

服部克久 誕生 -1936年- |
「東京ブギウギ」「青い山脈」などで日本歌謡界の基礎をつくった服部良一を父に持つ“音楽界のサラブレッド”服部克久。パリ国立音楽院を卒業してから今までに作・編曲した作品は3〜4万、全盛時には年間3,000曲以上を手掛けたこともあるそうです。早くから順風満帆の仕事ぶりを想像しますが、意外にも最初は“自分の名前を売ること”から始めたそうで、手っ取り早い手段として考えたのが、音楽番組の審査員。そこでのユーモア溢れる審査ぶりが評判となり、思惑通り本来の音楽の仕事ももらえるようになったということです。 |

北原白秋 没 -1942年- |
北原白秋ほど、今なお愛唱されている詩人はいないでしょう。中でも白秋の童謡は、童心の純粋さ、郷愁の念など、だれもが共感できるテーマを豊かな語彙と心地よいリズムで歌い上げ、時代を超えた普遍性を獲得しています。「ゆりかごのうた」「赤い鳥小鳥」「ペチカ」「待ちぼうけ」「この道」…これらの作品は、やさしい気持ちになれることでしょう。例えば、北海道風景を題材にしたものといわれる「この道」では、「あかしやの花」「白い時計台」など、異国風のロマン漂う詞が、山田耕筰作曲の美しいメロディにのって歌われています。 |

(日本レコード協会制定) |
日本で初めてレコードの吹き込み(レコーディング)が行われたのは100年前の明治時代のこと。当時の吹き込みは“ラッパ吹き込み”という方法で、メガホン型のラッパに向かって声を出すと、針が動いて鑞盤(ろうばん)に音声を刻み込むという原始的な仕組みでした。そのため声が小さいと録音できないので、歌手の口が少しでもラッパに密着するように後ろから身体を押す役目の人がいました。「八木節」の録音の時などは、歌手はふんどしひとつ、気合いを入れて録音に臨んだといいます。日本レコード協会は、この日を「レコードの日」と定めています。 |

& ベルリン・フィル 初来日公演 -1957年- |
若くしての成功によって“奇跡のカラヤン”と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)。彼とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が初めて来日したのは、40年以上も前の1957年(昭和32年)のこと。日比谷公会堂で行われた演奏会は、当時始まったばかりのテレビ放送でも放映され、そのスタイリッシュな容姿と指揮ぶり、そしてベルリン・フィルの磨き上げられたサウンドで、日本にクラシックブームを巻き起こしました。熱心で行儀のよい日本の聴衆を気に入ったのか、カラヤンの来日は全11回にもおよび、チケットはすべて完売。レコードの売上も日本国内だけで700万枚以上にのぼります。 「巨匠」と呼ばれる指揮者は何人もいますが、『帝王』の異名をとったのはカラヤンだけ。それだけクラシック音楽界全般にわたり大きな影響力をもった指揮者であり、名プロデューサーでもあったのです。 |

ブライアン・ アダムス 誕生 -1959年- |
18才の頃に作曲のパートナーであるドラマーのジム・ヴァランスと出会い、プロの作曲家になることを決意したブライアンは、カナダのレコード会社A&Mと作家契約を結び、イアン・ロイドらに楽曲を提供していきます。一方、ブライアンのボーカリストとしての才能にも着目したA&Mは、1979年に4曲のシングルを制作。その内の1曲「レット・ミー・テイク・ユー・ダンシン」は、見事カナダのシングル・チャートNo.1となったのです。 彼にとって初の世界的なメジャー・ヒットとなったのは、1983年に発表されたサード・アルバム『カッツ・ライク・ア・ナイフ』からのファースト・シングル「フロム・ザ・ハート」でした。ブライアンは、初のメジャー・ヒット・アルバムを引っ提げて、この年実に283日をツアーに費やし、ライブ・パフォーマーとしての実力を世界に示したのです。こうした地道な努力の結果、翌84年に発表されたアルバム『レックレス』はシングル・カットされた「ヘブン」とともに初の全米No.1となり、ブライアンは名実共にスーパー・スターの座を手にしたのです。 |

ジョン・ フィリップ・ スーザ 誕生 -1854年- |
生涯に130曲を超えるマーチを作曲した“行進曲王”、J.P.スーザ。スーザは、マーチの作曲だけでなく、自らバンドの指揮者・指導者として活躍し、屋外のバンド演奏でも、十分な音量やショーアップ効果が得られるようにと楽器自体を改良しました。その代表作が、マーチング用のチューバ、“スーザフォン”です。彼の名前を冠したこの楽器は、管を奏者に巻き付けてベルを頭上にかかげるという大胆な工夫によって、重低音を出すために必要な「長い管・大きなベル」と、マーチングに欠かせない「運動性・歩行性」を両立。その目立つカタチは存在感も抜群で、バンドの良いアピールになると、軍楽隊にも公式に採用されました。 代表曲「星条旗よ永遠なれ」「ワシントン・ポスト」「士官候補生」「雷神」「キング・コットン」「美中の美」「自由の鐘」等。 |

田村虎蔵 没 -1943年- |
1892(明治25)年、東京音楽学校(現・東京芸大)の校長が鳥取市でおこなった講演に感銘を受け、上京して同校に進学。卒業後は兵庫県尋常師範学校で教職につきました。 当時、音楽の授業で使う教材といえば「小学唱歌集」が中心でした。田村はしだいにこの「小学唱歌集」に疑問をもつようになります。歌詞が文語体なので子供には理解し難く、旋律も歌いにくくてつまらないというのがその理由でした。東京高等師範学校(現・筑波大学)付属小学校に移った田村は、詩を石原和三郎らに、曲を納所弁次郎に協力を依頼。口語体の歌詞に、子供が歌いやすい音階やリズムを使った、いわゆる“言文一致唱歌”を創り始めました。こうして1900(明治33)年以降に完成した唱歌集「幼年唱歌」「少年唱歌」は大人気となりました。なかでも田村自身が作曲した「きんたろう」「花咲爺」「一寸法師」などは今なお歌いつがれています。 |

セザール・フランク 没 -1890年- |
多くのオルガン作品と、「ニ短調交響曲」で知られるフランスの作曲家、フランクは、魅力に富んだ室内楽曲も残しています。唯一のバイオリンソナタである『バイオリンソナタ イ長調』は、ブラームスの『バイオリンソナタ 第3番』と並んでベートーヴェン以降のバイオリンソナタの中で傑作といわれている作品です。 |

「アランフェス協奏曲」 初演 -1940年- |
ホアキン・ロドリーゴ(1902〜1999)は、20世紀スペインを代表する作曲家です。3歳の時に失明しましたが、音楽家への道をめざしました。 そのロドリーゴの作品中、もっとも有名なものの一つが、「アランフェス協奏曲」です。1940年のバルセロナでの初演は大成功を収め、ロドリーゴは一躍一流作曲家の仲間入りを果たしたのでした。 |

「アルルの女 第1組曲」 初演 -1872年- |
オペラ『カルメン』の作曲者として有名なジョルジュ・ビゼー(1838〜1875)。彼のもうひとつの名作が劇附随音楽『アルルの女』です。この戯曲が1872年にパリのヴォードヴィル座で上演される際に、ビゼーが全27曲からなる劇附随音楽を作曲しました。劇そのものは、興行的には失敗に終わりましたが、ビゼーはこの『アルルの女 』の音楽に大変な自信を持っていたので、この27曲から4曲を選んで演奏会用組曲としました。それが『第1組曲』です。 |

劇団四季により 日本初演 -1983年- |
1983年東京・西新宿の高層ビルの谷間に、黒地にネコの眼が光る巨大なテントが出現。ロングランを目指して仮設の専用劇場を建ててしまうという前例のないミュージカル「キャッツ」が11月11日、幕を開けました。「キャッツ」はT.S.エリオットの詩をもとにアンドリュー・ロイド=ウェッバーが作曲し、ロンドンやブロードウェイで大ヒットを記録したミュージカルです。演出家・浅利慶太率いる劇団四季が総力をあげて日本版を上演。翌年11月10日まで1年間のロングランを達成し、観客動員48万1000人、動員率95%という新記録をつくりました。つづく大阪・名古屋・札幌・福岡の公演も大成功。「キャッツ」は日本にミュージカルブームを巻き起こしたのです。 |

アレクサンドル・ ボロディン 誕生 -1833年- |
ボロディンは、19世紀後半にロシア国民音楽を築いた「ロシア5人組」の一人に数えられる偉大な作曲家です。交響詩「中央アジアの草原にて」、歌劇『イーゴリ公』の「ダッタン人の踊り」、弦楽四重奏曲第2番の第3楽章「夜想曲」等が有名です。 |

櫻井哲夫 誕生 -1957年- |
カシオペア、JIMSAKUを経て、現在はソロで活躍中の櫻井哲夫。6弦ベースを自在にあやつる超絶技巧ベーシストとして、また独特の暖かさと激しさを併せ持つオリジナリティ溢れる楽曲のコンポーザーとして、さまざまなライブやセッションで活躍しています。 |

モーツァルト 誕生 -1719年- |
ウォルフガング・アマデウスではなく、その父レオポルトの誕生日。レオポルトは、息子に英才教育を仕込み、旅から旅へと幼い子供を連れ回し、ウォルフガングの神童ぶりを各地の宮廷貴族に売り込んだ“ステージ・パパ”として有名。 レオポルトは、大学入学のためにザルツブルクにやってきますが、やがて学業そっちのけで音楽に熱中。音楽の道を歩み始め、やがてはザルツブルクの宮廷副楽長にまで登りつめます。同時に、聖歌隊の指導やバイオリンの個人教授をやらせたら、右に出るもの無しと言われるほど教え上手でした。 |

組曲『惑星』 全曲初演 -1920年- |
グスターブ・ホルスト(1874〜1934)は、イギリスを代表する作曲家の一人です。 ホルストの代表作 組曲『惑星』は、1914〜1916年にかけて作曲された管弦楽曲で、全曲の初演は1920年に行われました。7つの惑星には古くからの神話があり、ホルストもサブタイトルとして掲げているので、それをご紹介しましょう。「火星〜戦争の神」「金星〜平和の神」「水星〜翼を持った使いの神」「木星〜快楽の神」「土星〜老年の神」「天王星〜魔法の神」「海王星〜神秘の神」…。ちなみに、この当時はまだ冥王星が発見されていなかったため、冥王星の曲はありません。 またトロンボーン奏者でもあったホルストは、吹奏楽にも精通しており、「吹奏楽のための組曲第1番」「同第2番」などの作品も残しました。これらも印象的なメロディとハーモニーで人気があり、今でも吹奏楽団の重要なレパートリーになっています。 |

パウル・ヒンデミット 誕生 -1895年- |
20世紀前半のドイツの作曲家、ヒンデミットは、独奏楽器のためのソナタを数多く書きました。バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスといった弦楽器。フルート、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、クラリネット、ファゴット、アルト・サクソフォンなどの木管楽器。ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバなどの金管楽器。オーケストラに含まれる楽器のすべてといってよいでしょう。 作曲家としては、同世代のストラヴィンスキーやショスタコーヴィチに比べ有名な曲が少なく、地味な存在ですが、独奏曲のレパートリーが限られている低弦楽器や管楽器の奏者にとっては、頼もしい作曲家といえそうです。 |

内田裕也 誕生 -1939年- |
プレスリーの歌う「監獄ロック」にしぴれ、ロックに目覚めたという内田裕也は、高校を中退してバンド活動を開始。寺内タケシに認められ「寺内タケシとブルージーンズ」の歌手として活躍、1966年のビートルズ来日時には前座として同じステージに立っています。海外のロックと対等に渡り合うため、英語で歌うことにこだわった内田は、1967年女性ロックボーカルの草分け、麻生レミと共にフラワーズを結成。麻生が渡米のため脱退すると、ボーカルのジョ一山中らを誘い自らはプロデューサーとなってフラワー・トラヴェリン・バンドをスタート。万博で知り合ったカナダのバンドの紹介で長期のカナダ・ツアーを決行します。当時のヒッピー達が憧れていた東洋的な要素を巧みに取り入れたアレンジで各地で絶賛され、セカンド・アルバム『SATORI』も見事にカナダ・チャートの8位を獲得。名実共に日本のロック・バンドが海外で通用することを証明してみせたのです。 |

カール・マリア・ フォン・ウェーバー 誕生 -1786年- |
ウェーバーは、弱冠13歳の時に初めてオペラを作曲。生涯を通じてロマン主義的なオペラの名作を数多く残しました。代表作のオペラ『魔弾の射手』や『オベロン』は今でもよく上演されますが、その理由の一つには彼の巧みなオーケストレーションにあります。ウェーバーは、クラリネット、ホルン、ファゴットの音色を上手に利用し、深い森の“もや”のような雰囲気から、晴れやかで力強い集団の場面まで、音楽に色彩感を与えて劇的効果を高めるのが得意でした。特にその序曲は、オペラ本編の聴かせ所を上手に盛り込み、短い曲の中にもドラマ性が強く感じられます。 |

トミー・ドーシー 誕生 -1905年- |
スイング時代、すなわち1930年代から40年代にかけては、白人系ビッグ・バンドがジャズ・ポピュラー音楽界を華やかにリードし、それぞれのバンドリーダーが個性を競い合いました。中でも屈指の存在が“センチメンタル・ジェントルマン・オブ・スイング”と呼ばれたトロンボーン奏者のトミー・ドーシーと、彼の率いる「トミー・ドーシー楽団」です。彼のトロンボーンはバラードをプレイさせると絶品で、有名な楽団のテーマ曲「イン・ナ・センチメンタルムード」は、日本の学生バンドのトロンボーン奏者も一度はこの曲に挑戦するほど。後に彼の楽団から巣立つフランク・シナトラも「息継ぎのテクニックとフレーズの歌い方をトミーから学んでした。 |

ジョー・ウォルシュ 誕生 -1947年- |
1976年にリリースされたアルバム『ホテル・カリフォルニア』は、ロック・バンド、イーグルスの代表作。中でも人気があるタイトル曲「ホテル・カリフォルニア」は、アメリカン・ドリームをテーマにした歌詞と、美しいツイン・ギターの絡みが印象的なナンバー。このギターを弾いている二人が、作曲者でもあるドン・フェルダーと、ジョー・ウォルシュなのです。 すでにソロ・アーティストとして人気があったウォルシュは、1975年にバニー・リードン(ギター&ボーカル)の後釜としてイーグルスに参加。そして参加後初のアルバム『ホテル・カリフォルニア』が77年グラミ−賞の最優秀レコード賞を獲得し、ウォルシュのギターを大きくフィーチャーした同アルバムからのシングル「駆け足の人生」のヒットも相まって、“イーグルスのジョー・ウォルシュ”の名は一挙に広まりました。 |

ファースト・アルバム 『17歳の地図』 発表 -1983年- |
1983年、高校3年生の尾崎豊は、アルバム『17歳の地図』でデビュー。若者が心の中で感じている自由や真実、自分の存在についての疑問などをストレートな言葉で表現し、同世代の共感を得ました。あわせて、若さゆえに暴走するステージでのパフォーマンスや実生活など、すべてにおいて狂気とも言われるほどに、捨て身で挑むその姿勢が、若者をひきつけたといえます。 1985年にリリースされたセカンドアルバム『回帰線』では、オリコンチャート初登場第1位を記録。尾崎豊の伝説が始まったのです。 |

「ボレロ」 初演 -1928年- |
モーリス・ラヴェル(1875〜1937)の代表作のひとつ「ボレロ」は、同じリズムとフレーズが、フルート〜クラリネット〜サックス〜トランペットと、楽器を替えて何回も繰り返されるうちに次第に盛り上がり、最後には全楽器による盛大なフィナーレを迎えるという珍しい曲。ラヴェル自身、この曲の構造の単純さを“音楽のないごく単純な譜面”と表現していたそうです。あるコンサートでは、終了後、演奏を聴いた女性が「作曲者は狂っている!」と叫んだとか。これを聞いたラヴェルは「彼女こそこの曲の真の理解者だ」と言ったそうです。 |

クシシトフ・ ペンデレツキ 誕生 -1933年- |
「広島の犠牲者に捧げる哀歌」(1960)で一躍、国際的に有名になったポーランドの作曲家ペンデレツキ。音楽との出会いは少年時代に習い始めたバイオリン。しかし第2次世界大戦で楽譜がほとんど手に入らず、先生がペンデレツキのために練習曲を書いてくれたことが作曲に興味をもつきっかけになりました。大学入学後54年頃から本格的に作曲を学びますが、社会主義体制下で西側の新しい情報はまったく入らない状況。やがて社会主義の雪どけで少しずつ、自由な創作が可能になりました。4/56年には社会主義圏で初めての現代音楽祭が、ワルシャワでスタート。ブーレーズやノーノら西側の同時代の作曲家との交流に刺激を受け、ペンデレツキの才能はようやく花開いたのでした。 出世作となった「広島の犠牲者に捧げる哀歌」は、ナチのポーランド侵攻を知るペンデレツキが広島の被爆の惨状に思いをはせて書いたもので、52本の弦楽器が特殊な奏法により打楽器のような音色を奏でる、当時きわめて前衛的な作品でした。彼の作品は不安や緊張をあおるような独特の音響効果があるためか、映画『エクソシスト』にも使われているので、耳にした方も多いのではないでしょうか。 |

スコット・ ジョプリン 誕生 -1868年- |
1868年、南北戦争が終わって黒人奴隷が解放されたばかりの米国南部アーカンソー州に生まれた黒人ジョプリンは、町から町へ巡演の旅を続けながら「メイプルリーフ・ラグ」(1899)、「イージー・ウィナーズ」(1901)、「エンターティナー」(1902)などラグタイムの名曲を次々にヒットさせ、“ラグタイム王”と呼ばれるようになりました。1911年には生涯の大作、歌劇『トリーモニシャ』を完成させました。黒人が書いた史上最初の優れた歌劇と考えられています。 |

「あんたのバラード」 デビュー -1977年- |
第14回ヤマハ・ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン)の入賞曲で、1977年の世界歌謡祭でグランプリも受賞した彼らのデビュー曲「あんたのバラード」の、静かなピアノのイントロから一転する世良の迫力ボーカルは、それまで洋楽ロックのコピーが多かった日本ロック界に新鮮な息吹を吹き込みました。 |

ティナ・ ターナー 誕生 -1938年- |
1950年代から“アイク・ターナー&ヒズ・キングス・オブ・リズム”というR&Bグループで活躍していたアイクが、ハスキー・ボイスで歌うアンナ・メイ・バロックという女性シンガー(=後のティナ)を見い出してコーラスに加えたのがその始まり。2人は結婚し、“アイク&ティナ・ターナー・レビュー”として活動を開始したのです。 1971年には「プラウド・メアリー」のカバー・ヒットを飛ばすなど、順調に見えたアイク&ティナ・ターナーですが、仕事でも私生活でも暴力で彼女を支配しようとするアイクに耐えきれず、75年にライブの直前に彼の元を逃げ出してしまいます。1976年の離婚後は、借金も抱え、一時は生活保護まで受けていたというティナですが、1984年の「愛の魔力」が全米チャートで1位に輝き、見事に復活。アルバム『プライヴェート・ダンサー』もグラミー賞4部門を独占したのです。 |

ヴィエニャフスキ バイオリン協奏曲 第2番初演 -1862年- |
ポーランドのバイオリンの巨匠、ヘンリック・ヴィエニャフスキ(1835〜1880)は、イタリアのパガニーニ(1782〜1840)、スペインのサラサーテ(1844〜1908)と並んで“19世紀の3大バイオリニスト”と称されるヴィエニャフスキは、ピアノのショパンと同様、ほとんどバイオリン曲しか書かず、自国の舞曲マズルカや ポロネーズのリズムを曲に取り入れたことから、しばしば“バイオリンのショパン”とも呼ばれています。 |

コンサートに ジョン・レノンが 特別出演 -1974年- |
エルトン・ジョンが、ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」のカバーをしたいとジョン・レノンにアプローチしたとき、同意を得たばかりか、レノンはドクター・ウィンストン・オー・ブギーの変名でギター・プレイで参加。一方エルトンも、レノンのアルバム『心の壁、愛の橋』からシングル・カットされた「真夜中を突っ走れ」に、ピアノとボーカルで参加しました。そして同曲がNo.1になったらステージで共演するという約束通り、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンのコンサートに、レノンが特別出演。上記の2曲と「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」を共演しました。ジョン・レノンの最後のステージとなったものでした。 |

ベートーヴェン ジョン・レノンが 『第9交響曲』 初演 -1924年- |
日本人によるベートーヴェン第9交響曲(合唱付)の初演は、1924(大正13年)、11月29〜30日の「東京音楽学校第48回演奏会」でのこと(外国人による日本国内での初演は、1918(大正7年)です)。前年の1923(大正12年)9月1日には関東大震災があり、東京は壊滅状態だったので、さまざまな困難を乗り越えてのこの演奏会でした。 演奏会の2日前には新聞に予告記事がのり、演奏会の数時間前から入場希望者の列が音楽学校の門の外まであふれ、演奏会場は、廊下まで聴衆があふれたそうです。 |

ヴィルヘルム・ フルトヴェングラー 没 -1954年- |
フルトヴェングラーは、ドイツ・ロマン主義の伝統をしっかりと身に付けた名人肌の指揮者でした。同時代のライバル、トスカニーニでさえも、フルトヴェングラーの指揮者としての力量には感服していたといいます。音楽というものは人種や国籍で差別されてはいけないということを示した、心の広い偉大な指揮者だったようです。 |
