

伊福部昭 誕生 -1914年- |
「ゴジラのテーマ」の作者として有名な伊福部昭(いふくべあきら)。「ゴジラ」以外にも「ビルマの竪琴」「大魔神」など300作を越える映画音楽を手がけ、日本の映画音楽の礎を作ると同時に、数々の交響楽を作曲し、さらには東京音楽学校作曲課講師として芥川也寸志、黛敏郎らを育てるなど、現在に至るまで日本の音楽界を支えてきた偉大な音楽家です。 学生時代にドビュッシーやストラヴィンスキー、サティ、ラヴェルといった作曲家たちに衝撃を受け、独学で作曲を始めるようになります。そして1935年、厚岸(あっけし)の森林事務所で働いていた21歳のときに、交響楽『日本狂詩曲』が、フランスの第一線の音楽家たち選ぶ日本の管弦楽作品のコンクールとして行われていた、チェレプニン賞を受賞します。 1976年には東京音楽大学の学長に就任するなど、音楽家として名を成しました。88歳になる現在も現役の作曲家として新作を発表しつづけるエネルギーは驚くばかりです。 |

エルガー 誕生 -1857年- |
エドワード・エルガーの代表作のひとつ、行進曲「威風堂々」は、彼が最も創作意欲にあふれていた40代のころに書いた曲で、タイトルのように堂々とした威厳のある曲調は、吹奏楽アレンジでもよく知られています。またこの曲の第1番の中間部のメロディは、イギリスの第二の国歌として愛唱されています。 |

音楽研究家 ルードヴィッヒ・ フォン・ケッヘル 没 -1877年- |
モーツァルトの曲についている「K.626」とか「KV626」という作品番号を、「ケッヘル番号」というのはご存知ですか?この「ケッヘル」とは、モーツァルトの作品を年代順に整理したルードヴィッヒ・フォン・ケッヘルの名前なんです。1862年に、ケッヘルは「モーツァルトの全音楽作品の年代順主題目録」を発表しました。これはモーツァルトの作った626曲を年代順に並べ、主題部分の楽譜、楽器編成、作曲年月日と作曲地、小節数‥‥といった詳細な情報を各曲ごとに網羅した、当時たいへん画期的なもの。ケッヘルの名は一躍有名になり、以後モーツァルトの作品はケッヘルのイニシャルのKまたはKVに、目録の通し番号をつけて呼ばれるようになったのです。 このケッヘルは、意外にも音楽の専門家ではありません。ウィーン大学で法律を学んだあと植物学と鉱物学を研究し、彼の学名のついた植物もあるほどの植物学者だったのです。51歳のころ、友人が出版したモーツァルトにかんする不備な小冊子を見て、この大仕事を思い立ちました。モーツァルト作品の資料を徹底的に探し出し、調査旅行にも出かけ、12年の歳月をかけて目録を完成したのです。ケッヘルは他に音楽史関係の著作をいくつか残し、ウィーンで77年の生涯を閉じました。 |

アンコールが 演奏された日 -1878年- |
アンコールとは、フランス語で「もう一度」という意味。17世紀に盛んになったイタリア・オペラで、名歌手たちがアリアを歌い終わった時に、聴衆がもう一度聴きたいと、声をかけたのが始まりだといわれています。 日本で、クラシックの公開演奏会で初めてアンコールが演奏されたのは、1878年(明治11)のことでした。後楽園で開かれ、演奏をしたのは、陸軍軍楽楽舎、近衛軍楽隊、式部職雅楽部の各楽団。プログラムはワーグナーの「ローエングリン」序曲など全11曲でした。演奏会の最後には、3楽団の合同で“プロフェットの2曲”(詳細不明)が演奏され、指揮者のフランツ・エッケルトも大いにノッていたそうです。聴衆は大拍手。それは“傍聴の喝采所望の拍手実に天地も轟く”ほどでした。そこで、“活発なる進行の一曲”があらためて演奏された、ということです。日本初のアンコールが行われた瞬間のエピソードです。 |

マルタ・ アルゲリッチ 誕生 -1941年- |
現役で活躍する女性ピアニストの中で、人気実力ともにナンバーワンといえるピアニスト、マルタ・アルゲリッチ。アルゼンチンのブエノスアイレスに生まれた彼女は、8歳の時に名門オペラハウスのテアトロ・コロンでモーツァルトとベートーヴェンの協奏曲を弾いてデビューし、神童ぶりを発揮しました。14歳のときには、外交官の父親とともにヨーロッパに渡り、ウィーン、ブリュッセル、ジュネーヴなどの各都市で、フリードリヒ・グルダ、ミケランジェリ、ニキタ・マガロフ、ヴラディーミル・アシュケナージら、多くの名ピアニスト達に師事しました。 ソリストとして世界中で絶賛を浴びてきた彼女ですが、40歳を過ぎたころからデュオやトリオなどの活動の方が増えています。相手を変えて共演する度に、新鮮な感動を呼ぶ演奏を披露しています。 |

-1970年- |
全国楽器協会によって、1970年(昭和45)に制定されました。 何故6月6日かというと、古くから言われている「芸事の稽古はじめは、6歳の6月6日にする」というならわしに由来しています。日本式に数を指で数えると、5までは指を曲げるけれども、6になると逆に小指から指を立てる、そこから「子が立つのは6」と縁起をかつぎ、6歳の6月6日となったそうです。もちろん楽器を習う楽しみは、子どもだけのものではありません。イギリスのことわざにも「習うのに老いすぎているということはない」とあるように、大人にとっても、気軽に楽器を楽しむのも素晴らしいことでしょう。 |

フランツ・クサヴァー・ グルーバー 没 -1863年- |
クリスマス用に作られた曲として有名な「きよしこの夜」。この曲には変わったエピソードがあります。 1881年クリスマス・イヴに、J・モールという人が「クリスマスの礼拝に備えて賛美歌の練習を」とパイプオルガンを弾きに教会を訪れたものの、踏めども弾けども音が出ませんでした。調べてみるとなんと!ネズミがパイプに穴をあけてしまっていたのです。雪も大変深く、又クリスマスも間近に迫っていることもあり、修理を依頼する時間などありません。大変困ったヨゼフはその夜、友人であり、ギター仲間である、作曲家のグルーバーを訪ねます。そこで「ギター用に賛美歌の詩を作るから曲つけて!」とほぼ即興で作り上げられたのがこの曲だと言われています。今では賛美歌109番として有名なものとなりました。 |

シューマン 誕生 -1810年- |
ロベルト・シューマンは、そのロマン派の音楽を代表する作曲家です。8歳から音楽教育を受けると、すぐに才能が開花して9歳で作曲を始め、14歳のときにはピアニストとしても有望視されるほどになっていました。また、父親が書店を営んでいたので早くから文学にも親しみ、すばらしい詩を見つけ出す才能にもたけていました。この文学の素養は、後年、歌曲(リート)となって結実します。 代表曲「幻想小曲集」「子供の情景」等。 |

山田耕筰 誕生 -1886年- |
山田耕筰は、日本を代表する作曲家であり、日本楽壇の偉大な指導者でもありました。29歳の時、東京フィルハーモニー交響楽団を組織して自ら指揮をつとめ、近衛秀麿と共にNHK交響楽団の前身である日本交響楽協会も設立し、これらは日本のオーケストラ活動の礎となりました。31歳の時にはニューヨークのカーネギーホールで自作の管弦楽曲を演奏し、欧米でも名の知られる日本人音楽家となりました。 代表曲「からたちの花」「この道」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」等。 |

中村八大 没 -1991年- |
邦楽で初めて、アメリカのヒットチャートのトップを飾ったのは、坂本九の歌う「上を向いて歩こう(アメリカでは「スキヤキ」)」でした。彼が27歳の時、「翌日までに10曲作る」と映画会社と約束したのですが、作詞家が見つかりません。たまたま有楽町を歩いていると、以前から顔見知りで、放送作家として活躍していた永六輔とばったり出会い、それも縁だからと、作詩を頼むことにしました。後に「六・八コンビ」と言われる程、有名になりました。この時に作られた「黒い花びら」は、第1回日本レコード大賞を受賞しました。 代表曲「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」等。 |
猪俣公章 没 -1993年- |
若手の育成にも力を入れ、才能のある演歌歌手を“内弟子”として自宅に住まわせ、炊事、掃除や洗濯など、生活の基本から身につけさせました。そのレッスンは非常に厳しく、どんなにうまく歌えても、心がこもっていないと認めてもらえなかったといいます。内弟子になった人もレッスンだけだった人もいますが、藤あや子、香西かおり、坂本冬美、マルシアなど、現在の演歌界を支えている歌手の多くいます。 代表曲「女のためいき」「おふくろさん」「港町ブルース」等。 |

コンサートのため 初来日 -1987年- |
1987年6月11日夕刻、大阪空港は、人々でごった返していました。そこに現われたのは、当時アルバム『トゥルー・ブルー』で押しも押されぬスーパースターとなった歌手、マドンナでした。 初日の大阪球場のステージは、150個のスピーカと470本の照明、そしてマドンナの動きを刻一刻と映し出す9つのスクリーンを配した当時の最先端をいくもので、観客は、その見事に演出された音と光のショーに酔いしれました。 |

船村徹 誕生 -1932年- |
平成7年春に紫綬褒章を受章し、現在、日本作曲家協会理事長、日本レコード大賞制定委員長もつとめています。東洋音学大学(現・東京音楽大学)のピアノ科在学中に大衆歌謡に目覚め、以来歌謡曲ひとすじ。すでに4,000曲を超える「船村メロディ」を書きました。中でも故美空ひばりには50曲以上の作品を提供しています。 代表曲「王将」「矢切の渡し」「ひばりの佐渡情話」「みだれ髪」等。 |

「ペトルーシュカ」 初演 -1911年- |
ロシア出身の作曲家イーゴル・ストラヴィンスキー(1882〜1971)。「火の鳥」で脚光を浴びたかれは、その第2弾として「ペトルーシュカ」を書きました。 この曲の舞台は1830年ごろのペテルブルクの市街にある人形芝居小屋です。にぎやかな「謝肉祭」の真っ最中。人形使いが3つの人形(ペトルーシュカ、ムーア人、バレリーナ)に命を吹き込むと、それぞれが生き物となって、動きだします。そのうちにペトルーシュカとムーア人は、バレリーナに恋をします。2つの人形はバレリーナを取り合いますが、最後にはムーア人にペトルーシュカが殺されてしまいます。人形使いは、これはただの人形だと観客に説明しますが、ペトルーシュカの幽霊が現れると、人形使いは恐ろしくなって逃げ出してしまうのです。「ペトルーシュカ」は、ロシアの農民によくある名前で、このバレエのストーリーは、思いがかなわず惨めに死んでいく、というその時代のロシア農民の姿を暗に表現したものだとも言われています。 |

「ペトルーシュカ」 初演 -1911年- |
ロシア出身の作曲家イーゴル・ストラヴィンスキー(1882〜1971)。「火の鳥」で脚光を浴びたかれは、その第2弾として「ペトルーシュカ」を書きました。 この曲の舞台は1830年ごろのペテルブルクの市街にある人形芝居小屋です。にぎやかな「謝肉祭」の真っ最中。人形使いが3つの人形(ペトルーシュカ、ムーア人、バレリーナ)に命を吹き込むと、それぞれが生き物となって、動きだします。そのうちにペトルーシュカとムーア人は、バレリーナに恋をします。2つの人形はバレリーナを取り合いますが、最後にはムーア人にペトルーシュカが殺されてしまいます。人形使いは、これはただの人形だと観客に説明しますが、ペトルーシュカの幽霊が現れると、人形使いは恐ろしくなって逃げ出してしまうのです。「ペトルーシュカ」は、ロシアの農民によくある名前で、このバレエのストーリーは、思いがかなわず惨めに死んでいく、というその時代のロシア農民の姿を暗に表現したものだとも言われています。 |

エドヴァルト・グリーグ 誕生 -1843年- |
ノルウェーの作曲家でピアニストでもあったエドヴァルド・グリーグ。15歳のときに才能を認められてドイツのライプツィヒ音楽院に留学しました。ここでドイツ様式の作曲法や理論をみっちりと学びました。 雄々しくおおらかな迫力の中に、こまやかな叙情性をたたえた、ノルウェーならではの音楽を目指したのです。ピアノ協奏曲や、管弦楽のための「ペール・ギュント」組曲、弦楽合奏のための組曲「ホルベア(ホルベルク)の時代」などがその代表例です。 |

吉田正 国民栄誉賞授与 -1998年- |
1998年6月10日に77歳の生涯を閉じた作曲家の吉田正(1921〜1998)。50年にわたる作曲活動で「異国の丘」「有楽町で逢いましょう」「誰よりも君を愛す」「いつでも夢を」など2,400曲にのぼる作品を残し、国民に希望と潤いを与えたとして、死去6日後の6月16日に、国民栄誉賞の授与が発表されました。音楽関係者では、古賀政男(78年)、美空ひばり(89年)、藤山一郎(92年)、服部良一(93年)に続き5人目の栄誉でした。 |

バリー・マニロウ 誕生 -1946年- |
「哀しみのマンディ」「歌の贈りもの」「想い出のなかに」などの全米ナンバーワン・ヒットで知られる、70年代を代表するエンターテイナー歌手のバリー・マニロウ。「コパカバーナ」といった自作のヒット曲もあり、ソングライターとしても並大抵でない才能の持ち主ですが、なぜか全米ナンバーワンはすべて他人が作った曲という皮肉な巡り合わせです。 |

誕生 -1942年- |
ビートルズのベーシストであり、メロディ・メーカーであるジェームズ・ポール・マッカートニー。ビートルズ時代にはレノン&マッカートニー名義で、ジョン・レノンとの共作という形をとっていました。ビートルズの中期の名作アルバム『ヘルプ』は、スーパースターになってしまった自分達の不安定な心情をストレートに表現した軽快なロックンロールで、ジョンの作風が濃いものですが、同アルバムに収録された歴史的名曲「イエスタディ」は、メロディ・メーカー、ポールの独壇場とも言える美しい旋律のラブ・バラードで、ロック史上初めて弦楽四重奏を取り入れるなど意欲に満ちた作品でした。 |

セルゲイ・イヴァノヴィチ・ タネーエフ没 -1915年- |
セルゲイ・タネーエフは、モスクワ音楽院でピアノをニコライ・ルビンシテインに、作曲をチャイコフスキーに学んだエリートでした。卒業後、22歳からは母校で教鞭をとり、29歳のときには院長を務めました。国外に出かけて見聞を広めることにも積極的で、小説家のゾラや、作曲家ではサン=サーンスやフランクらと親交を結びました。そんな彼は、モスクワ音楽院の古い考え方になじまず、33歳のときには辞めてしまいますが、それ以後も、モスクワの音楽界の中心人物として、ロシアの音楽文化の発展に力を尽くしました。 |

誕生 -1949年- |
1970年代にR&B/ソウルの人気バンド、コモドアーズのボーカルとしてデビューし、1981年にソロに転向。ダイアナ・ロスとデュエットした映画『エンドレス・ラブ』の主題歌が全米チャート9週連続ナンバーワンと大ヒット。1985年にはマイケル・ジャクソンと「ウィー・アー・ザ・ワールド」を作詞・作曲。 代表曲「セイ・ユー,セイ・ミー」「「オールナイト・ロング」等。 |

誕生 -1929年- |
数多い女性ジャズ歌手の中でも、日本で人気のあるヘレン・メリル。“ニューヨークのため息”と呼ばれるハスキーでけだるい声は、まさにジャズのムードそのものと言ってもよいでしょう。歌手の青江三奈がメリルに大きな影響を受けているのは有名な話です。 実は彼女は大の日本びいきで、1966年には一時期日本に居をかまえたこともあるほどです。その時に覚えた民謡の「五木の子守歌」は今や彼女の重要なレパートリーとなっており、来日ステージでも度々歌っているようです。この曲が収められたアルバム『ヘレン・メリル・シングズ・フォーク』は残念ながら現在廃盤ですが、興味のある方は探されてみてはいかがですか? |

没 -1969年- |
ガーランドを一躍スターにした『オズの魔法使い』は、カラー映画のハシリとも言える作品でした。ガーランド扮するドロシーが、有名な「虹の彼方に」を歌うところまではモノクロ映像ですが、その後竜巻にのってオズの国に着いてからは、美しいカラー映像になります。現実の国から魔法の国へ…。このあたりはまさにカラー映像の持ち味をいかした素晴らしい演出と言えるでしょう。 素晴らしい映画と音楽を残してくれたジュディ・ガーランド。彼女の歌った「虹の彼方に」は、今も世界中の人々に愛されています。 |

「ザ・リフレックス」 ビルボード1位 -1984年- |
1980年代前半、カラフルなファッション、奇抜なメイクで世界を席巻したニュー・ロマンティック・ブーム。このデュラン・デュランこそ、ニュー・ロマンティックの申し子であり、この「ザ・リフレックス」はブームを象徴する1曲です。 |

ジェフ・ベック 誕生 -1944年- |
ロックの3大ギタリストと言えば、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、そしてジェフ・ベックの3人。1975年、初のソロアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ(ギター殺人者の凱旋)』を発表。それはジミー・ペイジをして“ギタリストの、ギタリストによる、ギタリストのためのアルバム”と絶賛させたほどの革新的なギターサウンドに満ちたインストアルバムでした。その後も彼は『ワイアード』『ライブ・ワイヤー』『ゼア・アンド・バック』など続々と革新的なギターインストアルバムを発表し、ロックギターの可能性を広げていきました。 |

誕生 -1945年- |
1970年代を代表する女性シンガーソングライターのひとり、カーリー・サイモン。だれかを愛することの楽しさや切なさを、感じるままストレートに歌って広く人気を得、また実際の彼女も“恋多き女”として数々の浮き名を流しました。1971年にデビューしてから、1972年11月にシンガーソングライターのジェイムス・テイラーと結婚するまで、俳優のウォーレン・ビーティ、歌手のクリス・クリストファーソン、さらにはストーンズのミック・ジャガーとも噂になっていました。代表曲「うつろな愛」。 |

キーボード奏者 デイブ・グルーシン 誕生 -1934年- |
1970年代前半、ジャズとロックの融合によって誕生したフュージョンの流行しました。そのブームの中でもっとも重要な役割を果たしたアーティストの一人がデイブ・グルーシンです。パティ・オースティンの『ハバナ・キャンディ』やアール・クルーの『フィンガー・ペインティング』、リー・リトナーとの双頭リーダー作『ハーレクイン』など、グルーシンが参加・プロデュースしたフュージョンの名盤は数え切れませんが、中でも特に際立っているのが、日本の代表的サックス奏者、渡辺貞夫とのコラボレーションです。『マイ・ディア・ライフ』『カリフォルニア・シャワー』などの大ヒットは、グルーシンなくしてはありえなかったともいえるでしょう。 |

「小さな経験」 ビルボード1位 -1970年- |
スーパー・スターのマイケル・ジャクソンが、兄のジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロンとともに結成し、1960年代後半から1970年代前半にかけて大人気を博したファミリー・グループが、ジャクソン5(ファイヴ)です。 1958年に生まれたマイケルが5歳になるころ、5人の子供たちはジャクソン5と名乗り、地元はもちろんアメリカ各地のタレント・ショーに出演し始めます。歌やダンスでコンテストを総ナメにしていった彼らは、1969年、ついにダイアナ・ロスやスティーヴィー・ワンダーらが所属する憧れのモータウン・レーベルと契約したのです。デビュー曲の「帰ってほしいの」、2枚目の「ABC」、3枚目の「小さな経験」、4枚目のシングル「アイル・ビー・ゼア」は、すべて全米チャート1位を記録しました。デビューから4曲連続ナンバーワンというのは不滅の大記録です。 |

リチャード・ロジャーズ 誕生 -1902年- |
舞台のミュージカルはもちろん、映画のミュージカルでも活躍した作曲家のリチャード・ロジャーズ。作詞家で台本作家のオスカー・ハマースタイン2世(1895〜1960)とコンビを組み、『オクラホマ!』でピューリッツァ賞、映画『ステート・フェア』(1945)の主題歌「春のように」でアカデミー主題歌賞、ミュージカル『南太平洋』(1949)でニューヨーク批評家協会賞、などを受賞。二人の最後の作品となったのが『サウンド・オブ・ミュージック』(1959)です。このミュージカルがブロードウェイで華々しい成功を収めていた60年、ハマースタインは亡くなりました。一人になったロジャースは、それでもこのミュージカルの映画化を進め、アカデミー賞5部門受賞に輝く名作を1965年に完成させたのです。 |

ルロイ・ アンダーソン 誕生 -1908年- |
クラシックをより親しみやすい形にした“セミ・クラシック”や“ライト・クラシック”という分野で活躍した作曲家/指揮者のルロイ・アンダーソン。名門ハーバード大学で作曲を学び、卒業後はボストンとニューヨークで編曲家として活躍しました。今でもボストン交響楽団は、シーズン・オフにはボストン・ポップスとして、またニューヨーク・フィルハーモニックは、同じくニューヨーク・ポップスとして、通常のクラシックの演奏会では取り上げない、いわゆる“セミ・クラシック”を演奏していますが、彼は、そうした演奏会のための作・編曲を行って人気を博したのです。 アンダーソンの曲は、くつろいだ気分で聴ける楽しいものばかり。ウッドブロックを使って時計の“チクタク”という音を表現した「シンコペイテッド・クロック」(時計は曲の最後には壊れてしまいます)、トランペットで馬(もしくは鹿)のいななきを表現した「そり滑り」、本物の紙やすりを打楽器として使った「サンドペーパー・バレエ」、こちも本物のタイプライターを使ったその名も「タイプライター」、クラリネットの音色を猫の鳴き声に見立てた「ワルツィング・キャット」などなど…。楽器の音色を独創的に用いたことでもよく知られています。 |

弘田龍太郎 誕生 -1892年- |
「雀の学校」「春よ来い」「靴が鳴る」など親しみやすい多くの動揺を作曲した弘田龍太郎。弘田は1892(明治25)年、教育者の父親と一絃琴の名手だった母親のもと、高知県安芸市で生まれました。三重県津市で過ごした中学生時代には、すでに音楽的な才能を発揮しており、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学。在学中に「七つの子」の作曲家、本居長世に師事し、童謡の作曲を手がけるようになりました。一般的によく知られている作品は童謡ばかりですが、他にもオペラ「西浦の神」や歌曲「小諸なる古城のほとり」(作詞:島崎藤村)、また仏教音楽や舞踏曲なども残しています。 |
