恥ずべきである。というのは、誰もが認める通り、チェコの作家大会から事は始まったのであり、その大会はまた、コホウトが朗読したわたしの手紙で始まったからである。
 わたしがこの汚点を自分から取り除ける方法はただ一つ――いつか再びわが祖国においてわたしから事が始まってくれる場合だけだ。
 で、『煉獄96』に拍車をかけ、完成を急いだ。するとまた――人間の頭脳では計画できないような期限の一致。九月にわたしは『煉獄96』を仕上げた、つまり救った。その同じ月に、すり替えられた、削除版『煉獄87』が西欧諸語で出はじめたのである。


 1969.11
 :リャザン

 歳月はすぎてゆき、作品は引き続き書かれていたが、発表はできない、首を刎ねられる、そうかといって作品を秘密にして隠しておくのはますます困難になり、それらを空しくかかえていることはいよいよ無念に感じられてくる――地下作家にはどんな出口があるか?……
 この点これまでの全歳月を通じてわたしは変ることがなかった。わたしはラーゲリで鍛えあげられたままであり、ラーゲリの親友たちと共に考えた通り――最強の立場は屍体同然のわが国をラーゲリの知識で射抜くこと、ただし向う側から、と考えていた。そうなれば、わたしの全武器はわたしの思うままになり、一語といえども、もはや隠されることなく、歪められることも、たわめられることもない。こういう考えがすっかり身に付いて離れなかったので、一九六八年にアーリャ(ナターリヤ・スヴェトローワ)がそれに驚いて、それはまるで逆さまだ、向う側からではわたしの言葉はすべて、わが国を包んでいる鉄の外皮にはじき返されてしまうだろう、ところがわたしが国内にいれば、多孔質で吸収力のある内側はわたしの言葉を吸収し、言外の意味と暗示されたものを補い足す、と熱を込めてわたしに説いたので、こんどは逆にわたしの方がびっくりした。彼女がそんなことを言うのは、ラーゲリに入ったことがないからだ、とわたしは思った。
 ところで、彼女はわたしにとって偶然の、一度だけの話し相手ではなかった。一九六九年頃にはわたしは彼女に自分の遺産すべて、つまり書いた物全部、最終稿も、未定稿、草稿、創作ノート、反故の類、補助資料も――焼き捨てるのは惜しく、かといって保存し、場所を変え、記憶し、秘密にしておくのには、もはや頭も精力も時間も容器も足りなくなったもの一切、を彼女に渡す決心をしたのである。わたしは丁度その時五十歳を越え、それはわたしの仕事の境目と一致した ――わたしはもうラーゲリのことを書いていなかったし、その他のことも全部終り、わたしの前途には全然新しい巨大な仕事――一九一七年についての長篇小説が待っていたのである(最初のわたしの考えでは十年ぐらいかかる予定だった)。このような時には一切の過去を始末し、遺言を書き、それらすべてが保存され、わたしがいなくても、わたしとは別に、後継者のしっかりした確かな手とわたしと同じように考える頭とによって実現されるよう手をつくすのが時宜に適していた。これをすべて一度に見出して、わたしはうれしかったし、ほっとした思いだった。一九六九年の丸一年間わたしと彼女は仕事の引継ぎをした。丁度その時、二人でわたしたちは、わたしの西側における利益を守るために、わたしたちの支部として、またわたしたち二人が命をおとした場合の後継ぎとして国外に拠点をつくるために、へーブ氏に委任状を渡す方途を見つけたのである。それと――あちらへの往復連絡の確実な「ルート」を見つけた。音もなく目にも見えずにわたしの文学活動は築城作業に変わっていった。


 1969.11
 :モスクワ

   公 開 状

 ロシヤ連邦共和国作家同盟書記局宛て

 諸君は自分たち自身の規約を恥知らずに踏みにじり、わたしによびだしの電報すら送らず、リヤザンから駈けつけて出席するのに必要な四時間さえ与えずに、欠席裁判のままあわてふためいてわたしを除名した。決定が「審議」に先行したことを、諸君は露骨に示したのだ。諸君は、わたしにも十分を与えねばならなくなることを恐れたのか? わたしはこの手紙でその十分間の代用をさせざるをえなくなった。
 文字盤をよく拭いたまえ!――諸君の時計は時代から遅れてしまった。大切な重い帷を開けてみるがいい!――諸君は、戸外がすでに夜明けであることを考えてさえみないのだ。今は、諸君がちょうど今回と同じように党のご機嫌をうかがってアフマートワを除名した、あの出口のない閉ざされた暗黒の時代ではない。また、大声に吠えたてながらパステルナークを除名した、あの怯儒な厳寒の時代でさえない。諸君はあの恥ではまだ物足りないのか? 恥の上ぬりがしたいのか? だが、諸君のだれもが今日の決定に付した自己のサインをどうやって削りとろうかと探求するようになる時は、すでに近いのだ。
 メクラがメクラの道案内をしているようなものだ! 諸君は、自分たちが宣言したのと正反対の方向にさまよい歩いていることに、気づいてさえいない。この危機的な時期に、諸君はわが国の重く病む社会に、何一つ建設的なものを、何一つよいものをすすめることができずに、もっぱら自己の憎悪と警戒心を、もっぱら「つかんで離すな!」主義をすすめているのだ。
 諸君のふやけた論文は形をとどめなくなってゆき、諸君の無思想性はにぶい動きを示しているが、論拠は何一つなく、あるのはただ票決と行政措置だけだ。だからこそ、ロシヤ社会評論の誇りたるリージヤ・チェコフスカヤの有名な手紙(1966年の第二十三回党大会のあと、ショーロホフその他の作家にあてた公開状で、彼女はスターリン主義的な作家たちを鋭く批判した))に対して、ショーロホフも、十把一からげにした諸君全員も、答える勇気がなかったのだ。そして今や彼女に対して、行政的な圧力が用意されている。出版されなかった彼女の本が読まれているのを、どうして見のがしておけたのか、というわけだ。党機関が発表せぬことに決めた以上、息をつめ、首をくくって、存在をやめなければいけない! だれにも読ませてはならないのだ!
 前戦の勇士であり、すでに罪もなく十年の刑をつとめあげたレフ・コーベレフも、今度は、迫害される人たちをかばったことで、また、さる有力な人物との神聖な秘密の会話を触れまわって私室の秘密を破ったことで罪があるとして、除名に追いやられようとしている。だが、なぜ諸君は民衆に隠さねばならぬような会話をするのか? 今後は決して秘密外交も、秘密交渉も、腑におちぬ秘密の任命や更迭も行なわないし、大衆はあらゆることを知って大っぴらに論ずるようになれると、五十年前に約束されたのは、われわれではなかっただろうか?
「敵の耳に入る」――これが諸君の言い逃れだ。いつまでたっても、常に「敵」とは――諸君の役目と諸君の存在にとって好都合な基盤である。まるで、かつて速かな公開性を約束された時には、敵は存在しなかったみたいではないか。「敵」がいなかったら、諸君はいったい何をしただろう? 諸君は「敵」なしにはもはや生きることもできぬに違いない。憎悪が、人種憎悪にもひけをとらぬ憎悪が、諸君を包む不毛の空気となったのである。だがこれでは、単一の全人類という感覚は失なわれ、人類の滅亡は早められる。明日にも南極の氷が融けただけで、われわれはみな溺死する人類と化すだろうに、その時になって諸君はいったいだれに向ってこうるさく「階級閲争」を説教するつもりなのか? 二足動物の生き残りが放射能だらけの地球上をうろつき、そして死んでゆく時のことは、もはや言うまでもあるまい。
 それでもやはり、われわれが何よりもまず属しているのが人類であることを、想起してもいい頃だろう。人類が動物世界と区別されたのは、思索と言語によってである。そしてこの二つは当然のことながら自由でなければいけない。この二つを束縛するなら、われわれは動物に逆戻りするのである。
 公開性、良心的な完全な公開性――これこそがすべての社会の、そしてわれわれの社会の、健康の第一条件である。だから、わが国に公開性を望まぬ人間は、祖国に対して無関心なのであり、おのれの私欲ばかり考える人間なのだ。祖国に公開性を望まぬ者――それは、祖国の病気を癒すことを望まず、病気を体内に追いこんで、そこで腐敗することを望む人間である。

    一九六九年十一月十二日
    ソルジェニーツィン


 1970.6
 :リャザン

 これがわれわれの生活である

 これがわれわれの生活である。逮捕令状や医学的根拠などいっさいなしに、健康な人間のところへ四人の民警と二人の医師がやってきて、医師がお前は狂人だと宣告し、民警の少佐が「われわれは暴力機関だ! 立て!」と怒鳴ったあと、両腕をねじ上げられて精神病院にぶちこまれてしまうのだ。
 こういうことがわれわれのだれの身にも明日にも起りかねないし、現に、柔軟で正確でかがやかしい知性と温良心との持主である、遺伝学者で社会評論家のジョレス・メドヴュージェフの身に起ったのである(破滅寸前の無名の人たちや病人たちに対する彼の私心ない援助を、わたしは個人的に知っている)。まさしく彼の才能の多様さが、「人格の分裂」という病気にされたのである! 不正や愚劣対する彼の敏感さがまさに、「社会環境への適応のまずさ」という病的異常であることになった! 定められたのと違う考え方をすれば、つまり、気違いなのである! 適応させられた人間は、みなが同じような考え方をしなければならない。そして、なす術もないし、わが国のすぐれた学者や作家たちの奔走すら、のれんに腕押しよろしく、撃退されてしまうのだ。
 それにしても、これがはじめてのケースだというのならまだしもである! だが、理由をあげるのも恥かしいので、罪を明らかにせずに加える不正な制裁が、今や流行となりつつある。被害者の一部は広く知れわたっているが、知られていない者ははるかに多い。宣誓に違反するご機嫌とりの精神病医たちが、社会問題に対する関心も、必要以上の熱血ぶりも、必要以上の冷静さも、華やかすぎる才能も、あり余る才能も、すべて「精神病」と判定するのである。
 だが実際には、ごく簡単な分別でさえ彼らを抑止するに違いないはずである。なぜなら、かつてチャーダーエフは指一本ふれられはしなかったが、それでもわれわれは足かけ二世紀にわたって首斬り役人どもを呪っているではないか。そろそろさとってもいいのではないか。自由思想家たちを精神病院にぶちこむのは、精神的殺人にほかならない。それはガス室の変型であり、むしろもっと残酷だ。殺される人間の苦しみはいっそうひどく、いっそう永びくからである。ガス室と同様、この犯罪は決して忘れ去られはしないし、それに加担した者は全員、時効の期限なしに、終身、いや死後も裁かれるであろう。
 不法行為においても、悪業においても、人間が食人種に転ずる限界を銘記せねばならない!
 たえず力のみを頼りとし、たえず良心の反駁を無視して生きてゆかれるなどというのは、甘い考えである。

   一九七〇年六月十五日
   ソルジェニーツィン


 1970.10
 :リャザン

「国王陛下! 淑女並び忙紳士の皆さん!
「……ノーベル賞授与の日と人権の日が同日であるという、この意味深い偶然にわたしは注目せざるを得ません……
「皆さん、これは皆さんに対するわたしのスキタイ人的遺憾の念ですが、なんのために皆さんはフラッドライトの下でそんなに羊みたいに髪の毛をちぢらせているのですか? なぜ白い蝶ネクタイが絶対に必要なのですか、なぜラーゲリの労働ジャンパーではいけないのですか? それに、ノーベル賞受賞者の締めくくりの、全人生の締めくくりの演説を物を食いながら聴くとは、これまた、なんという習慣でしょう? 豪華な食卓、贅沢な食物、それらの珍味佳肴を珍しげもなく、まるで目もくれずに他人の皿に盛ってやったり、自分の皿にのせたりして食ったり飲んだりしておられる……壁の上に燃える文字――『メネ・テケル・ファレス』(旧約聖書ダニエル書第五章参照)がお見えにならないのか?……
「……だから、この軍備にあっても、今日只今、政治犯囚人たちがその剥奪された、あるいは全く蹂躙された権利を守るためにハンストを行なっていることを忘れないようにしようではありませんか」
 如何なる国の囚人か、どこでの話か、それは言われてないが、わが国であることは、わかりきっている。しかも、これは思いつきでもなく、単なる一致でもない。十二月十日にウラジーミル監獄の囚人諸君、それにポチマ(モルドービヤ共和国にあるラーゲリの中心地)の若干の囚人と気狂い病院の囚人たちがハンガーストライキを決行することになっていたのをわたしは知っていたのである。遅れてあとから発表されるだろうが、わたしの正に絶好の時だ。
(わたしのノーベル賞受賞を祝ってくれた賀状の中にはポチマの諸ラーゲリからの連名の祝辞もあった。ポチマではサインを集めるのはまだそうむずかしくないが、ウラジーミル監獄では、一体、石の壁ごしに、どうやって十九名の署書集めたのだろうか? 二、三日あとになって、わたしに祝辞のうちで最も貴重なものが届いたのである――
「文学者にして市民である……の献身的勇気を高く評価した点においてはスウェーデン・アカデミーよりは、われわれにプライオリティーがあることを断然主張する……われわれは親友であり、監房の隣人であり、移動囚人梯団仲間であった……を熱烈に守護するものである」)。
 躊躇するところなく――送ることだ! 翼のような身軽さをもう感じる、このくらいのいたずらをやってもかまわないではないか? どうやって送ろうか? また大使館へもっていこう。
 いつも柳の下にどじょうがいるとはかぎらないが。
 この前は邪魔がはいることを惧れて電話せずに行った。こんどは電話番号がちゃんとある。
「もしもし、ルントストレームさんですか?……実はスウェーデン・アカデミーから二通電報を受け取りましたので、ご相談したいと思いまして……」
(そっと渡したいものがあるのだ、とはまさか言えない)。
 可哀相に、ルントストレームの手は明らかにぶるぶる震えていた。頭ごなしに断わってノーベル賞受賞者を侮辱するのは彼の欲するところではなかった。ヤリングは不在だったが(あとでわたしが知ったところによると)、大使はすぐその場で読めなかったあの不敵な手紙のことがあるので今後は何もわたしから受け取ってはならんと禁じたのである――「わたしはイスラエルとアラブの仲裁だけでもたくさんなのに、このうえソルジェニーツィンとアカデミーの仲裁までさせられてたまるか」。ルントストレームはもう十四年モスクワに勤務していた。どうやら平穏無事に勤め、すっかりモスクワに根を生やしていた。それが今や元囚人の強引な圧力の下で、断わることもできず、彼のキャリヤーが危機に瀕していたのである。汗を拭き拭き、神経質にタバコをすいながら、全身と声と辞句とで詫びながら――
「ソルジェニーツィンさん……わたしの考えを申しますとですね……でも、わたしは外交官として申さねばなりませんが……いいですか、あなたの挨拶には政治的な動機が……」
「政治的ですって?? どれです? どこにありますか?」
とわたしはびっくり仰天する。
 これ、これですよ、と指と言葉でわたしに最後の文章を示す。
「そうおっしゃるけれども、これはどこの国を名ざしてもいないし、どの国家群を指しているわけでもありませんよ! 世界人権記念日は政治上の行事ではなくて、純然たる精神道徳上の行事ですからね」
「でもですね、こういう言葉は式次第の仕来りにはありませんので……」
「わたしがあちらに出席すれば、言うはずなんですがね」
「あなたご自身なら、それはそうでしょう。でも、あなたがおいでにならなければ、主催者側は反対するかも知れません……おそらく国王におはかりするでしょう」
「そうしてもらいましょう」
「それにしても郵便で送って下さい!」
「おそくなります、晩餐会に間に合わないかも知れない!」
「それじゃ電報で!」
「それはだめです、一般にわかってしまう。あちらからは秘密にしておいてくれと言っているんです」
 この十五分間は彼には重荷だった。わたしに、それも色々言い訳をしながら、大使館宛て願書(手紙送付の件)を書かせた。もしかすると送付できないかも知れない、と念を押した。これが最後で、ノーベル賞演説はどんなことがあっても受け取らない、とも言った……
 残酷にもわたしは自分のスピーチを彼に残して立ち去った。
 あとになってわかったが、彼は自費で、ウイーク・エンドを棒にふって、私用にかこつけてフィンランドにゆき、そこから送ったのだった。
 これがヨーロッパ人だ、約束はしなかったが、約束したより多くやってくれた。
 とはいっても、わたしには良心の呵責はない。ウラジーミル監獄でハンガーストライキを行なっている人々は一外交官のこの散財に値いする人々だからである。
 遺憾なのは他のことだ――最後の文章は削除され、晩餐会でその文句が読まれなかったことである! 式次第のために遠慮したとか、また、人の話によると、わたしのことを気遣ったとかいうが、いずれかよくわからない(連中はみなわたしを気の毒がっているのだ。共産主義者でレーニン賞受賞者のスウェーデンのアカデミー会員、ルントクウイストの言うところによれば――「ノーベル賞はソルジェニーツィンには有害だろう。彼のような作家たちは貧困に生きることに慣れているし、また貧困のうちに生きねばならないのである」)。


 1971.12
 :モスクワ

 一九七一年十二月二十一日、四十半ばの男が、妻と一人息子を連れ、ジェツト旅客機でモスクワをあとにした。
 収容所群島の国から男が釈放≠ウれるまでは、男の逮捕からラーゲル釈放に至るよりもっと長い年月が流れていた。その年月を人びとは、ただ無関心に冷戦≠フ時代と呼んでいた。冷戦は、一人のアメリカ市民をKGBの国にとじこめておく、冷たく、重い鉄の錠であった。少なくとも、いまアメリカに帰国しようとしているこの男にとっては。
 男の胸に収まったアメリカ合衆国政府発給のパスポートにはAlexander M. Dolgun の名があった。


 1972.
 :リャザン

 わたしはその年の春に逮捕されたブコーフスキーを擁護しなかった。グリゴレンコの擁護に立ちあがらなかった。誰の擁護もしなかった。わたしは遠い先の自分の期限と行動の計算をしていたのである。
 第一の気掛り種である『群島』がわたしの心の中でうずいていた。一九六九年末にわたしは『群島』の出版を一九七一年のクリスマスまで延期した。ところが今やそれがやって来、そしてすぎたというのに、また延期されたのだ。それなら一体、なんのためにあんな恐怖とリスクを冒して急いだのか? もうノーベル賞はわたしのものになったのに、わたしはまだ延期するのか? わたしがそれにどんな説明をつけようとも、凍った丸太のように、橇から四人ずつ、ラーゲリの墓穴に放り込まれた人々にとっては、わたしの理由はまったく理由にならないのだ。一九一八年、それから一九三〇年、それから一九四五年に、なにがあったか、それを語るのに一九七一年は、まだその時機ではないとでもいうのか? 彼らの死を、せめて物語ることによってでも、贖うのに、時機でないなどといえるのか?……
 もしもわたしが行っていたら、わたしは今頃もう『群島』の校正をしていたことだろう。七一年の春にはもう出版していたことだろう。それが今、わたしは避けることの出来ない運命の盃を押しのけ、延期する言い訳をしきりに考え出しているのである。
 いや、言い訳ではない! そう認める方が厳密を期するためによい。なぜ言い訳ではないかといえば、わたし一人だけでなく、わたしの著書のために証言してくれた二百二十七名の囚人の大多数が、『群島』を発表すれば、苛酷な目に会うかも知れないからだ。だから、彼らのためには――『群島』はできるだけおそく出る方がいい。一方、地に埋められた人々のためには――ちがう! 早い方がいい!
 言い訳ではない、なぜなら『群島』は革命の嫡子、革命の生んだ子にすぎないからだ。そして『群島』について隠蔽されている以上に、革命については更に深く隠され、さらに掘りおこし難く、さらにゆがめられているのである。だから、革命について急ぐことは『群島』について以上に必要であり、『群島』以上に一刻をあらそうのである。それがめぐり合わせで、他ならぬわたしがやらねばならぬことになった。どうしたら独りで何もかも間に合うか?
 平和な国の平和な文学では、著作者は著書発表の順序を何によって決めるのか? 作者の成熟によって。著書完成によって。著作をどう書いたか、あるいは著作は何についてか、という年代の順序によって。
 ところが、これはわが国では作家としての仕事ではなく、緊張した戦略なのだ。著書は師団または軍団のようなものだ。ある時は壕を掘って身をひそめ、発砲しても、姿を見せてもならない、ある時は暗闇の中で音もたてずに橋を渡らなければならない、またある時は最後の土のひと盛りに至るまで準備作業を隠蔽しておいて、不意な方面から不意な瞬間に一斉攻撃にうって出なければならないのである。著者は総司令官の如く、一部の者を前進させたり、他の一部を待機させたりするのである。
 もし『群島』が出たあとはもう、わたしに『R17』を書かせないということになるとすれば、それまでに出来るだけ多くそれを書いておかねばならない。
 だが、それにしても無意味な課題だ――二十巻、一年一巻として二十年だ。『八月』は二年かかった、そうだとすると四十年? それとも五十年?
 徐々に次のような解決が生まれた。基準をレーニンの公然たる出現におく。レーニンが一巻のうち一章だけに登場して、行動に直接関係ない間は、これらの章は空白にして、それは隠して出さずに各巻を発行する。最初の三巻はそれでいける。第四巻ではレーニンはすでにべトログラードにあって大いに活躍する、作者のレーニンに対する態度を明らかにすることは、これはもう『群島』と同じことになる。従って、三巻書いて発行すること、そのあと、残りの全部を最終攻撃に投入すること。
 計算してみると、それは一九七五年の春になるだろうと思われた。
 事を計るは人にあり、成敗は……
 最終決定と最終期限は軽やかさと光をもたした。さしあたりは延期して仕事に精を出すことだ。そのかわりあとは――もうどんな逃げ口上もなしに、いやでも応でもやらねばならぬ。いやでも応でも? その方がかえって簡単だ! という喜びもある。


 1973.9
 :モスクワ

 メモの最後に「交渉?」と疑問符を書きながら、わたしはその現実性を信じていなかった。それに、『クレムリンへの手紙』に書いたことのほかに、今となって何についての交渉か、自分にもはっきりしなかったし、交渉したくもなかった。何を要求し、何を譲歩するか、という駆け引きの材料もわたしにば残っていなかった。
 それに、どんな方法で彼らはわたしに話しかけるのか? 怪しい中間の橋渡し屋やおせっかいやきは全部、とっくの昔にわたしが出鼻をくじいた。彼らとわたしに共通の知人はいないのである。
 わたしがこういうリストを作ったのは九月二十三日だったが、二十四日にわたしの前の妻ナターリヤ・レシェトフスカヤが興奮して電話をかけてきて、わたしに会いたいという。声には何か重大さが感じられたが、それでもわたしは察しがつかなかった。
 その二日ばかり前にわたしは彼女に会っていたが、彼女は「コムソモーリスカヤ・プラウダ」の風刺文をそっくりそのまま繰り返していたのである──わたしの行動はヒステリーみたいだ、ありもしない恫喝についてわめき立てている、国家保安委員会を中傷している、と。残念ながら、彼女はすでに密告として裁判所へ、重要な問題点に触れたわたしの手紙を提出し、そのほかわたしの手紙全部をすでに国家保安委員会に渡していたのである。そして彼らと共同執筆の彼女の文章(ノーヴォスチ通信社の名をかりて)は「ニューヨーク・タイムズ」にすでに掲載された。だが、それにもかかわらず、ためらったり、離れたりしながらも、わたしはよい方を信じたかった、彼女を彼らと全く同一視することはできなかった。
 カザンスキー駅にゆくと、もう何年も前からの冷酷な意地悪い目付きで高慢に――
「あたしの電話はイノケンチー・ヴォロジンの電話だったのよ。とても大事な話よ、こんなこと今までになかったわ。でも、心配しないでいいのよ。あんたにはとてもいい話なんだから」
 それでわたしはわかった。同時にぞっとした。で、咄嗟の間に疲れた怠惰の仮面をかぶった。そしてデートが終るまで仮面をかぶり通した。
 わたしは流刑の年月――それは女性を猛烈に求める年月だった――を自分の本のための恐怖とコムソモールの女はわたしを裏切るかも知れないという惧れとから、女性なしに過した。戦争の四年と監獄の八年のあと、すべての原稿、すべての人名、そしてわたし自身の命を託し得るような女性を見出そうと苦悩しながら、わたしは自分の自由の最初の三年をそのために駄目にし、踏みつけにし、絞め殺したのである。それで、流刑から帰ると、わたしは屈服して元の妻のところへ戻った。
 さて、十七年後のいま、その女がわたしのところヘやってきた。国家保安委員会のメッセンジャーであることを隠そうともせず、プラットフォームをしっかりした足取りで歩き、私人の領域から公共の領域である本書の中へわがもの顔に踏みこんできたのである(このわたしのメモは彼女と話したすぐあとで書かれたもので、まだ生々しくほてっている)。
「あんた、さる人と会って話してみる気あるかしら?」
「なんのために?」
「まあ、例えば、『ガン柄棟』出版の可能性について話すとか」
(『ガン病棟』? 今頃その気になっても、おそかりしなんとやらだ……)
「あきれたね。そんなことなら会う必要もなんにもないよ。ロシヤの本をロシヤの出版所が出すのは当然のことじゃないか」
(それにしてもこれは――交渉だ! 彼らが! 交渉ときた? ひどくわれわれは彼らを痛めつけたもんだ! 思ったよりダメージが大きい)。
「そんなこといっても、あんた、出版所へ契約むすびにゆく気あるの? あんたは何をやりだすかわからないから、恐がられているのよ。とにかく条件を話し合って取り決めなきゃだめよ」
(時を稼ごうっていうんだ!『群島』の匂いを嗅いだのだ。それでわたしの出版を遅らせよう、わたしに鼻薬を嗅がせて睡らせようってんだ。しかしわたしの方としても三カ月、時を稼ぐ必要がある。わたしの方にとっても彼らに鼻薬を嗅がせて睡らせるのは役に立つ)。
「条件なんかなにもあり得ない。一語一語正確に印刷するだけさ」
「出版所のあと、まだ誰かと会ってくれる?」
「その誰かは私服を着て、編集長のデスクの傍に、それでもなくても、坐っているんだろうさ」
 その私服の連中は今も両隣りのプラットフォームからわれわれの写真を撮ったり、盗み聴きしたりしていて、わたしは背中全体で彼らがいるのを感じている。これは慣れた人間は間違いっこないのだ。それは彼女の素振りでもわかる。彼女は自分独りではないのだといった責任ありげな態度をとっているのである。
「それじゃ、その……もっと上は?」
「政治局だけだ。それに全般の未来について話す。ぼく個人のことだけでなく」
「あんたを追いつめているのは国家保安委員会じゃないのよ。中央委員会だわ。『勝利者の饗宴』を出したのは中央委員会で、それは間違いだったのよ。(一個人の女のいう言葉にしては、ばかに自信のある、中央委員会の政治的評価だ)‥‥‥でもこっちの人たちは、いいわね、全然ちがう人たちよ。昔のひどいことには責任のない人たちよ」
「そうなら、公けに過去を拒否して、過去を糾弾し、その話をするがいいんだ――そうすれば責任は負わないということになるさ。六千万の人間を殺したのは誰なんだ?」
 どんな六千万かは訊きかえさず、知らないくせに、すぐさま、しかも断乎と――
「それは彼らじゃないわ! 今じゃあたしのつき合い範囲はとても広くなったのよ。とてもたくさん利口な人たちを知ったわ! そういう人たちをあんたは知らないのよ、あんたのまわりはバカが多くてさ……どうしてあんたはなにもかもアンドローポフのせいにするの? あの人はだいたい関係ないのよ(!)。それは他の人たちよ」迷子か、途方に暮れた人間か、それともバカでも見るようにわたしの顔をじっと見つめて「とにかく、あんたは誰かにだまされたり、けしかけられたり、ひどく脅されたりしているのね! ありもしない危険を発明してるんだわ、そいつが」
「それじゃ『ギャングの手紙』なんかは?」
(熱心に)「国家保安委員会は関係ないのよ!」
「でも、きみはどうして知っているんだい?」
 わたしはものうげで、間違いもする。彼女は戦闘的なほど自信がある――自分にも、自分の新しい友人たちにも。
「いつか、その手紙を一通あたしにみせてちょうだい! あの人たちはあんたを攻撃してない、誰もあんたに手出しはしてないわよ!」
「それじゃ、ロストロポーヴィチのところから追い出して、居住登録させないのは?」
「居住登録のことをしつこく言うのはよしなさいよ! あの人たちだってそうすぐはできないのよ! 徐々にね」
「保管文書を持ってゆくのは二回目……」
「あの人たちの仕事だからよ――探すのは!」
「文学作品でもかい?」
 わたしはただあきれるばかりで、さからわない。わたしはその国家保安委員会なる奴との長い闘争に、ほんとに、疲れた。よろこんで休みたいんだが……といった調子でわたしは毛筋ほども演技から踏み出さない。
「あんたは、重立った作品はこれからで、あんたが死んだあとで出るなんて公言するから、それであの人たちが探さざるを得なくなるのよ。あんたが作家大会宛ての手紙で『戦車が真実を知っている』と題名をあげたもんだから、今それを探しているわ……」
(いったい、どうしてお前さんは、彼らが探していることと、それが何かということを知っているのかね? お前さん自身は彼らにどんな本の題名を教えてやったのかね? この『仔牛』もかね?)。
「……あの人たちは探さざるを得ないのよ、……(氏名)のところなんかね」
 そうか――もう名をいったのか?…‥わたしは初めて、まともな声で――
「君のほかには――その名前は誰も知らないはずだぞ! それでもしも……」
「あんた離婚するつもりだったんだから、どうなるかはわかっていたはずじゃないの」
(たしかにわかっていたさ。お前さんはもう大分前からたくさんのこと、たくさんの人を知らないのさ。でも――昔からの人たちは?……)。
「しかし卑劣な行為は考えなかったさ」
「それは心配しなくていいわ、あたしは自分のすることは心得てますからね」
(そうだ、そうだ! できるだけ早く『群島』を出版することだ。誰も暗闇でひっつかまったり、パクられたりしないようにすることだ。奴らには暗闇がなくてはならんのだが、わたしはその奴らの暗闇を照してやるのだ!)。
「……あんたはね、全部、なにもかもあんたひとりが持っているということと、それから、二十年間はあんたはなにも発表しないということを声明しなさいよ」
(これをどうしてもさせようと彼女は懸命になっているのだ! 奴らのため努めているのだ。それが奴らにどうしても必要だからだ! それにしてもお前さん、一カ月たってまだ話すことがあるだとか、一時間後にまだ事が決まらず、一日後に行動に移されなかったと考えるなんて、よくもまあ一生の間そんなにわたしを知らずにいたもんだ)。
 わたしは別の場所を掃いてみる――
「もし二百二十名のうちの誰かとかバラバーノフなんかに手を出したら――誰がいじめられてもおれはすぐさま擁護するからな」
 すると彼女はさっそくそこへ箒をもってくる。知っているのだ――
「ラーゲリのことを話した者には、なにもおとがめなしよ。でも作るのを手伝った者は……」
(われわれがロジジュストヴオでタイプしていた六八年の春のことを――そいつら、とてもお利口な人たちとしんみり話し合って――お前さんもうすっかり話したんだな、そうだろう?……)。
「おれは誰でも一人一人すぐさま全力をあげて擁護するからな!」
(昔は、かつては、お前さんとわたしの間柄は実に無邪気なものだった……だが、もうだいぶ前からわたしはお前さんが演技をしているのに気づいている、いや、気がつくのが遅くて、足跡だけつかまえている。しかし今日のこの不動の山脈の上、おれの人生のメイン・ストリートでは――舞台監督総出で束になってかかってきてもお前さんたちに一杯くわされるようなおれではない)。
「とにかく、あんたがおとなしくしていれば、その方が誰にとってもいいのよ!」
「おれは自分からは攻撃してないよ、連中がそうさせるんだ……」
「あんた気でもふれてるみたい、自分の子供のことも考えないで……」
 この他にもう一度子供のことについて――
「すると、子供になにか起ったら、それも国家保安委貝会だっていうの?」
(子供のことで彼らに疑いがかかることはない、とそう彼らは考えているのだ)。
「そりゃあ、もちろん、今はあんたたちの勝ちよ! でも、こんど『ガン病棟』が活字になっても、あんたが勝ったなんて、あんたは公けに声明したりしないでしょうね?」
「しないさ。そんなことをきく方がおかしいよ。せいぜい、おれがなにか言うとすれば、賢明な措置だ、ロシヤの読書界にとって、というくらいのものさ……おれにはだね、もうそれは活字にする必要はほとんどないんだ」
(実際のところ、必要だろうかどうか? 自分の作品が祖国で活字になることを望み、まず第一にそうしようと努めるのは当然のことだ。だが、すっかり手遅れで、いまさら犠牲を払うほどのことはない、というバカげた事態になっているのだ。わが国の自由だなんていうデタラメを吹聴するだけが目的のほんのお印の発行部数か? モスクワのインテリに売るためか? モスクワのインテリはそれでなくてもサミズダート版を書棚においてある。それとも、書店に出すだけ出して、全部数を破棄するためか? おかしなことになったもんだ! わたしはもうそんなのはご免だ。モスクワはもう読んだのだ。ロシヤには、古い『ガン病棟』よりはすべての真実の方が必要なのだ。邪魔をする?――わたしには敢えて邪魔をする気もない、そんなことはしない。だがもう、出版の必要がないことも事実だ……)。
「六七年の十二月に『ガン病棟』が括字にならなかったのはあんたのせいよ!」
「どうして??」
「あんた憶えてるでしょう。あんたは病気のふりをしてゆかずに、あたしにいかせたでしょう。あのときトワルドフスキーは新聞に載せるほんとに柔らかい手紙にあんたが署名するようにって言ったのよ」
(そう、ほんとに柔らかい手紙、なんで西側ではそんなに騒ぐのか、という拒否の手紙だ……あの時は書記局でも、もっぱらそのことだった……こんな具合にわたしの事件を逆さまにするのだ――わたしを窮地に追いつめた〔わたし以前のみんなも〕のは当局ではなくて、わたし自身だ……〔われわれ自身だ〕……という)。
「本が活字になれば、あんたお金がもらえるわ……でも二、三のことを保証しなければだめよ。この提案のことは、あんた、新聞記者に声明しないでしょうね? このあたしたちの話についても? この話し合い絶対秘密ですからね」
 彼らと彼女の最大の期待を凌駕して、わたしは――
「この話はこのプラットフォームの外にはでないよ」
(リャザン線の列車が発着する両側の線路にはさまれた細長いプラットフォーム。わたしたち二人はここへ着いては、食料品、ニュース、希望を抱えてここから発っていったのだ――十二年のあいだ……九月の朝の陽がさした細長いプラットフォーム。そこを今、わたしたちは撮影され、テープにとられながら往ったり来たりしている。このプラットフォームの範囲内で、わたしは行なわれた会話を描写しているのである)。
 彼女はわたしのために努力しているんだ、ということをわたしは耳にする――
「あたしはね、討論会での自分の発言や、ある人たちに送った回想記の幾章かであんたの性格を説明してあんたを擁護したわ、あんたの運を楽にしてあげたのよ……」
 彼女が説明するなどとよくもそんな! 一度もわたしを理解したことがなく、一つとしてわたしの行動の真意がわからず、わたしの行動を一度も予測できなかったのに(現に今と同じだ)――わたしを説明するなんて――しかも秘密警察に! そして彼らと協力で――全世界に説明する……
 傷つけられた自尊心は満たされることを要求する、そして観客が多ければ多いほど余計に満たされることを要求する、というのは常にそうなのだろうか? 自尊心の場合は、おそらく、常にそうしたものだろう。だがしかし、秘密警察でも辞さないというのは?……どんな女でもというわけではない。
 君といっしょではなかったか、わたしがメモ帳からメモ帳へと清書したのは? 狼のあとに尾いてゆく羊は羊にあらず、というあの諺も君が読みあげて、わたしが書き取ったのだ。
「気を付けた方がいいよ、黒い翼のサービスを気軽に受けないようにしたまえ。それは嬉しいだろうさ、急に持ちあげてくれて、大事にされるんだから……」
「だいじょうぶよ、あたしは自分のすることは心得てるんだから」


 1974.4
 :モスクワ

 沈黙の打破

 一九七三年におけるソルジェニーツィンの新作『収容所群島』の発表を、わたしは非常に大きな出来事と考える。その結果の測り難さからいって、それは一九五三年の出来事、すなわちスターリンの死とのみ比肩しうるものである。
 わが国の新聞でソルジェニーツィンは、裏切者と宣告された。
 彼はたしかに裏切った――といってももちろん、彼がそのために名誉をかけてたたかった祖国や、彼が自己の作品と人生によって名誉をもたらしている祖国の民衆をではなく、グラーグ――矯正労働収容所管理本部をであり、何百万人の破滅の歴史を公開に付し(裏切る(プラダーチ)という動詞と、付すという動詞は同じ))、自己の手中にある具休的な事実や、証言や、人々の履歴を添えて、その歴史を物語ったのである。その歴史は、だれもがそらんじていなければならぬはずなのに、権力が理解しがたい理由から必死になって忘却に委ねようとしているものだ。
 いったい裏切っているのはだれか?
 第二十回党大会は死体の山にかけた血まみれのゴザの端を少しだけ持ちあげてみせた。その一事だけでも一九五〇年代に、何百万人という、生ある人々、半ば死んだ人々、まだ最後のひと息分だけ生命のくすぶっていた人々を、破滅から救ったものである。第二十回党大会は賞讃された。第二十二回党大会は滅びた人々の慰霊碑を建立する決議を採択した。ところが、数年とたたぬうちに、歴史のいまだかつて知らぬほどの規模でわが国で犯された悪業を、民衆の記憶から熱心に削りおとしにかかったのである。何百万もの人々が死に、みなが同じふうに破滅したのだが、その一人ひとりは決して一匹の蝿ではなく、それぞれ自分独自の運命をもち、自分独白の破滅をした一人の人間だったのだ。「死後、名誉回復された」とか、「スターリン個人崇拝の結果」などという。だが、個人はいったいどうなったのか――崇拝にかこまれた個人ではなく、死後の名誉回復という一通の証明書が残されただけの個人は? その個人はいったいどこに行き、どこに葬られたのか? 一人の人間に対して、その人間がわが家から連行された瞬間にはじまり、一通の調査書となって肉親のもとに戻った瞬間に終るまでに嘗めつくしたものは、いったいどうなったのか?「死後、名誉回復された」という言葉の背後にあるものは何か――いかなる生活、いかなる刑罰か? ほぼ一九六五年頃から、このことに関しては沈黙するよう命じられた。
 伝説の人、口碑の人物ソルジェニーツィンは、ふたたび沈黙の封鎖を打破した。犯されたことに現実性を、おびただしい数の犠牲と運命に名前を、そして何よりも、数々の出来事にその真の重味と教訓的も意味をとり戻してくれたのである。
 われわれがあらためて知り、耳にし、目にするのはこういうものである――捜索、逮捕、訊問、監獄、移送、中継監獄、ラーゲリ、飢え、殴打、労働、死体。『収容所群島』

   一九七四年二月四日、、モスクワ
   リージヤ・チュコフスカヤ


 1977.5
 :モスクワ

 一九七七年五月二十五日午前七時に彼女は息を引き取った。埋葬は翌日。死亡は全く公にされることはなく、数人に知らされただけで、ひと月たってからも、『ギンズブルグさんのお具合はいかがですか?』などと尋ねられたほどであった。
 陰鬱で冷たい夜来の雨が止むかと思うとまた激しく降った。
 枢は部屋のテーブルに安置されていた。
 変わり果てた姿。黄ばんだ顔の老婆。重症にさいなまれていた時でさえ、けっして老いのそぶりを見せることはなかったのに。
 親しい友、知人、愛読者たちが出入りしていた。かつてのコリマやヴォログダの住人や隣家の人びとも……
 部屋の片隅からバッハの音楽が流れていた。しめやかに。やつれ切って黒ずんだ顔のワシリー・アクショーノフは無言の挨拶をすると、ゆっくりと歩いてレコードを替えていた。
 雨の中の出棺。霊枢車、バス、乗用車数台。墓地まで百名以上が見送った。クジミンスコエ墓地。古く広びろとしている。緑が多い。真ん中に広い並木道……狭い脇道へ曲がる。
 アントン・ワルテルの墓には黒ずんだ十字架が立っており、その横に新しい粘土質の穴が黄ばんだ口をぽっかりあけていた。
 雨が小降りになった。柩の蓋が開けられた。他人のような濃い黄色をした顔があった。私はワーシャに聞いた。
「ひと言いいかい?」彼はうなずいた。
「彼女は幸福のために生まれてきました。幸せであり、人に幸せを贈るために。子供たちをはぐくむために。詩や散文を書くために。学生たちに教えるために。だがしかし、若く美しく楽天的な彼女に、多くのたくましい男たちをも打ち砕いたほどの災いと苦難とが襲いかかったのです。数知れぬ人びとを破滅に追いやったあのスターリン獄。彼女はあらゆる徒刑の恐怖を体験しました。徒刑地で彼女は長男の死を知りました……十年の監禁ののち、つかの間の希望ののち、ふたたび逮捕され、永久流刑に処せられたのです。自由の身となってからも──夫であるドクトル・ワルテルに先立たれました。短い喜びと長い長い不幸。そして最後に恐ろしい病……だが、いつの日どこにあっても、彼女は自由を失うことはありませんでした。それは、長い間苦しみ抜いてきた、あの極北の地に生えている灌木、酷寒にもめげることなく育つ灌木にも似ています……
 彼女の労作は、いまも続きそして将来もなお続くであろうシリーズに先鞭をつけるものでした。あの時代から回想記を書き、いま書いており、わが国の痛ましい運命を理解しようと努めている私たちはみな、彼女の跡を追って歩み出したのです。
『けわしい旅路』──これはわが国の社会思想や文学の歴史における新しい章の始まりなのです……ささやかな幸福をかみしめることのできたのが、せめてもの慰めでした。彼女はパリを目にし、ケルンではハインリッヒ・ベルに招かれました。彼女はこの旅を心から喜んでいました……続編が世に出るまで生き長らえることができなかったのが心残りでなりません。
 彼女は苦しみながら世を去りました。死は苦悶からの救いでした。とはいえ、それは私どもに痛みをもたらす、残酷な死なのです……死はやってきました。だが、死後の名声は長く続くことでしょう。彼女が本を書いたその言葉、翻訳に使われるその言葉のように、いつまでも生き続けていくことでしょう」
 最後の別れの接吻。蓋。金槌の音……
 ワーシャは母とのパリ旅行を懐かしんでいた。娘のトーニャは、巡業先のオレンブルグからその日に飛んで来たのだが、出棺にも埋葬にも間に合わず、夕暮れにただひとり、墓前にうずくまるのだった。


 1983.4
 :キーエフKGB隔離・尋問監獄

 逮捕されてから七カ月というもの、私は女王のような生活をしてきた。どこへ行っても、目の前でさっとドアが開かれる。監獄に入るときも、取調べ室や法廷に入るときも。そして、別のだれかが背後でまたドアを閉じる。このところ私はそれほど歩いていない。たまに廊下を歩いてちょっと一息つくくらいのものである。それでも私は女王にふさわしい堂々とした立ち居ふるまいをつづけている。ある場所から他の場所へ行くとき、たいてい私は車で送ってもらう。また、かなりの数の人たちが私に「仕える」ために雇われている。たとえば、鉛筆を削らせるためだけに、私は警護の下級将校を呼びつける。また女王がもともと私物である新しいソックスをはきたいと望んだりしようものなら、監獄をふくむかなり多数の臣下が即座に行動を起こさなければならない。監獄は全書類に署名しなければならないし、ソックスがほしいという女王陛下の要望は、もちろん正式に記録されなければならない。私が拘留されている監獄はKGB隔離・尋問監獄と呼ばれているが、第二次世界大戦中のドイツ占領下には、ゲシュタポによって使用されていた。この監獄で、私は生まれてはじめて専用の個室をもつことになる。そこには鉄の簡易ベッド、小さなナイトテーブル、そして用便バケツまで備えてあった。女王の書いた文書はすべて国家にとっての重要性という視点から「しかるべき人物」によって定期的に検閲される。だから、私は監獄のなかでつくった最初の詩集を文字にはせず、苦労して一語一語脳裏に刻みこんだ。ここでは原則として頭のなかまで検査対象になっているが、私の場合、断固として「拒否権」を行使してきたため、まだこの原則を強要されていない。この特権はたやすくかちとられたものではない。だからこそ、私には胸を張って歩く権利があるのだ。諸君、困難にめげず、最善を尽くして活路を開くべし。これが女王たる私の意志である。
 今日、私はキーエフの居住地を発ってモルドヴィアの居住地へ向かう。これが矯正労働収容所への護送の旅のはじまりとなる。一時間以内に私は駅まで車で連行されるだろう。前もって伝えられたように、私の文書類はすべて別便で送られるので「わざわざ自分でもち歩く必要はない」という。その間巷の文書類というのは、私への判決文、それにたいする異議申し立て、裁判での私の陳述書、裁判の公式記録に関するノート、そして監獄図書館の書物からコピーしたチュッチェフ、プーシキン、シェフチエンコ、レールモントフ、ジェコフスキーの詩などである。いずれにせよ、収容所へ移送されているあいだは、そうしたものを読もうにも機会がないだろう。旅だつまえはいつもそうなのだが、私はちょっと興奮してウキウキした気分になっている。もちろん、これが普通の旅でないことぐらいよく承知している。警備犬に追われ、機関銃をもった護送兵たちのどなり声を聞きながらの旅、息苦しく圧迫されるような護送車両ストルイピンに乗せられ、中継監獄の悪臭に悩まされる旅だということぐらい……。それでもやはり私の精神は高揚している。この七カ月間、私はそれほど不快な気分ですごしたわけでもなかった。取調べのとき、彼らは私から口さえきいてもらえなかったし、私は逮捕者に一通の嘆願書も書かなかった。彼らが手に入れたものといえば、私が裁判でおこなった陳述、そして訴訟にはいっさい協力しないというきっぱりとした拒絶ぐらいのものだ。政治犯としてはすこぶる満足なすべりだしである。そしていま、収容所への移送という次の段階がやってきた。祖国への功績によって、私は最高の栄誉をうけた。厳格レジームの収容所に七年間、つづいて流刑五年間という栄誉を。
 その判決は、二十九歳の誕生日プレゼントとして下された。しかし、その日私はもうひとつプレゼントを受けとった。イーゴリが私の裁判の証人として召喚されたのだ。戸口から彼は私に向かって叫んだ。「おい、落ち着くんだ。愛してるよ!」と。それからイーゴリは判事たちのほうに向きを変え、彼らやこの訴訟にたいする自分の意見をはっきりと陳述した。とくにきわめつけは、判事たちに(私も初耳だったが)私が国際ペンクラブの会員であるというハッタリを突きつけた場面だった。そして、無理やりに退廷させられるまぎわに、彼は見おさめの一瞥を私に送ってくれた。聞かせてください、判事のみなさん。いままでこんなふうにあなたたちを見つめてくれた人がいたのなら。看守のあなたはどうなの? 監獄のべトルーニャ、あなたは? もちろんないでしょう。だからあなたたちには、収容所への旅を目前にして私がほほえんでいられるわけがわからないのよ。
 私は旅の食料として、黒パン半塊、ニシン少々を配給された。以前に読んだことのあるサムイズダート〔地下出版物〕の記事から、これは第一中継地点まで二十四時間かかるという意味であることがわかっている。ニシンを食べることはすすめられない。食べるとひどくのどが渇くし、たぶん飲物はなにもないだろうから。アレクサンドル・ソルジェニーツィン、とても貴重な数々の忠告をありがとう。もしあなたの著作を読まなかったら、イーゴリと私は、KGBがドアをハンマーでたたいているあいだに手紙や住所録をことごとく焼却する沈着さなど、とてももてなかっただろう。また、彼らが監獄で私を裸にしたとき、びくともしないほどの自制心を奮いおこすことはできなかっただろう。もしあなたがいなかったら、良心の囚人たるものだれでも心得ておくべき基本原則、つまり「ぜったいに当局を信用してはならない、恐れてはならない、たのみごとをしてもならない」という大原則を学びとることはなかっただろう。ニシンに関する話のような些細なことまで前もって教えてくださってありがとう。囚人はからだも荷物も軽い……。箱馬車が待っている。囚人護送用の「黒カラス」が。ああ、もう四月なのだ。行く手に待っているのは旅。「車は列車のまえにぴったりとまり、あなたは自分からそのまま列車へと足を運ぶことになる。警備犬がどこか下のほうで狂ったように吠えている」。そう、ここまでは全部本で読んでわかっている。そして、ここからはすしづめのストルイピン車両のなか。三メートル立方の檻のなかに閉じこめられた女たちの顔やからだがうごめいている。ぎっしり二列につめこんだら、ここにいったい何人の囚人が入るのだろう? 十五人くらいだろうか。次の檻は男たちでいっぱいだ。私の姿が彼らの目にとまると、どよめきが起こった。
「見ろ、若い女がいるぞ!」
「よう、かわい子ちゃん、どこに連れていかれるんだい?」
「こっちを見てくれよ!」


 1983.9.6
 :モルドヴァ

 その時点では私たちも知らなかったのだが、じつはタチャーナ・ミハイロヴナはすぐに流刑地に送られたのではなかった。「名札をつけることを拒否し、故意に収容所の規則に違反した」かどで、彼女は収容所内の監獄ペカテに二カ月間拘禁されていたのだ。彼女は刑事犯ゾーナの寒くて寂しい監獄のなかで九月と十月をすごした。もちろん、釈放にそなえて家族が送ってくれた暖かい衣服を身につけることもなく。そのころにはもう霜がおりていた。この懲罰房のなかで、彼女は同胞市民の人権擁護のために私たちがかねて申し合わせていた八日間の「マドリッド」ハンガー・ストライキをおこなったのだった。

 ヘルシンキ合意調印国の首脳各位へ

 私たちソビエト社会主義共和国連邦の女子政治犯は、わが国において人権侵害がおこなわれていることを証言いたします。
 ソビエト国民は言論、出版、集会の自由を奪われています。また、居住地を選ぶ権利を与えられていないばかりか、自国内においてすら自由に転居できないのです。さらに、ソビエト国民はみずからの立脚する民族的・宗教的基礎によって差別をうけ、その信条によって迫害されています。
 私たちは、政治犯や一般犯罪人の生命のみならず全国民の生命が、法よりもむしろ秘密指令によって左右されていることを証言いたします。それゆえに、ソビエト国民はみずからの権利や義務を実感することはおろか、知ることすらできません。ソビエト国家の全体主義的機構のまえでは市民の権利など存在しないのです。私たちは、いかなる国際的な委員会にたいしても、私たちの主張を裏づける証拠を提出する用意があります。
 私たちは、国際社会において信用に値するのは自国民の諸権利を尊重する政府のみであると確信しています。また、私たちは虚偽や専制や暴力に反対する勇気をもつすべての人びとと断固として連帯するものです。
 同胞市民を支援する手段がほかにない以上、私たちは侵害された彼らの諸権利を擁護するために、一九八三年九月七日より八日間のハンガー・ストライキをおこなう決意です。

   アブルティエネ、バラッツ、ベリヤウスキュネ、ヴェリカーノワ、   ラーザレワ、オーシポワ、ラトゥシンスカヤ、ルデーンコ
    一九八三年九月六日


 1984.3.6
 :モルドヴィア

 私自身が説明しなくても、リージア・ドローニナの書いた以下の声明文が、彼女の身に起こったことの仔細を物語っている。

 ソ連最高会議幹部会へ

 私は一九二五年に独立国ラトビアの信心深い農家に生まれました。そして、祖国の民族精神と法律にそった教育をうけました。
 ふたつのおぞましい事件が私の青春に暗い影を落とすことになりました。その事件とは、一九四一年に起こったソビエト政府によるわが国民の強制流刑、そして一九四二年に起こったゲシュタポによるユダヤ人大量処刑です。こうした事件で犠牲となった人たちのなかには、学生仲間や身近な人たち、知人たちがたくさんいました。そのとき、私は祖国が二大強国の相争う闘技場と化したことを悟ったのです。
 戦争が終わって一年半後、私をふくむ家族全員が反逆罪で逮捕されました。私たちが「不逞の輩」と結託したというのがその口実でした。このいわゆる不逞の輩というのは私の父の友人たちのことですが、父はロシアからの避難民や戦犯やほかの困っている人たちを援助したのと同じように友人たちを助けただけのことで、祖国や同胞を裏切ったことなど一度もありません。私も裏切りの罪を犯した覚えなどまったくありません。にもかかわらず、私はバルト地区軍事法廷で裁判にかけられ、五年の刑を宣告されたのです。訴訟手続きは、当時私には理解できなかった言語つまりロシア語でおこなわれました。裁判ののち、私ほウラルへ送られ、その後ヴォルクターへ送られました。一九五一年、私は肺に穴のあく病気にかかり釈放されましたが、「戦犯」の一人としてコーミ自治共和国にとどまらねばなりませんでした。そして一九五四年、つまりスターリンが死んで国家に明確な変化が生じるにいたって、はじめて私は生まれ故郷に帰ることができたのですが、しかし夫と娘と私の住む場所はどこにもありませんでした。極北の地で働くことにより、一九六二年になってやっと夫と私はラトビアに共同組合アパートを買うだけの貯金をすることができ、これでようやく私の生活も安定したかのように思われました。
 しかし一九七○年、私はふたたび逮捕され、ラトビア共和国刑法第一八三条一項によって裁判にかけられました。この条項は私が逮捕される数年前にこの法律のなかに加えられたものでした。ラトビア共和国の最高裁判所は、サムイズダートをひろめたかどで私に二年の刑を宣告しました。しかし私は、この条項には道義上の正当性がないと強く主張するものです。
 なぜなら、『世界人権宣言』の十八条によれば、なんびとも思想、良心および宗教の自由を享有する権利をもっているからです。この権利は、自分の信念をもちつづける自由、思想や情報を求め、受けとり、交換する自由をふくんでおり、しかも国境を越えた普遍性をもっているのです。
 犯罪人として投獄されて二年間をすごしたのち、私は家族のもとに帰り、ふたたび働きはじめ、中風を病む夫と年老いた両親の世話をしました。両親の年金は合わせても月一〇ルーブルしかなかったからです。一九七七年、『パドミュ・ジャウナトゥネ』紙上にJ・カルナイとF・リツィスという人物が「あなたの友人はだれなのか教えてほしい」という記事を発表しました。この記事は、私の家族である父と亡き兄と彼の妻、そして私自身を中傷するものでした。私が新聞に書きおくった反論は公表されず、中傷した人たちは処罰されないままです。一九八三年、私は三たび逮描され、ラトビアの最高裁判所において「反ソ的な宣伝・煽動」の罪により裁判にかけられました。私にたいする罪状はまったく根拠のないものだつたにもかかわらず、裁判所は私に厳格レジームの収容所五年間、流刑三年間の刑を宣告しました。言葉を変えれば、私はまたさらに八年間も不当に故郷から追放されるという憂き目にあうことになったのです。労働収容所の古参女囚で第二級障害者である私には、生きて家に帰れるというさしたる希望があるわけでもありません。
 一九八四年一月十七日、X・シリニシなる人物がラトビアの中心的刊行物に書いた記事のなかで、私はまたしても誹謗中傷されました。その記事によれば、私は外国の「主人」のために働いているのだそうです。しかし私は、たとえ獄中にあっても自分は自由であると考えておりますし、「主人」などどこにもいない、ということを強調しておかなければなりません。私はつねに忠実なソビエト市民でした。私は労働し、娘や孫たちを養育し、税金を払い、法律を守ってきました。私はいかなる特権ももとめず、国が支払ってくれる賃金以外にはなにも受けとっていないので、だれにたいする負い目もあろうとは思えません。
 私としては、宗教を信じ、宗教的道徳が命ずる倫理規範を遵守しようとしただけなのですが、それが私の意に反してソビエト体制を根底からゆるがす行為だということになったらしいのです。
 以前、私の頭のなかに亡命するなどという考えはまったくありませんでした。しかしいま、中傷を防ぐ手だてもなく、故郷で暮らすこともできず、『世界人権宣言』の第十八条および「市民的・政治的権利に関する国際協約」の第十九条に述べられた諸権利を奪われるにいたって、私はここにソビエト市民であることを放棄いたします。
 私はソビエト政府にたいし、私がスイスに亡命し、亡き兄の家族、すなわちワレンチーナ・ラスマニス未亡人および三人の娘たちと暮らすことを許可してくださるように要望いたします。私がスイスでなくモルドヴィアで死ぬことが、ソビエトの当局者たちにとってみずからの地位を強化するために必要だとは私には思えないのです。

   一九八四年三月六日
   リージア・ドローニナ


 1985.10
 :シゾ

 シゾでの十二日間は、終わってみるとひどく長かったような気がする。そのあいだにはさまざまなことがあった。当局とは房内の気温をめぐる闘争の連続だった。ネズミでさえガウンの袖や裾からもぐりこんで暖をとるほど寒い夜を眠らずにすごしたこともあれば、近隣の房の囚人たちと話をしたこともある。朝起きたら自分の指で目をこじあけなければならないほど浮腫は悪化したし、ひどい寒さも空腹も味わったが、そんなことは気にしない。私はまだ若いのだから、なにか新しいことを学びとることができるのなら、どんなにひどい環境に置かれてもがまんできる。不法な房内の気温を調べて表のかたちにまとめた紙きれは、すでに囚人流の巧妙なやり方で隠しおえた。私たちがこっそりと測定した結果は、当局発表の数値とはぜんぜんちがっている。たとえば、実際の獄中の気温が摂氏一二度だったとき、当局側の出した数字は二六度となっている。しかし、そのくいちがいは簡単に説明がつく。やっとのことで「標準的な」目盛の温度計とはちがうまともなアルコール温度計を当局につくらせ、ちゃんと目盛も摂氏一二度をさしたのに、看守が曲者だったのである。
「えっ、一二度ですって? ちょっと待って。私にも見せてよ」と言ったかと思うと、彼女はまるで新生児でも抱くように大事そうにその温度計を手にとった。そして、じつと握りしめたうえ、目盛が「もっとよく見えるように」息まで吹きつけてから、しらじらしくも「ほら、二六度あるじゃない」と言ったのだ。彼女が三六度まで上げようとしなかったのが驚きといえば驚きだった。しかし、私はごまかしのきかない客観的データをもっており、房内の夜の気温が摂氏九度から一一度のあいだであることぐらい知っている。このデータは飢餓状態の囚人の頭に浮かんだ妄想としてかたづけられるようなものではない。長い年月をかけて調べた信憑性のある数字なのだ。風呂小屋の気温も同じく一一度である。こんな数字に検察官が目をとめてくれるとは思えないが、私たちは検察のために情報を集めているのではない。私たちのちっぽけな温度計は嘘のつき方を知らないし、脅しが通じる相手でもない。残念なことに、この温度計はけっきょくこわれてしまったが、シゾで私たちとむだにすごしたわけではなく、勇敢に一命を投げだして働いてくれた。かわいそうなアルコール温度計! この温度計は、自分の提出した証拠が「ソビエト体制の弱体化をねらった破壊工作」とみなされることも知らずに、毎日毎日、二十四時間に四回のペースで弾圧者たちの嘘をあばきつづけた。私たちはこの小さな温度計が知らせてくれた事実を検事局に書きおくったが、もどってきた返事には「これは反ソ的な中傷である」と書かれていた。気に入らなければなんにでもそういうレッテルを貼るのが彼らのやり方なのだ。
 私はクーニャとお別れの言葉を交わした。彼女がシゾを出るまでにはまだ三日ある。彼女をここに一人で残していくと思うとたまらない。だいいち、人間のエネルギーの五〇パーセントは熱の発散に使われているのだから、いっしょにいるほうが暖かい。それはともかく、いよいよこから赤い囚人護送列車に乗ってゾーナに帰ることになる。乗りこんでみると、周囲は護送中のほかの囚人たちでごったがえし、騒然としていた。シゾ送りになった私たちにとって、こうした定期的な護送はこのうえもなく貴重な機会であり、詩や情報をイーゴリに渡す「なかだちをしてくれる」人たちが必ず乗っている。護送中に協力者が見つからないようなケースが一度でも起こったとしたら、囚人も護送兵もモグリだと言わなければならないし、私はあまりのことに放心してしまうにちがいない。もっとも、たぶん協力してくれるだろうと思って目をつけた若い護送兵に拒絶されたことが一度だけあった。
 この短髪であっけらかんとした顔の若者が「許されていないからだめだよ」と小声で言ったときには、正直いって私もびっくりし、「なんですって? まったくこれじゃロシアもお先まっ暗ね!」と声をあらげた。
 彼はまるで火でも向けられたかのようにたじろぎ、護送列車のいちばん端のほうに逃げてしまったが、三十分ほどしてもどってきて、黙って手を差しだした。私も黙ったまま、大急ぎで手紙に宛名を書いてその手に握らせた。そして、私たちは目だけでほほえみをかわした。やはり、護送というのは「神からの贈り物」なのだ。
 上官の指示でこの本を分析することになったKGBの役人がこの部分を読んでなにを考えるか、私には想像がつく。たぶん「あの連中は別に護送しなくてはいかん。とにかくほかの囚人たちと同じ列車に乗せないようにすることだ」といったところだろう。
 ばからしい。特別護送にしてみたところで、護送兵たちが乗りこむことに変わりはないのに。まさかその仕事を肩代わりできるロボットがあるわけでもあるまい。「それなら、一般の護送兵をやめて、KGB内部の信用できる人間を乗りこませるまでだ」と彼は答えるかもしれない。
 しかし、信頼して任せられる内部の人間となると、各地にくまなく派遣できるほどたくさんはいない。それに、政治亡命を認められれば、そういう連中だって西側に逃亡し、内部の秘密を洗いざらい暴露しかねない。その数は多くはないかもしれないが、これをきっかけとしてKGBが自分の仲間に疑いの目を向けるようになることは十分にありうる。人間の心の動きまではだれにも見えないのだ。
 というより、今後は世代をかさねるごとに権力を恐れない私たちのような人間が増えていき、やがてはその力によって権力の崩壊する日がやってくるだろう。なぜなら、いまの権力が数十年間にわたって存続できたのは、彼らが人びとのなかに植えつけてきた恐怖心のおかげだったのだから。


 1986.10
 :オデッサ

 私はいま、黒塗りの「ヴォルガ」に乗っている。彼らは私を家に連れていくと言った。永久に、そして「完全に」解放されるのだ。彼らは前科についてなにも記載されていない身分証明書を返してくれさえした。おまけに、ご親切にもKGBの車で私を家まで送ってくれるという。これはいったいどういうことなのか。私は車中で必死に思考をめぐらせる。彼らが監視しているので、ほんのわずかでも困惑のそぶりや感情のたかぶりを見せてはならない。四年間の拘禁で身についた反射神経が無意識に働いた。ぜったいに連中を信用したり警戒を怠ったりしてはならない。
 私のそばにすわっているKGB係官が世間話をしてくる。もちろん、彼はいま起きていることの意味を、つまり私がほんとうに釈放されるのか、それともこれは心理的圧力をかけるもうひとつの手段にすぎないのかを正確に知っている。しかし、いまのところ私にはまだ彼の腹のうちが読めない。あと三十分はわからないだろう。疑心暗鬼になる理由はいろいろある。たとえば三カ月前、私がモルドヴィアの矯正労働収容所から連れだされたとき、たしかに彼らは私を家に帰すと言った。しかし結局、帰宅させてはもらえず、警護されてキーエフのKGB監獄に連行されたのだった。到着したとたんに彼らはこう言った。
「釈放されると思っていたのかね、イリーナ・ボリーソヴナ。あいにく君にはまだ三年の収容所と五年の流刑が残っているんだ。まあ、減刑嘆願書でも書けば、なりゆきが変わることもないとはいえないがね……」
 その瞬間、私は彼らにでなく自分自身にひどく腹が立ったことを記憶している。それまでまる二日間、私は家路についているものと信じて特別護送車にゆられていたのだ。イーゴリの待つ家へ、母や愛犬ラードゥシカの待つ家へ帰れるものと信じて。
 なんてお人好しの愚か者なんだろう! もっとも、いまと同じように、そのときも私は自分がKGBを信用しているとは思わせないようにしていた。そして、けっして動揺のしぐさをせず、役になり切るというスタニスラフスキー方式にならって、終始無表情で平静な声をしていた。そのため彼らの心理作戦は成功せず、結局、私に一通の嘆願書も書かせることはできなかった。今度だって、かりにこれが策略だとして、そこから彼らが得るものはなにもないだろう。しかし、今度はたぶん(としか言えないが)策略でなく本物だ。だいいち、同じペテンを二度つづけてやろうとしているとはどうも考えにくい。とはいっても、いろいろばかげたことをする連中のことだし……。
 そんなことを考えるのはもうやめて、窓の外の落葉でもながめよう。いまはもう十月、落葉は黄色や赤に染まっている。囚人としての五度目の十月。これを最後にすることができるのだろうか。考えてはいけない。KGB係官が話しかけてくることに集中したほうがいい。話題? それは教育制度の根本的な改革問題だ。そういうことなら、次元の高い受け答えをしてあげる。語学や物理学や数学を論じながら。そう、たしかに改革もやり方によってはけっこうなことだし、現在の教育システムはもう時代遅れで役に立たない。しかし、その改革はどんな方向をとるべきなのだろう。むずかしい。
 今度は天気が話題になった。緑の草に青い空、黒い「ヴォルガ」。それにしても、いやというほど目にしてきた監獄の灰色はどこにいってしまったのだろう。いや、それはここにある。私のすぐそばに置いてある囚人服がそうだ。ふつう彼らが囚人を釈放するまえには囚人服を回収する。ところが、奇妙なことに私の場合には回収しなかった……。もうそんなことを考えてはいけない。
 文学のことを話そうということになった。ブルガーコフはすばらしい作家だと思いません? ――ああ。たしか彼はキーエフに住んでいたよ。家はアンドレーエフスキー坂にある。キーエフは、どこからどうみても美しいところだね。――でも、ボロダイの現代風彫刻は好きになれないわ。大きな彫像がすばらしいとはかぎらないから。そう思いません? ――人の趣味ってびっくりするほど似るものだな。――私たちはちょっとほほえんだ。
 車の窓が少しだけ開いていて、ああ、そこから匂いが入ってくる。むせかえるような匂い、禁断の匂い、自由の匂い。そうそう、あれは刈りたての草の匂いだ。お次はまるでキノコみたいだけど、湿った大地の匂いだろうか。そして、すぐ鼻先ではありふれたガソリンの匂いがしている。自制心をとりもどさなければ! たとえこれが最後だとしても、自分はまだ護送中の身だということを忘れてはいけない。ところで、運転手はなにを考えているのだろう。
 まるで合図をうけたように彼が会話に加わってきた。私たちはゴルバチョフの反アルコール政策のこと、その一方で盛んにおこなわれている密造酒づぐりのことを議論した。


 1987.8
 :埼玉県大宮市

 ハバロフスクの強制収容所で昭和二十九年八月二十五日に死去した山本幡男氏の、第七通目にあたる遺書が山本家に届けられたのは、昭和六十二年の夏の日のことだった。山本氏が世を去ってから実に三十三年目にあたる。
 届けたのは、横浜市保土ケ谷に住む日下齢夫氏、アムール句会の「梅城」氏である。遺書と同封されていた手紙には、幡男氏夫人のモジミさんに宛てて、次のように記されていた。
「(略)同封の御遺言はソ連から糸巻にカムフラジュして私が持ち帰つたものです。日本のインクと色が違つて居るでせう。ソ連ではこの様な紫色のインクを使用したからです。御遺言の赤い線や○印等は私が記憶する都合にて引いたものと思はれます。実は帰国したあとの昭和三十二年八月の山本様の御命日に坂間訓一さん(故人)と佐藤徳三郎さんと私とのアムール句会の三人で御何ひ致しました折にお渡し致す所存でした。その折、坂問さんから御遺言は既に全て帰国された方々によつて届けられてゐるとのこと、此の際はお渡しするのをご遠慮したはうがよいとのお話があり、そのまま私が長い間保管して居りました次第です……」
 日下齢夫氏はソ連地区からの長期抑留者として昭和三十一年十二月末に故国に帰ったあと、四十二歳で第二の人生の出発を迎えられた。知人を頼ってようやく建築会社の倉庫勤務の職を得、その後、刻苦勉励して難関の一級土木施工管理技師試験に合格なさっている。不惑の年齢にさしかかってからの再出発で、そこに至るまでの御苦労は並大低ではなかったに違いないが、帰国後に結婚され、四十七歳で初めて一女を得られて、親となる喜びも味わわれたという。
 十数年前に夫人を病気で亡くされ、すでに七十歳を過ぎた日下氏は、やはり山本氏の御遺族に自らの分担であった遺書の部分を届けぬうちはあの世で山本氏に顔向けできない、という気持にかられるようになったのだという。


 1990 秋
 :ロンドン

 一九九〇年秋、ロンドン郊外のサウスゲートに住むラトゥシンスカヤ夫妻を訪ねた。八六年十月に釈放された彼女は、夫とともにアメリカに渡り、八九年以来ロンドンに住んでいる。その日は奇しくも二人が西側に亡命してまる四年目にあたっていた。以下は彼女と交わした一問一答の一部である。

 ――西側の生活はあなたが想像していた通りでしたか。
 私はそれほど幻想をもたずに西側にきましたが、それでも何度かカルチャー・ショックを受けました。たとえばアメリカでは、丸暗記の教育がおこなわれていないこと、物理学の教育水準が低いことに驚きました。また、西側の人びとがマスコミを信じきっているのも驚きでした。ソ連では、政府が国民をだまそうとしていることをだれでも知っているので、情報に対しては注意深く、滞疑的なのです。
 ――詩が原因で八二年に逮捕されたそうですが、反ソ的な内容の詩だったわけではないのでしょう?
 ソ連では、詩という表現形式は国民の精神生活に深く浸透しており、大きな影響力をもっています。そういう伝統があるため、政府も詩の政治的役割を重視してきました。積極的に共産主義を賛美する詩を書かない詩人は、反政府的でなくても非政治的なだけで反逆者とみなされることになります。だから、もっぱら愛や自由、人間の尊厳をテーマとする私の詩はサムイズダートというかたちでしか出版されなかったし、またそのために私は逮捕されたのです。
 ――あなたにとって、政治と文学活動は関係がないのですか。
 関係ありません。個人がそれぞれの政治的見解をもっているのは当然だとしても、だれもが政治家だとはかぎりません。詩は純粋に詩のために書かれるべきであり、政治的詩である必要はないのです。KGBは私を政治思想家とみなしているようですが、それは彼らの勝手です。
 ――現在、あなたの作品はどのような手段で発表されていますか。
 全作品をまずロシアの読者に送ります。大部分はサムイズダートとして発表されますが、なかには公に出版されるものもあります。いまKGBはデモや鉱山労働者のスト対策に奔走していて、作家など相手にしてはいられないのでしょう。原文を読んだ読者の反応を確かめ、かつて収容所でいっしょだった仲間たちの意見を聞いたあとで、外国語への翻訳を許可しています。
 ――ゴルバチョフのおかげで釈放されたそうですが、彼のことをどう思いますか。
 私たちはゴルバチョフ時代の大部分を懲罰房のなかで過ごしました。転向を迫られても、私たちが断固拒否したからです。ゴルバチョフが政治犯の釈放を決めたのは、西側に「いい顔」をするためです。彼らが人道的であるのなら、まず老人やからだの弱い人を釈放するはずなのに、有名人を先にしたのがそのいい証拠でしょう。彼が権力を振って五年にもなるのに、まだソ連にはおおぜいの政治犯がいます。圧政をしき、政治犯を拷問にかけながら、ジェスチャーでその実体を穏蔽しょうとする独裁者を信用するわけにはいきません。
 ――ペレストロイカの成否は? また、将来ソ連に帰りたいと思いますか。
 ゴルバチョフは共産主義の近代化をめざしながら、同時に権力の維持をねらっています。しかし、国民はそもそも共産主義を望んでいません。私たちの国はまだ自由とはいえないし、民主主義国でもありませんが、いずれ必ずそうなると信じています。そのときこそ、私はソ連の市民としてではなく、祖国ロシアの市民として帰国できるでしょう。
 ――ソ連の民主化が進んだ場合、社会主義の運命はどうなるとお考えですか。
 東ドイツは流血の犠牲を払って社会主義を捨てましたし、スウェーデンは社会主義的政策によって豊かさをなくしました。ソ連の場合は最悪です。たとえば注射器が不足し、国じゅうで注射器を共用しているため、多くの子供や新生児がエイズで死亡しています。医療水準も低く、なかなか薬も手に入りません。病院に行けば生命が危うくなる。それが社会主義と呼ばれる世界の現実です。だから、私は社会主義を信じていませんし、(ソ連も含めて)社会主義が存続するとはとても思えません。
 ――最後に、日本の読者に何かメッセージを。
 私の本に書かれた事実を日本の読者に信じていただけなくても、気にはしません。理解できないのはむしろ幸せだといえるでしょう。私たちの体験のほうが異常なのですから。ただ、私がロシアとソ連とを意識的に区別していることはわかっていただきたいと思います。共産主義のソ連は長続きしないでしょう。そして、祖国ロシアがソ連から開放されたとき、私たちと日本のみなさんとの相互理解はいまよりずっと深まると思います。

 インタビューは二時間あまりにおよんだ。彼女は真剣に言葉をえらび、ときには静かに、ときには声高かに、祖国の姿や自分の体験を語った。そこには、政治の犠牲となって過酷な運命を背負いながら、強靱な意志の力で生き残った人物のもつ迫力がひしひしと感じられた。

                  矢田雅子


 1992.11
 :マガダン

 双発のアントノフには、私のほかに、寒さにそなえてオーバーにくるまり、帽子を耳までしっかりかぶった三人の軍人が乗っているだけだった。眼下に広がるレナ川は岸から岸まで氷が張っているものの、まだその氷の中を鋼鉄のような灰色の水がちょろちょろと流れている。だが、支流はみな固く凍りつき、流れに漂う浮氷は雪でかすんだ島にはりついている。東へ向かうトラックを見つけてマガダン、そして太平洋へと行きたかったのだが、ひとつしかない道は永久凍土層のために亀裂が入って通行不能であり、使い古したこのアントノフが唯一の交通手段だった。ヤクーツクの上空で機体が傾くと、雪に沈んだ何千、何万という小さな家のめちゃめちゃなコラージュが、鉛筆で描いた線のような壁とそのまわりの暗い道の中に現われる。セルゲイとマルファのまだなにも建っていない建設予定地が見分けられたと思うと、レーニン広場の玩具のようなレーニン像が現われる。そして、タニアが未来を待ち、モチャノフが人類の到来のために精を出すアパート群のチェス盤。やがて雲がそれらをおおい隠し、飛行機は暗くなりかけた空の下を東に向かっていった。
 飛行機の絶え間ないかすかな震動で、なんとなく不安な気がして私は眠れずにいた。ときおり雲が切れると、生物の気配のない、凍りついた寂寞たる山脈が下の方にかすかに見える。こうした荒野が11,000キロ近くつづくのだ。70年前、一つしかない道を、ヤクーツクの数人の商人が薄茶と禁制のウォトカをたずさえて、激減した部族のもとへと向かった。彼らはマンモスの牙と毛皮をもって帰ってきただけでなく、数人の女の子をヤクーツクの売春宿へ連れていった。ひとりにつきやせたトナカイ1頭の値段で、一族が売ったのだ。
 発育の悪いカラマツで黒く見える眼下の渓谷には、動きのない河川が横たわっている。飛行機はまもなく、山や裂け目がこぶのようにつづく清らかな氷河の上を飛びはじめたようだ。その冷たい静寂が機内を満たす。軍人たちは防寒具にくるまって眠り、私は凍えながら下を見つめた。
 この空漠たる場所は、いまでも人びとの記憶の中に死の収容所の大陸として残っていた。1931年、巨大な金の鉱床が発見された数年後に、ダリストロイと呼ばれる機関が、レナ川の先のシベリア北東部をすべて包含する地域メキシコよりも広大な土地を支配することになった。まもなく内務省と秘密警察の支部になったダリストロイは、慣例を無視して、思うとおりに活動した。そのため、この地域ではソヴィエト憲法は通用せず、白昼の悪夢が現実となった。
 このコルイマの地には毎年、何万人もの囚人が船で送られてきたが、そのほとんどは無実だった。囚人たちは上陸した場所に港をつくり、それからマガダンの町をつくり、内陸の鉱山までの道をつくって、そこで死んだ。最初のうち、囚人は富農(クラーク)と犯罪者だったが、スターリンの偏執症が高じると、破壊工作員と見なされた人や反革命主義者が送りこまれるようになり、それはあらゆる階級におよんだ――共産党の幹部、軍人、科学者、医者、教師、芸術家。
 囚人たちは、坑道で石が落ちてきたり昇降機のケーブルが切れたりしたために死に、アンモナールのガスや珪肺症、壊血病や高血圧で死に、血や肺の組織を吐いて死んだ。冬には、蒸気のホースが金を含んだ砂をとかしたあとの鉱滓を選鉱小屋からマイナス50度にも下がる屋外へ運びだす作業で、1ヵ月もたたないうちに肺炎や髄膜炎で死んでいった。10年もしないうちに、コルイマは世界の金の3分の1を産出するようになった。1キロの金をとるのに人間ひとりの命が犠牲になった計算である。だが、実際のところ死者の数はわかっておらず、200万人を超えるものと推測されている。
 太平洋から80キロのところにあるソコルに着陸したときには夜になっていたので、その日はがらんとした宿泊所で眠った。この季節でも、降雪量が多くなければ奥地まで行く長距離バスが2便あるというので、そのバスに乗り――そして、用心しながらヒッチハイクして――私はコルイマ丘陵へと入っていった。
 この丘陵には永遠につづく単調さがあった。古墳のような丸い丘が、こだましあったり姿を映しあったりするように道をとりまいている。ときどき風で頂上の雪が吹き飛ばされると、茶色い岩の頭部が見える。土地全体がまだ形をなしておらず、別の地質時代に引き込まれているようだった。また、日照も十分ではない。太陽は、やっとのことで空の4分の1までのぼると、ふたたび沈んでいくのだ。
 バスが静かな村々を通りすぎて走る道は、当初、マガダンと群島のように散らばる金山集落のあいだの500キロ足らずを結んでいた。この道はいまでも「骨の道」と呼ばれている。この道の建設には最初、何千人という囚人が投入されたが、道は泥にのみこまれ、寒さにひき裂かれて、1キロだけで5万本の木製の梁が必要だった。1932年の初雪が降るころ、囚人たちはまだテントや残材でつくった小屋で暮らしていた。その年の冬は、記憶に残る最も過酷な冬だった。何週間もつづけて猛吹雪が吹き荒れ、収容所全体が生きたまま凍りついた――囚人、看守、それに犬までが。何千人もの労働者のうち、翌年の春にマガダンに帰りついたのは、わずかに100人に1人だった。
 初期ダリストロイの役人たちは、1939年にスパイとして銃殺された。そのときから、より純粋な残虐行為がはじまった。囚人たちの毛皮の衣服や靴はズックの靴と綿入れの上着に取り替えられ、すぐにぼろぼろになった。いまや、目的は囚人を殺すことだった。食事は食べるそばから飢えをおばえるほどに減らされた――800グラムのパンに、ときおり塩漬けの魚やあまったキャベツの漬け物がつくだけだった。そのために、囚人たちは動物の死骸やトナカイゴケや、手押し車のグリースまで口に入れるようになった。1日の労働時間は14時間に延長され、刑期は25年に延ばされた。とても達成できないノルマが課せられて、死が早められた。いくつかのグループに分かれた労働者はノルマを達成しようと必死になって働いたが、飢えた体が耐えられなかった。産出量が減ると、罰として食事が減らされた。そうやって、囚人たちは死へとつづく悪循環に入りこんでいった。毎日、朝と晩に、処刑される者やすでに銃殺された者のリストが読み上げられた。上官が書類から霜を払い、読み上げが一段落するたびに、囚人の楽団がちょっとしたファンファーレを演奏した。鉱山は、3週間で健康を損ない、数ヵ月で命を奪った。労働グループがそっくり切羽から連れ去られ、即座に銃殺されることもあった。囚人の中で監督に任命されるのは犯罪者で、彼らは梶棒で武装し、罰せられることなく政治犯たちを殺した(彼らの処刑の方法は、持ちあげた相手を地面に激しくたたきつけ、すでにカルシウムがなくなった骨が折れるまでそれをつづけるというのがふつうだった)。だが、ほとんどの場合、みな気づかれないうちに衰弱して死んでいった。仕事を楽しんでいるのはごく少数の指揮官だけだった。彼らは、整列した労働者に向かってリボルバーが空になるまで撃ちつづけ、喜びの叫び声をあげた。生き残った者がひとりもいない収容所もあった。
 ここでは、自分の目を失って、死者の目を通して考えるようになる。こちらには、この地方に何の権利もないのだ。それは彼らのものだ。ときには美しいこともあるか? わからない。残虐な場所への道標が見えるだけだ――シチュルモヴォイ、ウルチャン、オイミャコン。道路沿いの収容所は盗みにあって元の姿をとどめていなかった。倉庫として再利用されたり、朽ちはてて積みあげられ、ところどころコンクリートの杭で囲まれたりするバラックは、ごくわずかしかない。監視塔は倒壊している。人の手による盛り土や溝で地面は波打ち、積もった雪にしわがよっている。殺風景な灌木。
 暗闇の中、照明で照らされたオロトゥカンのアパート群に入ってバスが停まった。60年前、ここは尋問センターだったのだが取り調べは遅々としてすすまず、あまりにも長く待たされた人びとの凍った死体が散乱していた。明かりのついていないキオスクで、女の子からフルーツジュースを買う。60キロほど先に、エリゲンに通じる支流域がある。そこは女性の収容所があったところで、新しくやってきたエフゲーニア・ギンズブルクが赤煉瓦色の漠をしたロボット人間の群れに合流して、自分はどうなるのだろうと涙を流した場所である。収容所の監督でさえ、彼女たちをレイプする気にはならないといっていた。
 ヤゴドノエで出会った愛想のよい四人組のマフィアが、ニッサンのジープで町をまわってくれた。「イギリス人! 嘘だろう? どうしてこんなところに? ここはひどいところだぜ。なにか商売でもしようってのか? なぜだい? どうして?」夜半を過ぎたころで、4人は売春婦をさがしているところだったが、街は死んだように活気がなかった。彼らは私のために労働者の宿舎にべッドを見つけてくれて、ポーターに支払いをして――「ロシアからの贈り物だ!」――暗闇の中へ消えていった。
 冷たい夜明けに目を覚ますと、磁器のような空の下で山々が輝いていた。それは確かに、悲痛な美しさだった。さびれたこの町では、私がきたことが人の関心を集めていた。まともな人間はヤゴドノエへはこないのだ。地元の新聞記者ふたりが、車でホース川沿いやセルベンチンカの南のほうへ連れていってくれた。道にはラッカーを塗ったように薄氷が張っている。コルイマ川の支流は、モグラの排出物のようにどこまでもつづく古いごみの山で汚れていた。空を見上げると、もっと広大な山脈が同じようにつづいている。土手には遺棄された浚渫機が散乱している。囚人たちは40年前にいなくなり、かわって採鉱者たちがやってきた。だがこの数年で半分くらいは離れていった、と新聞記者はいった。そこここに、すっかり破壊された集落が道を見おろしていて、工場やレンガ窯の骨組みが残っている。
 蛇行して川へ下っていく道で、ふと思いつき、私たちはセルベンチンカにやってきた。新たにダリストロイの主人となったパブロフとガラーニンは、ここを拷問と処刑のセンターとして建設した。ここはコルイマの暗黒の中心地だったのだ。隔離房の横の張り出しで2台のトラクターがエンジンの回転速度を上げ、処刑のときの銃声や悲鳴をかき消した。1938年には2万6000人の囚人がここで死に、数百人がガラーニン自身の手で処刑された。彼らの死体は橇に乗せられ、トラクターで丘の裏まで引いていかれた。そうでなければ、生きたまま目隠しされて丘の裏の溝に連れていかれ、そこで頭を撃たれた。その後、国の安全に関与している者たちを一掃するというスターリンの一時の方針にしたがって、ガラーニンは銃殺され、セルベンチンカのすべての職員が彼といっしょに処刑された。そして、この場所は破壊しつくされた。
 私たちは雪の空き地をざくざくと踏んですすんだ。その静けさのなかでは、私たちの声は大きすぎた。有刺鉄線が巻きつけられ、プラスチックの造花を通した紐が結ばれた御影石に、国家によって殺された「何万人」への追悼のことばが刻まれている。氷できらきらと光るその石の向こうには、盛り土の跡と枯れたように見える灌木が、どこにも通じていない幽霊のような道を示していた。
 死んだ彼らの目で見ると、希望はまったく見えない。脱出した者はいなかった。彼らはコルイマを「惑星」と呼んでいた。あらゆる未来から切り離され、この場所の現実以外のあらゆる現実から切り離された「惑星」。囚人たちはなんとかして病院に逃げこもうと、灯油を皮下に注射し、まぶたに酸をすりこみ、指を切り落とし、気が狂ったふりをした。だが少しずつ、飢えて衰弱した野蛮人になっていった。当局は彼らを動物だと定めたので、彼らの死には良心の呵責はともなわなかった。彼らは歩く屍と化し、割り当ての食糧も底をついて収容所のまわりをうろつき、やがて意識を失った。特有の高血圧のせいで体力もなく、死ぬ前に家族に一目会うことだけを切望していた。彼らに課された唯一の強制労働は仲間の埋葬だったが、死体がだれなのかを知る者がいないこともあった。若い男が、数ヵ月で年寄りになった。歯の詰め物から採れる金のほうが、彼らが生前に採掘した金より多かったかもしれない。彼らは共同墓地にほうりこまれた。

 次の日の夜、私が泊まった場所から西にそう遠くないところに、地球上で最も寒い町がある。オイミャコンというその町では、マイナス72.1度を記録している。そこまで低い気温でなくても、鋼鉄は割れ、タイヤは破裂し、カラマツの木に斧が触れると火花が飛び散る。寒暖計が下がると、息は凍って結晶になり、土地の人が「星のささやき」と呼ぶ音をたてて地面にちりんと落ちる。
 土地の人びとのあいだでは昔から、寒さがあまりにも厳しいときにはことばそのものが凍って地面に落ちると信じられている。春になると、そのことばがふたたび動きだして話しはじめるので、にわかに、古くなったうわさ話、聞いてもらえなかった冗談、もう忘れてしまった痛みの叫び声、ずっと前に別れた愛のことばで、あたりはいっばいになるという。
 この地面からわき上がるかもしれない叫び声。それは考えるに忍びない。
 詩人のマンデリシタムは、コルイマへ向かう途中、ウラジオストクの近くの一時収容所で死んだのだが、珍らしく絶望を表現した一節で、耳の聞こえないロシアのなかで自分のことばの意味がしだいに消えていくさまを心に描いた。未来の人びとが自分のことばを聞くことはないだろうと。

 10歩離れると、ことばは音をもたない……

 だが、ことばは戻ってきた――マンデリンタム、シャラーモフ、ギンズブルク、バーペリ。戻ってきたことばは、凍った王国に出没し、しだいにその王国を衰弱させていった。そのことばを発した人物が亡くなったあとも。

 夜明け前、悲しみの都マガダンに向かってバスが下っていくと、見えない太平洋を背にした星座のような街の明かりが下からあふれてきた。それがみごとな街であることを、私は苦々しい思いで認めた。海と丘陵にはさまれたメインストリートは、金の化粧漆喰や石でできた建物のあいだを上ったり下ったりし、やがて港のほうに消えていた。
 ホテルを見つけ、ビザをめぐつて口論したあと、ひりひりする風の中へと出ていった。ここはなにもかもきちんとしていて、こぎれいだ。レーニン広場の旗は硬く凍りついてポールできしみ、レーニン自身(両手をポケットにつっこみ、なにも与えることなく立っている)は悪魔のような威光を漂わせて、広場の向こうの金採掘事務所がダリストロイの建物にとってかわった場所を見ている。この街でいちばん高い建築物――計画が中止になった旧共産党本部――は、10年前に建設が途中で中止され、レーニンのうしろに大きな割れ目をあけている。その割れ目を風が吹き抜け、うなっていた。
 メインストリートには、高い破風と高い円柱をもつオフィスビルやアパートが、旗とハンマーの化粧漆喰で飾られて建ち並んでいる。地面や永遠の記憶を踏みつけるために建てられたみたいだ。その横には、日本人の戦争捕虜が建てた古典様式の建物がそびえ、蜂蜜色をした漆喰の正面を見せている。街の中心部はすべて囚人によってつくられていた。元の電報局が残っているし、劇場も(いまはマーケットとして)残っている。そこは、有罪を宣告された女性歌手やバレリーナが、自分たちを迫害する者のために歌い、踊った場所だった。
 当時、最後まで持ちこたえた囚人たちは、マガダンという名のこの地獄の辺土で労働を割り当てられた。ここは、不思議な出会いと混乱を招く記憶に満ちている。生き残った者たちはすべてを知りつくしたへどのような顔つきをしていた、とギンズブルクは書いている。だが、恐怖心は残っていた。こんど政治に大変動があれば、全員がまた逮捕されるかもしれないことを、彼らは知っていた。だれも信用せず、だれも信頼しなかった。この場所は、圧倒的に男が多かった。女の不足は妻を不実にし、売春婦を引き寄せる、と男たちはいった。「コルイマは、太陽に暖かさがなく、花に香りがなく、女に心がない土地である」。1980年代になっても、マガダンの離婚率はロシア1だった。
 いまでは人口は15万人を割り、さらに減りつづけている。シベリア東部で「高額ルーブル紙幣」を稼ごうと、多くの労働者が一時的にやってきては、西へ帰っていく。鉱業や漁業は衰退の一途をたどっている。変わりやすい寒さの中、あたりにはほとんど人かげがない。風が丘陵から雪を削りとっている。私は、囚人の隊列が港からのぼった囚人街道を歩いた。そこは、ぞっとするほど平凡な道だった。戸口の前で雪かきをしている人が何人かいて、犬の群れがごみをあさっている。北を見ると、長い尾根が郊外に迫り、その向こうの工場の煙突から煙が出ており、丘陵のすぐうしろを汽船が走っているかのようだ。眼下には、まわりを取り巻く山々と入り江の岬が、雪をかぶった柵のように海をかこんでいる。水は灰色がかった青で、とても穏やかなので、もう見えなくなった船の航跡がわかるほどだった。
 私は、囚人が切り開いたその道を、埠頭から岬のあたりまで下っていった。尾根沿いに、いくつかの小屋からぐらぐらする階段がおりている。コンクリート板で補強され、道のわだちは固まっている。だれもいなかった。私の心のなかでだけ、囚人たちが私に会いにのぼってきていた。
 氷の縁から海にちょっと手をひたすと、奇妙なことに、一時的な高揚感におそわれた。ここで起こったことはみな、はるかに遠い過去のことのような気がした。2度と起こるはずがない(起こりうるだろうか)。海岸には、鉄やケーブル、割れたコンクリート、古いロープ、仕上げをしていない石が散乱していた。数隻の貨物船が沖合に錨をおろしている。すると、私の頭はほかの船のことでいっぱいになりはじめた。「オホーツク海の死の船」とサハロフが呼んだそれらの船の積み荷は、人間だった。8000人から1万2000人の奴隷を船倉に入れて運んだのだ。日本の近くを通るときはハッチに当て木をして閉め、明かりをつけずに徹夜で先を急いだ。1939年に、汽船インジギルカ号が積み荷を中に閉じこめたまま沈没した。1933年には、汽船ジュルマ号が航行の時機を誤って、九ヵ月のあいだ積水に閉じこめられて動けなくなった。そのあいだに、乗っていた1万2000人の囚人は全員が凍死し、乗組員の半分が精神に異常をきたした。
 船が埠頭に着くと、病人や死人は、私が立っている波止場にひとまとめに横たえられた。エフゲーニア・ギンズブルクもそのなかのひとりだったが、ある女医に助けられた。その女医はギンズブルクを看病して生き返らせることで、おそらく自分の夫が警察の取調官としてはたらいた残虐行為を償おうとしていたのだろう。ギンズブルクはそう理解した。コルイマで最も耐えがたいことは、自分が愛した人たちの思い出だ、とギンズブルクは書いている。

 フェドールは、おそらくロシア系ユダヤ人であるために、強制収容所にとりつかれて成長したのだろう。彼のアパートは政治雑誌や昔の地下出版物(サミズダート)でいっぱいだった。鏡が紐で吊るされている。台所にはモルドヴァのワインの空き瓶が散乱し、登山や洞窟探検の装備が壁をふさいでいた。あごひげが伸びているのは無精なせいだろう。そして、迫害の研究が、あるいはなにか別のことが、彼の印象をどことなく憂鬱なものにしていた。
 暗い過去がさらりと抹消されたこの街で、主だった一時収容所の一つが秘密警察のバラックとして残っていることを知っていたのが、彼だった。「5ヵ月前からつかわれていないので、たぶんもうすぐブルドーザーが入るでしょう。ここではみんなブルドーザーでならされるんです。もちろん、いまは壁でかこまれています」。彼の柔和な視線が、私を値踏みしていた。「でも、私は入り口を知っていますよ」
 そこで、私たちは囚人街道に戻り、北の鉱山へ向かう道が下り坂になって川を越えているところへ行った。セメントの壁と有刺鉄線でかこまれた静かな収容所の中に、フェドールは崩れかけた穴を見つけていた。やっとのことでその穴を通り抜け、壁の向こう側に出ると、そこには人の足跡がまったくついていない雪があった。少しのあいだ、セメントの粉をかぶりながら、私たちはじっと立ちつくして眺めた。私は、見たものを書き留める時間、記憶する時間が欲しかった。あなたはここを見た最初のよそ者だ、と彼はいった。そして最後のよそ者になるだろう、と。だが、私たちは人目を忍んで走りはじめた。いま、こうして走り書きのメモ――寒さでぎくしゃくした文字――を見ていると、その場所が荒々しいスナップ写真となってよみがえってくる。
 私はそこの食堂を思い出す(私たちは格子がはまった窓の下から腹這いになって入ったのだ)。そこには、囚人たちが素朴な景色を淡い色彩で描いていた――夢のような田園の平穏。床はたわみ、割れた材木の嵐のようになっていた。
 私は宿舎を、(たぶん)囚人たちが毛と綿の綾織りのコートと綿入れの上着を支給された部屋を、思い出す。
 さらに、フェドールが前方にある3階建ての建物を指さしたことを思い出す。石段の上の開いたドアのところで、フェドールは肩掛けかばんから防水ズボンと電灯をくくりつけたヘルメットを引っばり出した。そして、私たちは身を低くして悪臭を放つ暗闇の中へと入っていった。凍っていない水が膝に達していた。私たちが話をすると、そのことばがこだまして、ささやきが返ってきた。「ここは懲罰棟です」
 私たちは、下水道を歩くように通路を歩いていった。悪臭につかった鉄の扉と暗黒のほうに開いている鉄格子を数えていたのだが、途中で数がわからなくなった。地下牢はどれも、鉄でつながれた2つ一組の木製の台が据えられたままになっていて、一部屋に40人の囚人が収容されていたのではないかと思われる。こうした部屋が、地下だけでも20はあった。部屋の壁は氷でおおわれている。ここの囚人は、死んだ人間の体を壁に押しっけて寒さから身をまもっていたんだ、とフェドールはいった(彼にはひとり、知り合いがいた)。スプーンで弱々しくひっかいた文字が石に残っているが、判読できない。「セル……レンコ…… 1952……パント……」。それを照らしている私たちの電灯が、次第に暗くなる。こうした絶望的な洞窟の中でほとんどの人が死んだ、とフェドールはいう。彼の友人は、若かったために生き残ったのだった。
 「彼はなにをしたんですか?」と私は尋ねた。
 「自分でもわからないらしい」とフェドールは答える。「記憶をなくしたんです」
 コルイマではよく記憶をなくす、とシャラーモフは書いている。それは肺や手ほど重要なものではない。実際、記憶なんてまったく必要ないのだ。

 夜が明ける1時間前に、私はもう1度丘陵地帯へ行く。これが最後だ。若い地質学者のユーリが、ブトゥギチャクへの道なら知っているし、自分のツインアクセルのバンでそこまで行けるという。だが、そこは長居するような場所ではない。先住民のエヴェンキ族はそこを「トナカイが病気になる場所」と呼び、牧夫たちはその場所はどこかおかしいと感じていた。そこの地面には、放射性のウランが充満しているのだ。
 山脈に入ると同時に、一寸先も見えないほどの雪に襲われた。雪が地上霧のように道路の上で渦を巻くので、裂け目も路面の薄氷も隠れてしまい、車のエンジンはせきこむような音をたて、轟音をたてる。雪が激しくなると、ユーリは黙りこんだ。車のフォグランプの光に吸いこまれた雪が、銀色の光のじょうごを通るみたいにこちらへ向かってくる。明け方近くに、ブレーキをきしませて峠に停まった。猛吹雪のために頭上の山の表面がひきはがされて、吹きすさぶ雪塵になる。そこで待っていると、夜が明けて青白い朝になり、ホッキョクウサギが車のタイヤに隠れようとしてやってきた。
 ユーリはただ「いずれおさまります」といった。おっとりした正直そうな顔をしているが、けっして笑わない。黄色い髪と口ひげ、それに淡黄色の肌は、生粋のロシア人だ。しばらくして、ユーリは車の速度をゆるめ、夜明けの渓谷に入っていく。雪は小降りになり、やみかけている。前方に遠くの山々がかすかに見えるが、もう丸みはなく、薄っべらでもろそうに見える。巨大な葉っぱの葉脈が空を背にして延びているようだ。川沿いには丸いぼた山があり、ときどき金の選別係が住む白壁の整然とした集落が現れる。やがて、その窓が大きく割れているのが見えてくる。眼下には、死んだような河川が荒れ地に半透明の入り江をつくっている。
「この地域からは人がどんどんいなくなっています。労働者はマガダンに出ていきます」。ユーリはまだ雇われていたが、仕事はなく、給料は10ヵ月もとどこおっていた。この先どうするか思い悩んでいるところだ。もうすぐ30歳だった。「そしてマガダンから、労働者は西へ向かいます」
 突然、彼は車を傾けて道をはずれ、半分しか見えない道に入っていった。前方では、揺れる柱のように山脈に雪が降っている。彼はいう。「ブトゥギチャクは、最悪の場所です。ここよりひどいことになったところはありません。2万5000人の囚人が、故治犯も犯罪者もいっしょに鉱山で働いていましたが、放射能のことは知りませんでした。看守でさえ知らなかったんです」
 吹きだまりの深さはすでに車軸に達していて、車台に弾力があるみたいに飛び上がったり沈んだりする。前方には、猟師のランドローバーが通った跡に雪が積もりはじめている。「そいつにできるなら、こっちにもできます」。いったん川の氷を突き破ると、あふれ出た水がドアを打ったが、車はがたがたとはい上がって対岸をのぼる。「こういう自動車は、こういうふうにできているんです! ロシアの道路を走るために!」
 さらに16キロ、吹きだまりを出たり入ったりしながら、壊れかけた鉱夫たちの橋を渡り、低いところを流れる川に沿ってのろのろとすすんだ。車に驚いた数羽の白いライチョウがタイヤの下からあわてて飛びたち、先端が黒い翼が戦闘機のように低木地帯に急降下する。猟師のランドローバーの跡はもうなくなり、やがて車は、カラマツさえまばらな谷をのぼっていく。谷を取りかこんで孤立させている山々の、刃のように鋭く険しい尾根が、白い空から落ちてくる。のぼっていくにつれ、地面は傷跡だらけで不自然になっていく。山頂には坑道が黒い口を開けていて、上に渡された空中ケーブルがよろめきながら雪原を横断して、壊れたクレーンをたどるように谷底へおりていく。光るもやのように雪が漂い、谷を神秘的な輝きで満たす。汚れた太陽が昇っていた。
 右手に、有刺鉄線の破れた囲いが現われ、その向こうの白い流れの上に、崩壊した3階建ての工場の白い壁が立っている。ウランの浮選工場だったところだから、いまでも中に入るのは危険だ、とユーリが教えてくれる。交替制で働いていた労働者は数ヵ月で死ぬこともあったという。ユーリはけわしい顔で車のスピードを上げ、背後で壁が落ちる。「ここを離れたあとでさえ、みなここにきたのが原因で死んでいったんです」
 さらに2キロほど行くと、雪が盛り上がって通れないところにぶつかって、バンは立ち往生した。そこで、明るくて冷たい静けさの中を、歩いてのぼる。膝の上まで雪がとどくこともある。ユーリは帽子を首まで引っぱり、雪を踏みしめて淡々と歩いていく。ユーリの足跡をたどっていくうちに、心臓の鼓動が速くなってきた。大聖堂か死体保管所に入っていくような気分だ。だが、私たちが着いたのは、黄色い石造りの管理棟群だった。建物はどれも崩壊し、屋根は崩れ落ち、ドアはちょうつがいがはずれているか、朽ち果てている。窓枠は雪のような銀色の長方形で、なにもはまっていない。階段をのぼっていくとベランダに出るが、ドアをくぐると6メートル落下することになる。
 1950年代にこのキャンプを生き延びた詩人のアナトリー・ジグーリンは、不具になるほどの残忍な暴力、事故、殺しあい、自暴自棄のストライキを描写している。囚人には名前はなく、個人として扱われることもなく、ただ番号で呼ばれるだけだった。鎖につながれている囚人もいた。彼らは鉱山までの6.5キロほどの道のりをのぼった。そして、山の反対側の収容所からは、女囚の一団が毎日13キロはどの道のりを重い足どりで歩いて、冷たい食糧を運んできた。
 収容所の門の鉄の骨組みが、やぐらの残骸の中で余計もののように立っている。雪の下で足になにかが引っかかる。何だろうと思って引っぱり出すと、有刺鉄線だった。錆びた機械類が雪の上に顔を出している。さらに、バラックと独房の残骸の中をつまずきながら歩く。屋根のない部屋に看守のベンチがまだ置かれていて、一列のコート掛けがある。簡素なべッドの上に積もった雪が、水晶のような固い山になっている。1足のブーツがストーブのそばに捨ててある。すべが、その日暮らしのつましさとみすぼらしさを思わせる。骨組みだけになった鉄の扉が、約1メートル四方の独房の前で揺れている。囚人の薄い粥を中に入れるための細長い穴が残っていて、格子をはめた窓もそのまま残っている。看守たちのサウナのストーブも。
 空気が薄いような気がする。だが、ユーリの頼はうっすらと赤く、つやがある。彼は、格子状にならんだ刻みのある切り株のまわりの雪を蹴っている。下から木製の基礎が現われる。「ここテントがあったんです」と彼はいう。「ここで寝ていたんです」
 どこもかしこもコルイマと同じだった。囚人たちはテントで暮らし、死んでいった。やけをおこした囚人たちは、2層になったテントの粗布のあいだに断熱材としてコケと泥炭を押しこみ、おがくずをかけて、外側に板を積み上げた。これで内部は、1台の丈夫なストーブになった。
 雪は静かに、執拗に降りつづけている。低い切り株の上に吹き積もり、青白い無関心で建物をつつみ隠す。屋根のない廊下、看守の部屋、管理や怠慢や倦怠の部屋に漂う。そして、半透明の青白さで谷を満たす。
 ユーリはテントの基礎を蹴りつづけていたが、私のほうに顔を上げた。「祖父は村の郵便配達をしていたんですが、スターリンにまつわる冗談をいった罪で、収容所で数年を過ごしたんです」
「冗談?」
「ええ。祖父は村の電話を管理していたんですが、ある日、なにかのついでにある人にこういったんです。『ところで、スターリンからあなたに電話ですよ!』この件で、祖父は収容所で5年聞過ごしました。両親はそのことで苦しんだにちがいありません」。彼は木の薄板をブーツで押し戻した。「みんな、親の沈黙の中で大きくなったんです」
 共同墓地があったことをユーリが覚えていたので、その場所までのぼっていったが、雪の下に隠れてわからなかった。谷にさすオパールのような光が強くなっていた。まわりの木や灌木は、白い実がなっているみたいに雪が積もって重そうで、小さなセキレイが止まると震えている。私は小さなヒマラヤスギの針葉をいくつかつまみとった。囚人たちは、壊血病をなんとかしようというはかない望みをもって、この葉を煮たという。
「いまがどんなにひどいといっても、当時よりはましでしょう」
 最初、ユーリは答えなかった。彼はなにをするのにも時間がかかる。少しどもるのだ。「あのころは、ある意味では宗教的な時代でした。みんななにかを信じていましたから」。それをうらやんでいるようだった。
 つまり、苦難は天からやってきたのだ。それは、雨やあられと同じような自然現象だったのだ。非難すべき相手はどこにもいなかった。非難に値しそうな人さえいなかった。スターリンの帝国は、ヒトラーの帝国と同じように、想像しうるかぎりずっとつづくと思われた。過去は絶えず整理しなおされ、未来はあらかじめ定められていた。
 私は、よくわからずにいった。「その時代に戻ることはないでしょう」
 ユーリは答えた。「私たちは、あなたがた西側の人間とはちがいます。たぶん、何世紀も前のあなたがたに近いでしょう。ここでは歴史のすすむ足どりが遅いんです。私たちにとっては、時間はいまだに円を描いています」
 私は、この暗黒の中心でそんなことばを聞きたくなかった。私は彼に、この場所は残虐な謎だといってほしかった。理解してほしくはなかった。彼のブロンドの口ひげとタタール人のような頬骨を見て、私は彼に典型的なロシア人の役を割りふっていたのだ。将来のリトマス試験だった。山の空気が私を酔わせていた。
 だが、円を描いていた彼の手が、ためらいがちに上がった。「私たちは少し螺旋を描いているのかもしれません」と彼はいった。「少し上に向かって」。彼は、ぞっとするような空中ケーブルの行列が高台の上をのろのろとすすんでいるところを見渡している。「祖父が生きていたら、と思います。愉快な冗談が好きな人でした。いまは、どんなことで冗談をいっても冬められません。私たちはそれでも手に入れたのです。冗談を」
 私は彼の肩を抱きしめた。だが、ふたりともキルティングのコートで着ぶくれしていたので、私の手は滑り落ちた。彼は初めて笑顔を見せ、汚い歯をのぞかせた。それから、きた道を引き返した。
 そして、その凍てついた丘の斜面で、彼は歌いはじめた。

  未定稿