《編集ノート》07年3月号
★予定では今月号あたりでこのノートをひとまず終え、次の予定にはいるつもりでいた。が、どうあやら雲行きが怪しくなってきた。契機は、前号のこのページでふれたすがが送ってくれた本に目を通したことにある。そこで私はすがが主張している「68年革命」の意味がやっとのことで見えた」と書いた。事実、すがが指摘するように68/71の一連の「革命」後のこの国をめぐる規範は大きく変化している。そのことを知ったことで、難問が派生した。すがの指摘は、ことばを換えていうと、マルクス主義全盛の時代が去り、構造主義が時代の底流をなす共通意識として浸透していること、それは取りも直さずポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)と呼ばれるものを無視しては社会が成り立たない時代が私たちの前にあることを意味している。要は、構造主義という考え方について「それなりに」ではあれ勉強し直す必要に迫られたのである。
☆INTERMISSIONを挟むことにしたのは、右のことが理由である。詳しくは本文を見てもらうことにして、調べなければならないことが増えたのである。単純に増えただけでなく、なのごとにも欧米に追従するこの国にあって、なぜにサルトルvsストロース論争が無視されたのかにかかわる検証が必要になったわけだが、ここをくぐり抜けないことにはこのノートが意味をなさないことが透けて見えてしまったのだ。
★そういうわけで困ったことになったが、こいうときの常道としてうじうじすることは止めて、予定どおり進めることする。いぜれにせよ、いったん書き終えたあとで全面的に見直し、改稿するということで先を急いできた作業である。いささか格好が悪いが、それは結果を見てもらうことにして、このノートはこれでひとまず「おわり」ということにする。
2007.2.25
4章 中核派の革命論
1. その「革命戦略」
黒田寛一は自らが創設した弁証法研究会で、あるべき革命の戦略を「帝国主義打倒! スターリン主義打倒!」としたた。略語を好む性癖がある黒田はこれを「反帝・反スタ」革命戦略と呼び、以来、このスローガンが全国委員会の革命戦略ということになる。ちなみに、中核派は「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと 万国の労働者団結せよ!」としており、革マルは「帝国主義打倒! スターリン主義打倒! 万国の労働者団結せよ!」としている。3つめの「万国の労働者団結せよ!」の英語表記は双方ともに Down with Imperialism! Down with Stalinism! Workers of the world, unite! としている。英語表記とのからみでいえば中核のほうが正確だと思うが、中核から反革命であるとされている革マルをにしてみれば全く同じというのは格好が悪いので表現を変えているものと思われる。要は、いっていることに異同はない。
「帝国主義打倒」は共産主義者なら例外なく掲げるスローガンである。〔ちなみに、ここで「共産主義者」という場合、それは「マルクス主義者」と同意義である。〕だが、「スターリン主義打倒」となると全国委員会独自のものになる。中核と革マルだけが掲げたスローガンなのである。黒田が参照したトロツキーは、当時のソ連邦を「腐敗はしているが労働者国家である」とし、スローガンとしては「労働者国家擁護」を掲げた。黒田に習ってこれをスローガン化すれば「帝国主義打倒! 労働者国家擁護!」ということになる。黒田は「スターリニズムはもやは擁護すべき対象ではなく打倒の対象である」と断罪し、トロツキーを批判した。その結果が、前述したスローガンが全国委員会が唱える「革命戦略」なのである。世界戦略という割には中身がない。トロツキーの場合にはスターリン主義者が保持する権力を打倒するという具体的なイメージがあるのに、黒田の「反スタ」にはそれがない。いってみれば、きわめて日本的な発想によるものなのだ。具体的なイメージをもたない分だけ「革命的」という「ことば」を強調しなければならないものであり、それ自体が中身の「薄さ」の告白にほかならない。〔ちなみに、黒田を教祖と仰ぐことになる革マルは「革命的」という語を2つ付けている。2つ付けようが3つ付けようが中身は変わらないにもかかわらず、それだけが「革命性」の証だったことを如実に示している。〕
1) 帝国主義打倒
資本主義の打倒はマルクス以来の共産主義者が抱く共通の悲願だった。当時の常識からすると、それは先進資本主義国で実現するものとされていたが、その常識を破って史上初めて社会主義革命を実現したのはレーニンが主導するボリシェビキ党だった。レーニンはロシアにおける革命を実現するにあって有名な「帝国主義論(著作の標題は『帝国主義』)を著した。その中身は次のように要約できる。
――資本主義が高度に発展すると資本の集中が始まり独占資本が成立する。独占資本は、市場の確保や余剰資本の投下先として新領土の確保を要求するようになる。これを現代における帝国主義と呼ぶ。多くの国家はこの帝国主義の考え方に従って領土(植民地)の拡大を競いあう結果、帝国主義国家間の市場争奪戦は世界戦争を必然化する。世界大戦はその帰結である。
上に略述した帝国主義論を根拠にして、レーニンは有名な「帝国主義戦争を内乱へ」という革命戦略を打ち出すことになる。この革命戦略についていえば、マルクス主義者の間で各種の議論がされた。しかし、この戦略に則ってレーニンが革命を成就させたことにより、それらの議論は無効になり、「帝国主義打倒」を唱えるかぎりこの戦略を否定のは難しくなった。かくして「帝国主義戦争を内乱へ」という戦略は、共産主義者を名乗るかぎりでは否定できないものとして定着することになる。
2) スターリン主義打倒
問題はこのスローガンに象徴される戦略である。なぜなら、前述したようにこの戦略だけが全国委員会固有のものだからだ。では、全国委員会はスターリン主義というものをどのようにとらえていたのだろうか。
黒田は「スターリン主義とは革命における二段階戦略であり、それは一国社会主義論として結実する。」とした。
ここで「革命における二段階戦略」という場合、それは本来が社会主義革命であるべきものをまずは民主主義革命の実現を成就し、しかるのちに労働者国家の樹立(=社会主義革命)を目指すものとして、革命を2つの段階に分けて考える戦略である。ここで留意しておくべきことは二段階論がスターリンの専売特許ではないことである。多くの社会民主主義者も同じことを唱えていたからだ。黒田は共産主義者を名乗るスターリンが二段階論を唱え、一国で社会主義を実現できるとしたことを指弾の対象にした。社会民主主義者が二段階革命を唱えるのはよいが、共産主義者がそれを唱えるのことは「反革命である」と断罪したのである。
しかし、現実のロシアはどうだったのかといえば、一国でプロレタリアートを標榜する政権が成立しても目標である世界革命を実現したことにはならなかった。ドイツをはじめとする先進国でことごとく社会主義革命が敗北し、革命ロシアは資本主義国の包囲網に曝され存亡の危機に立たされたからだ。その危機を避けるためにレーニンが採用したのは「新経済政策(New Economic Policy=NEP/ネップ)」と呼ばれる危機の回避策だった。ネップとは、遅れた帝国主義国であるロシアにおいては貧しい生産力が国民生活を圧迫しており、帝国主義国の包囲網を突破するためには「まずは追いつくこと」が要求されているという考えを骨子にしていた。レーニンはアメリカにならってテーラーシステムの導入と電力の増産をスローガンに掲げた。最高度に発達した資本主義が編み出したシステムと動力の源である電力の増産こそが喫緊の課題であるとしたのである。ネップの採用は二段階論の採用にほかならない。ここがすごさだが、レーニンは打倒すべき対象を、あえて見習うべき対象にする「曲芸」をやってのけたのである。
右に要約したことだけでも明らかなように、ネップがあってスターリンの一国社会主義論があるのであって、けっしてその逆ではない。にもかかわらず、全国委員会はレーニンが採用したことをもってこれを本質的なものとしてとらえることを拒否した。現実を直視せずに一時的なものとし処理し、検証を怠ったのである。この怠慢はそのまま中核派にも引き継がれ、現在に至っていることは前述したとおり、ちぢめていえば、中核は黒田の誤りを無批判に引き継いだまま革マルを反革命だと規定しているのである。その結果が前述した「革命戦略」の奇妙な同一性なのだ。
2. 革命の現実性
中核派が「革命の現実性」を唱え始めたのは、11月に予定されていた佐藤首相の訪米を控えた1969年の8月ころからである。40年近い歳月を経たいまの時点から俯瞰すると、それは錯覚もはなはだしいものとして映るに違いない。ここまでに再三にわたって引用してきた小野田襄二によれば、10年後の80年の時点で、すでにそれは明白だったということになる。その時代を知っているものにとってすらそうであるとすれば、現在の年齢にして40歳より下の人たちにしてみれば「革命の現実性」などは絵空事としてあるに違いない。
しかし、「革命の現実性」など全くの絵空事だったのだろうか。また、そのように断定できることだったのだろうか。錯誤だと断定する前に、当時を振り返って少し検証してみよう。
1) 中核派の革命プログラム
中核派は71年11月の佐藤訪米阻止闘争を前にして次に紹介するような武装蜂起にいたる道筋、いわばその「革命プログラム」を公表している。〔このプログラムは当時の『前進』に発表されたものだと思うが私には記憶がない。で、以下の叙述は立花の『中核vs革マル』から孫引きさせてもらう。〕
立花によると、中核派は「階級闘争の形態的発展についてあえて図式的にみるならば」と断ったうえで、武装蜂起にいたる道筋について次のように分析していた。
@ 平和的ストライキとデモ。
A デモとストの戦闘化、その貫徹のための初歩的な武装、警察力との衝突、占拠=砦化。
B ストとデモの革命的貫徹のための(あるいは貫徹のためという形態をとった)比較的水準の高い武装(市街戦化の初歩)とレーニンのいわゆるパルチザン戦争の初歩的形態との結合。
C 一斉蜂起をはっきりと準備しつつ、ゼネスト、デモを基底にしての、小戦闘、部分的蜂起(高度の市街戦など)と広汎に発展したパルチザン戦争との結合。
D 一斉武装蜂起
この分析には、次のような補足がついている。
この五つの段階はきわめて荒けずりに区分したもので、われわれはさらに深く研究してゆかなければならない。レーニンもいっているように、一斉武装蜂起=狭義の意味での革命が基本的課題になっているか、いないかによって大きく区分されるであろう。われわれは今日における日本の階級闘争は、蜂起が基本的課題になる時代への過渡期、移行期、あるいは、そうした時代の揺藍期であると考えている。つまり、@、Cを依然として重要な要因としながらも、AからBへの道をきりひらくことが緊急の課題になっており、その勝利的遂行によってCからDへの展望をつかんでゆくということだろう。きわめて実際的にいえば、機動隊制圧をありとあらゆる手段に訴えても実力で粉砕しうるかいなかということである。階級闘争の闘争形態上のこのような展開は、当然にも闘争組織の再編・強化、党組織の再武装の遂行と固く結びついて進行するものである。とくにさきに述べたAからBへの今日的課題の達成のためには、全共闘と全共闘行動隊、反戦委と反戦行動隊の量的・質的強化(死をもおそれない精神的武装をふくむ)の徹底的遂行、その他必要な組織、小組の建設が絶対不可欠となってきているのである。
右の引用で明らかなように、この時点での中核は、革命の最終目標であるDの一斉武装蜂起からすれば@につづく前段階であると考えていたのである。参考までに紹介すると、立花も同じ判断をしており右に紹介した記事について以下のような評を加えている。
初歩的な武装≠ニ比較的水準の高い武装≠ェ、具体的に何を示すかは必ずしも明らかではないが、この時期すでに火炎ビンは大量に用いられ、交番の焼き打ちもおこなわれていた。一月の東大闘争ではじめて本格的に用いられた火炎ビンは、みるみる全国に広がり、技術的な改良もすすみ、火をつけて投げなくても、薬品の作用でビンがこわれると同時に火を吹く触発性火炎ビンがさかんに用いられていた。これ以上の武装というと、手製爆弾か銃火器ということになるだろう。
また一方、中核派などでは、このころから大人数のゲバ棒を持ったデモ隊が、機動隊に正面からぶつかっていくスタイルから、小人数の軍団編成でゲリラ的に行動し、武器の調達部隊、運び屋とどこかでドッキングして武装をとげるというゲリラ戦法を用いだしていた。このへんの新しい戦術展開がおそらく、AからBへの道を切り開く手段と考えられていたのだろうと思われる。
文体と中身から推して、先に引用した記事は本多書記長が書いたものと見てよい。立花が指摘するように、中核派はAからBへの道、つまり、「デモとストの戦闘化、その貫徹のための初歩的な武装」と「市街戦化の初歩とパルチザン戦争の初歩的形態との結合」をこの時期の課題にしていたことがうかがえる。しかし、暴力革命を最終的には武装蜂起として考えるならば、このプログラムには決定的な弱点がある。最大の武装部隊である軍(この場合は自衛官ということになるわけだが)の組織化という課題が抜け落ちているのだ。軍の決起を欠いた武装蜂起など絵に描いた餅にもならない。その程度のことは多少でも歴史をかじったものなら自明の理であるはずだが、この論文にはそれがない。ものの見事に抜け落ちているのである。
2) 闘争の激化と爆弾闘争の刺激
では、中核派が右のプログラムを公表した71年を前後する時期はどういう時期だったのか。
まずは、70年11月に「三島事件」があり、次いで12月には「コザ暴動」が起きている。前者は小説家の三島由起夫がかねてから計画していたものではあったが、一般的には割腹自殺まで決意していたとは考えていない突発事態だった。後者についても事情は同じで、米軍が起こした交通事故を契機に発生した車両焼き討ち事件が暴動的な様相を起こすことなどは想像の外にあった。
立花は、中核派はこの2つの事件について「われわれは、『三島事件』とコザ暴動が、ともに『全く予想だにされなかった』かのような情勢の中で生み出されてきたことを重視しなければならないのである。」と認識していたことにふれ、あわせて「この情勢判断を力づけたものが、前述した三里塚闘争の予測を越えた過激化であり、沖縄闘争の思いがけぬ発展だったろう。」と、71年に入ってからの三里塚闘争と沖縄闘争の高揚と激化を指摘している。結論をいえば、そうした中で6月17日に明治公園でおこなわれた集会のあとに実現した「解放区」で爆弾が磯動隊に向かって投じられたのである。
以下はふたたび立花からのもの。
日帝はもはや国民を説得する政策を何一つもちえず、ただ暴力によってしかその支配を貫徹できなくなっている。すべての政策の最後のよりどころは機動隊による暴力である。だが重要なことは、機動隊万能の治安体制がすでに六・一七明治公園の一発の『爆発物』によってその一角がくずれはじめたことである。六・一七の一発の火花は敵支配階級をしんかんせしめた。
引用したのはこの爆弾にかかわる中核派の基本見解だが、文中にある「一発の火花」という表現は本多書記長のものであると見てよい。こうした表現は本多書記長以外に思いつかないし、できないからだ。ともあれ、この「一発の火花」の衝撃によって中核も爆弾闘争に突入したのである。事実、これにつづく7月の三里塚では不発ではあったがダイナマイトが機動隊に向かって投げつけられている。先に紹介した分析の「AからBへの道をきりひらくことが緊急の課題」だったものが、一足飛びに「CからDへの展望をつかんでゆく」とする段階に飛躍したのである。
中核派にもう1つ大きな衝撃を与えたものは、赤軍派や黒ヘルグループがはじめた交番襲撃や爆弾闘争などの超過激戦術だった。70年12月の赤軍派による交番襲撃(警官からピストルを奪おうとして横浜国大生が射殺された)事件を皮切りに、京浜安保共闘による銃砲店が襲撃(71・2)から新宿追分交番脇のツリー爆弾(12・24)までの1年の間に主な事件だけを拾っても13件、死者3,負傷者は40人を超える爆弾闘争が続発しており、「一発の火花」はこの流れに棹を差すものになったといえる。
3) 非公然機関誌『光と星と雲』の刊行と爆弾闘争の挫折
爆弾闘争に押される形で中核が打ち出したのは「11・14東京大暴動」とする方針だった。大暴動の場所として渋谷が設定され、『前進』は渋谷周辺の詳細な地図入りの号外を発行した。地図には交番、ガソリンスタンド、銀行などの場所が記入され、その下には「火炎ビンの作り方」「逮捕時の心得」などの解説がついたものである。
この方針に先立って、中核は『光と星と雲』と題する非公然の機関誌を刊行している。党内でも限られたものだけに手渡しで頒布されたもので、公安当局が入手にやっきになっているという情報が飛び交い、私の周辺も異様な雰囲気に包まれていた。そのことをかぎつけたメディアも、現物を手に入れるためにいろいろな働きかけをしてきたことをおぼえている。この機関誌が何号まで発刊されたのかについての記憶はない。2号は見たような記憶があるが、3号についてはその記憶がないことから推して、せいぜいが2号止まりだったのではないかと思われる。〔前記の号外の発行は中核が本格的な「武闘」に踏み切ったことの証左であり、この号については鮮明に記憶している。「とうとうやるのか」という気分である。にもかかわらず、あるいはそれゆえだろうと思われるが、前後の記憶については定かでない。また、『光と星と雲』についてもこのノートを脱稿してから、立ち位置が異なる何人かには取材をしたいと考えている。が、その時間はいまはないので稿を先に進める。〕
中核派が基本的には前述のAの段階に踏みとどまっていたのに対し、赤軍派はすでにBの段階に移行し、ピース缶爆弾、鉄パイプ爆弾などの製造にふみきっていた。その赤軍派が武装訓練中に警察の一斉検挙にあい、結集していた全員がつかまってしまう。大菩薩峠事件である。
この事件を革マルは「赤軍派は誇大妄想患者、塩見に煽動され、二百の機関銃隊、三千の抜刀隊による一週間の国会占拠などという超時代的方針をかかげていたが、スパイの内通により『一揆』を前に『前段階崩壊』した」と揶揄した。いつものことだが、これは「同じ隊列にあるもの」の言ではなく、どの角度から見ても敵対者の言である。
中核はといえば「われわれは、赤軍派の諸君への権力の反革命的襲撃をけっして他人事として考えることはできない。ましてや、さかしらげにその幼稚さをあげつらうことは断じて正しくない。」として革マルの対応を批判し、赤軍派に対しては何点かの批判を加えながらもその試みを大きく評価した。
結論を先取りすれば、69年11月に前述した赤軍派の壊滅、70年3月によど号事件、そして「一発の花火」が71年6月にあり、3年の空白を経て74年8月に東アジア反日武装線の三菱重工爆破、これに7ヵ月おいた75年3月に革マルによる本多書記長暗殺、その半年後の9月に中核の爆弾製造斑が爆弾の製造中に誤って自爆したといわれる横須賀緑荘事件が起こる。
本多書記長の死の直後に起きたこの事件以降、中核は爆弾闘争を叫ぶことがなくなり、爆弾闘争から撤退する。このことは本多書記長あっての爆弾闘争であり、暴力革命だったことを意味している。本多書記長の死をもってそうしたものの全てが終焉する方向をとったのは理の当然だったのである。
【この章の付記事項】
・警官の拳銃を奪ったり、銃砲店を襲ってライフルを奪ったところでせいざいが浅間山荘どまりであることなど、少し頭を働かせれば見えることである。爆弾闘争にしても然りで、手製爆弾で権力奪取に迫れる道理がない。最大の武装装置は軍であり、その専門家は軍人である。そのことに少しでも頭を働かせれば、軍隊の確保こそが暴力革命のカギであることは自明の理である。ほかのことでは大きく俯瞰する視野をもてた本多書記長が、なぜにそのような発想をしなかったのか――このことは一貫した疑問として残る。改稿にさいしてはこの疑問に迫りたいものだと考えている。
5章 4つの批判
これまでに中核派を公然と批判した文書は4つある(らしい)。公表された時間の順に並べると次のようになる。
@ 小野田襄二のもの
「体験的政治論」/『劫』5、6号/79.6〜80.6
『革命的左翼という擬制』/03.6
A 「勝利に向かっての試練」派のもの
「革共同第四次分裂と組織論的な問題意識」(「勝利に向かっての試練」第7号)
「党の統一と党内闘争−党内闘争とそのレーニン的遂行方法の原則−」(同8号以降)
「党内闘争と公開性−レーニン『党の公開性』論について−」(同11号以降)
「党組織論の簡単な概要」(同14号以降)
「レーニン党組織論に学び、真のプロレタリア階級政党を建設するために」(同16号以降)
B 小西誠のもの
『新左翼運動再生への道』/00.5
「なぜいま内ゲバの検証が必要か」(『検証 内ゲバPART1』所収)/01.11
「七〇年の「暴力的荒廃」が内ゲバの原因か?」(『検証 内ゲバPART2』所収)/2003.1
C 白井朗のもの
「仲山『資本論の研究』批判」/99.7
「自称十九全総批判」/99.7
『スターリン主義に転落した中核派批判』/99.7
『中核派民主派宣言』/00.4
このうちAとして挙げたものについては現物を手にすることができなかった。ネットで検索したかぎりの情報によれば、同派が分派を結成したのは80年ということである。私が中核派に見切りを付けたのと同じ時期に組織改革を唱えて行動を起こしたものと思われる。最終的には第4インターへの合流を宣言したということのようだが、62年に中核派に合流した労闘同の有力メンバーの名が挙げられていることから推してあり得ることだと思う。が、なにぶんにも現物が入手できないので、ここでは検証の対象から外すし、順を追って検証してみよう。
1. 小野田襄二の批判
1) 「体験的政治論」まで
中核派の学生担当政治局員だった小野田が組織を離脱したのは10・8羽田闘争を直前にひかえた67年の10月のことである。離脱した理由はいろいろとあるが、つまるところ、中核派に統一戦線論がないこと。正確にいえば、中核派の統一戦線論が革マル同様の「他党派解体のためのものでしかなかったこと」に対する絶望が最大の理由だった。離脱後の小野田は、彼を支持する仲間と語らって小規模なグループを結成し「それなり」の活動を続ける。中核派にとってみれば初の分派が結成されたものとみてよい。その結果は初の内ゲバによる犠牲者を生み出すことになる。69年9月に芝浦工大大宮校舎内で中核派の学生が襲われ、転落死するという事故が起る。のちに陰々滅々となる内ゲバとは異なり、この事件は逃げ損なった結果の事故死であるとはいえ、内ゲバが死者を出したという意味では初のケースだったのは確かである。襲撃したのが小野田グループだったことは明らかだったようで、この事故を機に小野田は学生運動の現場から去り、絶望的な「総括」を試みることになる。その成果は前述した「体験的政治論」に結実するわけだが、その中身に入る前にそこに至るまでの小野田の思想遍歴について少し振り返ってみる。
T期:67〜69/『遠くまで行くんだ』に依拠して手当たり次第に切れ端を粗製乱造している。いってみれば革共同=マルクス主義との見栄も外聞もない格闘期である。マルクス経済学批判を試み、その手だてとして宇野経済学のおさらいをしてみたり、黒田批判を試みるなどをしているが、見るべき論攷はない。
U期:75〜80/『劫{カルパ}』と『現代思想』(創刊号で廃刊?)に依拠して「吉本隆明論」(2〜4号)と「体験的政治論」(5号・6号)を書くことに専念した時期である。
同人誌だった『遠くまで行くんだ』と異なり『劫』を純然たる個人誌にしただけでなく、1号と2号以外は右の2つの論攷だけで構成されており、ぶれがなくなり焦点が定まっていることに特徴がある。Tの時期があってのことだが成果は如実に表れており、小野田が思想的にもっとも充実した時期でもある。その自負があって、『劫』に連載した2つの論攷に取り組むことをもって小野田は「思想家」として再出発することを決意している。
小野田の吉本批判にここで紹介すべき中身はない。が、「マチュウ書試論」批判の過程で田川建三に目を通したことは大きな意味をもつことになる。近代がキリスト教文明によって形成されたことについてつかむことができたからだが、そのことは「体験的政治論」に直結することになる。
実のところ私は、吉本論を書くにあたって、他人の吉本論に眼をくれなかった。全然読む気になれなかったのだ。そんななかで田川健〔建〕三の「『マチウ書試論』論」(「歴史的類比の思想」所収)一冊だけを読んだのである。それというのも、田川健〔建〕三がキリスト教の研究者であったからである。実際に、この論文は、学者的誠実さに貫かれており、良いものだ。吉本の欠点をみつけては、鬼の首を取ったようにそれをあげつらう下賎なところが無いのである。
田川の作業で評価されるべきなのは小野田が「一冊だけを読んだ」とする前掲書ではない。イエスを革命家として描いた『イエスという男』(80年3月)であり、そのようなイエス像を描くことを可能にした『マルコ福音書 注解』(72年1月)である。せっかく田川に目を通しながら前掲書1冊で済まし両書に目を通さなかったのは「思想家」としては致命的な弱点であり限界でもあり、そのことがのちの小野田を規制することになる。「マチュウ書試論」批判のカギはマルコ伝にあるからだ。が、それでも小野田は次のように言い切れる立場を獲得することができた。その成果はあとで紹介する「体験的政治論」に結実することになる。大事なところなので、小野田が吉本批判からなにを学び取ったのかについて、いま少し引用しておく。
マルクスは、こういう人間の出来具合いをしかと見届けなかった。そして、この世には、「支配と被支配の関係がある」というたしかに冷厳な現実を現実だと言い張った。(略)
階級社会であるとか、疎外されているとか、搾取されているとか、現実の秩序を悪と断ずる心情でみている。マルクス主義から、現実の秩序を悪と断づる心情を取り除いたならば、マルクス主義はその根拠を失うであろう。
こう言い切った時点ですでにマルクス主義からの訣別は果たされており、それは以下に紹介する「転向声明」につながっている。
ところで、マルクスの思想は、「自分で自分に対処する」ことを奪い、しかも心理的障碍感覚を強迫し、助長させる。秩序から疎外された感覚に向かって、「現実の秩序が疎外されていること」へ眼を向けさせようとする。その結果、何が起こるか。全てが、現実の秩序の疎外に帰着され、個人の責任が抹殺され、人間を秩序の奴隷に仕立てることだ。失敗者が成功者を妬むこころは、人間から取り除くことのできない卑しさであろうが、そういう卑しさから克己することの代りに、妬みを助長させ、ついには憎悪にまでかりたて、それをもって、人間の実存だと語り出す。怨みとか、嫉妬とか、憎悪というものに、倫理的動機を与えた点で、マルクス主義は、キリスト教の申し子に違いないのだ。
V期:〜03/『革命的左翼という擬制』を公刊。
同書の6割を占める冒頭の2つの章は、かつて小野田が書いた「革共同との訣れについての省察」という副題をもつU期に書いた「体験的政治論」を要約する形で再録したものである。基になった論攷は原稿用紙に換算すると約700枚。それだけでゆうに1冊の本になる長大なものを同書では3分の1程度にまとめている。ただし、そのまとめ方はほめられたものではない。原文にあった若さゆえの生気がみなぎっている部分がことごとく抜き取られている一方で、還暦を過ぎたものの優位性が生かされた手直しがされていない。ひとことでいえば旧稿にみなぎっていた己との間で必至に格闘する姿勢がかけらさえもなくなっているからだ。同書は、捨てるべきものを残し、残すべきものを捨ててしまった「愚書」の典型である。
2) 「体験的政治論」に見る中核派批判
小野田は、「体験的政治論」のあとがきでこの論攷をものにするために精根尽き果てたことを告白し「神よ、私に力を授け給え。私は神にすがりつくしかありません。」とむすんでいる。また、「私も、思想家という人種のはしくれとして人生を歩み出すことを覚悟して五年経った。四十歳に達して、漸く、一つの事をそれなりに物にしえたような気がする。」とも書いている。にもかかわらず、この論攷を書いてからあとの小野田はおよそ「思想家」らしい仕事をすることなくあたら才能を浪費しつづけ、現在に至っている。そのこともあって「体験的政治論」は誰からも検証されないままに見捨てられている。憑かれたような文体であるうえに700枚の長文である。そこにもってきて、前述したような愚書として再版したことから顧みる人がいないのはやむをえないところがある。
右のことに、左翼過激派がこの国の歴史に果たした功罪はすべからく小野田が戦線から去ってのちに顕在化したものであるという問題が加わる。評論家家や学者としてならいざしらず、自らが関与しなかった政治について政治家であることを放棄したものが「体験的政治論」を語ることはできない。小野田には酷になるが、その現場にいなかったものには、その経験がないゆえに「体験に基づく政治論」を語ることはできない。その場にいなかったものには、語りようにも語るべき糧がないのだ。
このように多くの弱点を抱えてはいるものの中核派批判、総じて左翼過激派批判としては、私が見たかぎりではもっとも本質に迫った問題提起を小野田はしている。で、いささか長くなるが「体験的政治論」の紹介を兼ねて小野田の批判を検討する。
@ 小野田の前提
先にもふれたように、中核派という組織はボリシェビキ党を規範として全てを律することを目指した組織であり、ボリシェビキがそうであったように党首である本多書記長あっての組織であった。したがって、小野田の批判も必然的に本多書記長が抱えていた問題意識に絞られることになる。なにぶんにも700枚を超える長文である。本多書記長にかぎっても小野田は多くのことについてふれており、その全てについて検討する余裕はないし、その必要もないと思う。で、ここでは2つの問題に絞って小野田の批判を見ることにする。が、そこに入る前に小野田がこの論攷を書いた前提となることについて紹介しておく。それは、政治がもつ困難さについてである。小野田は政治がもつ困難さについて次のように指摘する。
何といっても政治というものが難しすぎたのである。何故、政治というものは、これ程難しいのか。この十余年、私は考え続けた。実は、政治というものは、哲学、芸術、数学、自然科学といった、自立度の高い、いわば第一義的文明ではないのである。まさしくそれらとは逆に、政治というものは自立度を欠いたものであり、そのことごとくを他の文明に奴隷的に寄り添うほかない文明なのだ。政治というものには、本来的に固有な領域は無いのであって、われわれが、政治に切り刻まれていった事も、仕方なかったのだ。政治というものを、政治に飛び込んだ人間の想い入れを排して、社会的客観としてとらえれば、機能、もっと露骨に言えば円滑機能にすぎないのであって、政治の実質というのは、全て他の文明に依存しているのだ。
「政治」というものの本質にかかわる指摘としていえば、右の指摘が十全なものであるとはいえない。政治が「円滑機能」であることは確かだが、それが全てとはいえないからだ。にもかかわらず、小野田はここできわめて重要なことを喝破している。それは、政治の「難しさ」にからむ問題として政治が学問や芸術などのような自立度の高いいわば「第一義的文明」ではないことを指摘していることである。言い方を換えると、政治を批判する場合に忘れてはならないこととして、現実の政治がなんらかの独立した体系をもつものでないことを、小野田は指摘しているのだ。議論を先取りしていえば、そうであるゆえに小野田は中核派批判を「体験的政治論」として書いたのである。加えていえば、第2部と3部が予告したままで未遂に終わった根拠もここにある。
A 小野田批判のキモとなるもの――その1
小野田の中核派批判にはキモとなる箇所が2つある。1つは以下に紹介するマルクス主義を革命理論として成立させた根源にある恐慌必然論である。
小野田はこの問題に対して「マルクス主義革命家が、現代資本主義論を打ちたてるにあたって、帝国主義戦争必然論、恐慌必然論を打ちたてたのは、実に、そのことによってのみ、革命を具体的に展望しうるという点にある。」とし、「だが本当に恐慌は必然なのか。ましてや帝国主義戦争は必然なのか。必然でないと困るといった当為を取り除いた上で、なおかつ必然であるなどといえるのか。」と問題をたてる。そのうえで小野田は世界恐慌も帝国主義戦争も、第2次世界大戦を経たあとは期待できなくなったことを指摘する。世界恐慌も帝国主義戦争も期待できないとすれば、マルクス主義を信奉する革命家はどうすればよいのか。
1つは全てをスターリン主義のせいにすることであり、もう1つは革命を彼岸化することであったと小野田はいう。
それでは、われわれは、戦後の資本主義の蘇生という現実にたいして、どのような理屈をたてたのであろうか。革共同のたてた理屈とは、スターリン主義による革命の裏切り論にほかならない。つまり、資本主義が変貌したのではなく、革命の敗北――革命のスターリン主義的変質が、戦後の資本主義の蘇生を可能ならしめたという解釈である。
私は、反帝反スタなる標語の語呂合わせなどする気はないので、事の要点のみ取り上げる。反スターリン主義の理論は、戦後における資本主義の驚異的発展という、それこそ革命の死活問題に取り組むべきところ、それから眼をそらしたのである。革共同の職革は、革マルとの分裂後、多かれ少なかれ、その事の思想的劣性に気づかざるをえなくなった。この負い目の意識が、六五年前後、一時的ではあるが、岩田経済理論などという出来損ないの理論に傾斜するという、世迷い事を生じさせもしたのである。
上に見たように、中核は世界恐慌待望論の危うさについて懐疑を抱えたまま、とりあえずはスターリン主義にその責任を押しつけてはみた。しかし、そうはいかない事情があった。その事情について小野田は次のようにいう。
結局のところ、革命の敗北、階級闘争の敗北によって資本主義を延命させ、繁栄させたという仮説が正しいとしても、そのことは資本主義が自らの生命力を失ったということとは別の事を意味しはしないか――いかなる事を原因にしようとも、ともかくも、装いを新たに整備しなおす力を資本主義は保有しているということを否定しようがないのだ。
このことは、反スターリン主義理論への懐疑をもたらさずにはおかない。何しろ、革共同の職革は、先進国において革命は全て失敗し、後進国においてのみ革命が成功したという冷厳な現実に苦しみつづけた。だから、先進国における革命の敗北が、スターリン主義の裏切りなどによって説明のつかぬことを、だれもが胸の中で感じざるをえなかった。誰もが、反スターリン主義理論などで片がつくものではないことを肌で感じ取っていったのだ。こういう懐疑には出口というものが無い。まさか、第三革命論というような、知性を欠いたみえみえの理論にとびつく訳にはいかないからだ。結局、萎縮と臆病にかりたててしまうのである。このような時、どこか無責任になり切って、懐疑をあっけらかんと跨ぎこしてしまえば、随分と救われたのだが、気質という奴は悲しいものだ。他人にできる事でも、そういう訳にはいかない。
ここの小野田がいう「懐疑をあっけらかんと跨ぎこ」すということは、どういうことか。それは、60年ブントの指導部がやったように、そもそもが革命などというものはじめから幻想だと割り切ることにほかならない。しかし、60年ブントを乗り越えるものとして出発した革共同には、それはできない相談だった。ここからの道は2つに分かれることになる。一つは革命を彼岸化する道であり、もう1つは現実の革命をクーデタと考え、その技術の問題に切り縮める道である。黒田は前者を選び、本多書記長は後者の道を選ぶことになる。黒田には、本当に恐慌は必然なのかという懐疑的問いそのものがない。このようを問い自体を、客観主義、プロレタリア的自覚の欠如、場所的立場の欠如などというシンボルの操作によってと一蹴されてしまうからだ。一方の本多書記長には、本当に恐慌は必然なのかという問いがあった。が、そうであるがゆえにその種の懐疑については封じ込めざるをえなかった。思想家にとってそれはしてはいけない禁じ手だが、革命家はそうしないことには身が持たない逃げ道になる。
B 小野田批判のキモとなるもの――その2
私が知るかぎりの本多書記長は己を知っている人物だった。そう信じて疑わないできた。だから、銀座の喫茶店で面談をしたあとに「この柳の数だけ(敵の指導者を)吊さなければならないんだ。」といわれたおりにも私は本多書記長が本気でそう考えているとは思わなかった。東大安田砦攻防戦のあとにおこなわれた地区委員会の会議で本多書記長の言として「機動隊員と組み討ちして落下死するぐらいの覚悟がない。」ということが強調されたおりにも、それは建前を述べたに過ぎないものとして受け止めた。私が知るかぎり、そうした発想をする人だとは思えなかったからだ。そうであっただけに、なぜ、学生運動にあそこまでこだわったのかについては不可解だった。爆弾闘争を本気でやろうとしたことに至っては、不可解を通り越して錯乱としか思えなかった。その疑問に対して小野田はかなり明解にこの論攷で解を出している。小野田がおこなった本多批判の2つめのキモは、レーニンを規範にすることにおいて信仰の域に達していた本多延嘉の実像である。
小野田は私が先に愚書であるとした『革命的左翼という擬制』で本多書記長を教わることが多かった人物として描くと同時に、「醜い」「この矮小さ」「狭さ」ということばを使ってその実像を抉り出している。この「愚書」に意味があるとすれば、「醜く、矮小」ですらあった本多延嘉の実像を白日の下にさらけ出し、等身大の本多書記長の姿を示したことにある。以下、小野田が描いた本多書記長の実像について見てみよう。
本多書記長は、党派抗争において、暴力的威圧、ましてやリンチというものを毛嫌いしていた。それは彼の生理であり、もともと革共同というのは、リンチに限らない、およそ政治にまつわる血なまぐささや徒党的発想を生理的に受けつけない体質をもっていた。
ところが、全く馬鹿馬鹿しい限りであるが、本多書記長は、己れのこのような気質というものを、政治指導者としての欠点であると考えていた。本当にそう考えていた。
では、なぜ本多書記長はそう考えたのか。それは次のような本多書記長の資質がなせるわざだったと小野田はいう。
本多書記長の最も優れた政治資質というものは、「革共同などに革命党としての資質などありはしないのだ」と、革共同をも、自己をも突き放したところから、政治を構想するところにあった。その意味では、新左翼運動が生んだ稀有のアジテータではない政治家であった。正確には、アジテータたることに本領をおかぬ政治家であった。と同時に、そのことは、本多書記長をおそろしく苦しめた。
革共同への絶望と背中合わせにしながら、そして自己の政治資質への絶望を噛みしめながら、しかし、手持ちの駒でやるしかないのだ――これが、自ら書記長と認じた彼の宿命の場所であった。実は、このような場所に立たされた彼が、政治的野心家でも、政治的ロマン家でもなかったことが、彼をおそろしく苦しめたのだ。
己に欠けるものを自認した指導者は、それを補佐役によって埋めることが問われる。小野田によれば、本多書記長はそれを清水丈夫に求めたという。
私は、清水政治局員の政治の型というものを、どうにも認めることができなかったのである。……ところがである。この点において、本多書記長と私とでは、歴然たる意見の食い違いがあった。本多書記長は、清水政治局員の政治資質を政治局にとって必要な政治資質、いやそれ以上なものとして、清水政治局員だけにある貴重な政治資質と考えていた。しかも、自らの政治資質の欠点を補うものを清水政治局員のなかにみていた。
小野田がここでいう清水の「政治の型」とは、党派党争においては相手に弱みを見せるべきではない。弱みを見せないためには相手を先に攻めるとする発想を指している。この発想から清水は3派全学連による統一行動の上に党派闘争を位置づけ、解放派の指導部に対してテロをもって先制したわけだが、本多書記長はその現場に居合わせることによってそのことを追認したのだ。局外にいて俯瞰するかぎりで力を発揮する本多書記長だが、こと現場で陣頭指揮に立つとなると無能この上ない資質の持ち主であるにもかかわらず、である。小野田によると「本多書記長が仁王のように聳えるようになったのは」67年の杉並都議選あたりからで、このあたりからヒステリックになり、常任活動家への恫喝が始まったという。先に挙げた東大安田砦攻防戦のさいの発語は、小野田の指摘を裏付けるものとして考えれば得心がいく。
2. 「勝利に向かっての試練」派の批判
この組織の実態がいかなるものだったかについては定かでない。ネット上で交わされている諸情報を整理すると、おおむね次のような組織だったと思われる。
・分派の組織名:「勝利に向っての試練」編集委員会(以下、便宜上「試練派」とする。)
・指導者:不明(旧労闘同の滝本洋とする説と上口孝夫だとする説があるが、いずれも推測の域を出ないので不明としておく。)
・機関誌『勝利に向っての試練』(『国際主義』編集会議の津村洋によると16号以降も発刊されており最終号は85年新年号)
・活動期間:80〜85年(別の情報によると、85年に自らを「第四インターナショナルの一分派」と規定したが、日本支部中央委員会の態度が「拒否・保留」だったため独自の組織活動を再開し、86年夏に「第四インターナショナル・ボルシェヴィキ派(準備委員会)」を結成し、機関誌『ボルシェヴィキ』を創刊した――とあり、前述の津村の情報を一致する。)
試練派といわれる分派はおおむね右のような組織だったようだが、中核の側からは白井や小西に対するような激しい批判が加えられた形跡はない。察するに、その活動がもっぱら機関誌を通じての言論活動に依拠していたことにあり、影響力が限られていたものと思われる。
80年といえば私が組織を離れたときであり、前述したように82年に清水丈夫と最後の面語をしている。先の記事ではふれなかったが、清水はそのおりに「ある程度の党内手続き」の必要性を感じていることに言及し、近いうちに代表者を集めた会議を開くことを私に漏らしたことを思い出す。前後の事情を考えると、この試練派の動きがあってのことだとすれば符丁が合う。ついでにいえば、逆の立場だとすれば同じような発想をしただろうことを考えると、本多書記長が清水を後継者に選んだのは炯眼だったと思う。
3. 小西誠の批判
1) 優れた運動家ではある。が……
人物としての小西は好感がもてる人間である。昔風にいえば6尺豊かな上背があり威風堂々としていて威圧感を与えかねないにもかかわらず温厚であるだけでなく、誰に対しても丁重である。私なら怒鳴りかねないような場面でも、怒りをあからさまに表に出すことなく抑える術を心得ている。なにせ、小西はたったひとりで先の展望などなにもないのに決起した人物であり、そういうことは誰にでもできることではない。大衆運動のスターに要求される資質を備えた人物であることに疑いの余地はない。
そういう小西とは、旧友の三浦暉に頼まれてやった「現代史講座」と称する連続講座にかかわたことを機に三浦を挟んで飲む機会をもつことになり、かれこれ10年近くつづいた。小野田と違って面識があるだけでなくかなり突っ込んだ話をした関係にもあった。しかし、人間とは不思議なもので、この種の剛直さと不誠実が裏表の関係にあることがある。しばらく付き合う中で、私は小西に北小路敏に感じたのと同じ「謙虚さ」、言い方を換えると慇懃無礼さをおぼえることになる。人のいうことに耳を貸さないのだ。正確にいうと、耳を貸すそぶりを見せはする(そのかぎではきわめて謙虚なのだ)が問題が特定の領域に及ぶと、批判者の忠言はほぼ「絶対に」聞き流され、捨て置かれ、顧みられることはない。
小西が白井朗と付き合い始めたおりのことである。私は白井とは付き合うべきでないことを忠言した。小西は「わかっていますよ」と自信満々でいう。心配することはないというのだ。が、秘密党員だった小西は白井という人物についてはなにも知らないのに等しい。それに対して私はといえば、3章でふれたような長い付き合いをしてきており、いってみれば白井がどういう人物であるかについて知り尽くしているのだ。加齢が自慢にならないことは十分に承知しているつもりだが、だてに歳をとってきたわけではない。つまるところ、このことが契機で私は小西に見切りを付けた。小西にすれば、自分のほうから私に見切りを付けたと考えていると思う。が、経緯は右に述べたとおりである。
知り合った当初の小西はまだ中核と離れて日が浅かったこともあり、己がかかわった歴史と運動について手探り状態にあった。だから、前記の講座で担当した報告も中途半端であり、人を説得できるものとはいえないものだった。小西が中核を公然と批判するようになるのは私との間で右のような議論を交わしてから数年後に『新左翼運動再生への道』(00年5月)を発表、同じ年に白井の『中核派民主派宣言』を3月に己の出版社で公刊している。「わかっていますよ」ということばとは裏腹に、小西は白井と組んだのである。
2) 小西の批判
小西はこれまでに次の4つの論攷を公刊している。
・『新左翼運動再生への道』00.5
・「なぜいま内ゲバの検証が必要か」(『検証 内ゲバPART1』01.11 所収)
・「暴力・テロル・戦争論と内ゲバ」(『検証 内ゲバPART2』03.1 所収)
・「日本における左翼諸政党・諸党派の組織論」(『検証 党組織論』04.3 所収)
見てのとおり、21世紀に入ってからの4年間にほぼ毎年のように見解を公表している。ここではその小西の見解の中から中核批判に関係があると思われるものに絞って、どういうものなのかを見ていこうと思う。小西の批判を要約すると、次の4点に整理される。
@ 革マルを「ファシスト」と規定したのは誤りである。
A 「先制的内戦戦略」という戦争論は階級闘争を絶対戦争としており、誤りである。
B 本多の暴力革命論はマルクスの暴力論を矮小化したものであり、誤っている。
C 大会を35年も開いていないことに見られるように党内民主主義がないのは「真の民主主義」がわかっていないからだ。
以下、右に挙げた4つの論点について見ていこう。
@ 革マルを「ファシスト」と規定したことの誤り
小西は中核がおこなった革マル=ファシストという規定が誤りであり、当初の革マル=カクマル=反革命規定から「なし崩し的にカクマル=ファシスト規定に移行した」といい、「革マル派をファシスト・現代のナチスというなら、その正確な規定をなすべきである。」という。また、95年にはオウム真理教をファシストであると規定したが、ここでも「正確な規定はない」という。では、小西のファシズムにかかわる規定はどのようなものなのか。(以下、とくに断りがないかぎり引用は『新左翼運動再生への道』から。)
ファシストとは、本来の意味では、ヒトラーのナチズム、ムッソリーニのファシズムのように、「金融資本の危機の時代において、その支配を補完するために金融資本と癒着し一体化した排外主義的民族運動であり、時には『社会主義』の名を騙った下からの大衆運動である」ということになる。
小西が引用したこのファッシズムの定義はコミンテルン第7回大会のデミトロフ報告に基づいたものであり、マルクス主義のファッシズム定義として維持されてきたものにほかならない。小西に指摘されるまでもなく中核はこの規定を熟知しており、このファッシズム定義に依拠したところに中核派の誤りがある。同じ定義から出発しているからには、根は同じであり革マルという前代未聞の組織集団を「正確に定義できていない」という点では小西と中核とで変わるところがない。だから、小西の革マル論は次のように無意味なものにならざるを得なくなる。
こういう本来の規定に照らすと、革マル派を「ファシスト」というのは、いくらなんでも無理がある。革マル派が、労働運動において組合主義、経済主義路線を採っているとはいえ、「金融資本と一体化している」とは客観的にはいえない。
また、JR総連などは、国鉄の分割・民営化などに際して、確かに資本に癒着し、労働者の首切りに当局と一緒に血道をあげていた。しかし、これは客観的に見て、革マル派がJR内での組織の温存と生き残りに全力をあげていたこと、つまり国鉄労働者に対する反労働者的行動であり、ファシストというべきものではない。
また、革マル派については、「排外主義的民族運動」ともいえない。革マル派は、ふだんに機関紙上でアジアの人々や被差別民衆に「差別的言辞」を弄しているが、だからといってそれを「排外主義的民族運動」というにはあたらない。
あるいは、国家権力に使嗾されたK=K連合という規定についても、明確なファシストという根拠にはなり得ない。中核派が言うその内容は、革マル派は「権力と闘わずその暴力を自分たちに向けてくる」ということだが、これは日本共産党が言う「権力に操られたトロツキスト・過激派」論と同じことになってしまう。
日共は自衛のための暴力は否定しない(事実、小西の調べでも革マルをひとり殺している)。ここで重要なのは、日共は左翼過激派に対して激しく敵対するが革マルのように「後ろから攻める」ことはしないし、他党派を騙って謀略ビラを出したり、他派の支持者宛にニワトリの首やブタの臓物などを送りつけるようなこともしない。日共はスターリン主義者の集団ではあるが、ファシスト的な集団ではないのである。だから、小西の次のような規定は、中核よりもひどい誤りといわざるをない。
結論を言うならば、革マル派という集団は、すでにみてきたように、独特の「日本型のスターリン主義」である。スターリンの反対派へのテロルも、現象のみを見るならば、「ファシスト」的傾向をもっている。またその「一国社会主義論」(民族共産主義)の理論は、差別主義的要素も持っている。しかし、だからといって中核派も、スターリン主義を「ファシスト」とは、規定しない。
ファッシズムが登場し、かつ、その実態が明かされてから半世紀、同様にボリシェビズムが同じ過程をたどってからも4分の1世紀の時間が過ぎた。その間、全体主義にかかわる研究はかなりの程度進んだ。ファッシズムもボリシェビズムもともに全体主義の一形態であることはマルクス主義者を除けば「常識の範疇」の問題になっている。にもかかわらず「ファッシズムとは?」という問いに対する解は出ていない。それほどファッシズムにかかわる定義には難しいものがある。だから、70年代の中核がデミトロフの定義に引きずられた結果、革マルという反革命的カルト集団を正確に規定し損ねたことについては同情の余地がある。しかし、35年前ならいざ知らず、21世紀の現在に至るも70年も前のコミンテルンの規定をもちだしてきての小西の批判はいただけない。いまどきファッシズムを指して「金融資本と癒着し一体化した排外主義的民族運動」であるなどと定義するものは、マルクス主義でもいないからだ。
A 内ゲバを激化させた本多暴力論
小西の批判の2点目は、本多書記長の暴力論が内ゲバを激化させた元凶だとする。小西はいう。
一九六〇年代初期からはじまり、七〇年代初頭から激化していく新左翼運動内の内ゲバの主要因が、革マル派にあること、とくにその「他党派解体のための暴力行使」や「唯一前衛党論」「黒田組織論」にあること――これを私は、『検証 内ゲバPARTl』で詳細に論証してきた。
そしてまた、こういう革マル派の暴力行使路線に対して、中核派などの党派は直対応することなく、「厳格な自衛武装路線」に徹し、大衆運動の発展とその包囲のなかで革マル派に対すべきことを述べてきた。このような闘いによってしか、運動の危機を打開する途はなかったからだ。
しかし、中核派などが採った路線・行動は、このような「自衛武装路線」ではなく、革マル派との積極的闘い――内ゲバを激化させる方針であった。この背景には中核派の、革マル派は「現代の反革命」「現代のファシスト」であり、警察と連合して革命党派に武装襲撃をくり返す(K=K連合論)という認識があった。そして、当時の階級情勢が「革命情勢の過渡期」であり、「内乱・内戦期」だとする情勢認識があった。
だが同時に、このような内ゲバの「激化方針」の背景には、中核派独特の暴力論――暴力革命論――戦争論があり、その根本的誤りが内在していたことは明らかである。
右に引用したことを前提にして、革マルに対してもあくまでも自衛武装権の行使にとどまるべきだと小西は主張する。確かに本多暴力論は暴力がもつ腐朽性を切り捨てている。小西が多くの紙幅を費やして指摘しているとおり、その過度の暴力賛美がきわめて危ういことは明かで、このかぎりでいえば小西の批判は的を射ている。しかし、そうはいっても次のように見るのは楽観的に過ぎはしまいか。
端的に結論を言うならば、革マル派という独特の日本型スターリン主義に対して、中核派は、「自衛」のみを徹底して呼びかけるべきであったと私は思う。もちろん、この自衛・防衛主義の闘いは、はるかに困難な闘いであり、今以上の膨大な犠牲を生じさせただろう。だが、自衛・防衛主義的闘いによって、たとえ自分たちの陣営に数多くの犠牲を生み出してしまったとしても、それを遥かに超える民衆の支持をつくりだしたであろう。
その時に革マル派は、民衆の包囲によって革命運動場裡に何ら影響を与えられなくなり、機能しなくなったであろう。
武装自衛という思想は、つねに相手との関係が問題にならざるをないものである。そのことを考慮すれば、暴力を肯定するかぎり、海老原事件は不可避のものとしてあるからだ。内ゲバが不毛であり、大きな負の遺産を残したことは間違いない。しかし、そうはいっても歴史的に見れば不可避だったといったら不遜だろうか。
B 階級闘争は絶対戦争か?
批判点の3つめとして、小西は中核の戦争論を採り上げる。
小西は、本多戦争論が「クラウゼヴィッツの近代国家間戦争の戦争の特質〔「殲滅戦論」「絶対戦争論」〕を階級闘争のなかに持ちこむという大きな誤りを冒してしまった」とし、この誤りが内ゲバを激化させる作用をもたらしたといい、その責任の一端がレーニンにもあるという。この本多戦争論を30年代ドイツの敗北を機械的当てはめたものが清水丈夫の「先制的内戦戦略」論であり「今日の日本での運動を後退させた、もっとも重要な理論の誤りがこの理論である。」とする。この指摘も的を射ていると私は思う。また、「プロレタリア革命への発展過程は、基本的には圧倒的で膨大な民衆運動を伴う政治的過程(大衆運動的過程)である。この運動は、支配階級の現実的支配を覆すほどに、社会的・政治的な深さと広がりをもつほど発展しない限り、その変革は問題にならない。」といい、「暴力」「軍事」のしめる位置が「従属的意味しかもたない」とする指摘についても是とする。
上に指摘した2つのことで私と小西とは同じ結論に立っている。確かに結論においては一致する。が、結論に到達する前提が、私と小西では180度異なる。小西は現代社会にも階級が存在し、したがって階級対立が「非和解的」なものとして存在するという前提に立っている。が、私はそのようには考えていない。そもそもが近代社会においては階級はその存在基盤を失っている。逆にいえば、階級と呼ばれるものの存在基盤をなくしてしまった社会が近代社会なのである。
C 小西がとなえる「真の民主主義」とは
小西は中核には民主主義がないとし、次のようにいう。
中核派組織の官僚主義的形骸化は、すでに指摘したように、人権・人間性の圧殺、個性の尊重の欠落として現れているが、これと裏腹の関係にあるのが、組織内の完全な民主主義の欠如である。
まず、ひとつだけ指摘してみよう。一体、一九六六年の第三回大会以来、三四年間も党大会を開かない革命組織がどこに存在するのか。この一点だけとってみても、彼らの組織がいかに非民主的組織なのか、誰でも考えるだろう。日本共産党よりも、自民党よりも、非民主的な前近代的組織になっているのだ。こんな大衆感覚から遊離した組織になっていることに、指導部の誰も気づかない。
「民主主義」とはなによりも手続きなのである。逆にいえば、手続きが「それなりに」ではあれ尽くされていれば、それはそれで立派な民主主義といえるのである。だからこそ旧ソ連や中国、北朝鮮の選挙ですら堂々と民主主義を標榜することができる(た)のである。この意味でいえば、全ての「革命派」は「問題は形式ではなく実質にあるのだ」という理屈を付けて「1人1票制」や「秘密投票権」を指して形式でしかないとして否定してきたのだ。たとえ中核が何10年でも大会を開かないとしても、組織の成員がそれでいいというならそれはそれで立派な民主主義であるという言い方ですら可能なのである。
ところが、次の項でふれる白井もそうだが小西はいつの間にか民主主義者になってしまったようである。暴力革命をとなえる革命家の誓約集団に向かってしきりに民主主義を説教する小西(や白井)を見るにつけ「いつからあなたは民主主義者に転向したですか」と問いたくなるのは私ばかりではなさそうだ。
戦後教育の差別化・選別化、大学の特権化、選挙や議会の形骸化などの戦後民主主義批判は、「日本型戦後民主主義」を克服していく運動として不可避であっただろう。しかし、戦後民主主義が戦争という血の犠牲の中で作りだしてきたものは、それだけではなかったのだ。あるいは、本物の民主主義というものはもっと根源的なものなのである。
小西の頭の中にはつねに「本物」とか「真の」が、「偽物」や「偽り」とは別に存在しているようなのだが、では、その「本物の民主主義」とはいったいぜんたいどいうものなのか。驚くなかれ小西がいう「本物の民主主義」とは次のようなものなのである。
私たちが捉えるべきであったのは、直接民主主義はもとより、基本的人権の尊重であり、言論の自由の尊重である。言い換えれば、自分の人権を守るだけでなく「他人の人権を守る」こと、たとえ異論であったとしても「君の反対意見を守るために命を賭ける」という人権と自由の絶対性である。
そもそもが人権も自由も「絶対的」なものではありえないし、「命を賭け」て他人の発言権を守るというに至っては噴飯ものである。そこで小西が引く「君の反対意見を守るために命を賭ける」ということばだが、これは私たちが教科書で民主主義の原則を端的に示した名文句として使われてきたボルテールの言とされているものである。しかし、このことばはボルテールの著作や書簡にはない。つまり、民主主義という制度においては他人の権利をも守ることが欠かせないことについて強調するために「つくられたことば」なのだ。ボルテールが残したのは「私はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい。」というのので、あくまでも比喩として書かれたものなのだ。それを民主主義者が小西が引用した形に創りあげたのである。そういうものをもって「真の民主主義」とか「本物の民主主義」とするのは、それこそ
「ブルジョア民主主義」を賛美することでしかない。小西がいう「真の民主主義」とは、なんのことはない「ブルジョア民主主義」のことなのである。
私たちは、戦後民主主義を「ブルジョア民主主義」として軽蔑し、それに対して「プロレタリア民主主義」を対置した。しかし、このプロレタリア民主主義の内容たるや、人類が近・現代に至るまで営々と築き上げてきた人権と自由の発展という歴史的課題をとうてい乗り越えたというものではなかった。法律的にいうと、人権や自由の概念を人間の「自然権」として捉えることができなかったということになるだろうか。
こういう本物の民主主義を血肉化していたとするならば、連赤事件も内ゲバも起こり得なかったであろう。
まさに至言で、ここまでいうなら小西は自らを「ブルジョア民主主義」の使徒であると宣言するべきなのだ。民主主義者は同時に平和主義者でもある。だから共産主義者は彼らの事なかれ主義を指して「ブルジョア民主主義」と指弾し、軽蔑してきたのである。小西がいうとおり「本物の民主主義を血肉化していたとするならば、連赤事件も内ゲバも起こり得なかった」ことに誤りはない。しかし、これでは左翼過激派の総括にならないことも疑いの余地もない。
【小西に関する余録】
じつに大雑把ではあるが、小西の批判について紹介を兼ねて批判してきた。批判ついでに1つだけダメ押しをしておこう。
小西は己の歴史認識につてかなり自信をもっているようで、中核の歴史認識について次のようにいう。
私は、戦争問題に関する中核派の情勢分析を見ていて、いつも思っていたことがある。それは彼らの「歴史的感覚」の完全な欠如である。あるいは歴史的現実感覚ともいうべきものだろうか。
私自身も、「本質的」に世界戦争、第三次世界大戦は起こりうると思っている。帝国主義世界体制が続く限りそれは「不可避」である。しかし、それはあくまで理論上の「本質的」レベルの問題だ。
中核派のように、その「歴史的接近」「切迫性」というのは、どう理屈をつけても成り立たない。歴史的現実感覚から言えば、世界戦争というのは、二九年型の恐慌が三回も四回も起こり、主要な大国にファシスト政権が三つも四つも出来てから「切迫性」が現実化するのだ。
小西の「歴史的現実感覚」からいえば「二九年型の恐慌が三回も四回も起こり」「主要な大国にファシスト政権が三つも四つも出来」てから「世界戦争」が「現実化」するのだそうだが、いま29年型の世界恐慌が起きたとすれば、そのときはそれ1回で世界は「終わり」である。30年代とは異なり、おおむね90年代以降の世界経済はそれほど質量ともに規模を拡大させており、浸透している度合いも比較にならない。このことは少しでも経済を知るものであればそれこそ「常識」といって過言でない。だからこそ、大量の双子の赤字を抱え、ものの生産では世界一の座から滑り落ち、対中貿易でも赤字に転じたにもかかわらず、アメリカは基軸国として存在しつづけているのである。いったんつくられたアメリカを中心にして回っている世界経済は、取って代わるだけの基軸国がないゆえに「現状維持」をつづける以外にほかの術がないまでに定着しているのだ。これが世界経済における「歴史的現実感覚」の実像なのだ。「歴史的感覚」が完全に「欠如」しているのは中核だけでない。こと世界情勢に関していえば、小西もなのである。
その一方で、小西は中核にはない「歴史的現実感覚」があることも確かで、そのことについてふれないのは公正さを欠くことになる。で、最後に小西の「歴史的現実感覚」を紹介しておく。
マルクス、レーニンの言うところの、この中央集権化した軍事的・官僚的機構は、マルクスの時代よりも、レーニンの時代よりもますます巨大化・肥大化している。この主要因は、帝国主義諸国の世界政策の結果であり、ふたつの大戦を経た現在、これらは顕著な事実として現れている。となると、暴力革命はマルクス、レーニンの時代よりも、ますます必然化するのではないか? だが、マルクス、レーニンの時代と大きく異なるのは、この中央集権化した軍事的・官僚的機構が「市民化」しつつあるということである。支配階級は、とりわけその軍事機構を支配階級の道具として使用するために、市民社会から軍事機構の独立化・隔離(真空地帯化)や軍事機構内部の無権利化を推し進めてきたが、現代社会の民主主義運動の発展(ブルジョア民主主義的なものであれ)は、これをこのような古い機構のなかに閉じこめておくことは不可能になったのである。
結論を述べるならば、プロレタリアートの民衆運動・大衆運動が深く広く発展し、旧来の軍事的・官僚的機構まで捉え、それを下から獲得・解体していくほど発展していけば、暴力――暴力革命は、「本質論」としてはともかく、「現実的」には必然的ではない、ということだ。別の言い方をすれば、民衆運動が深く広く発展し、旧体制の崩壊の成熟のなかで、新しいプロレタリアート民衆の経済的・社会的・政治的機関(ソヴィエト、レーテなど)が創りだされるほど発展しなければ、変革は革命は問題にならない、ということである。そして、この変革運動の発展は、暴力や武装という「手段」ではなく、プロレタリア民衆の思想運動・大衆運動・革命的議会主義活動を主要な運動形態としてなされることは、言うまでもない。
しかし、ここではブルジョア国家権力の粉砕――旧来の軍事的・官僚的機構の粉砕・解体という「本質としての暴力革命論」については、厳密に押さえておかねばならない。もしも、このことを忘れ、「できあいの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用」(マルクス)しようとするなら、われわれは歴史的な敗北を喫するだろう。
まさに、革命とは「軍隊との闘争というよりも軍隊を獲得するための闘争」(トロツキー著『一九〇五年』)なのである。(『検証 内ゲバPART2』)
右に引用したものは全く別の箇所に書かれたものを恣意的に並べたものではない。全文を引用すると長くなるので不要だと判断した部分は外したが、ひとつづきのくだりに書かれたものなのだ。前者は構造主義を密輸入したのかと思うほど見事な現実感覚を示している。が、後者に至っては旧態依然としたマルクス主義がそのまま主張されているのである。前者の感覚があるからこそ、中核に対して高みから批判できるのだが、後者を引きずっているかぎりどっちもどっちで、つまるところメクソがハナクソを笑うのと同じ次元のものいいにしかなりえない。当然ことだが、これでは逆立ちしても「運動の再生」は不可能といわざるをえない。
4. 白井朗の批判
白井の批判については、この章の冒頭で次の4つの文章があることを紹介した。
@「仲山『資本論の研究』批判」/99.7
A「自称十九全総批判」/99.7
B『スターリン主義に転落した中核派批判』
C『中核派民主派宣言』/00.4
@とAはB6版で26ページと28ページのパンフレット。Bは同じ判型だがちゃんとした装丁がされた96ページのパンフレット。Cは小西の出版社で出した本である。前の3つは革マルによって増刷され、彼らが「これは」と考えるところに配布され、模索舎にも置かれたといわれているものである。いずれも目立った改竄はされていないようだが、@とAには革マルにとって強調したい箇所に赤い傍線が引かれている。増刷したおりに2色刷にしたのかと思ってよく見たところ、インクに滲みがあったのでわざわざ赤ペンで引いたものだとわかった。いつもことだが革マルとはそういう組織なのである。
中身に関してはここで紹介するまでないと思うので割愛する。理由は、結党以来の政治局員である立場であればこそ知っている事実があるはずなのに、肝心なその事実の暴露がないこと、それに尽きる。一例を挙げると、海老原事件が起きたさいの議論と己の立場の言及がない。前述した「試練派」に関する言及もない。見事にないのである。それでいて自分にとって都合がよい箇所では、反対だったがとてもそのような異論を挟むような「雰囲気でなかった」として責任を回避する。これでは読者から次のようにいわれても反論の余地がない。それほどオソマツなのだ。
白井さんの著作は、清水丈夫さんの病状や人格に対する非難が繰り返され、路線論争が絶えずそこに還元されてしまう構造を持っています。正直なところ、読んでいても、革マル派に通低〔底〕するような差別的な言説には不愉快になります。
もしも白井さんが本気で党内民主主義を論じ、首尾一貫して実践しようとするのであれば、1980年に中核派から分裂した「勝利に向かっての試練」派の実践を再評価し、摂取すべきではないでしょうか?
中核派現指導部に対して「頭がオカシクなった」「ボケ」などの差別的言説を含めて勧善懲悪的に断罪するくだりは読んでいても正直気分が悪くなります。このような個人批判に溺れてしまうと、他者を他者として了解し自分自身を対象化する回路が閉鎖され、自分自身がどういう対応をし、どういう問題があり、どう限界を突破していくのか不問になってしまうんだと思います。(いずれも津村洋のもの)
「結党以来の本多書記長の同伴者だった」という自負心とただただ真面目なだけが取り柄の人物が、老いの一徹で書いた老醜だけが横溢する文章なのだ。津村でなくても読んでいて「不愉快」であり、「気分が悪く」なる文章なのである。私にはそのようなものを紹介する趣味はないし、それほどお人好しでもない。
なお、Bのパンフのはじめのほうに「呆れて党を去った有能な同志たち」という説があり、その冒頭に私の名が出てくる。私の白井評価については3章でふれたとおりで、在籍した当時から変わらない。それなのにどう勘違いしたのか、ここでは冒頭に、しかもほかより多くの紙幅を割いて述べている。この鈍感さこそが白井の白井たるゆえんなのである。当然ことだが、旧労闘同でもっとも有能だった滝本洋についての言及はない。漏れ聞くところによれば、私が見切りを付けた直後に滝本も見切りを付けたという。白井が滝本に言及してないのが意図的なのか、それともボケによるものなのかはわからないが前者だとすれば「試練派」とのからみであるといってよいと思う。
■困ったこと
5章にとりかかる前に、すがが送ってくれた『1968年』に目を通した。ひと段落してからと思っていたが、気分転換を兼ねてざった目を通してみようと思ったからである。その結果は頭を抱えることになった。理由は、すがが68年革命といっていることの意味が見えてきたことにある。そのことが1つ。2つめは、すがが強調している「68年革命」にからむ問題が、どうやら構造主義と密接にからんでいるらしいことが見えたことにある。
ことばとしての構造主義については知っているものの、その中身について私は全く知らない。ところが、それでは先に進めそうがないらしいことがわかったのである。頭を抱えることになった最大の理由は、そこにある。〔その理由についてあとでふれる。〕で、いささか格好は悪いとは思うが、ここでこのノートをいったんこれで中断することにした。このノートに関しては、吐き出すものをいったん全部吐き出し、そのうえで全面的に改稿することを前提にして書いてきたという経緯がある。ともかく先を急いだのはそのせいである。そうはいうものの、それなりの構想はあったので「それなりのしめくくり」はするつもりだったのだが、それも含めていったん中断し、改めて仕込み直したうえで、全面的に改稿することにした。メンツより中身を優先することにしたのだ。ということで以下は、右のように判断した中身について、いま現在の時点で知り得たことについてふれて責めを塞ぐことにする。
■すが秀実の提起
すがとの付き合いは、このノートを書く契機になった小野田の発語に関係している。府川から紹介され、小野田の古い論攷を持っていたら貸してもらえまいかと依頼したことがきっかけだった。すがはこのホームページを見てくれていたようで話は順調に進み、以来、いろいろなやりとりがあり、すがからは10月の刊行を予定している本に予定している草稿の一部が送られてきて、その感想を求められた。
7・7華青闘告発と海老原事件との間に相関関係があると考えているがどうか――これが、すがが私に投げかけてきた設問だった。すがに関していえば、なまえだけは知ってはいたものの著作は1冊も読んだことがなかったので図書館から「これは」と思うものを借りてきて目を通してはみたものの、すがが投げかけた設問の意味を理解することはできなかった。で、私なりの感想を送ることで済ませた。〔この「感想文」を読み返してみた。あながち的外れなことは書いていない。私なりにではあるが「かなりいい線」までことの本質に迫ってはいる。が、後述するように両者を結びつけて考えていないために靴の上から足を掻く感を免れていない。〕
あらまし右のような経緯があり、すがからは本が送られてきたがそのうちにと思い積んでおいたものだった。全体で5章構成のうち、私が目を通したのは最終章の5章だけだったが、すがはこの本でかなり根幹にかかわることを提起していた。
おおむね68年から71年にかけての左翼過激派運動に関していえば、無意味な内ゲバに終わったものとして否定的にとらえられている。しかし、環境問題や社会的な弱者に対する差別を否定する風潮が今日では当然のこととして扱われているが、それは一連の左翼過激派の戦いあってのことではなかったか、とすがはいうのだ。お恥ずかしい話だが、右にいう社会的な弱者に対する差別を否定する風潮を指してポリティカル・コレクトネス(Political Correctness、略して「PC」という)ことも、この本によって私は知った。ちなみに「PC」といえばパソコンのことを指していうのが通り相場だが、それとは別にPolitical Correctnessの略語としてあり「社会的弱者の視点から価値の読み替えを目指す態度」のことを指していい、一般的には「政治的な正しさ」と訳されていることについても、同書を読んだことで私は知らされたのである。
すがによると、1968年を20世紀の「決定的な歴史の転換点」だったと主張し「二〇世紀唯一の世界革命」と呼んでいる理論家(イマヌエル・ウォーラーステイン)もいるという。その是非を確かめるには、私は「知らなさすぎる」ことを「知らされた」のである。このことが1つ。
もう1つは、上梓した同書でのすがは、華青闘(華僑青年闘争委員会)の告発(70.7.7)と海老原事件(同年8.4)とに通底するものがあることをはっきりと指摘したことである。前者は在日華僑の青年組織が共闘する左翼過激派の思想を「抑圧者の思想である」として厳しく糾弾したもの。後者は中核による革マル同調者のリンチ殺人事件である。起きた問題の中身からして、両者に通底するものがあるとは考えられない。だからこそ、いままでに誰ひとりとして言及してこなかったわけだが、もし、すがが同書で立てた仮説(いまのところ仮説の域を出ないと思う)が正しいものだとすれば、5章で検討した中核批判についても根本的に見直す必要が出てくる。そうであるだけに、検討するに値する提起であることに疑いの余地はない。
すがが同書で指摘していることで、あと1つだけふれておかなければならないことがある。それは、68/71を経たいま、左翼過激派が掲げた「世界革命」が、結果としてではあるが「実現された」といいうる点である。前述した弱者の視点からの「政治的な正しさ」がいまでは否定できないものになっているというはそのことを示す1つの指標だが、そのことのほかに、この闘争を担った左翼過激派の前提だった「反スターリン主義」についても、結果としては「実現してしまった」のだ。スターリン主義の崩壊(反スターリン主義の実現)は89年のベルリンの壁の崩壊に始まり91年のソ連邦の解体まで待つことになるが、いずれにしても実現してしまったことは歴史的な事実なのだ。
すがは先に紹介した理論家と同様にわが68/71を「二〇世紀唯一の世界革命」の環の1つとしてとらえ、「決定的な歴史の転換点」だったとしている。当初の私は、すががそのように主張することの意味をとらえかねていた。しかし、同書を読み終えたいまはかなり同調したい気分になっている。それは革命というもの理解の仕方にかかわることだろうが、「負けて勝つ」ことも革命においては「あり」なのではなかろうかと考えるようになったからだ。ソ連では勝ったはずの革命が、ものの見事に敗北を喫してしまった。その現実を直視するとき、「負けても勝つこと」はありうることだと考えるようになったということでもある。
■構造主義とは?
私の記憶によれば、構造主義ということばはポスト構造主義とということばと同時にメディアで喧伝されたように記憶している。この記憶が正否は別にして、すがも次に紹介するように一連の流れの中の1つとして叙述しており、両者を区別してはいない。
「一九六八年」が、先進資本主義諸国や東欧、ラテンアメリカにおける「新左翼」の、学生を中心とした世界的な動乱であったと同時に、思想的な大転換も告知したことは、「六八年の思想」という言葉があることでも知られる。それは、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの構造主義に始まり、ロラン・バルトの文学批評、ジャック・ラカンの精神分析、ルイ・アルチェセールのマルクス主義、そして何よりもミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァなどの、いわゆる「ポスト構造主義」を指す。
どうやらこの辺りから検証しないことには話が始まらないようなのだ。そのことに気づいたことが、先に述べた中断の最大の理由になる。構造主義に関していえば、旧友の碓井昭雄からだいぶ前に内田樹の『寝ながら学ぶ構造主義』という本を読んでおいたほうがいいと勧められ、積んでおいたものがあった。で、まずは同書に目を通してみた。標題のまがまがしさとは裏腹にまともな本で、構造主義と呼ばれている考え方については(子細は別にすれば)これ1冊を読んだだけで十分に得心できた。乱暴なの承知のうえで私なりに要約すると、構造主義とは次にようなものである(らしい)。
――1つの価値観ないしは原理をもって世界が支配されるべきだとするのは誤りであり、マルクス主義こうした考え方の典型である。これに対して、構造主義では独立した歴史をもつ個々の文化圏においてはそれぞれに独自な価値観や原理が存在し、かつ、それらは互いに相対的なものであるとする考え方にたつ。
寝ながら学べたというわけではなかったが、同書は参考になった。が、それは「とりあえず」のものであり、当然のことながらいくつか重要な問題を積み残している。それは、構造主義のエースであるレヴィ=ストロースとサルトルの間で大論争がおこなわれ、サルトルが一撃の下に粉砕されてしまったとする内田の指摘と関係している。内田によると、ストロースが公刊した『野生の思考』という著作で最後の1章をサルトル批判に当てたことが契機で、フランスではメディアを挙げての論争になったが、結果はサルトルの一方的な敗北だったという。ところが調べてみると、同書の刊行は62年。だとすれば、論争がおこなわれたのは直後の63年から数年後にかけてのことになる。なにごとにつけても欧米に追随するわがメディアが、その議論を放っておくはずがない。にもかかわらず、私にはその記憶がない。64・65年といえばまだ激動期の前である。これが68年以降になると、闘争に追われて考える暇どころかメディアに目を通す暇などなくなるわけだが、それまでにはまだ時間があった時期に当たる。もし、その種の議論がおこなわれたのであれば記憶にないはずはない。が、それが全くないのである。
■サルトルvsストロース論争
では、前記のサルトルvsストロース論争とはどのようなものだったのか。内田は次のようなものだったという。という。
この批判〔前記のストロースのもの〕は戦後のあらゆる論争を勝ち続けてきた「常勝」のサルトルを一刀両断にしました。傷ついたサルトルは、構造主義は「ブルジョワジーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギー的障壁」であるという定型的な反論を試みました。サルトル主義者たちは領袖に唱和して、構造主義はブルジョワ・テクノクラートの秘儀的学知であり、「腐敗した西欧社会」の象徴であり、構造主義を叩き潰す「自由な精神」は、「ヴェトナムの稲田、南アフリカの原野、アンデスの高原」から「暴力の血路」を切り開いて西欧に攻め寄せるだろうと予言したのです。「歴史の名においてすべてを裁断する権力的・自己中心的な知」として実存主義は批判されたわけですが、それに対して、サルトルは「歴史の名において」死刑宣告を下すという無策をもって応じました。こうして実存主義の時代はいかにも唐突に終わったのでした。
もし、マルクス主義陣営のストロースに対する批判が内田が紹介する上のようなものだったとすれば、明らかにサルトルに分はない。これではレッテルを貼っているだけだし、反論になっていないからだ。サルトルの時代が終わったのは当然である。が、そうはいっても前述したように私たち日本人にとしてみれば、問題の議論が同時代に反映されていないのである。この議論が日本ではどういう形で受け止められたのかについての言及がひとこともないまま、こう書かれても困る。というより、当時を知らない読者をミスリードするものにしかなならいという意味で犯罪的ですらある。参考までに書くと、前記の『野生の思考』の本邦初訳は76年であり、これは本多書記長暗殺の1年後に当たる。ストロースのサルトル批判(ちぢめていえばマルクス主義批判)が、この国には届かなかったのは当然だったのだ。
この間の事情について、橋爪大三郎は次のように書いている。(なお、橋爪は内田の2歳上で内田と同じ東大には68年に入学している。)
もうかれこれ、二十年ほども前の話。
私が大学の門をくぐったころ、ちょうどわが国に、構造主義ブームが吹き荒れているまっ最中だった。クラスにも、同じ新入生のくせに、もういっぱしの学者みたいに詳しいのがいて、「アルチュセールのことなんか、君どう思う?」と開いてきたりする。「?……」私には、何のことやらさっぱりわからない。
その場はごまかして、あとで別の友達にきいてみると、この「アルチュセール」(舌を噛みそうだ)というのは、なんでも、フランスでいま話題の「構造主義」の思想家なんだという。構造主義! そうか、そんなのがあるのか。で、注意してみると、確かに雑誌にちょくちょく出ているわけね、構造主義の記事が。(当時はまだ、構造主義を紹介する単行本など、ほとんど出ていませんでした。)その構造主義とやらの旗頭が、レヴィ=ストロースという学者らしい、ということもわかった。レヴィ=ストロース!?……こいつはぜひ、読まなければならないゾ。
ところが、とびついてはみたものの、どうもおかしい。構造主義は、そう簡単に消化できるしろものじゃなかった。哲学ばかりでなく、どちらかといえばこれまであんまり関係ないとされてた、いろんな分野と関連している。人類学、ソシュールの言語学、記号論、はては数学やら精神分析やら……。このへんを読みこなしていないと、もうひとつぴんとこない。それに構造主義は、これまでの哲学と違って、感情移入がしにくい。マルクス主義ならマルクス、実存主義ならサルトル。血も涙もある感じで、知識人のお手本にみたてて共感するのにちょうどよかったが、こんどは勝手がちがう。レヴィ=ストロースといっても、写真を見るからにどこか爬虫類みたいなおじさんで、何を考えているのかさっぱりわからない。おまけに、人類学にしろ記号論にしろ、構造主義を理解する基礎知識が、当時の日本ではまだまだ貧弱で底が浅かったから、ブームといっても中途半端だったのは無理がない。
本家のフランスで構造主義がブームになったのは、実はこれよりずっと前で、一九五〇年代の後半のことだった。そのころ日本でどう紹介されたものやら、私は知るよしもないが、おそらくギャップがありすぎて、ほとんどチンプンカンプンだったんじゃないだろうか。(『はじめての構造主義』)
参考までにふれておくと、橋爪がストロースの著作(『構造人類学』)を英訳ではじめて読んだのは大学卒業間際のことで、そのときにはまだ邦訳がなかったという。〔同書の邦訳は72年に刊行されている。〕
先に私は内田の本について、その標題のまがまがしさとは裏腹に「まともな本である」と書いた。が、その「まともさ」は上に述べた程度のものなのである。かくして私は、ある程度は自分の目で確認しないことには、前提を俯瞰することができないことを知らされたのである。
構造主義に関していえば、橋爪が指摘しているように多岐の学問分野にわたる考え方であり、それぞれの分野の専門家がある程度こなさないことにはどういうものかが見えてこないものだったようである。その結果として、入門書すらない時期が長くつづいたことになった。私が目を通したかぎりではもっともこなされたものは橋爪のものだが、発行は88年、内田ものに至っては02年である。これでは75年に暗殺された本多書記長がいかに優れていたとしても取り込めなかったとしても責めるわけにはいくまい。ましてや私のような凡夫においておや、である。
【追補】
1) 先に私は、すがが書いたものが容易には飲み込めなかったことについて書いた。その理由は主に私の怠慢にあることは間違いないことだが、けっして私の責任とはいえない側面もある。例えば次の一文である。
「一九六八年」が、先進資本主義諸国や東欧、ラテンアメリカにおける「新左翼」の、学生を中心とした世界的な動乱であったと同時に、思想的な大転換も告知したことは、「六八年の思想」という言葉があることでも知られる。それは、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの構造主義に始まり、ロラン・バルトの文学批評、ジャック・ラカンの精神分析、ルイ・アルチュセールのマルクス主義、そして何よりもミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァなどの、いわゆる「ポスト構造主義」を指す。
引用したものは先に紹介した『1968年』の冒頭部分のものだが、ここでは9人の固有名詞が並べられている。正直なところ不勉強は私は、このうちのひとりとしてその著作を読んだことがない。そういうものにしてみれば、この数行はなにも書かれていないに等しい。では、不勉強な私が悪いのかというと、私はそうは思わない。なぜというに、そういう不勉強な私は、自慢するわけではないが平均的な読書人のひとりだからだ。言い換えれば、私にわからないものが「わかる」人はきわめて限られる。あらかじめそういうものであっていいというなら話は別である。
本文でふれたポリティカル・コレクトネスについては、初出で説明はしているものの次からは以降は「PC」と表記されている。/を間においてその前後に2つの語を配置する次のような表記についても気になる。
@規律/訓練 監視/管理 Aゲバラ/カストロ ハート/ネグリ B六八年/七一年 八九年/九一年
@は/を挟んだ前後の語が1対のものとして機能していることを意味しているようだが、普通では使われない語法である。Aについていえば、たまたま私は両者は60年代のラテン革命史上高名な人物であることを知っているから@と同じ使い方がされていることがわかったが、ハート/ネグリについては知らなかったので、協働しているふたりの人物であるとは思わなかった。調べてみて両者が協働しているふたりの人物であることをはじめて知った。Bについていうと、68年から71年にかけての間にあった通底するものを有する一連の時間を指してのものであることはすぐにわかり、それからあとは気にならなくなった。要は、こういう語法は一種の「慣れ」であるから、慣れてしまえばそれでいいのかもしれない。しかし、このことを逆にいうと、はじめに気になると、そこで放り投げられることをも意味しており、せっかく新書という形で上梓したことの意味を損ねかねない問題を含んでいる。
2) 書きながら「ここはもう1つ突っ込んで書くべきだ」と思い、資料を手配しながらも、その作業を改稿のさいにすることにした箇所がいくつかある。そういうもののだけでも資料は30冊を超えた。が、その類のものはいい。責任をもってものをいうためには他人の受け売りや推量ではまずいからで、あらかじめ自分の中にある結論が大きく変わることはないからだ。しかし、ある程度はつめて読み込む必要があると思われる資料がある。構造主義についてだけでも、ストロースのサルトルとの間で論争になったとされている『野生の思考』だけは受け売りではなく、己の目で確かめないことには埒が明かない。そういうわけで、改稿にとりかかるまでにはいま少しの時間がかかると思っている。
2007.2.25