

渡辺貞夫 誕生 -1797年- |
ジャズの楽しさ、格好良さ、素晴らしさを、日本人に幅広く伝えたのが、サックス奏者の渡辺貞夫です。高校時代に楽器を始めると、卒業する頃にはプロのサックス奏者として活躍できるまでになりました。常にチャレンジを続ける渡辺貞夫は、世界中の若い才能を自己のグループに積極的に起用し、活躍の場を与えるとともに、95年からは自ら中学生たちにリズム教育の指導も行い、音楽の楽しさを若い世代に伝えています。こうした世界的視野の音楽を通した文化交流への貢献が認められ、ロサンゼルス市民名誉賞、バークリー音楽院より名誉博士号、そして日本政府からは紫綬褒章が贈られました。 |

フリッツ・ クライスラー 誕生 -1875年- |
オーストリアが生んだ今世紀最高のバイオリニストのひとり。単にバイオリンの名手だっただけでなく、自ら演奏するバイオリンの小品を数多く作曲しています。クライスラーの作品は、旋律が親しみやすく覚えやすく、「愛の喜び」「愛の悲しみ」「美しきロスマリン」などが有名です。 |

メンデルスゾーン 誕生 -1809年- |
ドイツ生まれの作曲家、フェリックス・メンデルスゾーン。彼の音楽は、軽快で、幸福な気分に満ちあふれています。劇附随音楽『真夏の夜の夢』もその1つです。ヨーロッパでは夏至の頃、いろいろな妖精たちがあらわれて幻想的な事件をひき起こすという伝説があり、文豪シェイクスピアは、伝説をもとに人間と妖精の世界が交錯した戯曲を書きました。この劇の音楽として作曲されたのが『真夏の夜の夢』で、全13曲からできています。中でも10曲目の「結婚行進曲」は有名で、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』の「婚礼の合唱」とともに、結婚式の披露宴等でよく演奏されています。 |

カーペンター 没 -1983年- |
1970年代に、カレンの美しいアルト・ボイスと万人に受けるメロディで数多くのヒット曲を放った兄妹デュオ、カーペンターズ。ビートルズの「涙の乗車券」をカバーしたデビュー・シングルは、全米チャート54位とまずまずの結果を記録します。「遥かなる影」は1970年、見事全米1位に輝き、以降およそ8年にわたって、彼らはヒット街道を突き進みます。「愛のプレリュード」「雨の日と月曜日は」「スーパースター」「トップ・オブ・ザ・ワールド」「オンリー・イエスタデイ」「青春の輝き」なども大ヒット。しかし、1979年10月には活動を休止。そして、1983年2月4日、カレンは拒食症による心臓発作で自宅で急死してしまうのです。 |

タイガース デビュー -1967年- |
1960年代後半の日本歌謡界に旋風を巻き起こした“グループ・サウンズ”。中でも特に人気の高かったのが、ジュリーこと沢田研二がリード・ボーカルのタイガースです。アマチュア時代の彼らは、ファニーズというバンド名で大阪のジャズ喫茶“ナンバ一番”にレギュラー出演。競演したブルー・ジーンズの内田裕也が彼らを気に入り、東京の芸能プロダクションの渡辺プロに紹介したのが1966年11月のこと。作曲家で売れっ子プロデューサーのすぎやまこういちによって“ザ・タイガース”と命名され、1967年2月にシングル「僕のマリー」でデビューします。スカウトからデビューまでたった3ヶ月でした。 それからほぼ3ヶ月おきに「シーサイド・バウンド」(5月)「モナリザの微笑」(8月)と、ヒット・シングルを連発。そしてタイガースの人気は、同年のクリスマスに発売された「君だけに愛を」で頂点に達します。静かなイントロから、突然ジュリーが観客席を指さして「君だけに!」と歌い出す同曲には、失神者も続出。ファンの熱狂ぶりはものすごいものでした。 |

ボブ・マーリィ 誕生 -1945年- |
レゲエのシンボル的存在、ボブ・マーリィはジャマイカの小さな村の生まれ。14歳で家を出て20歳の時に自分のグループ、ウェイラーズを結成します。飛び抜けて高い音楽性とカリスマ性を持ち合わせていました。 ウェイラーズが1966年に地元で出したシングル「シマー・ダウン」は8万枚のヒットとなりました。1972年、ウェイラーズはイギリスのアイランド・レコーズと契約し、ファースト・アルバム『キャッチ・ア・ファイアー』で世界デビューを果たします。セカンドの『バーニン』は、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をエリック・クラプトンがカバーしたこともあり、世界的なヒットを記録。その後も優れたアルバムを次々とリリースし、『ラスタマン・ヴァイブレーション』は全米チャート8位まで上昇。1981年にガンで没してからも1984年にリリースされたベスト・アルバム『レジェンド』は、ビルボード・チャートの首位を19週間にわたって独占しました。 |

阿久悠 誕生 -1937年- |
「また逢う日まで」「ピンポンパン体操」「どうにもとまらない」「宇宙戦艦ヤマト」「北の宿から」「青春時代」「津軽海峡・冬景色」「勝手にしやがれ」「UFO」「雨の慕情」‥‥演歌からポップス、アニメ主題歌まで数々のヒット曲を作詞した阿久悠。広告代理店で番組企画などに携わり、放送作家として独立。しだいに作詞を手がけ、1971年の「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)がレコード大賞を受賞。これが、作詞家・阿久悠の華々しい活躍へとつながる最初の勲章でした。その後、山本リンダや沢田研二の楽曲でヒットを連発。企画と審査員をつとめたテレビ番組「スター誕生」では、森昌子や岩崎宏美らをプロデュース。その極めつけが作曲家・都倉俊一と組んだ「ペッパー警部」(1976年)に始まるピンク・レディーの一連の作品で、歌謡界に文字通り大旋風を巻きおこしました。 作家としても、直木賞候補となった「瀬戸内少年野球団」(1979年)ほか著作は多数あります。 |

ジョン・ ウィリアムズ 誕生 -1932年- |
映画音楽家と言えばこの人、ジョン・ウィリアムズ。彼が作曲したジョージ・ルーカス監督のSF映画『スター・ウォーズ』の音楽は、世界中で大ヒットしました。この映画は、すべての撮影終了後にスタートします。ルーカスの自宅で3日間フィルムを見ながら、どこに音楽を入れるか検討。ルーカスはクラシック風の音楽を希望しており、その理由をウィリアムズにこう言いました。「観客は、見たこともない惑星で、出会ったこともない生物を見ることになる。すべて知らないものばかりだ。だからこそ、音楽だけはだれもが知ってる馴染み深い音にしないと、映画は人間の感情から離れてしまう…」つまり、『スター・ウォーズ』の音楽が、クラシック音楽に近いスタイルとなったのは、ルーカスのアイディアだったのです。 アカデミー賞にノミネートされること35回、うち6回受賞という彼の映画音楽史に残した実績が認められ、1991年にはアメリカ映画音楽保存協会から第8回功労賞が贈られました。またグラミー賞にも毎年のようにノミネートされ、1998年度でも「プライベート・ライアン」など3作品がノミネートされています。 |

イザーク・ アルベニス 組曲「イベリア」 初演 -1909年- |
作曲者イサーク・アルベニス(1860〜1909)は4歳でピアニストとしてデビューした天才児ですが、腕白小僧でした。8歳の時のパリ音楽院の入試では、試験官たちの目の前でボールを投げつけて鏡を壊し落第。9歳の時には演奏旅行しますが、近衛兵の制服でサーベルを吊り下げたままピアノを弾かされるのがイヤで、汽車に飛び乗り家出を敢行。行った先あちこちでピアノの演奏会を開いて稼ぎますが、全財産の入った鞄を盗まれ、仕方なく家へ帰りました。これで家出の味をしめたアルベニスは、今度は12歳の時にプエルトリコ行きの客船に飛び乗り、ピアノで稼ぎながら南米を放浪した挙げ句、ハバナで父親に捕まってしまいます。 その放浪の成果かスペイン各地の伝承音楽に造詣が深く、成人してからはスペイン民族主義音楽の確立に邁進。遂にその集大成である「イベリア」(1906-09)を書き上げます。これは4集全12曲からなる民族色豊かなピアノ曲集であり、ドビュッシーもメシアンも絶賛したという記念碑的作品です。 |

「恋はみずいろ」 ビルボード No.1 -1968年- |
ポール・モーリアの代表曲の1つ「恋はみずいろ」は、1967年にアンドレ・ポップ作曲、ピエール・クール作詞の、甘いラブ・バラードとしてフランスで生まれました。旋律の美しさをバイオリンで強調したインスト曲として、1968年1月にアメリカで発売されるやいなや、瞬く間にチャートを上昇。2月10日にトップを奪うと、何とそのまま5週間も居すわってしまったのです。フランス産の曲が全米チャート1位になったのが初めてなら、ポール・モーリアがチャート入りしたのも初めて、またインスト曲が1位になったのも5年ぶりと、だれもが驚いたものでした。 |

「いかすバンド天国」 放送開始 -1989年- |
TBSのテレビ番組「平成名物TV いかすバンド天国」は、三宅裕司と相原勇の司会で毎週10組のアマチュア・バンドが出場。プロ・ミュージシャンや音楽評論家が審査して勝ち抜き方式でチャンピオンを決めていくという新しい形の音楽番組でした。この番組から、ブランキー・ジェット・シティ、BEGIN、フライング・キッズ、たま、リトル・クリーチャーズ、歌舞伎ロックスなどの多数の有名バンドがデビューしています。 |

ハンス・フォン・ ビューロー 没 -1894年- |
ビューロー登場以前は、作曲家自身が指揮をすることが多く、指揮を専門とする音楽家はいませんでした。指揮を専門としたビューローは、現在の指揮者の先駆者とも言える存在です。ビューローは、並外れた記憶力を持っていました。1850年、ロッシーニのオペラ『セビリャの理髪師』の指揮でデビューした時、彼はこう言ったそうです。「私はすべての譜面を頭に入れ、楽曲を意のままに操れた」と。彼はオーケストラの楽員にも楽譜をすべて記憶させ、しかも立ったまま演奏するように強要し、完璧な演奏になるまでリハーサルを繰り返しました。その上彼は、演奏前に必ず聴衆に向かって講議をし、聴衆を仰天させたそうです。 |

フョードル・ シャリアピン 誕生 -1873年- |
20世紀の前半に活躍した名オペラ歌手、シャリアピン。並外れた豊かな美声に加えて、身振り・表情など演技力の点でもずば抜けており、“歌う俳優”と言われていました。ロシア歌劇を最も得意とし、中でもムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』は、彼によって初めて作品の真価が発揮されたとも言われ、彼の代表作のひとつとなっています。 |

ストーンズ 初来日 コンサート -1990年- |
1973年にストーンズの来日コンサートが計画されチケットも売り出されましたが、来日直前になってメンバーの麻薬問題で入国許可が降りず、17年後の1990年に、初めての来日コンサートがようやく実現。追加公演を含む計10回行われた東京ドームでのコンサートは、往年のファンにはたまらない60〜70年代のヒット曲を中心とした選曲で、しかも崩れた非常階段や格子扉のエレベーターなど近未来工場の廃虚を思わせる巨大なセットで観客を圧倒。1969年のヒット曲「ホンキー・トンク・ウィメン」の演奏時には、ステージの左右に巨大な女の子の人形が空気でどんどん膨らんでいき、曲に合わせて体を揺らすというストーンズらしい演出も見られました。 |

ミハイル・ グリンカ 没 -1857年- |
19世紀前半のロシアでは、貴族はドイツ音楽やイタリア・オペラに夢中になり、一般民衆のための芸術音楽は無に等しい存在でした。貴族出身のグリンカでしたが、何とか改善したいと思い、ロシア独自の国民的な音楽文化を築き上げようと決意します。 しかし状況は厳しく、彼の代表的な二つの歌劇『イワン・スサーニン』と『ルスランとリュドミラ』はどちらも失敗に終わりました。両作とも現在では傑作とされていますが、当時のロシア貴族にしてみれば、ロシア民族音楽を取り入れたオペラなど、野暮ったいものでしかなかったのです。 落胆したグリンカは、ヨーロッパへ旅行します。スペインで強烈な民族音楽を堪能します。その結果2つのスペイン序曲、「ホタ・アラゴネーサ」と「マドリードの夏の夜の思い出」が生み出されます。ここで見せたオーケストレーションの見事さは「カマリンスカヤ」でも発揮され、後にリムスキー=コルサコフに受け継がれることになりました。 |

エリアフ・ インバル 誕生 -1936年- |
エルサレム生まれの指揮者インバル。38歳の時にフランクフルト放送交響楽団の首席指揮者にしました。話題を呼んだのは、ブルックナーの交響曲全集の初版楽譜による録音です。ブルックナーには様々な版の楽譜が存在し、初版の他に音楽学者が改訂した版があります。初版は今まで冗長でバランスが悪いとされ、たいていの指揮者はハース版やノヴァーク版を使いますが、インバルはあえて初版による録音を敢行。その楽譜から新鮮なブルックナー像を描き出したのでした。その後もマーラーやショスタコーヴィチの交響曲全集など、話題作を次々とリリースしました。 |

アルフレッド・ ニューマン 没 -1970年- |
12歳で名ピアノ奏者兼作曲家パデレフスキーの後援を得て、ニューヨークで独奏会を開くなど、早くから音楽の才能を示したアルフレッド・ニューマンは、13歳のときから一家を養うためブロードウェイの映画館でピアノを弾き、ボードビル一座の巡演に加わって指揮をマスターしました。17歳でブロードウェイ・ミュージカルに、当時の最若年指揮者としてデビュー。1930年にブロードウェイからハリウッドに移り、33年に20世紀FOX社の音楽部長に就任。39年の『嵐が丘』、55年の『慕情』など、流麗なストリングスによるロマンティックな作品から、58年の『無頼の群』、62年の『西部開拓史』のような力強い骨太な楽曲、さらには67年の『ネバダ・スミス』、69年の『大空港』など晩年にも傑作を書き続け、70年のこの日に死去するまで、250本以上の映画音楽を手がけました。獲得したアカデミー賞9個の記録は今も破られておらず、まさにハリウッドの歴史に残る大作曲家です。 |

オノ・ヨーコ 誕生 -1933年- |
故ジョン・レノンの妻として、おそらく世界中で一番有名な日本人が、前衛芸術家のオノ・ヨーコ。一時は“ビートルズを解散させた女性”といわれた時期もありましたが、後にビートルズ史の研究が進み、また当時は難解過ぎた彼女の芸術への理解も得られるようになるにつれ、むしろ今では“ジョンをビートルズのしがらみから解放し、真のアーティストに成長させた人物”として評価が高まっています。 1980年にジョンが他界してからも、オノ・ヨーコはマイ・ペースで活動を続けており、ジョンとの愛息、ショーン・レノンとのアルバム『ライジング』のほか、昨年10月には最新作『ブループリント・フォー・ア・サンライズ』も発表。ジョン・レノン関連のイベントにも積極的に参加していますし、特に印象的なのは2001年9月25日付けのニューヨーク・タイムスに掲載された全面広告です。提供者の名前はなく、ただ一行、「Imagine all the people living life in peace」とだけ書かれていたその広告、実は、米国を襲った同時多発テロと、その報復による戦争に心を痛めたオノ・ヨーコによるものだったのです。 |

財津和夫 誕生 -1948年- |
「心の旅」「虹とスニーカーのころ」といったヒット曲で知られるポップ・ロック・バンド、チューリップのリーダー、財津和夫。今では人気テレビドラマ『一つ屋根の下』の主題歌「サボテンの花」を歌っている人、としてのほうが有名かもしれません。 1948年熊本県で生まれた財津は、福岡の大学に進学し、高校の同級生とバンドを結成しますが、レベル・アップのためにほかのバンドから上手いメンバーを引き抜き、結果としてそのバンドを解散に追いやることも度々だったそうです。さらには、引き抜いておきながら、実力不足と見るや即座にクビを言い渡したり……。現在の、あの温厚そうな人柄からは想像もできないエピソードですが、こと音楽にかけては一切の妥協を許さない厳しさを持っていたからこそ、後のチューリップの成功があったのではないでしょうか。 1972年にデビューしたチューリップは、1989年の解散までに1,244回ものコンサートを開き、アルバムとシングルを34枚ずつリリース。ニュー・ミュージックの歴史に大きな足跡を残したバンドとなりました。 |

「セビリャの理髪師」 初演 -1816年- |
18歳で早くも最初のオペラを作曲し、亡くなるまでに約40曲ものオペラを書いたイタリアの作曲家、ジョアッキーノ・ロッシーニ(1792〜1868)。彼はオペラを、手紙でも書くようにすらすらと作曲したといわれますが、その17番目のオペラ、「セビリャの理髪師」の初演は、大失敗に終わりました。 「セビリャの理髪師」は、若き伯爵がセビリャの理髪師・フィガロに恋の仲介を頼むというというコミカルなストーリーですが、なにしろ、第1幕が始まると同時に、観客席から野次が飛び、劇の進行につれて、怒号と口笛と足踏みが次第に激しくなり、どうにも収拾がつかなくなってしまったのです。実はこの「セビリャの理髪師」、ロッシーニより32年前に、当時絶大な人気を誇ったパイジエルロが同名のオペラを発表していました。そこへ当時23歳だったロッシーニが、同じ題材で大先輩の名作の向こうを張ろうとしたのですから、パイジエルロの支持者たちが神経をとがらせた、というわけです。しかし、その嫌がらせも初演の日だけで終わり、2日目からは、平穏に上演が行われました。 |

アンドレス・ セゴビア 誕生 -1893年- |
スペインが生んだ20世紀最大のギター奏者のひとり、セゴビア。彼は独学でギターを学び、16歳でグラナダでデビュー。このデビュー・コンサートが地方新聞で大好評を博したことで、彼の決意は固まり、「ただちにギターの使徒になろうと決心した」と自伝に書いています。23歳で初めて南米に演奏旅行を行い、31歳の時にはパリでの演奏が大成功。以来、欧米各地で独奏会を開き、セゴビアはホールでコンサートを開いた最初のギタリストとして成功を収めました。 今日のクラシック・ギターの隆盛は、彼を抜きにしては考えられません。 |

世界的ソプラノ 三浦環 誕生 -1884年- |
若い時から大変な美人で、和服に袴姿という“ハイカラ”な姿の彼女が通ると、みんな外へ出て見物したほどでした。しかも、その声は晩年になっても衰えず、60歳を過ぎても少女のような声をしていたそうです。 1914年に渡欧した彼女は、翌年5月ロンドンにてオペラ「蝶々夫人」の蝶々夫人役でデビュー、大成功を収めます。その後は蝶々夫人役で世界中を飛び回り、アメリカのメトロポリタン歌劇場では名テノール歌手、カルーソと共演。ローマでは作曲者プッチーニに絶賛されるなど、1935年までに出演2,000回の記録を作りました。帰国後も、彼女自身による日本語訳歌詞で蝶々夫人を歌い続け、精力的に活動しました。 日本人最初の国際的なプリマドンナとして、三浦環の名前は今もオペラの歴史に刻まれています。 |

中島みゆき 誕生 -1952年- |
1975年「アザミ嬢のララバイ」でデビューし、同年の「時代」で第10回ポピュラーソング・コンテストと第6回世界歌謡祭の2つのグランプリを獲得した中島みゆき。以来、数多くのヒット曲を生み続け、松任谷由実と並んで“ニューミュージックの女王”と呼ばれています。代表曲をあげると「わかれうた」「悪女」「空と君のあいだに/ファイト!」「旅人のうた」「地上の星」等。 「地上の星」は女性の歌手として50才代で初のトップチャートになる等、大活躍の中島みゆきです。 |

ミシェル・ ルグラン 誕生 -1932年- |
フランスを代表する映画音楽作曲家のひとり、ミシェル・ルグラン。一躍有名にしたのは、1964年に発表のミュージカル映画『シェルブールの雨傘』です。セリフがすべて歌、というこの映画は、静かな切なさが画面に満ちていました。フランスならではのしゃれたミュージカルとして、カンヌ映画祭のグランプリにも輝いています。 代表曲『華麗なる賭け』『ハッピィ・エンディング』『おもいでの夏』、これら3本の映画は順に、アカデミー主題歌賞、同賞候補、アカデミー作曲賞/グラミー器楽曲賞同時受賞、の栄冠を手に入れています。 |

ジョージ・ ハリスン 誕生 -1943年- |
ビートルズのギタリスト、また3番目のコンポーザー、ジョージ・ハリスン。ジョン・レノンとポール・マッカートニーという大天才の陰に隠れて、存在を十分にアピールすることができずにいたジョージですが、序々にその実力を発揮し始めます。アルバム『リボルバー』では、インド音楽を初めてロックに持ち込み、また、実験的ソロ・アルバム『電子音楽の世界』では、当時発明されたばかりのシンセサイザーにいち早く取り組みました。 ビートルズ解散後は、3枚組の大作『オール・シングス・マスト・パス』で全米No.1を記録し、メンバーの中でソロとして最初に成功を収めます。クラプトンは、ビートルズ来日以来25年ぶりとなる1991年12月のジョージの来日コンサートを企画。もちろんビートルズ時代のジョージの代表曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギター・ソロを聴かせてくれたのです。 |

桑田佳祐 誕生 -1956年- |
サザンオールスターズの“顔”桑田佳祐は、その歌の世界からも自明なように湘南・茅ヶ崎の生まれ。1974年、青山学院大学の1年生だった時にフォークソング同好会でベースの関口和之と出会い、“温泉あんまももひきバンド”を結成したのが、サザンの始まりでした。オールド・ロックンロールとビートルズのカバーをメチャクチャなステージングで聴かせ、たちまちサークルの名物バンドとなり、キーボードの原由子らが加入して現在の形に近づいていきます。その間、バンド名は“ピストン桑田とシリンダーズ”“青学ドミノス”“脳卒中”“桑田佳祐とヒッチコック劇場”と変遷、最終的に落ち着いた“サザンオールスターズ”は、彼の友人が風呂の中で思い付いたものだったそうです。 |

カルーソ 誕生 -1873年- |
“ザ・カルーソ”と呼ばれた不世出の名テノール歌手、エンリコ・カルーソ。ナポリに生まれた彼は、1894年のデビュー後、1902年にはトスカニーニの指揮でミラノ・スカラ座に出演し、名声を確立。若きカルーソの歌を初めて聴いたトスカニーニは、「このナポリ人がこのように歌い続けるなら、世界中、彼の噂で持ち切りになるだろう」と語ったということです。カルーソの発声、歌唱法は、現代のパヴァロッティやジャコミーニ、マルティヌッチらにも影響を与えており、彼の残した膨大な録音は、『カルーソ全集』として録音年代順にCD12枚にまとめられています。 |

『スリラー』 グラミー賞 8部門受賞 -1984年- |
米国音楽界最大の賞“グラミー賞”は、前々年の10月1日〜前年の9月30日に発売されたレコード、CD、ビデオなどを対象に、毎年2月下旬に発表されます。 グラミー賞の最多受賞アルバムといえば、8部門を受賞したマイケル・ジャクソンの『スリラー』。プロデューサーにクインシー・ジョーンズ、そしてポール・マッカートニーやエディ・ヴァン・ヘイレンなどの豪華ゲストを迎えたこのアルバムは、「今夜はビート・イット」など7曲のトップ10ヒットを含み、全世界で5,100万枚以上の売り上げを記録。第26回グラミー賞で、最優秀レコード、最優秀アルバム、最優秀男性ポップ歌手、最優秀男性ロック歌手、最優秀男性R&B歌手、最優秀R&Bソング、最優秀児童向けレコード、最優秀プロデューサー(※受賞はクインシー・ジョーンズ個人)を獲得しました。 |
