今日はこんな日♪-第4弾!-(8月)

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8月1日
 作曲家 
 中田喜直 
 誕生 

-1923年-
 「ちいさい秋みつけた」「夏の思い出」など誰にでも愛される多くの名曲を残した、作曲家の中田喜直。「早春賦」の作曲家・中田章を父にもち、自然に音楽に親しんで育ちました。小学2年生のときからピアノを正式に習い、まもなく作曲を始めます。小学生時代の記念すべき第一作は、西条八十の詩「怪我」に曲をつけたものでした。その後、東京音楽学校(現・東京芸術大学)ピアノ科に進学。終戦後、1947年に歌曲集「六つの子どもの歌」を発表し、本格的に作曲の道に。20代後半には「夏の思い出」「雪の降るまちを」「めだかの学校」といった名曲を次々に生み出しました。

8月2日
 拓郎・かぐや姫 
 つま恋 
 コンサート開催 

-1975年-
 1975年、静岡県掛川市のつま恋で屋外オールナイトコンサート“拓郎・かぐや姫 イン つま恋”が行われました。たった1回のコンサートでの6万人という観客動員は驚異的な数字で、当時の掛川市の全人口に匹敵する人数です。吉田拓郎の「朝までやるよ!」という一言で始まったこのコンサートでは、当時人気絶頂の拓郎がなんと59曲を、かぐや姫はヒット曲の「神田川」をはじめ26曲を熱唱。ゲストの演奏曲も入れると計109曲もの演奏が一晩で行われました。特にコンサートの最後、拓郎の「人間なんて」では、6万人の観客が夜明けに向かって何十分もの大合唱を続けました。

8月3日
 ロッシーニ 
 「ウィリアム・テル」 
 初演 

-1829年-
 19世紀初頭、イタリアではジョアッキーノ・ロッシーニ(1792〜1868)が脚光をあびていました。
 ロッシーニはまさに掛け値なしの天才でした。ほとんど独習で、最初のオペラを書いたのが16歳。有名な「セビリャの理髪師」は24歳の時の作品で、わずか13日間で書き上げられたと言います。生涯に作曲したオペラの数、なんと39作。その最後のオペラが「ウィリアム・テル」です。しかし曲全体よりも序曲ばかりが有名になってしまいました。序曲は「夜明け」「嵐」「静寂」「スイス軍隊の行進」という四つの部分からなり、特に最後の「スイス軍隊の行進」は、軽快かつ勇壮なテーマのせいか、運動会の定番曲となっています。
 ロッシーニは38歳でこの「ウィリアム・テル」を書き上げたあと、さっさと音楽界を引退してしまいます。理由は「昔はメロディのほうから私のところへやってきたのに、最近は私から探しにいかないとメロディが見つからないから」というもの。やはり天才はどこか違いますね・・・

8月4日
 モーツァルト 
 結婚 

-1782年-
 モーツァルト(1756〜1791)がその生涯の伴侶となるコンスタンツェ・ウェーバー(1762〜1842)とウィーンで結婚式を挙げたのは、26歳の時。最初彼はコンスタンツェの姉、アロイジアに心を寄せていたのですが、あえなく失恋し、その妹と家庭を持つことになったのです(ちなみに作曲家のウェーバーは、この姉妹の従弟にあたります)。
 コンスタンツェはモーツァルト同様に経済感覚が欠如しており、浪費好きだったということになっています。また彼女は夫の才能を理解せず、お金になる作品を書くよう強要したとも言われています。さらにモーツァルトが亡くなった時、コンスタンツェは悲しむばかりで立派な葬儀をとりおこなわず、共同墓地に埋葬されたときに遺骸を見届けなかったこと(そのため正確な埋葬場所は未だに不明)が、彼女の悪評を決定づけました。

8月5日
 女優/歌手 
 マリリン・モンロー 
 没 

-1962年-
 私生児という生い立ち。工員からモデル、そして女優への華麗な転身。ジョー・ディマジオ、アーサー・ミラーとの結婚と離婚。ジョン・Fとボビーのケネディ兄弟との恋愛。そして謎の死…。ハリウッドが生んだ永遠のセックス・シンボル、マリリン・モンローを取り巻くエピソードは数え切れません。
 モンローの本職は歌手ではありませんでした。しかし彼女が出演した映画にはたくさんの歌が挿入されており、多くの女優たちが歌の部分は吹き替えていたにもかかわらず、モンローはすべての歌を自分で歌っていたのです。『紳士は金髪がお好き」『百万長者と結婚する方法』『ショウほど素敵な商売はない』『七年目の浮気』『恋をしましょう』…彼女の歌はさまざまな映画で聴くことができますが、中でも『帰らざる河』の主題歌や、『バス停留所』の「ザッツ・オールド・ブラック・マジック」は名唱と言われています。

8月6日
 歌手/タレント 
 堺正章 
 誕生 

-1946年-
 名司会者として、俳優として、コミカルな持ち味でテレビでおなじみの堺正章。彼が世の中に知られるようになったのは、60年代のグループサウンズ時代に“日本のビートルズ”と呼ばれたスパイダースのボーカリストとしてでした。
 スパイダースは1961年にドラマーの田辺昭知(しょうち)をリーダーに結成されたバンドで、徐々に井上孝之(現・尭之)、大野克夫、かまやつひろし、井上順、堺正章という錚々たる面々が集まっていきました。デビューは1965年、当時日本でも人気絶頂だったビートルズの“リバプール・サウンド”に対抗して、“トーキョー・サウンド”を提唱。デビュー・アルバムは何と全曲オリジナル曲で、初期のビートルズやストーンズ、アニマルズといったブリティッシュ・ビートをベースに、デビュー曲の「フリフリ」では3・3・7拍子を取り入れるなど、日本初の日本語による日本的ロックを体現してみせたのですが、1969年ごろには堺、井上順、かまやつらのソロ活動が目立つようになり、1971年にスパイダースは解散しました。
 ソロとなった堺は「さらば恋人」などのヒットを飛ばしますが、次第に喜劇センスを生かした俳優・司会業へと転身していきました。

8月7日
 「ラデツキー行進曲」 
 初演 

-1848年-
 オーストリアの作曲家、ヨハン・シュトラウスI世作曲の「ラデツキー行進曲」。ワルツ王、ヨハン・シュトラウスII世の父の作品として有名です。“ラデッキー”とはオーストリアの英雄、“ラデッキー将軍”にあやかっています。
 毎年ウィーンで元旦に行われるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのラストを飾るアンコール曲としても有名な曲です。

8月8日
 チャイコフスキー 
 序曲「1812年」 
 初演 

-1882年-
 1812年、ナポレオンに率いられヨーロッパの国々を次々と打ち破っていたフランス軍は、ついに大国ロシアに攻め入りました。統率のとれたフランス軍の攻撃に、強大なロシア軍も窮地に立たされましたが、その局面を一転させたのが“冬将軍”と呼ばれる大寒波の襲来でした。そんな寒さを経験したことのないフランス軍は次々と兵力を失い、ついにはロシアから撤退。ここにナポレオンの不敗神話は終わりを告げたのでした。
 それから68年後の1880年、当時すでにロシア最高の作曲家と目されていたチャイコフスキー(1840〜1893)は、全ロシア産業工芸博覧会の開会式のための音楽を依頼されます。「華やかな開会式にふさわしい題材はないものか…」悩んだ末、彼が思いついたのが、ロシア軍が歴史的勝利をおさめた1812年の戦争を、音楽で表現することでした。そうして生まれたのが、序曲「1812年」です。

8月9日
 歌手 
 ホイットニー・ 
 ヒューストン 
 誕生 

-1963年-
 母シシー・ヒューストンは実力派のゴスペル・シンガー、そして従姉妹はあのディオンヌ・ワーウィック。こんな恵まれた環境で育ったホイットニー・ヒューストンは、幼い頃から抜群の歌唱力をみせ11歳で教会の聖歌隊のソリストになり、15歳で母のステージのバック・コーラスを歌うようになります。
 22歳の時、アルバム『そよ風の贈り物』で衝撃的なソロ・デビューを飾ります。曲によってプロデューサーを使い分け、シンガーとしての幅広い力量を示したこのアルバムからは、タイトル曲をはじめ「すべてをあなたに」「恋は手さぐり」といった大ヒットが生まれ、アルバムチャートのトップを14週もキープ。アメリカだけで800万枚以上のセールスを記録しました。

8月10日
 モーツァルト 
 交響曲第41番 
 「ジュピター」 
 完成 

-1788年-
 モーツァルト(1756〜1791)はその生涯に41の交響曲を作曲しました(作品番号のついていないものも含めると46曲)。どれもが素晴らしいひらめきに満ちていることを考えると、やはりモーツァルトは天才だったという思いを強くするのですが、中でも最高傑作の一つといわれるのが、最後の交響曲第41番「ジュピター」です。
 この曲が書かれたのは1788年の夏。この夏、予約演奏会を行うつもりだったモーツァルトは、これ以外に交響曲第39番、40番、それに8曲の室内楽と声楽曲を、同時に書き進めていました。しかし当時モーツァルトの人気は急激に下落しており、予定していた演奏会も予約してきたお客はわずか一人で、モーツァルトは泣く泣く演奏会を中止をしました。そしてその時作曲されていた曲は、ついにモーツァルトの生前に実際に演奏されることは一度もありませんでした。

8月11日
 作曲家 
 古関裕而 
 誕生 

-1909年-
 全国高校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」や、ラジオドラマ『君の名は』の主題歌など、国民に広く愛された曲を数多く作った古関裕而。自然に作曲を始め、ほとんど独学でクラシック音楽の基礎を身につけてしまいます。そんな古関の憧れの人は、当時活躍中の作曲家、山田耕筰でした。何度か自分の作品を見てもらううちに認められ、山田の推薦で1930(昭和5)年、コロムビアレコード専属となり、作曲家としての第一歩を踏み出します。翌年に早稲田大学応援歌「紺碧の空」がヒット、ついで「船頭可愛や」などあいつぐ成功で流行作曲家の地位を築きました。
 60年近い作曲活動で残した曲は、なんと5,000曲以上。代表曲「鐘の鳴る丘」「君の名は「、東京五輪の「オリンピック・マーチ」や阪神タイガース応援歌「六甲おろし」等。

8月12日
 ブルースの女王 
 淡谷のり子 
 誕生 

-1907年-
 60年以上も歌謡界で活躍し、1999年に92歳で天寿をまっとうした淡谷のり子。淡谷のり子は1907年に青森市の大きな呉服商の長女として生まれました。裕福な環境で育てられましたが、のちに家業が没落。1923年、放蕩者の父親に見切りをつけた母親と妹と3人で上京します。食べるものに困るほどの貧乏のなか、母はのり子に自立した女性になってほしいと東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に進ませました。ぐいぐいとクラシックの声楽にのめり込んでいくのり子。
 1929年、首席で卒業してすぐクラシックの歌手としてデビューし「10年に1人のソプラノ」と絶賛された淡谷は、タンゴやジャズの魅力に目覚め、流行歌の世界に移ります。1937、38年に「別れのブルース」「雨のブルース」がヒットし「ブルースの女王」と呼ばれるようになった淡谷は、ジャズやタンゴ、シャンソンまで幅広いレパートリーを歌いつづけました。

8月13日
 アルフレッド・ 
 ヒッチコック 
 誕生 

-1899年-
 スリラー、サスペンス映画の神様と言われた映画監督ヒッチコック。彼の映画の面白さの秘密のかなり大きな部分を、音楽が担っているのです。
 例えば『知りすぎていた男』(1956)では、主演女優でもあるドリス・デイの有名な歌「ケ・セラ・セラ」が、誘拐された息子を捜す重要な鍵となりますし、クライマックスのイギリス首相暗殺シーンは、ロイヤル・アルバート・ホールに於けるロンドン交響楽団演奏会を舞台にしています。また、ミステリーの中にロマンスをたっぷり盛り込んだ『めまい』(1958)では、情感溢れる管弦楽を豊かに鳴らしたのに対し、異常な殺人を描く『サイコ』(1960)では、白黒の画面に合わせ、モノトーンの弦楽合奏が、非情な冷たさで緊迫を盛り上げていきます。それどころか、『鳥』(1963)では、当時の常識に反し、本編から音楽を完全に排除することさえしています。
 これらの作品は全て作曲家バーナード・ハーマンが音楽を付けていますが、他にもディミトリー・ティオムキン、フランツ・ワックスマン、ジョン・アディスン、ジョン・ウィリアムズなど、第一級の映画音楽作曲家と組んでいるところを見ても、ヒッチコックがどれだけ音楽を重視したかがよくわかります。

8月14日
 オーストリア 
 指揮者 
 カール・ベーム 
 没 

-1981年-
 カール・ベームは20世紀半ばから後半にかけて世界的に活躍した大指揮者です。ベームの指揮は、たとえばフルトヴェングラーやトスカニーニ、あるいはカラヤンのように派手で個性的ではありませんでしたが、作曲者が望んだ音をあますことなくオーケストラから引き出す実直なもので、ドイツ音楽、とりわけモーツァルトの演奏は、師とも言えるブルーノ・ワルターゆずりの素晴らしいものでした。

8月15日
 シルヴィ・ヴァルタン 
 誕生 

-1944年-
 シルヴィは1944年に生まれます。普通の16歳が憧れる程度に歌手を夢見ていたのですが、1960年のある日、レコード会社でアレンジャーをしている7歳年上の兄から急にスタジオに呼び出されました。何でも予定していた女性歌手が現れず、急遽シルヴィがその代役としてフランキー・ジョルダンという男性歌手とデュエットすることになったのです。この曲がヒットしたおかげで、レコード会社と契約することとなり、1961年に「悲しきスクリーン」でデビュー。美しいブロンドの髪と愛くるしい顔立ち、それにちょっと隙っ歯でキュートな口元のコケティッシュな魅力でたちまち人気が爆発し、1963年には有名な「アイドルを探せ」という映画まで作られたほど。同名の主題歌も大ヒットしました。

8月16日
 エルヴィス・ 
 プレスリー 
 没 

-1977年-
 トラック・ドライバーだったエルヴィスの運命を変えたのは、母親へのプレゼントにと歌を吹き込んだ1枚のレコードでした。このレコードをきっかけに地元メンフィスのサン・レーベルと契約した彼は、1954年「ザッツ・オールライト」でデビュー、56年にはRCAに移り、「ハートブレイク・ホテル」「ハウンド・ドッグ」「ラヴ・ミー・テンダー」「監獄ロック」といった後にスタンダード曲となる大ヒットを、次々に発表していきます。彼の天性の歌い方と、ギターを抱え激しく腰をふりシャウトするというステージ・パフォーマンスによって、ロックン・ロールは世界中の若者の間に瞬く間に広まっていったのです。

8月17日
 ベリンダ・ 
 カーライル 
 誕生 

-1959年-
 1978年にゴーゴーズでデビューしたベリンダ・カーライル。パンク好きの女の子が集まり1978年に結成されたゴーゴーズは、可愛い女の子ばかりという強みもあり、すぐにロサンゼルスのクラブの人気者に。1981年にメジャー・デビューを果たすと、明るく健康的でキュートな音楽性が評判となり、「泡いっぱいの恋」等のシングルが大ヒット。ファースト・アルバム『ビューティ&ザ・ビート』は、女性だけのロック・グループとして初の全米1位を獲得したのです。
 1982年の『バケーション』がアルバムとシングル両方で大ヒットしますが、その後はメンバー感の不和やベリンダの麻薬問題もあり、1985年にゴーゴーズは解散。1986年の結婚を機に立ち直り、その年の夏に『ベリンダ』でソロ・デビュー。翌年1987年には「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」で、ゴーゴーズ時代にも果たせなかったシングルでの全米1位に輝きました。

8月18日
 作曲家 
 アントニオ・ 
 サリエリ 
 誕生 

-1750年-
 18世紀後半から19世紀初頭にかけて、ウィーン楽壇の重鎮として君臨していた作曲家、アントニオ・サリエリ。しかし現代では彼の名は、“モーツァルトを毒殺した(かもしれない)男”として記憶されています。
 モーツァルトの才能がただならぬものだと感じた彼は、自分の地位を守るため、モーツァルトを楽壇から閉め出すよう策略をめぐらせたと言われています。モーツァルト締め出し作戦はともかく、毒殺説には何の根拠もありません。芝居や映画にもなった『アマデウス』はあくまでもフィクションの世界のお話です。
 ほとんど忘れ去られていた彼の作品も近年は再評価されつつあり、CDもいくつか発売されています。

8月19日
 ミュージカル 
 『ウェスト・サイド・ 
 ストーリー』 
 初演 

-1957年-
 20世紀後半を代表する指揮者のレナード・バーンスタイン(1918〜1990)。指揮の他、ピアノを弾き、作曲をし、テレビ番組を通じて分かり易く音楽の魅力を解説し、新進音楽家のための音楽祭も主催するなど、あらゆる音楽で活躍したスターです。
 振付師ジェローム・ロビンズは、ある日バーンスタインに「ロメオとジュリエットを現代のマンハッタンに置き換えてミュージカルを作ったらどうだろう?」と持ちかけてきました。そして生まれたのがミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』です。
 1957年8月、ワシントンで公演されたこのミュージカルは、ラテンのノリの「アメリカ」、ジャズの薬味が効いた「クール」、抒情溢れる「マリア」、そして恋のときめきを歌い上げた「トゥナイト」など、素晴らしいナンバーが満載。圧倒的な成功を収めました。

8月20日
 民族音楽学者 
 小泉文夫 
 没 

-1983年-
 民族音楽、特に非西洋音楽の研究・紹介で数々の業績を残した小泉文夫。幼い頃からバイオリンに親しみ、教会の聖歌隊で歌っていた小泉は、西洋音楽の研究のため東大文学部の美学科に進みますが、そこで聴いた箏と三味線の生演奏が、彼に人生を変えてしまう程の衝撃を与えます。この体験が原点となり、それ以後彼は地域や民衆と密着した文化として、音楽を捉えていくのです。
 小泉は、1957〜58年のインドを皮切りに実に50数カ国を訪れ調査・研究を行い、様々な民族音楽を紹介すると同時に、西洋の比較音楽学の手法であくまでも客観的に分析していきました。
 また彼は、小学校の音楽教育に日本の伝統音楽も取り入れるよう提唱しました。当時としては全くの異端で、多くの批判も浴びました。彼の著書『日本音楽の再発見』にある次の言葉は、そうした批判にさらされながらも自らの信念を貫いた、彼の立場の表明ともいえるでしょう。

8月21日
 カウント・ 
 ベイシー 
 誕生 

-1904年-
 デューク・エリントンと並びビッグバンド界を代表するバンドリーダー兼ピアニスト。1936年から1984年まで、途中わずかな中断期間はあったものの半世紀近くも一流ミュージシャンを擁する自分のビッグバンドを率いて世界を回り続け、日本にも熱狂的なファンが多いです。

8月22日
 作曲家 
 クロード・ 
 ドビュッシー 
 誕生 

-1862年-
 ドビュッシーは幼い頃から音楽に驚くべき才能を発揮しましたが、家が非常に貧乏だったため、父親の友人に借金して音楽学校に入学しました。にもかかわらず彼は常に貴族的でぜいたくな趣味の持ち主で、経済状態は慢性的に苦しいものでした。しかしドビュッシーはそのことを、まったく気にしませんでした。彼にとっては金銭よりも、自分の芸術を誠実に追求することのほうがずっと大切だったのです。
 代表曲「牧神の午後への前奏曲」「夜想曲」「前奏曲集」「管弦楽のための映像」「ベルガマスク組曲」等。

8月23日
 ミュージカル 
 ジーン・ 
 ケリー 
 誕生 

-1912年-
 ミュージカル映画の黄金時代に、歌い、踊り、監督までつとめたスーパー・スター、ジーン・ケリー。26歳で初舞台を踏み、30歳の時には当時売り出し中だった若手女優、ジュディ・ガーランドと組んだ『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』で映画デビュー。以後1996年に世を去るまで、『踊る大紐育(ニューヨーク)』や『巴里(パリ)のアメリカ人』『ザッツ・エンターテインメント』など数々の映画を監督・主演しました。

8月24日
 作曲家 
 滝廉太郎 
 誕生 

-1879年-
 「花」や「荒城の月」の作曲者として知られる滝廉太郎は、日本における西洋音楽の創始者でもありました。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)に最年少で入学した彼は、在学中にその才能を一気に開化させました。
 学生時代、「荒城の月」が見事入選、ドイツ留学審査に通ります。そうして生まれた「荒城の月」は、はじめて日本人が洋楽の手法を用いて日本的な繊細さを表現した曲として、ドイツでも大変好意的に受け入れられ、廉太郎の新しい音楽人生は順風満帆かに思われました。
 しかし、もともと病弱だったのに加え、急激な環境の変化と休む間もない勉強の日々に、廉太郎は結核を患ってしまいます。失意のうちに帰国した彼は、故郷の大分で静養しますが、その身体は二度と回復することはありませんでした。そして1903年、この日本の西洋音楽の創始者は、24年の短い生涯を閉じたのです。

8月25日
 ピンク・レディー 
 「ペッパー警部」で 
 デビュー 

-1976年-
 ミー(根本美鶴代)とケイ(増田啓子)による女性デュオ、ピンク・レディーがデビューしたのは1976年8月25日。「ペッパー警部」は、斬新な歌詞と覚えやすいメロディー、セクシーな衣裳と大胆な振り付けで、アッという間に大ヒット。ピンク・レディーは見事、その年の日本レコード大賞の新人賞に輝いたのです。
 「ペッパー警部」につづく「S・O・S」「カルメン’77」も60万枚を越すヒット。さらに1977年から1978年にかけ「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」「サウスポー」「モンスター」がたてつづけに100万枚を越えるという、凄まじい勢いで日本歌謡界を席巻しました。

8月26日
 作曲家 
 ヴォーン・ 
 ウィリアムズ 
 没 

-1958年-
 ラルフ・ヴォーン・ウィリアムズは、エルガーやホルストらとともに、近現代のイギリス音楽を代表する作曲家です。最近、英国の文化やライフスタイルが注目を集め、その音楽にも愛好家が増えてきましたが、ヴォーン・ウィリアムズは、中でももっとも“英国らしさ”を感じさせる人物といえるでしょう。
 代表曲「海の交響曲」「ロンドン交響曲」「田園交響曲」「南極交響曲」等。

8月27日
 ギタリスト 
 スティーヴィー・ 
 レイ・ヴォーン 
 没 

-1990年-
 1983年にバンド“ダブル・トラブル”を率い、アルバム『テキサス・フラッド』でデビュー。当時マドンナやマイケル・ジャクソン、イギリスのニューロマンティック勢といった派手なサウンドがウケていた中で、シンプルなブルーストリオ編成でブルース・ギターを弾きまくる「プライド・アンド・ジョイ」などの骨太なスタイルは新鮮に響きました。その翌年のセカンド・アルバム『テキサス・ハリケーン』では、ジミ・ヘンドリックスの名曲「ヴードゥー・チャイル」をカバー。ジミ以来の待望のブルース・ギター・ヒーローとして、ブルースやオールド・ロックのファンから喝采を浴びたのです。
 ところが1990年の夏、ウィスコンシン州で行われた野外コンサートにエリック・クラプトン、ロバート・クレイらと参加した後、シカゴに移動するために乗り込んだヘリコプターが墜落。帰らぬ人となってしまったのです。短い生涯でしたが、その功績は大きなものでした。

8月28日
 初の国産バイオリン 
 完成 

-1880年-
 江戸・深川の三味線職人の松永貞次郎が、日本初の国産バイオリンを完成させました。

8月29日
 マイケル・ 
 ジャクソン 
 誕生 

-1958年-
 マイケル・ジャクソンは、音楽一家の9人兄妹の7番目として生まれました。10歳の1968年、兄弟5人で結成した「ジャクソン5」の一員としてデビュー。翌年には「帰ってほしいの」「ABC」など4曲連続でNo.1ヒットを放ち、スターの仲間入りを果たします。
 また1972年にはアルバム『ゴット・トゥー・ビー・ゼア』でソロ・デビュー。続く『ベンのテーマ』ではタイトル曲がソロ初のチャート1位に輝きます。1982年のアルバム『スリラー』は、音楽だけでなくビデオ・クリップも世界中にオンエアされ、「スリラー」のゾンビダンスと特殊メイク、で映像面でも世界の話題を独占。37週連続アルバムチャートNo.1に君臨。合計7曲のトップ10ヒットを生み出し、全世界で5,000万枚以上も売れる記録的アルバムになりました。

8月30日
 シンガー・ 
 ソングライター 
 井上陽水 
 誕生 

-1948年-
 15歳でビートルズを知ってから音楽に傾倒したという井上陽水。1969年に「アンドレ・カンドレ」の名前でデビューしますが、その時は残念ながらヒットには恵まれませんでした。しかし1972年、井上陽水の名前で「人生が二度あれば」を発表し再デビューを果たすと、一躍注目を集め「傘がない」、「夢の中へ」と次々にヒットを記録。さらに1973年12月に発表されたアルバム『氷の世界』は1974年から1975年の2年に渡って年間売上ベストワンを達成し、日本音楽史上初のミリオンセラーアルバムとなりました。
 目まぐるしく移り変わるミュージックシーンで四半世紀にも渡ってヒット曲を生み出している陽水は、まさに天才的なソングメーカーというべきでしょう。

8月31日
 杏里 
 ソングライター 
 誕生 

-1961年-
 高校時代からモデルとして活躍し、17歳の1978年尾崎亜美提供の名曲「オリビアを聴きながら」で歌手デビューした杏里。1983年のアニメの主題歌「CAT'S EYE」の大ヒット。オリコン5週連続1位、NHK紅白歌合戦出場、翌年春の甲子園選抜高校野球大会のテーマ・ソングとなるなど、大ブームを巻き起こします。さらに「悲しみが止まらない」「気ままにリフレクション」など、ダンス・ビートを押し出し、“冬のユーミン”に対して“夏の杏里”と言われるほどの人気シンガーとなりました。

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