

が発売される -1982年- |
1982年のこの日にアナログ に変わるデジタルのコンパクト・ディスク(CD)と、CDプレーヤーが発売されました。CDは日本のソニーとオランダのフィリップスという2つの電機メーカーが共同で開発したもので、収録時間が74分42秒とされたのは、カラヤン指揮によるベートーヴェンの『第9』が収まるように決められたそうです。第1号ソフトはビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』ほか50タイトルで、CDプレーヤーは17〜20万円という高価なものでした。 |

スティング 誕生 -1951年- |
ボーカリスト、ベーシスト、ソングライターとして、今やイギリスを代表するアーティストとなったスティング。彼の本名はゴードン・マシュー・サムナーといいますが、貧乏だったアマチュア時代、いつも同じ黄色と黒の縞模様のシャツを着ていたことから、“(蜂の)針”=スティング、と呼ばれるようになったとか。彼の持つシャープな雰囲気と、鋭い眼光にピッタリなニックネームです。 代表曲『ドゥドゥドゥ・デ・ダダダ』『みつめていたい』等。 |

完成 -1964年- |
東京オリンピックの柔道競技会場として、日本武道館は完成しました。完成当初の武道館は、武道に使うことだけが許された神聖な場とされました。“武道専用”という枠を崩したのは、他ならぬ1966年6月末のビートルズ来日公演です。観客が殺到することは必至でした。しかも日本滞在は梅雨の最中のわずか5日間、雨で公演を流すわけにもいきません。そこで、屋内で最大の人員収容数を誇る武道館に白羽の矢が立ったのです。 ビートルズの来日公演以降、さまざまなアーティストが武道館でコンサートを行いますが、武道館の名を最も世界に知らしめることになるのは、ロック・バンド、チープ・トリックによる『チープ・トリック at 武道館』でしょう。このアルバムは、当時日本では人気を誇っていたもののアメリカでの知名度は今ひとつだったチープ・トリックが、1978年4月に武道館で来日公演を行った模様を収録したライブ・アルバムで、アメリカでプラチナ・ディスクに輝くという大成功を収めたのです。同じ時期にボブ・ディランも武道館でコンサートを行っており、1979年にその模様を収めたライブ・アルバム『武道館』を発表しています。以来、武道館でコンサートを行うということが、国内外のアーティストにとって大きなステータスとなっていったのです。 |

ジャニス・ジョプリン 没 -1970年- |
テキサス生まれのジャニスは、故郷の保守的な風土に馴染めず、各地を転々としながらクラブで歌い始めます。今までの女性シンガーにない力強さをもつジャニスの声は次第に評判となり、1966年には強力な女性ボーカルを探していたバンド「ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー」に加入。翌1967年6月にはモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演し、後々まで語り継がれるステージ──ブルースの古典「ボール&チェイン」の、全身を震わせながらの熱唱──で、全米に一躍その名を知られるようになったのです。 代表曲「ジャニスの祈り」「ミー・アンド・ボビー・マギー」等。 |

ファイナルコンサート -1980年- |
1959年1月17日生まれの山口百恵は、1973年5月にデビューしました。当時14歳、桜田淳子、森昌子とともに“花の中三トリオ”と呼ばれましたが、デビュー当時の人気はそれほど高いものではありませんでした。しかしセカンド・シングルの「青い果実」から、翌年の「ひと夏の経験」に至るヒット曲で、彼女はアイドルとしての人気を不動のものにします。 彼女の声の魅力はクールな低音にあり、従来のアイドルとは一線を画していました。その魅力は、作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童コンビによる「横須賀ストーリー」や「プレイバックPart2」でさらに大きく開花します。また、1978年には谷村新司の書いた名曲「いい日旅立ち」の大ヒットで国民的歌手と呼ばれるようになったのです。 人気絶頂の1980年に、俳優の三浦友和との婚約を発表し、引退を宣言。そして20年前の今日、日本武道館で行われた最後のコンサート。引き際の見事さも、彼女が今も伝説のアイドルとして語り継がれている一因なのでしょう。 |

最初の映画 公開 -1927年- |
映画に初めて音とセリフが付いたのが、1927年の『ジャズ・シンガー』です。アメリカのワーナー・ブラザーズ映画が製作した『ジャズ・シンガー』は、当時の人気舞台俳優で歌も上手だったアル・ジョルスンが主役をつとめ、ジョルスンが歌を歌うシーンのみ音が出るというパート・トーキーでした。 |

三木鶏郎 没 -1994年- |
昭和20年代のNHKラジオ番組『日曜娯楽版』で人気を集め、CMソングづくりの草分けとしても活躍した作詞・作曲家の三木鶏郎(みきとりろう、本名・繁田裕司)。 1951年、民間放送開局にあわせ、日本初のコマーシャルソング「僕はアマチュアカメラマン」を発表。「ワ・ワ・ワ・輪が三つ」「明るいナショナル」「キリンレモン」など商品・社名連呼型“コマソン(=コマーシャルソング)”の全盛期を築きます。 1994年、自伝の後半を執筆中に80歳で大往生。青山葬儀所で行われた音楽葬では、遺影のかわりに大きな似顔絵が飾られ、代表作品の数々がにぎやかに演奏されて、鶏郎の偉業を偲びました。 |

主題歌 ビルボード・ナンバー1 -1955年- |
甘いムードのラブ・ソングとして、いまや押しも押されぬスタンダード曲となっている映画『慕情』の同名の主題歌は、1955年に誕生しました。ソングライターは、当時のハリウッドを代表する作曲サミー・フェイン、作詞ポール・フランシス・ウェブスターの名コンビ。原題は『Love Is a Many-SplendoredThing』といい、当時のハリウッドきっての美男美女、ウィリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズが主演したラブ・ロマンス映画です。 |

誕生 -1940年- |
1970年12月ジョンは、ビートルズ解散後初のソロ・アルバム『ジョンの魂』を発表します。重苦しく歪んだ鐘の音で始まる1曲目「マザー」の冒頭で彼は、「母には僕がいた、でも僕には母はいなかった」と歌い、「ゴッド」の中では「ビートルズなんか信じない、信じるのは僕とヨーコだけ 夢は、終わった」と歌ってビートルズとの決別を宣言します。そしてこのアルバムと名曲「イマジン」を含むセカンド・ソロ・アルバムで、ジョンはビートルズ時代とは違った内省的でメッセージ色の強いソロ・アーティストとしての地位を確立したのです。 しかし折しもベトナム反戦運動が高まりを見せる中で、「ギブ・ピース・ア・チャンス」「パワー・トゥー・ザ・ピープル」といったジョンのメッセージは、本人の意図とは関係なく政治&社会的運動に利用されていきます。その結果彼は、合衆国政府から要注意人物と見なされその後何年間もアメリカの永住権を獲得できませんでした。75年やっと永住権を獲得しヨーコとの間にショーンを授かったジョンは、それまでの社会運動と決別するかのように主夫(ハウス・ハズバンド)としての隠遁生活に入ります。 そして1980年、10年前の「マザー」と対比するかのような美しく澄んだティーン・ティーンという鐘の音で始まる「スターティング・オーヴァー」で、ジョンはシーンにカムバックします。しかし12月8日、ジョンは自宅のダコタ・アパートの入り口で狂信的なファンに撃たれ、帰らぬ人となってしまったのです。 |

ジュゼッペ・ヴェルディ 誕生 -1913年- |
『ナブッコ』『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』『オテロ』等イタリア・オペラの傑作を数多く生みだしたジュゼッペ・ヴェルディは、まさにオペラ史に輝く巨星です。 しかし、天才は最初は理解されないのが世の常。ヴェルディの作品も、上演当初は受け入れられなかったものがいくつかあります。たとえば『椿姫』。1853年の初演時には大失敗に終わりました。もっともその失敗は作品のせいというよりも、歌手たちの責任によるところが大きかったのです。風邪をひいて声が出ない者。役に不満で練習しなかった者。さらに、病弱で最後は結核のために死んでゆくヒロインのビオレッタ役が、およそ病気にはなりそうにない立派な体格の歌手だったことが致命傷となりました。聴衆の涙を誘うはずのビオレッタが死ぬ場面で、会場からは笑い声が起こってしまったのです。そのほか、ヒロインが娼婦であること、そのヒロインが最後には死んでしまうという内容にも、非難が集中しました。 しかしそれがまぎれもない傑作であったことは、今やビゼーの『カルメン』と並んで世界でもっとも上演される機会の多いオペラとなった事実が、証明しています。 |

橋本章司 誕生 -1955年- |
毎年膨大な数のコンサートをこなし、日本各地に根強いファンを抱えるロック・バンド、HOUND DOG。HOUND DOGのエネルギッシュなサウンドを支えているのが、柔道2段の腕っぷしから“ブッチャー”と呼ばれているドラムの橋本章司です。 HOUND DOGは1976年に大友康平を中心に結成され(当時は大友がボーカルとドラムを担当)、1980年に「嵐の金曜日」でデビュー。橋本が加入したのは1984年で、翌1985年に「ff(フォルテシモ)」が大ヒットしたことで、HOUND DOGの人気は決定的なものになりました。 |

ルチアーノ・ パヴァロッティ 誕生 -1935年- |
イタリア生まれのパヴァロッティは、歌手を目指すかどうかを考えたのは、18歳の時でした。当時彼は体操の教師になりたかったのです。父は教師になることを勧めましたが、母は歌の勉強をすることを勧め、母の意見に従いました。以来、保険の外交員をしながら本格的な声楽のレッスンを続け、町でコンサートに出演してはわずかな収入を得ていました。 そんな彼に転機が訪れたのは25歳のとき。その頃、声帯にポリープができてしまい、しばらくレッスンを休み、すでに契約していたコンサートを最後に歌うのを止めようと考えたのです。ところがそのコンサートで、素晴らしい声が出たのです!「あの時、僕の喉に適切な条件が整い、声が出来上がったのでしょう」と後に彼は回想しています。数カ月後コンクールで優勝、『ボエーム』のロドルフォ役でオペラ・デビューを果たし、『リゴレット』のマントヴァ公爵役などでも成功を収め、ついにオペラの殿堂スカラ座で大スターの座を射止めたのです。 |

サイモン 誕生 -1941年- |
都会的で感傷に満ちた曲と、透き通るような歌声。サイモン&ガーファンクルの名が世界的に広まったのは、映画『卒業』(1968)のサウンドトラックがきっかけでした。この映画には、S&Gの代表曲「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボロー・フェア」「ミセス・ロビンソン」などが印象的に使用され、当のサントラ盤はもちろん、1965年リリースの『サウンド・オブ・サイレンス』から同年発売の『ブックエンド』まで、4枚のアルバムが同時に1968年の年間ベスト50にチャート・インするという爆発的な人気を示したのです。 |

オンド・マルトノ の発明者 モリス・マルトノ 誕生 -1898年- |
モリス・マルトノは、パリ音楽院で作曲及びピアノとチェロなどを学んだ作曲家ですが、電子技術にも詳しく、一般には電子楽器のルーツといわれている『オンド(=電波)・マルトノ』の発明者として有名です。 『オンド・マルトノ』は、周波数発振器を音源とする電波管楽器で、通常のスピーカーに加えて共鳴弦や金属板を鳴らすことができ、尾を引くような独特の音色が出せます。また、6オクターブの鍵盤のほか、その手前にある“ひも付の指輪”を左右に動かすことで、ヴィブラートなども自由に表現できます。これらの幅広い表現力と独特な音色は、1937年のパリ世界博覧会での8台による大デモンストレーションで発揮され、以後フランスを中心に、さまざまな作曲家がこの楽器に大きな関心をよせました。 |

哲学者 ニーチェ 誕生 -1844年- |
幼い頃から作曲を試み、ピアノもかなりの腕前だった哲学者のニーチェ。ワーグナーを崇拝し、初期の著作ではワーグナー賛美を繰り広げますが、音楽家としての自分を認めてもらおうと、ワーグナー夫婦に自作の曲を贈ったところ、まったく相手にされませんでした。その後、ニーチェの思想自体がロマン主義から離れていったこともあり、ワーグナーとは犬猿の仲になりましたが、背後にはこの時の恨みがあるのではないか、と推測されています。また音楽史におけるニーチェの名は、彼の代表的著作「ツァラトゥストラはかく語りき(1885)」に感銘を受けたリヒャルト・シュトラウスが、同名の交響詩を作曲(1896)したことでも有名です。 |

『ハーリ・ヤーノシュ』 初演 -1926年- |
ゾルタン・コダーイ(1882〜1967)は、バルトークと並ぶ近代ハンガリーの代表的な作曲家です。彼の代表曲は管弦楽のための組曲「ハーリ・ヤーノシュ」ですが、もともと退役軍人・ハーリじいさんの奇想天外なほら話を描いた「歌劇」として作られました。 ハンガリーでは、聞き手がくしゃみをすると、その話は嘘だという言い伝えがあり、歌劇『ハーリ・ヤーノシュ』も壮大な管弦楽のくしゃみから始まります。国境警備兵をしていたハーリじいさんの若き日の冒険譚は、オーストリア王女に見初められたり、ひとりでナポレオン軍をやっつけたりと、それこそ奇想天外なもの。それでもみんなはハーリじいさんのほら話に心を躍らせ、熱心に耳を傾けます。舞台が現代に戻ると、みなは「俺たちは話をすっかり信じるよ」とハーリじいさんの肩を叩くのですが、聞き手の一人がまた大きなくしゃみをして、幕となります。 1926年の今日、ハンガリー国立歌劇場で初演された『ハーリ・ヤーノシュ』は、ハンガリー初の国民的オペラとして、大好評を博したのです。 穏健で親しみやすい音楽や、わらべ歌や民謡に基づく音楽教育を提唱した「コダーイ・システム」と呼ばれる教育メソッドで人々の尊敬を受け、戦後はハンガリー楽壇の最高指導者として数々の国際的栄誉も手にしたのです。 |

ショパン 没 -1849年- |
ポーランドに生まれ、パリで活躍したロマン派のピアノの巨匠・ショパンは、恋多き音楽家でした。彼にとっては恋愛が、曲作りのインスピレーションの源となったのです。 最初の恋人は、ショパンがピアニストとして華やかなデビューを果たした19歳の時に出会った、コンスタンチア・グワトコフスカでした。ショパンは、「ピアノ協奏曲ヘ短調」の抒情的な第2楽章には、この初恋の人へのひたむきな想いが込められていると語っています。 二番目の恋人、デルフィーナ・ポトツカとは、パリの社交界で知り合いました。「小犬のワルツ」は、彼女に捧げられた曲です。 第三の恋人とは、ショパンが25歳の時、たまたま立ち寄ったドイツで出会いました。ショパンの幼友達、ヴォジンスキ伯爵の令嬢・マリアが魅力的な乙女に成長しているのを見て、一目惚れしてしまったのです。この恋も結局は実ることなく終わりました。「別れのワルツ」はこの時に生まれています。 失意の日々を送るショパンに、友人のリストが一人の女流作家を紹介します。それが最後の恋人、ジョルジュ・サンドでした。当時としては珍しい自立した女性、サンドにショパンは次第に惹かれてゆき、その後9年に及ぶサンドとの生活の中から「ピアノ・ソナタ変ロ短調」など円熟期の名曲が次々と生み出されました。 |

ウィントン・ マルサリス 誕生 -1961年- |
14歳でオーケストラと競演するなど、マルサリスが、ジャズ・シーンに鮮烈なデビューを果たしたのは1980年のこと。アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズのトランペッターとして、いきなり正統派ジャズの力感あふれるプレイを披露したのです。過去の名トランペッターのエッセンスを全て吸収し、その上で新たなジャズのメインストリームを模索するマルサリス。彼の登場は、70年代のフュージョン・ブームから抜け出し、ジャズの伝統回帰へのムーブメントを作ったという点でも重要です。 |

「タンホイザー」 初演 -1845年- |
中世ドイツを舞台に、快楽と純愛の間で悩む吟遊詩人タンホイザーの姿を通じて、愛とは何かを掘り下げたオペラ「タンホイザー」。初演の幕が降りた時、ワーグナー自身は聴衆の好意的な反応にもかかわらず、物語の展開が分かりづらいと感じました。その後、第1幕を中心に2度にわたって手を加え、1961年にパリで再演。現在ではこの改訂版による上演が主流となっています。 |

イーヴォ・ ポゴレリチ 誕生 -1958年- |
20代前半のポゴレリチは数々のピアノ・コンクールで優勝し、その大胆なイマジネーションあふれる演奏で、大きな注目を集めますが、ショパン国際コンクールでは入賞さえできませんでした。この結果をめぐって審査員の間に大論争が起こり、怒ったマルタ・アルゲリッチが審査員を辞任する騒ぎに…。皮肉にもこのコンクールが彼の名を有名にし、国際的ピアニストとしてのキャリアをスタートさせたのでした。 |

ゲオルグ・ ショルティ 誕生 -1912年- |
ハンガリー生まれの名指揮者ゲオルグ・ショルティは、オペラと管弦楽の両方の分野で活躍した巨匠です。1938年にブダペストで「フィガロの結婚」の指揮でデビュー、ユダヤ人だったため第二次大戦中はナチの手を逃れてスイスに亡命。その後フランクフルト、ミュンヘン、ロンドンなどの歌劇場で指揮をとり、4日間にも渡って演じられる大作「ニーベルングの指輪」を全曲録音するという偉業を達成しました。また56歳でアメリカに渡ってからは、20年以上シカゴ交響楽団の音楽監督を務め、その豊麗でメリハリに富んだ音づくりで同楽団の黄金時代を築きました。 |

リスト 誕生 -1811年- |
ピアノの巨匠、フランツ・リストは、11歳の時には演奏活動を始めていたという天才少年でした。リストは様々な芸術家と出会い、自分の音楽を形作っていったのでした。 1人目は、8歳年上の作曲家ベルリオーズ。「幻想交響曲」の初演を聴き、管弦楽の色彩あふれる響きに感動。この色彩感を自分のピアノで表現できないかと考え、同曲のピアノ用編曲に取り組みました。 2人目は、31歳年上のバイオリニスト、パガニーニ。1831年3月に初めてパガニーニの演奏を聴いたリストは、その超絶技巧に驚嘆し、直ちに彼のバイオリン独奏用カプリッチョ(奇想曲)をピアノ用に編曲する決意をし、できたのが「パガニーニによる超絶技巧練習曲」です。 3人目は、同年代の作曲家ショパン。ショパンのパリ・デビュー演奏会を聴いて、繊細な音色と詩的な音の流れに大きな感銘を受けたのです。 |

渡辺真知子 誕生 -1956年- |
「迷い道」「かもめが翔んだ日」など息の長いヒット曲をもつ渡辺真知子。神奈川県横須賀市で生まれた彼女は「学生街の喫茶店」(ガロ)に刺激されて、高校時代からシンガーソングライターを目指しました。洗足学園短期大学音楽科(ソプラノ専攻)1年のとき、新人アーティストの登竜門であるヤマハポピュラーソングコンテストで入賞。卒業後の77年に自ら作詞・作曲した「迷い道」で抜群の歌唱力を発揮し鮮烈にデビューします。あの有名な「現在・過去・未来‥‥」という歌詞がひらめいたのは、トランプ占いでカードを並べている最中だったとか。続く「かもめが翔んだ日」「ブルー」「唇よ熱く君を語れ」などでヒットを連発した渡辺は、78年の新人賞を独占。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍でした。 その後オリジナルにこだわらずジャズ やラテン にも歌う範囲を広げてライブ活動を行い「熱帯ジャズ楽団」との共演や、キューバでのコンサートなど新しいことにも次々に取り組んでいます。 |

アメリカの人気TV番組 「エド・サリヴァン・ショー」 初出演 -1964年- |
1948年から1971年まで、全米でオンエアされていた人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」。エド・サリヴァンが司会を務め、毎回いろいろなゲストが生演奏を行う、アーティストにとってはアメリカで成功するための登竜門のような番組でした。 ローリング・ストーンズも、エド・サリヴァン・ショーへの出演しました。しかし司会のエド・サリヴァンは厳格な人物として有名。案の定、「アラウンド・アンド・アラウンド」と「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」を演奏したストーンズに対し、ミック・ジャガーの身振りや歌い方に品がないとこき降ろし、なんとカメラに向かって「2度と彼らをテレビに出しません」と頭を下げたのです。しかし1965年2月にはめでたくストーンズは2回目の出演を果たしました。さらに1967年には3回目の出演を果たしますが、このときも問題が発生。ストーンズにとって、このショーは鬼門のようでした。 |

日野皓正 誕生 -1942年- |
日本が世界に誇るジャズ・トランペッター、日野晧正。1998年3月に開催された長野冬期パラリンピックの開会式では「君が代」を独奏。1975年にジャズの本場ニューヨークに渡り、その腕にさらに磨きをかけます。1989年にはジャズ界の名門レーベル『ブルーノート』から日本人として初めてアルバムを出し、“ヒノテル”の名を世界に知らしめました。 |

スカルラッティ 誕生 -1685年- |
ドメニコ・スカルラッティは“近代クラヴィーア奏法の父”と称されるバロック器楽曲の巨匠です。イタリアに生まれ、若い頃からチェンバロの名手として高く評価された彼は、ヘンデルと演奏の腕前を競い合ったこともあり、オルガンではヘンデルに勝ちを譲りましたが、チェンバロでは勝負がつかず、以後互いに実力を認めあう仲となりました。後半生をポルトガルとスペインで過ごし、500曲を超えるチェンバロソナタを残しました。 |

「禿げ山の一夜」 初演 -1886年- |
貴族で地主の息子として生まれたムソルグスキーはピアノは母から習っていましたが、作曲や音楽理論を学んだことはありませんでした。しかし彼は持って生まれた才能で、名作を書き残したのです。中でも有名なのが、「展覧会の絵」「禿げ山の一夜」です。 しかしムソルグスキーは独学だったため、管弦楽の扱いにさまざまな問題がありました。そこで、仲間で、管弦楽法の大家だったリムスキー=コルサコフが、ムソルグスキーのスコアに加筆。現在演奏されている「禿げ山の一夜」はこの版によるものがほとんどです。 |

自身の指揮により 「悲愴」 初演 -1893年- |
悲痛な響きを漂わせながら、息絶えるように終わるチャイコフスキー(1840〜1893)の交響曲第6番。“悲愴”というタイトルは、初演を聴いた弟・モデストの発案で名付けられ、チャイコフスキー自身も気に入っていました。ところが、この初演からわずか9日後に、チャイコフスキーは生水を飲んでコレラにかかり、死んでしまいます(一説には自殺ではないかとも言われています)。まるで自らの死を予感したかのような交響曲です。 |

『ヘアー』 始まる -1967年- |
音楽に初めてロックを使い、反戦と自由をテーマにしたミュージカル『ヘアー』がオフ・ブロードウェイで上演を始めました。当時アメリカではベトナム戦争の泥沼化による厭戦気分が広がっていたこともあって、『ヘアー』は上演回数を重ねるごとに人気が高まり、オリジナル・キャスト盤(映画でいうサントラ盤のこと)のレコードも空前のヒットを記録。その主題歌「アクエリアス(輝く星座)」は、フィフス・ディメンションもレコード化し、1969年最大のヒット・シングルとなりました。 |

クリフォード・ブラウン 誕生 -1930年- |
完璧なテクニックとインプロヴィゼーションで不世出のトランペッターといわれ、自動車事故によるあまりにも早い死が世界中のジャズ・ファンを悲しませたクリフォード・ブラウン。ノンプロのトランペット奏者だった父から13歳のときに楽器を贈られた彼は、高校卒業と同時にフィラデルフィアのジャズ・シーンに顔を出し、1948〜49年頃にはファッツ・ナヴァロ、ディジー・ガレスピー、マイルス・デイヴィス、チャーリー・パーカーなどの巨人達と次々に出会い、ステージを共にしました。 |

ホロヴィッツ 誕生 -1966年- |
ビースティー・ボーイズのギタリストの“アドロック”こと、アダム・ホロヴィッツは、1966年生まれ。ともにマンハッタンの悪ガキ仲間だった、マイクDことマイク・ダイアモンドと、MCAことアダム・ヤウクの2人が1981年に結成したビースティー・ボーイズに、アドロックが1983年に加入。 1985年、ランDMCのサポートを務めたツアーが大人気を呼び、彼らの評判は急上昇。1986年のデビュー・アルバム『ライセンス・トゥ・イル』は、チャート1位になった初のラップ・アルバムとなり、「ファイト・フォー・ユア・ライト」は全米2位、全英3位の大ヒットを記録しました。 |
