

初演 -1897年- |
ゲーテの詩を管弦楽で表した交響詩「魔法使いの弟子」は、フランスの作曲家ポール・デュカス(1865〜1935)の代表作。この曲は、ディズニー映画『ファンタジア』でも取り上げられ、広く知られるようになりました。とてもストーリーを感じられるこの音楽は名曲なので、是非聴いてみて下さいね。 |

誕生 -1904年- |
ビング・クロスビーはアメリカのワシントン州生まれ。大学では法律を学びますが、在学中にボーカル・グループを作って歌の道を志し、1927年にポール・ホワイトマン楽団に参加。1931年にはソロ歌手としてデビューし、大人気を呼びました。映画にもたくさん出演し、1944年に神父役で主演した『わが道を往く』では、アカデミー主演男優賞も受賞しました。 1942年の映画『スイング・ホテル』の主題歌「ホワイト・クリスマス」ではアカデミー主題歌賞を受賞。代表曲ですね。1954年にミュージカル映画『ホワイト・クリスマス』が作られ大ヒット。こうしてこの歌の人気は発表以来現在まで続き、約3,000万枚の売上を記録。エルトン・ジョンがダイアナ妃追悼曲「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」でその記録を破るまで、ずっとシングル盤売上の世界一でした。 |

「機関車パシフィック231」 初演 -1924年- |
幅広いジャンルにわたり多くの作品を残したフランスの作曲家アルテュール・オネゲル(1892〜1955)。オネゲルは大の機関車好きでした。曲は、蒸気機関車が発車し、すごい勢いで走り、そして停車するまでの様子を、真に迫るオーケストラの響きと音楽的な流れで描写しています。「231」とは、前輪軸を2つ、動輪軸を3つ、そして後輪軸を1つ持った蒸気機関車のこと。たった6分ほどの曲ですが、パリで初演されたときには、センセーションを巻き起こしました。 |

バルトロメオ・ クリストフォリ 誕生 -1655年- |
楽器の王様ともいわれる「ピアノ」。もともとの名前は「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」でした。弱い音も強い音も出せるチェンバロという意味で、これが短くなって「ピアノ」と呼ばれるようになりました。 ピアノの祖先はチェンバロです。チェンバロは音に強弱を付けることが難しく、演奏家たちも表現力の限界を感じていました。そんな時、工夫に工夫を重ねて、強弱を出せる仕組みを作ったのが、チェンバロ作りの名人、バルトロメオ・クリストフォリです。1709年、世界で最初のピアノが誕生したのです。現在、彼が作ったピアノは世界に3台残っており、ニューヨークのメトロポリタン博物館、ライプチヒのライプチヒ大学博物館、ローマのローマ楽器博物館に保存されています。 |

「カーネギー・ホール」 オープン -1891年- |
このホールは、アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの寄付で1891年に完成しました。最初は「ミュージック・ホール」と呼ばれていましたが、彼の名前をとって「カネーギー・ホール」になりました。オープニングを飾ったのは、チャイコフスキーでした。当時51歳のチャイコフスキーは、作品が高く評価されていただけでなく、自分の作品を演奏する指揮者としても大成功を収め、人生の絶頂期を迎えていました。ホールのこけら落としの当日、ゲスト指揮者として登場した彼は、ニューヨーク・フィルを指揮して自作を数曲披露し、大喝采を浴びています。 以後、1960年には老朽化したことを理由にいったんは取り壊しが決まりましたが、名バイオリニストのアイザック・スターンらの努力によって、存続が決定。1986年に大規模な改修が行われ、豪華な雰囲気に生まれ変わり、1991年には盛大に100周年記念の行事が行われました。 |

タゴール 誕生 -1861年- |
1913年のノーベル文学賞を受賞したインドの詩人・作家・音楽家・社会思想家のラービンドラナート・タゴール。インドでは、インド独立に貢献した平和主義者・ガンジーは「偉大な魂」、詩人・タゴールは「師」と呼ばれています。タゴールが作詞・作曲したインド共和国の国歌「ジャナ・ガナ・マナ」は、祖国を愛する心が、ヒマラヤからインド洋までのインドの大地に響き合うという雄大なスケールを持つ歌で、彼の死後、1950年1月24日に国歌として採用されました。 タゴールは世界各国を歴訪、フランスの人道主義の作家ロマン・ローランや、世界政府を提唱した科学者のアインシュタインなどの自由主義知識人と交流し、日本にも3回訪れました。 |

ブラームス 誕生 -1833年- |
バッハやベートーヴェンと並び、19世紀後半の大作曲家ブラームスは、その作品に似て、地味で峻厳、社交嫌いで恋愛下手な性格でした。それは母親の影響かも知れません。両親が結婚したのは父24歳、母41歳の時。ブラームスが生まれたのはその3年後の母は44歳。母親というより、祖母のような威厳と教育的配慮でもって幼いブラームスに接しました。彼がいつも若い乙女のハートを射止め損ね、14歳も年上のクララ・シューマンに憧れを持ち続けたのも、また初期のブラームスの作品がいやに年寄りじみていて、反対に晩年の作品になるほど若やいでくるのもこれが原因だ、という説もあります。 ブラームスは最後まで伴侶には恵まれず、クララ・シューマンが1896年に亡くなると、その後を追うようにして1897年に息を引き取りました。 |

ジャレット 誕生 -1945年- |
キース・ジャレットは、多面的な音楽性をもつピアニスト。ジャズだけでなく、クラシック、フォーク、ゴスペルなどのエッセンスも取り入れた即興演奏の名手として知られています。そんな彼がソロ・コンサートを積極的に録音し始めたのは、1970年代に入ってからのこと。それがソロ・ピアノ・ブームに火をつけることになりました。 |

ビリー・ジョエル 誕生 -1949年- |
心に残るメロディで私たちを魅了し続ける、ビリー・ジョエル。ニューヨークに生まれ、幼い頃からクラシック・ピアノを学んだ彼は、十代後半でビートルズの影響を受け、ロックに傾倒していきます。1972年には初のソロ・アルバムをリリースしますが、話題にはなりませんでした。ところがこの頃、デモ・テープ用にライブ録音された「キャプテン・ジャック」という曲がFM局でオンエアされて大ヒット。それがきっかけで1973年にはCBSと契約し、1977年には初のグラミー賞を受賞します。代表曲『ストレンジャー』『素顔のままで』『オネスティー』等。 |

外山雄三 誕生 -1931年- |
1948年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)本科作曲科に入学しました。在学中「クラリネット、ファゴットとピアノのための三つの性格的な断片」で第20回音楽コンクール室内楽の部第2位を受賞。1952年、大学卒業と同時に専攻科に進むとともに、NHK交響楽団に打楽器練習員として入団しました。1956年にはNHK交響楽団の公演を指揮して指揮者としてデビューを果たしました。 1960年「管弦楽のためのラプソディー」作曲。NHK交響楽団海外演奏旅行に同道し、世界各地で演奏、好評を得ました。。以降日本のオーケストラの海外演奏旅行において外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」が数多く演奏されるようになります。 その後、京都市交響楽団常任指揮者、NHK交響楽団正指揮者に就任、名古屋フィルハーモニー交響楽団音楽総監督・常任指揮者、神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督、愛知県立芸術大学客員教授等の活躍より1999年、文化大臣を表賞されました。 |

いずみたく没 -1992年- |
高校卒業後、舞台芸術院へと進み、作曲家・三木鶏郎の門下生として音楽や舞台の勉強を重ねた彼は、まずラジオやテレビのCMソングで知られるようになりました。手がけたCMソングは約3,000曲にものぼり、有名な伊東温泉のホテルのCMソングは彼の作曲によるものです。 歌謡曲の分野でも活躍し、「世界は二人のために」「恋の季節」「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」など、ビッグヒットを重ねていきました。佐良直美の歌った「いいじゃないの幸せならば」では、1969年のレコード大賞も受賞しています。 |

バカラック 誕生 -1928年- |
ポップスや映画音楽を中心に活躍する作曲家、バート・バカラック。1960年代〜1980年代にヒットした曲が多いのですが、そのアメリカン・スタイルの都会風で甘いサウンドが最近また見直され、日本でも静かなブームを呼んでいます。1997年には来日も果たしました。 代表曲「雨にぬれても」、「遙かなる影」、「カジノ・ロワイヤル」(007)、等。 |

ワンダー 誕生 -1950年- |
アメリカを代表するアーティスト、スティーヴィー・ワンダー。生まれつき目が見えなかったスティーヴィーは、教会の聖歌隊で音楽を学び、11歳の頃にはハーモニカ、ピアノ、ドラムをマスター。12歳で早くもモータウンレコードと契約、“リトル・スティーヴィー・ワンダー”の名で「フィンガー・ティップス」のヒットを放ち、当時盲目の天才として知られていたレイ・チャールズに対して“12歳の天才”と呼ばれました。また作曲家としても頭角を現わし、「アップタイト」「マイ・シェリー・アモール」などを次々とヒットさせていきます。 代表曲「迷信」「サンシャイン」「ハイアー・グラウンド」「回想」等。 |

フェルディナント・バイエル 没 -1863年- |
おなじみのピアノ教則本「バイエル」。この本の著者が、フェルディナント・バイエルです。ドイツで活躍した作曲家でありピアニスト、そして教育者でもありました。彼は、ピアノ用の小品の作曲や、当時流行していた管弦楽曲やオペラの旋律などのピアノ用編曲で知られていました。ピアノ以外の作品も書いていたそうですが、残念なことにそれらはほとんど忘れられ、この教則本だけが今でも使われています。 |

第1集 出版 -1900年- |
「きーてきいっせいしんばしを…」これは、「鉄道唱歌 第1集 東海道編」の第1曲目です。沿線の地理、歴史、伝説、さらには名産品の紹介までを上手に折り込んで、新橋を出発して神戸に到着するまで、なんと66番までの歌詞が作られました。この「鉄道唱歌」は明治33年(1900)に大和田建樹作詞、多梅稚(おおのうめわか)作曲による第1集が出版されました。 地理教育にも役立つということで国からも歓迎されたこの「鉄道唱歌」は、以後、メロディを変えながら、「第2集 山陽九州」「第3集 東北地方」「第4集 北陸地方」「第5集 関西各線」が作られていきました。ちなみに第3集には「松島あそび」という歌が、第5集には「奈良めぐり」という歌が、本編とは別に付録として付いています。 少しだけ歌詞を紹介します♪ 一.汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕(あたご)の山に入りのこる 月を旅路の友として 二.右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる 名は千載(せんざい)の後(のち)までも 三.窓より近く品川の 台場も見えて波白く 海のあなたにうすがすむ 山は上総(かずさ)か房州か 四.梅に名をえし大森を すぐれば早(はや)も川崎の 大師河原(だいしがわら)は程ちかし 急げや電気の道すぐに |

ジュニア 没 -1990年- |
歌手であり、俳優であり、ダンサーでもあったサミー・デイビス・ジュニアは、今なお「史上最高のエンターテイナー」として世界で愛されています。 1956年のミュージカル『ミスター・ワンダフル』の主演でブロードウェイにデビュー。さらに1959年の映画『ポーギーとベス』でハリウッドにもデビューし、翌1960年の『オーシャンと11人の仲間』では、フランク・シナトラやディーン・マーチンら大スターと共演。特にシナトラとは大親友になり、以後生涯にわたってシナトラ・ファミリーの一員としてステージや映画での活躍が続きます。 日本でも、75年にテレビで『サミー・デイビス・ジュニア・ショー』が放映されるなど親しまれており、ウイスキーのCMにも出演してお茶の間でもおなじみの顔となりました。1989年にはシナトラ、ライザ・ミネリらと来日しました。 |

誕生 -1866年- |
彼の母親は6歳の時に亡くなり、13歳の時に父親が再婚しました。継母の手ほどきでピアノを習い、すぐにパリ音楽院に入学しましたが、アカデミックな音楽に反感を持ち、読書ばかりしていたそうです。20歳の時には、軍隊に志願し入隊しますが、わざと気管支炎にかかって除隊。その後はパリのモンマルトルのカフェでピアノを弾きながら暮らしていました。また「ばら十字教団」という神秘主義の秘密結社に入団し、その団体のための音楽を作ったり、さらには自分で架空の団体を作って機関紙を発行し、気に入らない評論家たちを攻撃したりもしました。一方で町会の仕事や、児童福祉のためのボランティアもしていたそうです。39歳のとき、突然音楽学校であるスコラ・カントルムに入学し、再び音楽の勉強を始めました。こちらは優等で卒業。このように、彼は自分の気の赴くままに生活していた、かなりの「変わり者」だったようです。 彼の音楽は、非常にシンプルで、感情に流されない、客観的なもの。それはドビュッシーやラヴェルにも大きな影響を与えました。代表曲「3つのジムノペディ」「ジュ・トゥ・ヴ」等。 |

誕生 -1912年- |
アメリカ芸能界のスーパー・スター、ミスターCことペリー・コモは、1912年にペンシルヴァニア州の小さな炭鉱町でイタリア系移民の子として生まれました。1945年の「時の終わりまで」が初めての全米ナンバーワンに輝き、その後も「星を見つめないで」「パパはマンボがお好き」「イッツ・インポッシブル」「アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー」など、全米ナンバー・ワンとなった歌は14曲。1948年〜1963年まで放映された人気テレビ番組『ペリー・コモ・ショー』は日本でも放映され、『夢であいましょう』などの日本のバラエティ番組の手本になったともいわれています。 |

第1回公演が パリで行われる -1909年- |
セルゲイ・ディアギレフ(1872〜1929)は、いうなれば今世紀最大のプロデューサー。彼なくして、ストラヴィンスキーの『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』なく、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』なく、また、モダン・バレエは存在すらしなかったと言われています。ディアギレフはロシア・ウラル地方に生まれ、ペテルブルグで育ちました。音楽好きの一家で、ムソルグスキーをピアノ伴奏に雇って家族音楽会を開いていたそうです。なお、チャイコフスキーとは遠縁にあたります。 芸術で身を立てようと、一時期、作曲と歌唱を学んだものの挫折。美術批評に転じてロマノフ王家に接近しつつロシア政府の援助を得て、パリでロシア美術の大展覧会を成功させ、ついでロシア音楽の紹介にとりくみ、1908年、ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』をパリ・オペラ座で西欧初演しました。1909年からロシア・バレエ団のパリ公演を開始。当初は帝室マリーインスキー劇場の協力を得ていましたが、1911年に有力ダンサーを引き抜いてロシア・バレエ団を設立。以後、1929年までヨーロッパ各地で公演を続けました。 |

シューマン 没 -1896年- |
ロマン派を代表する作曲家ロベルト・シューマン(1810〜1856)の夫人として、またピアニスト、作曲家としても歴史に名を残しているクララ・シューマン。彼女はピアノ教師ヴィークを父に持ち、9歳でピアニストとしてプロ・デビューを果たして天才少女として人気を集めていました。このヴィーク家にピアノの練習のため、身を寄せたのがロベルト・シューマンです。2人は恋に落ち、ヴィークの猛反対にあいながらも、夫婦となりました。ところが、ロベルトが早く亡くなったため、結婚生活は16年で終わりを遂げます。未亡人となったクララは、夫の作品全集や日記の出版を進めるとともに、演奏活動も活発に続け、ロベルトの作品の紹介に全力を尽くしました。また、生前にロベルトが高く評価したブラームスのよき友人であり、よき理解者として、ブラームスの作品も好んで取り上げました。クララの演奏は、聴き手の心の深くに入り込むような、あたたかで豊かなものだったそうです。 |

スッペ 没 -1895年- |
ウィンナ・オペレッタの開祖とも言えるスッペ。1840年以来ウィーンの歌劇場で指揮者兼作曲家として活躍し、「詩人と農夫」(1846)など、流麗な旋律の劇音楽を書いていた彼に大きな転機が訪れたのは、1858年のことです。この年、ウィーンで初めてオッフェンバックの「天国と地獄」他のオペレッタが上演されたのです。これを観たスッペは、「俺の書きたかったのは、こういう楽しい歌劇だったんだよ!」叫びました。それからはウィーンの音楽風土にあったオペレッタの創造に全力を注ぎました。「軽騎兵」(1866)、「ボッカチオ」(1879)など名作を生み続け、パリのオッフェンバックとオペレッタ界の人気を二分しました。 |

シャルル・ アズナヴール 誕生 -1924年- |
アニメ『機動戦士ガンダム』の人気キャラクター、シャア・アズナブルの名前の元ネタとされる、シャンソン歌手のシャルル・アズナヴール。俳優としても映画『カサブランカ』(1956)に出演して国際的な名声を獲得しています。 シャンソンでも、自らの体験に基づいた愛や悲しみを歌って世界にセンセーションを巻き起こし、“シャンソンの父”と呼ばれるほどの超大物。代表曲「She」「僕の肩でお泣き」「ラ・ボエーム」等。 |

デュラン・デュラン 「ザ・リフレックス」 ビルボード1位 -1984年- |
1978年、キーボードのニック・ローズとベースのジョン・テイラーを中心に結成されたデュラン・デュラン。バンド名の由来は、ジェーン・フォンダ主演のお色気SF映画『バーバレラ』の悪役の名前から取ったものだとか。幾度かのメンバー・チェンジを経て、80年にはボーカルのサイモン・ル・ボン、ギターのアンディ・テイラー、ドラムのロジャー・テイラーの5人がそろいます。メンバーが美形ぞろいの強みを最大限に発揮する戦略で、まずイギリス、ヨーロッパ、日本で人気が爆発。そして1982年の「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」でアメリカでもブレイクを果たし、ノリにノっている状態でリリースしたのが、この「ザ・リフレックス」。見事全米1位を獲得し、さらに続く「007/美しき獲物たち」も連続一位に輝き、まさに一世を風靡したのです。 |

ジェフ・ベック 誕生 -1944年- |
ロックの3大ギタリストと言えば、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、そしてジェフ・ベックの3人。ジェフ・ベックは1965年、当時イギリスで人気を集めていたヤードバーズに、エリック・クラプトンの後任として参加。1968年には自らのグループ「ジェフ・ベック・グループ(第1期)」を結成。ボーカルにロッド・スチュワート、ベースにはロン・ウッドを配し、ギターを核としたハードロックのスタイルを作り上げ、後に続く世代に大きな影響を与えています。しかしジェフ自身の交通事故のため解散。カムバック後に「ジェフ・ベック・グループ(第2期)」、さらに「BBA(ベック・ボガード・アンド・アピス)」を結成しますが、いずれのバンドも長続きすることはありませんでした。 そして1975年、初のソロアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ(ギター殺人者の凱旋)』を発表。それはジミー・ペイジをして“ギタリストの、ギタリストによる、ギタリストのためのアルバム”と絶賛させたほどの革新的なギターサウンドに満ちたインストアルバムでした。その後も彼は『ワイアード』『ライブ・ワイヤー』『ゼア・アンド・バック』など続々と革新的なギターインストアルバムを発表し、ロックギターの可能性を広げていきました。 |

「コッペリア」 パリ・オペラ座で 初演 -1870年- |
人形作りの老人コッペリウスと、彼が作った自動人形のコッペリア、そして人形とは知らずコッペリアに思いを寄せる青年フランツと、フランツの目を自分に向けさせたいヒロインのスワニルダが繰り広げる騒動を描いた、楽しい名作バレエです。 |

主演した アル・ジョルスン 誕生 -1886年- |
今でこそ映画に音が付いているのは当たり前ですが、映画が誕生したおよそ100年前には、フィルムに音を入れる部分(サウンドトラック)はありませんでした。そんな映画に初めて音とセリフが付いた(これを「トーキー映画」といいます)のが、1927年の『ジャズ・シンガー』です。アメリカのワーナー・ブラザーズ映画が製作した『ジャズ・シンガー』は、当時の人気舞台俳優で歌も上手だったアル・ジョルスンが主役をつとめ、ジョルスンが歌を歌うシーンのみ音が出るというものでした。 |

パガニーニ 没 -1840年- |
大バイオリニストであり、大作曲家でもあったニコロ・パガニーニ。生地・イタリアでの名声は確立していた彼が、音楽の都ウィーンで演奏会を開いたのは意外に遅く、40代も半ばを過ぎた1828年のこと。痩せていて背が高く、長い髪と鋭い目を持った彼は、黒ずくめの服で舞台に現れました。その演奏は、人間が弾いているとは思えないほど高度なテクニックで、緩急自在に表現される音楽は、どんな人の心も捉えてしまい、ステージ姿とともに「まるで悪魔のようだ」などと言われました。 |

交響曲第4番 世界初録音が 日本で行われる -1930年- |
今ではマーラーはモーツァルトやベートーヴェンと同じように、オーケストラには欠かすことのできないレパートリーとなっています。ところが、このブームよりずっと以前、昭和最初期の頃に、すでにマーラーを演奏し、録音もしていた日本人指揮者がいたのです。 1926(昭和元)年に、現在のNHK交響楽団の前身である新交響楽団を設立した、近衛秀麿。彼はヨーロッパで作曲と指揮を勉強し、山田耕筰らとともに日本にオーケストラの基礎を築いたひとりです。近衛はマーラーの作品を積極的に演奏会で取り上げ、交響曲第1番、3番、4番を日本初演しました。日本ではまだオーケストラさえ珍しい時代に、マーラーの交響曲に挑戦することは、困難だったことでしょう。 近衛と新交響楽団は、マーラーのレコード録音にも挑戦しました。1930(昭和5)年5月28日と翌29日に、交響曲第4番の全楽章を録音。これは「第4番」の全楽章録音としては世界初、マーラーの交響曲の中でも全楽章録音としては世界で2番目の快挙となりました。録音はCDでも復刻され、現在の代表的なマーラー指揮者、エリアフ・インバルにも感銘を与えたそうです。 |

美空ひばり 誕生 -1937年- |
1937年、横浜市の鮮魚商「魚増」の長女として生まれたひばり(本名、加藤和枝)は、子供のころから歌や物まねが得意で、父の出征の際、6歳で「九段の母」を熱唱したそうです。レコードデビューは、戦後間もない1949年、12歳の時の「河童ブギウギ」。同じ年に発売した2曲目の「悲しき口笛」が大ヒットし、1989年に52歳で亡くなるまで、「歌謡界の女王」の地位を保ち続けました。また没後、女性として初めての国民栄誉賞が追贈されました。 代表曲は「東京キッド」「リンゴ追分」「港町十三番地」「哀愁波止場」「柔」「悲しい酒」「真赤な太陽」等。最後のシングルとなった「川の流れのように」は、NHKが1997年に実施した“歌の国民投票”「1000万投票 BS20世紀 日本のうた」で、堂々1位に輝きました。 |

誕生 -1909年- |
クラリネット奏者ベニー・グッドマンは、アメリカのジャズ・ミュージシャンの中でも、もっとも多くの人気を集めたアーティストの一人。ジャズの音楽性を高めながら、大衆が求めている楽しさ・わかりやすさも盛り込んだ彼の演奏は、スマートで洗練されたものでした。 グッドマンは、ピアノのテディ・ウィルソン、ビブラフォンのライオネル・ハンプトンなど、黒人のプレーヤーとも積極的にセッションし、音楽界での人種差別の壁を破った人として知られています。また1938年にはクラシック以外の音楽家として初めてカーネギー・ホールのステージに立ち、多くの人々から喝采を浴びるなど、ジャズの地位向上にも貢献しました。代表曲「シング・シング・シング」等。 |

伊福部昭 誕生 -1914年- |
「ゴジラのテーマ」の作者として有名な伊福部昭(いふくべあきら)。「ゴジラ」以外にも「ビルマの竪琴」「大魔神」など300作を越える映画音楽を手がけ、日本の映画音楽の礎を作ると同時に、数々の交響楽を作曲し、さらには東京音楽学校作曲課講師として芥川也寸志、黛敏郎らを育てるなど、現在に至るまで日本の音楽界を支えてきた偉大な音楽家です。 |
