

シェリル・クロウ グラミー賞 最優秀新人賞受賞 -1995年- |
アメリカの歌手、シェリル・クロウ(1962〜)。父はトランペット、母はピアノをジャズ・バンドで演奏していたという音楽一家で、シェリルも5歳からピアノのレッスンを受け、13歳で最初の曲を作ったそうです。 94年度グラミー賞には5部門にノミネートされ、1995年3月1日に最優秀新人賞、最優秀レコード賞、および女性ポップ・ボーカル賞を獲得。さらに96年の『シェリル・クロウ』では最優秀ロック・アルバム賞と女性ロック・ボーカル賞、98年の『ザ・グローブ・セッション』でも最優秀ロック・アルバム賞を受賞。現在アメリカで最も人気のある女性シンガーとして注目されています。 |

ベドルジハ・ スメタナ 誕生 -1884年- |
今は、チェコとスロヴァキアという2つの国になっていますが、この国を代表する作曲家ベドルジハ・スメタナ。当時、チェコスロヴァキアは、オーストリアの一部となってしまったため、自分の国を取り戻したいという気持ちを高める音楽をたくさん書き、“チェコ国民音楽”の父と呼ばれています。 代表となる作品が、スメタナが41歳から45歳の時に書いた6曲からなる交響詩「わが祖国」です。よく知られた「モルダウ」は、2曲目。プラハを流れるモルダウ川の流れを音楽で表した名曲です。現在、スメタナの命日5月12日は「プラハの春国際音楽祭」の開幕日となっており、オープニングには「わが祖国」が必ず演奏されています。 |

オペラ「カルメン」 初演 -1875年- |
わずか37歳で世を去ったフランスの作曲家、ジョルジュ・ビゼー(1838〜1875)。彼の最後のオペラで、最高傑作の一つとされる「カルメン」が、1875年、パリのオペラ・コミック劇場で初演されました。 |

アントニオ・ ヴィヴァルディ 誕生 -1678年- |
バロック時代を代表する作曲家のひとり、アントニオ・ヴィヴァルディは、イタリアのヴェネツィアに生まれ、父親からバイオリンの手ほどきを受けました。15歳で教会に入り、25歳で司祭となりました。髪の毛が赤かったことから「赤毛の司祭」と呼ばれ、親しまれていました。 やがて彼は、身寄りのない女の子たちを育てるピエタ養育院のバイオリン教師になり、楽団を作って熱心に指導しました。そんな彼女たちのために、彼はたくさんの曲を作曲しました。 よく知られた協奏曲集「四季」は、47歳の時に書かれた作品です。「和声と創意の試み」と題されたこの協奏曲集は、もともと12曲からなるものですが、最初の4曲「春」「夏」「秋」「冬」があまりにも有名になり、「海の嵐」「喜び」「狩」など残りの8曲は影が薄くなってしまいました。この協奏曲集に代表されるように、ヴィヴァルディは、急−緩−急(速い−ゆっくり−速い)という3つの楽章からなる形式を作り上げ、後の作曲家たち、バッハやヘンデルに大きな影響を与えました。 |

キャリー 初の日本公演 来日 -1996年- |
現代最高の歌姫と呼ばれているマライア・キャリー。7オクターブの声とソウルフルな歌唱力は、世界中の人々を魅了してやみません。ピアノの最低音近くから最高音までをカバーするという超人的な声域は、オペラ歌手だった母親ゆずり。まだ2歳のときに、その母親の歌の音程違いを指摘する天才ぶりを発揮。4歳で歌手になる決心をし、歌、作曲、アレンジの勉強をしてきたマライアですが、母と父が離婚したため、一時は大変な貧しさも経験したそうです。 電撃的に契約が決定し、90年にデビューするや、デビュー曲「ヴィジョン・オブ・ラブ」、アルバム『マライア・キャリー』が共にチャート1位に。まさにシンデレラ・ストーリーでスーパースターに羽ばたいたマライアを象徴する曲が、93年のシングル「ヒーロー」です。 |

高橋真梨子 誕生 -1949年- |
父親がジャズクラリネット奏者で、小さいころからジャズを聴いて育った彼女は、16才で博多より上京し、高校に通いながらジャス・ピアニストの柴田泰から歌のレッスンを受けました。卒業後は博多に戻ってライブハウスで歌っていましたが、天才ボーカリストとして東京でも知られる存在だったといいます。そして72年、ラテン・グループのペドロ&カプリシャスの2代目ボーカリストとして、高橋まりの芸名でプロ・デビュー。73年の「ジョニーへの伝言」に始まり「五番街のマリーへ」「陽かげりの街」等のヒットが続き、ドラマチックな歌唱で音楽界に新風を吹き込みました。彼女は、もっとジャンルにこだわらず日本語を大切にしていきたいと思うようになり、78年にグループを脱退。高橋真梨子と改名してソロの道を歩み始めます。 79年の「あなたの空を翔びたい」でソロ・デビューを飾り、84年の「桃色吐息」が大ヒット。この大ヒットにより、今ではカラオケの定番となっている「 for you …」といった名曲も評価され、その後も「はがゆい唇」などのヒットで、“バラードの女王”と呼ばれるようになります。 |

モーリス・ ラヴェル 誕生 -1875年- |
フランスを代表する作曲家として知られるモーリス・ラヴェル。彼はオーケストラからさまざまな音色や雰囲気をつくり出すことが得意で、ピアノ用に書かれた作品を、美しいオーケストラの作品にアレンジしました。その代表例が、ムソルグスキーの作品「展覧会の絵」の管弦楽編曲です。また、作曲の題材としてフランス国外のものを使うことが多く、ピアノ曲として作曲し、後に自分で管弦楽に編曲した「亡き王女のためのパヴァーヌ」もそのひとつです。 ラヴェルの個性的な世界は、多くの作曲家に影響を与えました。そして彼の作品は「フランス音楽の華」として、たくさんの人々に愛されています。 |

交響曲第2番 初演 -1902年- |
フィンランドの国民的英雄とも言える作曲家ヤン・シベリウス(1865〜1957)は、生涯に7曲の交響曲を書きました。なかでも最もよく演奏されるのが、交響曲第2番です。 当時フィンランドは、ロシアに支配されていました。ウィーンに留学していたシベリウスは、祖国の叙事詩「カレワラ」に熱中し、登場人物のひとりクレルヴォを取り上げて「クレルヴォ交響曲」を作曲します。この曲が大成功を収め、彼の名は一躍知れわたりました。以後「カレリア」組曲、「フィンランディア」など、民族の意識を高めるような作品を作り続けました。 祖国フィンランドは、1919年に念願のロシアからの独立を果たし、1925年、シベリウスは60歳の誕生日に大統領から白バラ大勲章を授けられます。この頃から作曲の筆はぱたりと止まってしまい、91歳で亡くなるまでの約30年間、ひとつも作品を残しませんでした。これほどの大作曲家が創作を止めてしまった理由は、今でもわかっていません。 |

「動物の謝肉祭」 初演 -1886年- |
フランスの作曲家でピアニスト、オルガン奏者でもあったシャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)は、クラシック音楽のあらゆる分野にたくさんの作品を残しました。組曲「動物の謝肉祭」は最も知られている曲の中のひとつです。 ゆかいな亀や象の表現、はては化石やピアニストまで“動物”として登場するこの曲は、友人のチェリストが主催する、謝肉祭の最終日に開く音楽会のために作曲されました。サン=サーンスとしては軽い気持ちで書いた、皮肉やユーモアたっぷりの、一種のおふざけだったのです。仲間内のために書いたこの曲の楽譜を出版することを、なかなか許しませんでした。 14曲からなるこの組曲のうち、13曲目のピアノ伴奏付きチェロ曲「白鳥」だけが生前、出版されました。しかし彼の死後すぐに全曲が出版され、人気を集めていったのです。 |

「ジークフリート牧歌」 公開初演 -1871年- |
「ジークフリート牧歌」は、長大な楽劇で知られるワーグナー(1813〜1883)には珍しく、16名の小編成オーケストラで演奏できる小品です。曲の長さも約15分と彼にしては短めで、メロディも親しみやすく、くつろいだ気分あふれる名曲として今でもよく演奏されています。 この作品の公開初演は、1871年、マイニンゲン宮廷で行われました。しかし本当の初演は、前年のクリスマスにワーグナー私邸で行われました。12月25日は、妻・コジマの誕生日。そして曲名の「ジークフリート」とは、1歳半になったばかりの長男のことなのです。つまり、この曲は、待望の長男が生まれた喜びをこめて、妻コジマの誕生日にプレゼントした、私小説ならぬ“私楽曲”だったわけです。 |

「カプレーティとモンテッキ」 初演 -1830年- |
1830年の今日、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されたヴィンチェンツォ・ベリーニ(1801〜1835)の歌劇『カプレーティとモンテッキ』は、あのロメオとジュリエットの物語を題材としていますが、有名なシェイクスピア・ヴァージョンとはかなり違います。 作曲者ベリーニはロッシーニ、ドニゼッティと並ぶ19世紀前半イタリア3大オペラ作曲家の一人。33歳の短い生涯に『夢遊病の女』『清教徒』『ノルマ』など旋律美に満ちた数々の傑作を残しました。彼の音楽を愛してやまなかったショパンは、ベリーニの墓のそばに埋葬されたいと願ったと言います。 |

チャーリー・ パーカー 没 -1955年- |
スイング・ジャズが全盛だった1940年代、彗星のごとくあらわれ、まったく新しいジャズ・スタイルを生み出したサックス奏者パーカーは、モダン・ジャズの創始者と言われています。 そのパーカー、生活面、とりわけ金銭面ではとんでもなくだらしなく、大事な楽器を質屋に入れることもたびたびでした。そんな時彼は、仲間のサックスを借りて演奏するのですが、どんな楽器であっても平気で素晴らしい演奏を繰り広げたといいます。ある時などはキーのひとつが壊れたサックスを、スプーンとチューインガムとテープで修理して演奏しましたが、聴衆は誰一人としてそのことに気がつかなかったそうです。 |

佐野元春 誕生 -1956年- |
“つまらない大人にはなりたくない”と歌った「ガラスのジェネレーション」、“まごころがつかめるその時まで/信じる心いつまでも”と歌った「サムデイ」などで少年少女の圧倒的な支持を得て、現在も最前線で活動を続けているロック・シンガーの佐野元春。 高校生のときにバックレイン元春セクションというバンドを結成します。彼はヤマハのポピュラーソングコンテストに応募。斬新なスタイルとサウンドで圧倒的な支持を得て本選会に勝ち進みましたが、あまりに斬新すぎ、結局受賞を逃してしまいます。そして、この時演奏した曲がレコード契約の直前まで進みますが、ディレクターとアレンジャーの「この部分はビー・ジーズのあの曲から取って、エンディングはビートルズでいこう…。」という会話に腹を立て、デビューのチャンスも放棄してしまったのです。別のレコード会社から「アンジェリーナ」で衝撃的なデビューを果たすのは、その6年後の1980年のことです。 |

クインシー・ ジョーンズ 誕生 -1933年- |
フランク・シナトラからチャカ・カーンまで、あらゆるタイプのアーティストのプロデュースを手掛けているクインシー・ジョーンズ。スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス、ボブ・ディラン、マイケル・ジャクソン、レイ・チャールズなど45人ものビッグ・アーティストが参加したチャリティ・ソング、「ウィー・アー・ザ・ワールド」の仕掛け人としても有名です。 |

ライ・ クーダー 誕生 -1947年- |
ライ・クーダーは単なるギタリストというより、今では埋もれてしまっている古い音楽を、確かなギター・テクニックで現代に蘇らせる“案内人”といったほうが適切かもしれません。2000年1月に公開された話題の映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』でも、現在は一線を退いている往年のキューバのミュージシャンたちを捜し出して共演し、伝統のキューバ音楽の魅力を伝えてくれています。 |

第13回 グラミー賞 5部門独占 -1971年- |
サイモン&ガーファンクル(S&G)は、1941年10月13日生まれのポール・サイモンと、同年11月5日生まれのアート・ガーファンクルが初めて出会ったのは、同じ小学校で劇「不思議の国のアリス」に出たときのこと。ポールは白うさぎ、アートは猫の役でした。それ以来彼らは親友となって一緒に歌うようになります。そして16歳の夏休みに作ったデモ・レコードがレコード会社の目に留まり、「ヘイ・スクール・ガール」というシングルでデビュー。この曲は10万枚売れるスマッシュ・ヒットとなり、“トム&ジェリー”という彼らの芸名もそこそこ知られるようになりました。 その後、一時は違う道へ進んだ2人ですが、「サウンド・オブ・サイレンス」「コンドルは飛んでいく」「ボクサー」等、ヒットを飛ばしビルボードの1位を賑わせました。 |

オープン -1988年- |
東京ドームでの最初の音楽イベントは、オープン後5日目に行われたミック・ジャガーのソロ・コンサートです。この年、ドーム・オープンを祝うかのように次々とビッグ・アーティストがドーム公演を行いました。主なところでは、スティング(10/24)、エリック・クラプトン(11/2)、マイケル・ジャクソン(12/9〜)、ボン・ジョヴィ(12/31)など、錚々たるメンバーですね。 |

ニコライ・ リムスキー= コルサコフ 誕生 -1844年- |
リムスキー=コルサコフは、ロシア国民音楽の確立に尽力した「ロシア5人組」のひとり。(コルサコフ、バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン)彼は、生来の異国情緒好みと、海軍士官として各地に航海した経験から、エキゾティックな音楽を得意としました。またオーケストレーションが巧みで、さまざまな色彩感あふれる音色を、管弦楽から引き出すことに成功しました。 代表曲:交響組曲「シェエラザード」。 |

尾崎亜美 誕生 -1957年- |
自らのヒット曲「マイ・ピュア・レディ」のほか、杏里の「オリビアを聴きながら」や松田聖子の「天使のウィンク」の作者として知られる、シンガーソングライターの尾崎亜美。 1997年に、元サディスティック・ミカ・バンドのベーシストでプロデューサーの小原礼と結婚。その結婚式では、なんと神父が来られなくなったため、参列者として招かれていた聖飢魔IIのデーモン小暮が代役を果たすという、世にも珍しい式になったそうです。 |

スヴャトスラフ・ リヒテル 誕生 -1914年- |
20世紀最後の「巨匠」ピアニストと呼ばれた、リヒテル。ウクライナで生まれたリヒテルは、両親もピアニストでしたが、独学でピアノを習得。オデッサ歌劇場で練習時の伴奏ピアニストとして働き、モスクワ音楽院で本格的に勉強し始めたのは22歳になってからでした。 30代に入ってからの遅いデビューは、“鉄のカーテンの向こうに恐ろしいほどのピアニストがいる”とすぐ西側に伝わったほど強烈なものでした。 リヒテルは、演劇、映画、絵画、文学などにも深い造詣を持っており、特に絵画の腕前は、演奏旅行の途中で印象に残った風景を、後で寸分の狂いもなくキャンバスに再現できるほど、と言われています。 |

セバスティアン・ バッハ 誕生 -1685年- |
“音楽の父”J・S・バッハ。バッハの音楽は、現在でも人類共通の財産として広く演奏されています。彼の音楽には無駄なところが一切無く、メロディにもリズムにも「音楽する喜び」が溢れています。 バッハが生まれたドイツのアイゼナッハという町では、音楽家はほとんどバッハの血縁者でした。バッハには兄が5人おり、若くして亡くなった2人を除く3人は全て音楽家になりました。またバッハ自身は2度の結婚で20人の子供をもうけ、その中の4人は今もその作品が聴ける有名な作曲家です。 バッハは、派手なことは一切行わず、一般受けのするオペラや恋愛の歌は生涯に1曲 も書いていません。そのためか生存中にはあまり人気が出ず、当時のライプチッヒの新聞による作曲家の人気投票では、1位はテレマン、2位がヘンデルで、バッハは7位だったそうです。 代表曲:「G線上のアリア」「トッカータとフーガ」「マタイ受難曲」等。 |

中山晋平 誕生 -1887年- |
大正時代から昭和にかけて童謡や新民謡、歌謡曲などを約3,000曲も作曲し、“日本のフォスター”と呼ばれている中山晋平。 26歳の1913年、トルストイの「復活」で芸術座の旗揚げ公演をするときに、女優・松井須磨子が歌う劇中歌の作曲を頼まれます。「学校の唱歌でも困るし、教会の賛美歌でも困る。西洋の民謡と、日本の民謡との中間を行ったようなものにしてくれ。」との注文とともに渡された歌詞は、捕らえどころのないものでした。公演の3日前に付点のリズムに特徴のあるメロディがひらめき、「カチューシャの唄」が完成します。この歌は新しい感覚の大衆歌謡として当時の人々を魅了し、名声を得た晋平は教職をやめて曲作りに専念。劇中歌の名曲を次々に発表します。しかし恩師抱月が急死したことにより芸術座は解散、これを機に彼は歌謡曲や童謡の世界へ入っていくことになります。 代表曲:「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」しゃぼん玉」「てるてる坊主」「雨降りお月さん」「黄金虫」等。 |

ピアノ三重奏曲 「ある偉大な芸術家の 思い出のために」 初演 -1887年- |
“ある偉大な芸術家”とは、ピアニスト/指揮者/音楽教育家のニコライ・ルビンシテインのこと。5歳年長のニコライに、チャイコフスキーはとても世話になっていました。ニコライがモスクワ音楽院を創立したとき、まだ26歳のチャイコフスキーを、作曲科の教師として雇ってくれたのです。ニコライは気さくな人で、貧乏だったチャイコフスキーを自宅に下宿させ、洋服を新調してあげたり、何かと面倒を見てくれました。彼はチャイコフスキーの才能を愛し、その作品の初演も、ほとんど自分でピアノや指揮を担当しました。 そのニコライが、パリで客死したのは1881年3月23日のこと。チャイコフスキーは、恩人の死を悼んでピアノ、バイオリン、チェロによる三重奏曲を作曲。翌年のニコライの一周忌に、彼にゆかりの演奏家たちによって初演されました。 この曲は45分を超える長い曲ですが、ただ2つの楽章からできています。なかでも約30分と長大な第2楽章は主題と12の変奏曲からなっており、これほど規模の大きな変奏曲が室内楽で使われるのは大変珍しいことです。 |

エンリケ・ グラナドス 没 -1916年- |
グラナドスは、アルベニスとならんでスペイン独自の音楽を確立した作曲家。バルセロナを本拠地に活躍し、自ら「アカデミア・グラナドス」という音楽学校も設立して、人々に敬愛されていました。代表作には、ピアノ組曲の「スペイン舞曲」、「ゴイェスカス(ゴヤの絵画風の情景)」などがあります。 |

ベラ・ バルトーク 誕生 -1881年- |
ハンガリーの作曲家、バルトークは第二次世界大戦の犠牲者の一人です。祖国に迫り来るナチスの影に1940年にアメリカに亡命したバルトークは、ほとんど理解されず、著名なオーケストラはみなその演奏をボイコットしました。また持病の白血病が悪化し、体重は39キロに激減、絶え間ない発熱にも悩まされました。辛い日々を送っていたバルトークに救いの手をさしのべたのが、ボストン交響楽団の常任指揮者、セルゲイ・クーセヴィツキー(1874〜1951)です。彼は当時としては大金の1000ドルでオーケストラ曲の作曲を依頼し、健康状態を気にしてためらう作曲家の前に500ドルの小切手を置いていきました。この老指揮者の強引な暖かさは、バルトークに久しく失われていた創作意欲を蘇らせ、傑作「管弦楽のための協奏曲」が誕生します。初演は1944年12月1日ボストンで行われ、大成功を収めました。 |

ボーカル スティーヴン・ タイラー 誕生 -1951年- |
アメリカが生んだ最高のロックンロール・バンドと呼ばれるエアロスミスのボーカリストとして、そして最近では女優リヴ・タイラーの父親として有名なスティーヴン・タイラー。 1970年にボストンで結成されたエアロスミスは、73年にアルバム『野獣生誕』でデビューし、それから3年足らずでトップ・バンドにのし上がります。80年代前半のエアロスミスは、ジョー・ペリーの一時離脱、タイラーのドラッグ中毒問題もあってどん底状態でしたが、86年にラップ・グループのランDMCが「ウォーク・ディス・ウェイ」をカバーして大ヒットしたことで、エアロ人気も大復活。その後も、映画『アルマゲドン』の主題歌「ミス・ア・シング」を大ヒットさせています。 |

ムスティスラフ・ ロストロポーヴィチ 誕生 -1927年- |
世界的チェリストで、指揮者としても活躍するロストロポーヴィチ。最高のテクニックに支えられた情熱的かつスケールの大きい演奏によって、“カザルス以後の最高のチェリスト”と称えられる偉大な存在です。旧ソ連アゼルバイジャン共和国のバクーで生まれ、父親の手ほどきでチェロを始めたロストロポーヴィチは、15歳で公開演奏の場にデビュー。たちまち天才として知られるようになりました。戦後は西側でも活躍を始め、今世紀最高のチェリストとして名を馳せます。 |

セルゲイ・ ラフマニノフ 誕生 -1943年- |
ラフマニノフは、20歳でモスクワ音楽院を最優秀で卒業。その前後に作曲し発表した「幻想小曲集」やピアノ協奏曲第1番も好評で、ピアニスト兼作曲家として順風満帆のスタートを切りました。ところが、24歳のとき発表した交響曲第1番が酷評を浴び、その後約2年間も作曲できないノイローゼ状態が続きます。そんな彼を救ったのが、精神科医のニコライ・ダール博士でした。 彼の催眠療法によって自信と意欲を取り戻したラフマニノフは、腰を据えて新作に取りかかります。こうしてできたのが、彼の代表作、ピアノ協奏曲第2番でした。1901年に自身のピアノで初演されたこの曲は、大成功を収め、ラフマニノフは感謝をこめて、この曲をダール博士に捧げています。 |

ロイヤル・ アルバート・ ホール 開場 -1871年- |
19世紀後半、イギリスは広大な植民地を経営し、最盛期を謳歌していました。当時の支配者ヴィクトリア女王の夫君アルバート公は文化・芸術のパトロンとして知られ、1851年にロンドンで開かれた世界最初の万国博覧会を発案したのもアルバート公でした。そして1871年3月29日、アルバート公の記念会堂ロイヤル・アルバート・ホールが落成されたのです。以来、落ち着きのある円筒形のホールは様々な音楽家たちを受け入れてきました。その最も早い出演者の一人が、開館の年に初訪英したサン=サーンスです。彼はオルガンのリサイタルを開いて大好評を博しました。 |

エリック・ クラプトン 誕生 -1945年- |
1960年代から現在に至るまで第一線で活躍しているスーパー・ギタリスト、エリック・クラプトン。60年代は、1963年のヤードバーズ加入を皮切りに、ブルース・ブレイカーズ〜クリーム〜ブラインド・フェイス〜デレク&ザ・ドミノスとバンド遍歴を重ねながら、ブルース・ギタリストとして自らのスタイルを追求。この頃、クラプトンのギター・プレイは、そのプレイ・スタイルから“スロー・ハンド”と呼ばれていました。それはどんなに速弾きしても、弦を押さえる左手の動きがスローに見えたというのが由来だと言われてます。 代表曲「いとしのレイラ」「ワンダフル・トゥナイト」等。 |

ヨーゼフ・ ハイドン 誕生 -1732年- |
生涯に104曲の交響曲をつくり、“交響曲の父”と呼ばれるオーストリアの作曲家、ハイドン。彼の交響曲には、ニックネームつきのものが多数あります。 イギリスで大歓迎を受けたハイドンは、気に入らないことがひとつありました。聴衆のマナーが悪く、居眠りしている人が多いのです。ハイドンは茶目っ気を出し、ある交響曲でアンダンテの第2楽章に入り、全体が最弱音になるところで、突如として最強奏が出現させました。とくにティンパニ奏者には、力いっぱい叩くように指示しました。ねらい通り、聴衆はびっくりして飛び上がり、以後、この交響曲第94番は「驚愕」「びっくり」などと呼ばれてます。 また、あるコンサートでは、ハイドンが自作を指揮するために登場したのですが、当時は指揮台はなく、1階の客席からはよく見えません。そこで有名なハイドンの顔を見ようと、1階の客がステージ前に殺到。そのとき、がら空きになった客席に、天井から巨大なシャンデリアが落ちてきたのです。客席が空いていなかったら、けが人が多数出るところでした。人々は口々に「奇跡だ!」「奇跡だ!」と叫び、以後、この交響曲第96番は「奇跡」と呼ばれるようになったのです。 このほかにも、第100番「軍隊」、第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」などがあります。 |
