

ジャコ・パストリアス 誕生 -1951年- |
ジャコ・パストリアスは世界最高のベースプレーヤーのひとり。それまでリズム楽器と考えられていたベースで主旋律を奏で、リード楽器としての華やかな魅力を引き出しました。まったくの独学で、週7日、クラブで演奏しながら腕に磨きをかけました。ジョー・ザビヌルに見込まれウェザー・リポートに参加したジャコは、バンドの人気と共にその実力がクローズアップされ、世界の花形ベースプレーヤーとして一世を風靡します。バンドの大ヒット曲「バードランド」でも、ジャコは華麗なプレイを存分に聞かせています。 |

ウィントン・ケリー 誕生 -1931年- |
ハード・バップ・ジャズを代表するピアニスト、ウィントン・ケリー。12歳でプロ・デビュー、当初はR&B畑で活躍しました。10代の終わりからダイナ・ワシントンの歌伴や、レスター・ヤング、ディジー・ガレスピーと共演、ジャズ・セッション・プレーヤーとしてもすぐに頭角を現します。その活躍ぶりがマイルス・デイヴィスの目にとまり、1959年から63年までマイルスのバンドに在籍。その後ポール・チェンバース、ジミー・コブと結成したトリオは、60年代最強のトリオと絶賛されました。 代表作『ケリー・ブルー』『ケリー・グレイト』等。 |

アンディ・ ウィリアムズ 誕生 -1930年- |
ソフトでロマンティックなバラードを得意とする、アンディ・ウィリアムズ。若い頃から3人の兄とともにウィリアムズ・ブラザーズというコーラスグループを組み、ラジオやクラブで活躍していましたが、1952年、独立してソロ歌手としての活動を始めます。 代表曲『ムーン・リヴァー』『ある愛の詩』『ゴットファーザー愛のテーマ』『ハワイアン・ウェディング・ソング』等。 |

ジム・ホール 誕生 -1930年- |
ジム・ホールは、ギター界の重鎮です。音楽一家に生まれた彼は、10歳のクリスマスに母からギターをプレゼントされると、この楽器のとりこになり、13歳で地元でプロ演奏するという早熟ぶりをみせました。1955年、チコ・ハミルトン・クインテットに加わり、それがきっかけで売れっ子に。1965年ニューヨークに移り結婚した彼は、仕事より家庭を選び、ツアーで家を空けなくても済むよう地元のオーケストラに職を求めました。そして家庭が落ち着いた3年半後、ツアーに復帰、再び目覚ましい活躍を続けます。とりわけ1975年の『アランフェス協奏曲』は大ヒットし、ジャズ・ギター・ブームの火付け役になりました。 |

ディズニー 誕生 -1901年- |
ウォルト・ディズニーと言えば、ミッキー・マウスとその仲間たちのキャラクターを生み出したアニメ作家として有名ですが、アニメと音楽との関係も素晴らしいものがあります。キャラクターの動きを音楽とシンクロさせるという発想は、ミッキーを主人公とした史上初のトーキーアニメ『蒸気船ウィリー』(1928)から明確でした。また、クラシックの名曲をアニメで映像化する「シリー・シンフォニー」シリーズも制作。この延長線上に、世界初のステレオ・サウンド長編アニメ『ファンタジア』(1940)が作られます。 |

蓄音機を発明 -1877年- |
84年の生涯のうちに、エジソンが成しとげた発明や工夫は、1,097種類にも及びますが、その中でも有名な「3大発明」(白熱電球・蓄音機・映写機)はもっとも人々を驚かせました。 エジソンは、蓄音機を発明する以前に、ボール紙の円盤に針先でくぼみを付けてモールス信号を記録し、それをなぞって送信する構造の「高速電信機」を発明していました。この電信機の実験のとき、彼は、針先がくぼみを通過するときコトコトと音がすることに気が付き、それが蓄音機の発想のきっかけとなったのです。そうして完成した蓄音機の公開実験では、エジソンは童謡「メリーさんの羊」を自ら歌って録音してみせました。 |

ピエトロ・ マスカーニ 誕生 -1863年- |
マスカーニといえば、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」で知られる作曲家です。 1888年、ある作曲コンクールに、妻が内緒で「カヴァレリア・ルスティカーナ」を送ったところ、堂々1等に入選したのです。それどころか、1890年5月17日の初演以来どこで上演されても熱狂的な大成功を収め、無名の作曲家マスカーニの名は、全イタリアにとどろいたのです。リアルな設定で激烈な事件を劇的に描くこのオペラの手法は、「ヴェリズモ」と呼ばれて世界のオペラ界に広まり、レオンカヴァッロの「道化師」などの作品が生み出されました。しかし、マスカーニにとって不幸だったのは「カヴァレリア」がデビュー作であると同時に、彼の最高傑作でもあったことです。生涯この処女作を越えることが出来ませんでした。 |

射殺される -1980年- |
元ビートルズ、また日本人アーティスト、オノ・ヨーコの夫としても有名なジョン・レノン。ビートルズ解散後は、平和活動に傾倒。世界中の大都市の街角に“WAR IS OVER”のポスターを貼るといった平和キャンペーンを始めた当時のジョン。この時期に作られた「イマジン」は“国境や宗教なんてない世界を想像してごらん”という歌詞の内容から、平和運動のシンボルとしても広く歌われています。 75年にヨーコとの間に息子ショーンが誕生すると、息子の成長を見守りたいと音楽界から身を引き、ハウス・ハズバンド(主夫)として隠遁生活を送ります。しかし5年後、ジョンは音楽活動を再開。ヨーコとともにアルバム『ダブル・ファンタジー』とシングル「スターティング・オーバー」を制作しますが、同曲のレコーディングから帰る途中の午後10時50分、自宅のダコタ・アパート前で、狂信的なファンに射殺されてしまいます。この事件は世界中に衝撃を与え、同年12月14日には全世界で10分間の黙とうが行われました。また多くのミュージシャンが彼をしのんで曲を作りました。マッカートニーの「ヒア・トゥデイ」をはじめ、ジョージ・ハリスンの「過ぎ去りし日々」、エルトン・ジョンの「エンプティ・ガーデン」、クイーンの「ライフ・イズ・リアル」、ポール・サイモンの「ザ・レイト・グレイト・ジョニー・エース」などです。 |

ドナルド・ バード 誕生 -1932年- |
黒人ジャズ・ミュージシャンの中には、みずからの演奏を通して黒人差別への抵抗を表現したり、地位向上のための運動をおこなった人が少なからずいます。ドラムのマックス・ローチ、ベースのチャールズ・ミンガス…。トランペットのドナルド・バードもまた、そんな一人です。 |

誕生 -1941年- |
日本人で唯一、全米ヒット・チャート1位という偉業を成し遂げたシンガー、坂本九。“九ちゃん”の愛称で老若男女に愛された彼がデビューしたのは、ダニー飯田率いるパラダイス・キングのボーカリストとしてでした。当時、プレスリーやニール・セダカといった洋楽を中心にカバーしていた彼が、ソロとして「上を向いて歩こう」をリリースしたのは1961年10月のこと。永六輔作詞、中村八大作曲、坂本九歌のいわゆる“六・八・九トリオ”によるこの曲は、NHK『夢であいましょう』で歌われて人気に火がつきました。 1962年に来日したケニー・ボールが「上を向いて歩こう」を気に入って自分の楽団でカバーし、イギリスで「Sukiyaki」のタイトルで発売したところ大ヒット。世界中のミュージシャンがこの曲を取り上げるきっかけとなります。1963年、アメリカでオリジナルのキュー・サカモト盤がリリースされると、同年6月には全米チャートのナンバー・ワンにランクイン(キャッシュボックス誌で6/15から4週間1位、ビルボード誌で3週間1位)。全米チャートの歴史で英語以外の曲が1位に輝いたのはたった3回で、1958年にイタリアのドメニコ・モデューノが歌った「ボラーレ」、1964年にベルギーのスール・スーリールの「ドミニク」、そして坂本の「スキヤキ」だけ。しかも「スキヤキ」は1981年にテイスト・オブ・ハニーが英語カバーして最高3位のミリオン・セラー、1995年にも4PMのカバーが最高8位の大ヒットを記録しています。まさに日本の曲として初めてスタンダードになったのです。また、1963年に全米1位になったのを受け、国内でも「スキヤキ」のタイトルで再発され、2度目のヒットを記録。“九ちゃん”には、他にも「見上げてごらん夜の星を」などのヒット曲があります。 |

ベルリオーズ 誕生 -1803年- |
ベルリオーズは「標題音楽」という新しいジャンルを作り出したロマン派音楽の革新者でした。彼にとっては、楽曲の主題は、それぞれ演劇の登場人物のように性格をもっており、オペラの筋書きのように、交響曲にも楽章の内容を説明する標題を付けたのです。幻想的でロマンティックな題材を好むベルリオーズは、24歳の時、仏訳されたゲーテの「ファウスト」を読んで夢中になり、後に『ファウストの劫罰』という劇的物語を作り上げます。この作品は2時間を超える大作で、管弦楽の他に合唱や独唱者も必要なため、全曲演奏されることはあまりありません。しかし曲中の『ラコッツィ行進曲』『妖精の踊り』『鬼火のメヌエット』などにはドラマチックな彼の音楽の特徴がよく表れており、単独でしばしば演奏されています。 |

フランク・ シナトラ 誕生 -1915年- |
「マイ・ウェイ」の大ヒットで知られ、アメリカのポピュラー音楽史上、もっとも偉大な歌手のひとりといわれるフランク・シナトラ。シナトラは映画にも出演し、『地上より永遠に』ではアカデミー賞を獲得。歌手、そして俳優として、アメリカのポピュラー・エンターテインメント史上に偉大なる足跡を残しました。 |

「パリのアメリカ人」 カーネギー・ホールにて 初演 -1928年- |
「スワニー」や「ラプソディ・イン・ブルー」で知られるアメリカの作曲家、ジョージ・ガーシュイン(1898〜1937)。彼が当時のニューヨークフィルの指揮者、ダムロッシュの依頼で作った管弦楽曲「パリのアメリカ人」は、自身のパリ旅行の印象から作られた曲といわれ、しゃれたフランス風の旋律に、ブルースやチャールストンなどアメリカ音楽の要素も取り入れ、パリのタクシーのラッパの音も真似るなど、サービス精神満点。今でもポップスコンサートでよく演奏される人気曲です。 |

「レクイエム」 初演 -1793年- |
1791年の晩春にモーツァルト(1756〜1791)は「レクイエム」作曲を匿名で依頼され、破格の謝礼を見返りにこの仕事を引き受けます。しかしモーツァルトの「レクイエム」は未完成のまま、12月5日に亡くなってしまいました。モーツァルトの没後、弟子たちによって「レクイエム」は完成され、匿名の注文主の手に渡りますが、この注文主の名前が判明したのは、1800年になってからのことでした。『レクイエム』の楽譜が出版された折に、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵が、著作権が自分に属すると主張したので す。伯爵は、亡くなった妻を追悼するために「レクイエム」を注文し、それを自作と称して1793年12月14日に自らの指揮で演奏していたのでした。 |

没 -1944年- |
グレン・ミラーは、ベニー・グッドマンらジャズ・メンたちと交友を深め、ジャズを志すようになりました。ミュージカルの伴奏などを経て、アレンジャー、トロンボーン奏者として活躍。1937年に自分のバンド、グレン・ミラー楽団を結成します。同楽団は、ミラーの編曲による「サンライズ・セレナーデ」、そしてミラー自身の作・編曲による「ムーンライト・セレナーデ」の大ヒットをきっかけに、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシーをしのぐ人気楽団となります。ところが1942年、ミラーは突然バンドを解散して空軍に志願。空軍バンドの指揮者としてヨーロッパ戦線の将兵慰問に飛び回りますが、1944年12月軍用機でパリに向かう途中、消息を断ってしまいます。彼の40年の生涯は1954年に『グレン・ミラー物語』として映画化されています。 |

& 作曲者 山本直純 誕生 -1932年- |
指揮者/作曲家であった父、山本直忠のもとで幼時から音楽の英才教育を受けた山本直純。斎藤秀雄の愛弟子で、小澤征爾と同期生でもあります。1967年のNHKテレビ番組『音楽の花ひらく』の指揮で名を知られ、1972年から11年続いたTBS系『オーケストラがやって来た』では、自ら幹事をつとめる新日本フィルハーモニーを率いてエネルギッシュな指揮を披露。そのざっくばらんなおしゃべりと肩の凝らない企画で、クラシック音楽の大衆化に大きく貢献しました。 作曲家としてもクラシックから放送音楽、映画音楽、CMソングまで幅広く活躍。映画『男はつらいよ』シリーズの同名の主題歌、テレビ『マグマ大使』の主題歌、幼児向けの音楽で「こぶたぬきつねこ」「一年生になったら」など。 |

「未完成交響曲」 初演 -1865年- |
シューベルト(1797〜1828)の交響曲第8番ロ短調は、完成されたスコアが第1、第2楽章しかないため「未完成交響曲」と呼ばれています。第3楽章以降は最初の9小節だけがオーケストレーションされ、残りはピアノ譜の下書きがあるだけです。 シューベルトがこの曲を書いたのは1822年のこと。ようやく作曲家として有名になりつつあった頃で、1823年4月にはグラーツのシュタイアーマルク音楽協会に名誉会員として指名されます。その返礼として、1924年に同協会の役員だったアンゼルム・ヒュッテンブレンナーに2楽章までの自筆譜を届けたのです。しかし、交響曲は4楽章あるのが普通なので、ヒュッテンブレンナーは後で残りの楽章が届くものと思い、協会に引き渡すことをしませんでした。そのうちこの自筆譜の存在は忘れ去られてしまい、1865年5月にウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックが発見し、同年12月に初演するまでの43年間、世に知られずにいたのです。 |

製作者 ストラディヴァリ 没 -1737年- |
16世紀から18世紀にかけて、イタリアには、アマティ、ガルネリ、ストリオーニ、ベルゴンツィなど有名な弦楽器製作工房がひしめいていました。中でも最もすぐれたバイオリンを作った、とされているのが、ストラディヴァリの工房です。アントニオ・ストラディヴァリ(Antonio Stradivari)の楽器は、ラベルにラテン語式に名を記した(Antonius Stradivarius)ところから“ストラディヴァリウス”と呼ばれるようになりました。1700〜1720年の作品がもっとも優れているといわれ、その音色と音の伸びはワニスによるところが大きいとされていますが、ストラディヴァリの使ったワニスの原料、調合法は不明で、未だに彼の楽器をしのぐバイオリンは作られていません。 |

エディット・ ピアフ 誕生 -1915年- |
若い頃から詩人や芸術家にかわいがられたピアフは恋多き女で、生涯、人を愛し愛され、その経験を歌の糧にしてきました。大ヒット曲「愛の賛歌」は、ボクサーだった恋人を飛行機事故で失ったつらい経験から生まれたピアフ自身のメッセージともいえる歌です。またピアフはイブ・モンタンやシャルル・アズナヴールを世に出したことでも有名です。 |

少年合唱団 初来日 -1955年- |
1498年、オーストリア皇帝マクシミリアン1世により宮廷礼拝堂少年聖歌隊として創設されたウィーン少年合唱団は、ハプスブルク家歴代の皇帝に手厚い庇護を受けながら、約500年の間、広く愛されてきました。合唱団の卒業生には、ハイドン兄弟やシューベルトといった大作曲家をはじめ、そうそうたる音楽家が名を連ねています。レパートリーは、ウィンナ・ワルツ、シューベルト、モーツァルトといったウィーンゆかりの音楽はもちろん、ビクトリア、バッハなどのルネサンス、バロック音楽から、ミュージカル・ソングやビートルズ・ナンバーまでと多彩で、日本にもほぼ1年おきに訪れています。 |

フランク・ザッパ 誕生 -1940年- |
30年という音楽キャリアの中で、50枚以上という驚異的なペースでアルバムを制作し、ロックンロールからクラシックまで多彩な作品を生み続けたザッパは、まさにロック界の巨人と呼ぶにふさわしいアーティスト/ギタリストでした。 |

ジャコモ・ プッチーニ 誕生 -1858年- |
イタリアの作曲家プッチーニは、「ハーモニカでも吹ける」といわれるほど単純で美しいメロディを絶妙なハーモニーで聴かせ、一般大衆から絶大な支持を受けたオペラの大家です。 代表作のひとつ「蝶々夫人」の舞台は長崎。そのストーリーは、アメリカ海軍士官ピンカートンのかりそめの愛とも知らず、純情をささげた蝶々さんが、捨てられたことを知って自害する、というもの。プッチーニはこのオペラの作曲を、先に芝居化された舞台をロンドンで観て感激したことをきっかけに思い立ったそうです。台本つくりと作曲に4年をかけ、1904年2月、ミラノのスカラ座で上演されることになりました。歌手も当時の豪華メンバー揃い。稽古の段階から出演者はもちろん、劇場の裏方まで感激し、最後には皆本当に泣いてしまったそうです。 |

『ウエストサイド物語』 封切り -1961年- |
1961年の映画化で世界的な大ヒット・ミュージカルとなった『ウエストサイド物語』。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』が下敷きとなったと言われるこのミュージカルの製作は、1949年、原案/演出/振付けのジェローム・ロビンズが、今までのミュージカルの常識を破る作品を作ろうと、作曲家のレナード・バーンスタイン、脚本のアーサー・ロレンツに声を掛けたところからスタートします。従来のミュージカルの詩的リアリズムに陥らないように、音楽でドラマ展開をはかり、ダンスで語るという画期的なスタイルを模索。 映画版の『ウエストサイド物語』は、1961年度アカデミー賞で11個のオスカーを獲得。バーンスタイン作曲の「マリア」「トゥナイト」「アメリカ」「クール」「サムホエア」などの名曲を収録したサウンドトラック盤も大ヒットを記録しました。 |

リッキー・マーティン 誕生 -1971年- |
プエルトリコに生まれたリッキー・マーティンは、12歳からラテン・アメリカの人気グループ、メヌードのメンバーに加わります。厳しいダンスやボーカルのレッスンを受けながら世界中をツアーする生活は、エンターテイナーとして大きく成長させました。1989年に17歳でメヌードを脱退し、1991年にソロ・ビュー。アメリカの人気テレビドラマに出演するなどキャリアを積み、1997年のシングル「マリア」の大ヒットで、ラテン諸国だけでなくヨーロッパでも人気に火が付きます。さらに1999年2月に行われた第41回グラミー賞授賞式で、シングル「カップ・オブ・ライフ」を披露。そしてモンスター・シングル「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」をリリース。日本ではすかさず郷ひろみが“アチチ〜”とカバーしていましたが、全米はもちろん世界中でチャート1位を記録しました。 |

サンタさん 誕生 -????年- |
クリスマスと言えばサンタクロースですが、このサンタクロースのモデルとなったのは、聖(セント)ニコラスで、4世紀頃の人だと言われています。裕福な財産を持っていたにもかかわらず、贅沢な暮らしをしようとせず、困っている人に分け与えていたそうです。ある日、身分は高いが財産をみな無くしてしまい、3人の娘を身売りしなければならなくなった家に金貨を投げ入れ、救ったことがあります。この時投げ入れた金貨が、暖炉で乾かしてあった靴下に入ったため、サンタは煙突から来ると考えられ、また靴下をつるす習慣が生まれたそうです。ちょっと小太りで、白い髭に赤い服を着たサンタクロース。なぜサンタは赤い服をきているのでしょうか。それは、1931年に、イラストレーターのハットン・サンドブロムがコカコーラの冬のキャンペーン用に描いたサンタクロースのイラストが元となり、このイメージが定着したようです。 |

演奏会から引退 -1803年- |
24歳年下のモーツァルトから“パパ・ハイドン”と呼ばれて慕われたハイドン(1732〜1809)。ハイドンは大器晩成型の人生を送った苦労人の音楽家です。歌が大変上手だったのでウィーンのシュテファン教会の合唱児童として17歳まで過ごしました。20代は、街角でセレナーデの“流し”をするなど、苦労の連続。それでも才能を認められ、29歳のときにハンガリーの有力な貴族・エステルハージ家の副楽長として迎えられます。そして50歳を過ぎた頃には、「エステルハーザの作曲家」ハイドンの名声はヨーロッパ各地に響きわたり、各国の王室や教会から作曲依頼が殺到しました。 |

ホーギー・ カーマイケル 没 -1981年- |
アメリカで1940〜50年代に活躍した作曲家/俳優のカーマイケルは、もともと弁護士になるつもりでインディアナ大学の法科に入りますが、その頃から作曲も手がけていました。大学を卒業し法律事務所に就職しますが、すでに作曲の分野でも実績があったためミルズ楽譜出版社からも入社を誘われ迷っていました。そんな時、ミルズ社から出版された自分の曲がジャズ風にアレンジされて、ラジオ店の蓄音機から流れてくるのを聞き、音楽の道を行くことを決意します。その夏、故郷ブルーミントンの母校を訪ね、かつての恋人のことを思い出していて浮かんだ曲がかの有名な「スターダスト」です。 |

石原裕次郎 誕生 -1934年- |
生涯に主演した映画の総本数99本。昭和という時代を象徴した国民的大スター。歌謡曲のスターとしても裕次郎は別格級の存在で、レコーディングした作品はなんと521曲。代表作に「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」「ブランデーグラス」などがあり、若者たちに熱烈に支持されればされるほど彼は照れて、「俺は映画俳優だ、歌手じゃない!」と言った台詞は有名です。 1972年に始まった『太陽にほえろ!』以降、活動の中心はテレビに。1981年、胸部大動脈瘤の発作を起こし、一時は生命を危ぶまれましたが無事回復、テレビ出演などで活動を再開。しかし1986年にはレギュラー番組を降板し、以後療養につとめていましたが、1987年7月17日死去。1990年、映画殿堂入り。1997年には戦後50年を代表する人物のひとりとして、美空ひばり、手塚治虫とともに記念切手になりました。 |

パブロ・ カザルス 誕生 -1876年- |
パブロ・カザルスは、チェロという楽器の表現力を拡大した音楽家です。11歳でチェロを志し、バルセロナ市立音楽院に学びますが、この時、早くもチェロの奏法に不合理を感じ、奏法の改革に取り組みました。それまでは弓を持っている右手をチェロの胴体の脇腹にぴったりつけて弾くのが常識でしたが、これでは自由に弓を動かすことができないと考え、ひじを柔らかく使う現在のボーイングを考案したのです。 |

リチャード・ ロジャーズ 没 -1979年- |
ロジャーズは、17歳の時に作曲した曲がミュージカルに採用されてから、死の直前に作曲した『ママの思い出』(1979)まで62年間、現役として最も長期にわたって活躍したミュージカル作曲家という記録を持っています。中でも映画化された『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)は、ミュージカル映画最大のヒットを記録。ジュリー・アンドリュースと子供たちが歌う「ド・レ・ミの歌」は、おなじみですし、「私の好きなもの」も有名です。 代表曲『サウンド・オブ・ミュージック』『南大平洋』『王様と私』等。 |

初のテレビ公開放送 開始 -1953年- |
1945年の大晦日に、NHKラジオで「紅白歌合戦」の前身となるような番組「紅白音楽試合」が放送されました。この番組は非公開で、歌だけでなく、琴や尺八、バイオリンやバンド演奏などもあったそうです 記念すべき第1回紅白歌合戦は1951年の1月3日にラジオで放送されます(出演者には東海林太郎、渡辺はま子、藤山一郎など)。第3回まではラジオの正月番組でした。そして1953年、テレビの放送開始に伴い、第4回紅白からテレビ放送開始。放送日も正月から大晦日に変わりました。つまり、1953年には正月と大晦日の1年に2回、紅白が開催されたことになります。またこの回から番組名に正式に“第何回”と付くようになりました。 |
