

小澤征爾 誕生 -1935年- |
1999年6月、大ニュースが世界の音楽界を駆けめぐりました。現在ボストン交響楽団の音楽監督を務める指揮者、小澤征爾が、2002年秋よりウィーン国立歌劇場の音楽監督に就くと発表されたのです。あのウィーン・フィルの音楽監督!このポストの重みがおわかりいただけるでしょう。そこにアジア人である小澤が、望まれて座ったことの文化的・芸術的意味は計り知れないほど大きいといえます。 小澤は24歳の時、単身でフランスに音楽修業に出かけ、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。カラヤンやバーンスタインに認められ、世界の一流オーケストラを相手にキャリアを重ねてきました。西洋音楽の伝統がない東洋のクラシック音楽界の未来が託されている、といっても大げさではないかもしれません。 |

なかにし礼 誕生 -1938年- |
昭和を代表する作詞家の一人で、近年は作家としても名声を確立しているなかにし礼。高校時代を東京でクラシック音楽に浸って過ごし、立教大学時代にはシャンソンの魅力に目覚め、しだいにその訳詞を手がけるようになりました。 彼が作詞の道へと進むきっかけになる運命的な出会いがありました。旅行先の下田のホテルで、大スターの石原裕次郎に偶然、声をかけられたのです。「君は何やって食ってんの?」「シャンソンの訳詞です」「なんで日本の歌を書かないのよ。俺が歌ってるような流行り歌を書きなよ」‥‥裕次郎の言葉は進路に迷っていたなかにしの心に深く刻まれ、大学卒業後まもなく作詞家としてデビュー。「知りたくないの」「涙と雨にぬれて」などのヒットで売れっ子になり、1968年に日本レコード大賞を「天使の誘惑」で受賞。以後「夜と朝のあいだ」「恋の奴隷」「港町ブルース」「あなたならどうする」「心のこり」「石狩挽歌」「時には娼婦のように」「北酒場」など無数のヒット曲を世に送りだしました。 |

「スイート・ ドリームス」 全米ナンバー1 -1983年- |
デイブ・スチュアート(1952〜)とアニー・レノックス(1954〜)の出会いは1977年、ロンドンのとあるレストランでのこと。デイブは音楽仲間と一緒に食事をしようと店に入ったのですが、そこに料理を運んできたのがアニーだったのです。彼女を一目見て、デイブに何か直感が働いたのでしょうか? いきなり「僕と結婚してくれる?」と言ったそうです。彼女は「この人、頭がおかしいんじゃない?」と思ったそうですが、間もなく2人は一緒に暮らしはじめ、バンドを組むことになったのでした。 最初はツーリストという5人編成のバンドを組んでいたのですが、1980年に活動を停止、同時に彼らの恋人関係も終わりを告げました。2人はユーリズミックスとして活動を始めます。デイブのプロデュース能力とアニーのユニ・セックスな魅力が開花し、アンニュイな声で抽象的な夢の世界を歌った1983年の「スイート・ドリームス」は全英・全米でナンバーワンとなりました。 |

アントン・ ブルックナー 誕生 -1824年- |
後期ロマン派時代に活躍したブルックナーは、彼の故国オーストリアでは「ベートーヴェンに続く大交響曲作曲家」として、非常に高く評価されています。 ブルックナーは慎重な性格でした。すぐに作曲家の道に進むことはせず、小学校で教員兼用務員といった仕事をしながら、地道に音楽の勉強を続けたのです。はじめて本格的に先生についたのが32歳の時。最初の交響曲を書きはじめたのが39歳の時といいますから、その晩学ぶりは徹底しています。さらに楽壇の風向きもブルックナーに不利に働きました。当時の音楽界はワーグナー派とブラームス派が対立しており、ブルックナーはワーグナー派でした。有力な評論家たちはみなブラームス派だったため、彼の作品はことごとく黙殺されてしまったのです。彼がウィーンで完全に認められたのは、交響曲第8番の初演時、死を4年後に控えた68歳の時で、初演に立ち会ったブルックナーは熱狂する聴衆の拍手に応えて何度もステージに上がり、たどたどしいお辞儀を繰り返したそうです。 なお、現在ブルックナーの遺体は遺言どおり、彼が少年時代を過ごした修道院の、パイプ・オルガンの下に眠っています。 |

ヨハン・ クリスティアン・ バッハ 誕生 -1735年- |
史上最も偉大な作曲家の一人として敬愛を集めるヨハン・セバスティアン・バッハの息子(末子)ヨハン・クリスチャン・バッハ。 大バッハの息子たちもほとんどが音楽家の道を選びました。長男ウィルヘルム・フリーデマン、次男カール・フィリップ・エマヌエル(一番成功した息子)、5男ヨハン・クリストフ・フリードリヒとすべて音楽家の道に進んでいます。 しかし、音楽のスタイルで最も時代を先取りしたのは、末子のヨハン・クリスティアン・バッハでした。15歳で父・大バッハを失い、兄エマヌエルに育てられたクリスティアンは、兄から作曲とクラヴィーア奏法を学ぶ一方、イタリアのミラノで最新の音楽を身に付け成功を収めます。 クリスティアン・バッハの音楽には、大バッハの対位法はほとんど顔を見せず、イタリアで学んだ魅力的な「歌」に溢れています。その優美な音楽は、モーツァルトかと見紛うばかりです。事実、モーツァルトはクリスティアンの音楽から絶大な影響を受けて、彼の交響曲のスタイルを完成させるのです。後期バロックの巨匠大バッハの末子が、古典派の天才モーツァルトを導いたというのは、まことに興味深い関係ではありませんか。 |

エフゲニー・ スヴェトラーノフ 誕生 -1928年- |
ロシアの指揮者、世界の音楽界を代表する巨匠のひとり。モスクワ音楽院で、指揮をアレクサンドル・ガウクに、作曲をシャポーリンに師事しました。 在学中の1953年に、モスクワ放送交響楽団で自作の交響詩を指揮してデビューします。1954年から10年間ボリシ ョイ歌劇場の主席指揮者を務め、1965年からソビエト国立交響楽団(現在のロシア国立交響楽団)の音楽 監督・主席指揮者に就任。20年以上の歳月をかけて敢行し、膨大なロシア音楽の遺産を体系化したその偉業は、世界的な評価を受けています。その後はフリーな立場で、オランダのハーグ・レジデンシティ管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団、スウェーデン放送交響楽団、BBC交響楽団、そしてNHK交響楽団などへの客演を精力的に行ない、その卓越した巨大な音楽性、カリスマ性に絶大なる賞賛を受けてきました。 |

奏者 ソニー・ロリンズ 誕生 -1929年- |
現存するジャズ・ミュージシャンの中で、最大の巨人の一人です。豪放なサックス・サウンドと、汲めども尽きぬ泉のように生み出されるアドリブ・フレーズは、まさに即興芸術としてのジャズの最高峰と言っても過言ではないでしょう。 |

アントニーン・ ドヴォルザーク 誕生 -1841年- |
チェコを代表する作曲家、アントニーン・ドヴォルザーク。交響曲第9番「新世界より」やピアノ曲「ユーモレスク」など、素朴で郷愁を誘う音楽で親しまれているこのボヘミア国民楽派の巨匠は、実は熱狂的な鉄道オタクでした。ドヴォルザークは1日40小節作曲することを自分に課していましたが、それ以外の時は蒸気機関車の模型を作っているか、町の操車場に出かけ何時間も機関車を眺めていたそうです。ある時などは「本物の機関車が手に入るのだったら、これまで自分が作った曲のすべてと取り替えてもいいのに…」と、ため息交じりに友人に語ったという話しが残っています。有名な「ユーモレスク」の楽想も汽車に揺られている時に思いついたと言います。 |

湯山昭誕 誕生 -1932年- |
「お菓子の世界」や「こどもの宇宙」など、子供のための多数のピアノ曲で知られる作曲家、湯山昭。東京芸術大学作曲科に在学中から、日本音楽コンクールで入賞を果たして楽壇にデビュー。「ピアノソナタ」や、1970年に芸術祭大賞を受けた合唱曲「コタンの歌」、そして「あめふり くまのこ」「おはなし ゆびさん」など、器楽曲から童謡まで幅広いタイプの曲を生み出し、子供から大人まで親しまれています。 |

綾戸智絵 誕生 -1957年- |
1998年に40歳で遅咲きのプロデビューを果たし、「日本ジャズ界最大の収穫」と絶賛されたジャズ・シンガーの綾戸智絵。初めてのメジャーアルバム『For All We Know』がジャズとしては異例の2万枚を売り上げたのです。 “ちーぼう”というニックネームをもち、明るい性格の綾戸は、ライブでは魂の震えが伝わるような歌声で感動を呼ぶだけでなく、軽妙な大阪弁のおしゃべりで大笑いもさせてくれます。パワフルに生き、パワフルに歌い、聴く人すべてにエネルギーを与えてくれる彼女の歌声です。 |

フランソア・ クープラン 没 -1733年- |
17世紀に活躍した作曲家、クープランは、“フランスのバッハ”と呼ばれています。バッハ家同様、代々音楽家の家系でした。その家系の中でもっとも著名なのがフランソアで、“大クープラン”と呼ばれたりします。彼クラブサン(ハープシコード)の名手でもあり、この楽器のためにたくさんの作品を残した点もバッハによく似ています。しかしバッハの鍵盤音楽が非常にガッチリとした形式を持っていたのに対し、クープランの作品はいかにもフランス人らしく、優雅で洗練されたものでした。また曲名の付け方なども機知に富んでおり、たとえば組曲の中には「みごとな犬、またはおどけた恋」「略礼服と3人の寡婦」など、まるで謎解きのように風変わりなタイトルの曲すらあります。 |

交響曲第8番 「千人の交響曲」 初演 -1910年- |
現代のオーケストラは100人前後がふつう。合唱を加えても200人になるかならないか、というところでしょう。ところがその常識を遙かに超えた曲が、グスタフ・マーラーの「千人の交響曲」です。 当時マーラーは、作曲家としてよりも指揮者として名声を得ていました。しかし1906年、作曲家としての地位を確立すべく、第8交響曲、すなわち「千人の交響曲」の作曲にとりかかります。存分に作曲する時間を得られたためか、次々と新しい構想が浮かび、ついにはフル・サイズのオーケストラに様々な打楽器、それにピアノ、ハーモニウム、オルガン、マンドリン、2台のハープ、8人の独唱者と2組の混声合唱、そして少年合唱団を用いた、前代未聞の巨大な交響曲が完成したのです。初演は1910年、ミュンヘン。演奏終了後、会場には嵐のような拍手が巻き起こり、自ら指揮をつとめたマーラーはその拍手に応えるため30分以上も指揮台から降りられなかったそうです。 |

アルノルト・ シェーンベルク 誕生 -1874年- |
19世紀末、それまで西洋音楽の土台となっていた調性という概念が、次第にあいまいになってきたのです。そしてその概念をいっきに突き破ったのが、弦楽合奏曲「浄夜」、声楽曲「月に憑かれたピエロ」、オペラ「モーゼとアロン」などの作品で知られるアルノルト・シェーンベルクでした。 シェーンベルクが創案した「無調音楽」そして「12音音楽」は、“調性を無視した”あるいは“オクターブ内の12の音に均等の価値を持たせる”という難解なもので、彼と同時代の作曲家たちも「こんな音楽を書く位なら、雪かきでもしたほうがましだ」(リヒャルト・シュトラウス)、「これは音楽というよりも工場みたいだ」(モーリス・ラヴェル)といった批判をシェーンベルクに浴びせました。しかし時がたつにつれ、彼の作品は理解されるようになり、20世紀の作曲技法に多大な影響を及ぼすまでになったのです。 |

誕生 -1949年- |
「E.YAZAWA」のロゴデザインや「永ちゃん」といった愛称で親しまれている日本を代表するロック・スター、矢沢永吉。1972年、伝説のロックバンド「キャロル」のリーダーとしてデビューし、75年のバンド解散後『I LOVE YOU,OK』でソロ・デビュー。タイトル・ナンバーのほか、「キャロル」「恋の列車はリバプール発」といった名曲で一躍No.1ロック・シンガーとなったのです。77年には日本人ロック・アーティストとして初の武道館公演を果たし、その後も「時間よ止まれ」「止まらないHa〜Ha」といったヒットをコンスタントに飛ばしています。 |

ブルーノ・ ワルター 誕生 -1949年- |
指揮者には実にさまざまなタイプがいます。ブルーノ・ワルターは、温厚にして優雅、音楽から幸福を引き出すことのできた指揮者と言えるでしょう。 ワルターはグスタフ・マーラーの愛弟子で、当然マーラー演奏の第一人者でもありました。ワルターの指揮するマーラーは、作曲者がこよなく愛した自然の息吹をたっぷりと感じさせながら、一方で人生の哀しみやはかなさも失わない、実に奥の深いものでした。マーラーはワルターを実の弟のようにかわいがり、しばしば自分の別荘に招いたと言われています。 |

マリア・カラス 没 -1977年- |
エキゾティックな美貌と強靱な声、そして緊張感あふれる劇的な表現。プリマ・ドンナの中のプリマ・ドンナ。ディーヴァ(女神)の称号を持つ歌手。多くの人が今世紀最高のソプラノと絶賛してやまないオペラ歌手、それがマリア・カラスです。 カラスはギリシャ系移民の子としてニューヨークの5番街に生まれました。幼い頃両親が離婚したため、カラスは母親についていったんギリシャに帰り、この地で音楽を本格的に勉強します。舞台デビューは15歳の時。その後ふたたびニューヨークに戻り、1947年のヴェローナ音楽祭でポンキエッリの「ジョコンダ」を歌い世界的に注目されるようになりました。その後、ドニゼッティの「ルチア」、ベリーニの「ノルマ」などの主役を歌い大成功を収め、また当時はあまり上演されなかったケルビーニやロッシーニなどのオペラを積極的に歌い、世に知らしめたのです。 |

「弦楽五重奏曲ハ長調」 初演 -1850年- |
「弦楽五重奏曲ハ長調」は、フランツ・シューベルト(1797〜1828)の室内楽では最後の作品です。1828年の夏に作曲され、1850年にウィーン楽友協会の定期演奏会で初演されました。死後22年も経ってから初演されたのは、シューベルトの内気で引っ込み思案で、もっぱら作曲に没頭さえしていれば満足、という性格にも原因がありそうです。 シューベルトの才能が世に埋もれるのを惜しんだ友人達の奔走もあって、1828年の3月には初めての自作の公開演奏会が開かれました。ところが運の悪いことに、当時ヨーロッパを熱狂させていた大バイオリニストのパガニーニがちょうどウィーンを訪問中で、ほぼ同時期に演奏会を開いたのです。新聞の音楽欄はすべてパガニーニに占領され、シューベルトのそれは全く話題にもなりませんでした。こうしたこともあって、同年11月19日に腸チフスで亡くなるまで、シューベルトは華やかな名声とは無縁の生涯を送りました。しかし、シューベルトの死後シューマンなどに再発見され、今では音楽史上にさん然と輝く傑作との評価を受けています。 |

ジミ・ ヘンドリックス 没 -1970年- |
あらゆるロック・ギタリストに影響を与えたジミ・ヘンドリックスは、1970年、ツアーで滞在中のロンドンのホテルで亡くなりました。1967年のデビューアルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト』から数えると実質3年足らずという短い音楽活動でしたが、死後約30年を経た今でも未発表の音源や映像が続々とリリースされており、ジミの影響力は一向に衰えることを知りません。 |

誕生 -1941年- |
1966年、デビューと同時に「夢のカリフォルニア」「マンデー・マンデー」をヒットさせた男女4人のロック・コーラス・グループ、ママス&パパス。哲学者ふうのジョン・フィリップス。その奥さんで、美人のミッシェル・ギリアム。ハンサムで気さくそうなデニス・ドハティ。そして、包み込むように優しい声の“ママ”キャス・エリオット。古いスタンダード曲をロックに変身させたり、逆に当時最新のビートルズ・ナンバーをフォーク風に歌い変えたり、洗練されたコーラスで新しい響きを聴かせ、若いファンの心をつかんだのです。しかし、彼らの人気は長続きはしませんでした。1968年には分裂・解散。その後“ママ”キャス・エリオットはソロとして成功をつかみかけていましたが、1974年7月29日、ロンドンの自宅で心臓発作を起こし、32歳の短い生涯を終えたのです。 |

バイオリニスト パブロ・デ・ サラサーテ 没 -1908年- |
バイオリンの名曲といえば、まず口をついて出るのは「ツィゴイネルワイゼン」でしょう。その作曲者サラサーテがスペイン生まれの名技巧バイオリニストだったことは有名です。華麗な名人芸と、魅惑的な彼の演奏は、他の大作曲家たちの創作意欲をも刺激し、数多くの名曲を生み出したのです。 サラサーテが演奏家としての活動を始めたのは1860年代ですが、最初に仲良くなったのは、新進ピアニストのサン=サーンスでした。彼は名曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」をサラサーテに捧げ、1865年には二人でデュオを組んで演奏旅行をしました。 20世紀に入るまで生きていたサラサーテは、「ツィゴイネルワイゼン」の自作自演などが録音に残されていますが、途中がごっそりカットされ、最後も「収録時間に入りきらない」という録音技師の声に急かされて物凄い速度で弾き切っている録音が残っています。 |

解散記念コンサート 解散記念コンサート -1973年- |
細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂からなる「はっぴいえんど」は、1970年前後に活動していた日本語ロックの創始者バンドです。解散後、それぞれのメンバーがアーティスト/プロデューサー/作詞作曲家として、現在に至るまで日本のポップス・シーンの大黒柱として活躍していることをご存じの方も多いでしょう。 1973年9月21日、文京公会堂で行われたコンサートは、解散記念と銘打たれてはいますが、すでにバンドは前年暮れに活動を停止しており、実質は各メンバーが新たなプロジェクトを持ち寄った“ポスト・はっぴいえんど”コンサートでした。 |

『屋根の上のバイオリン弾き』 初演 -1964年- |
アメリカ演劇界でもっとも権威のあるトニー賞。1965年の同賞でミュージカル12部門のうち、作品賞、演出賞、作詞・作曲賞など9部門を受賞した名作『屋根の上のバイオリン弾き』が、1964年、ブロードウェイのインペリアル劇場で始まりました。 |

誕生 -1930年- |
盲目の天才シンガーでピアニスト&歌手のレイ・チャールズ。 4歳の頃から楽器に触れていたというレイ・チャールズは、6歳のときに病気で失明、盲学校でクラシック・ピアノとクラリネットを習得してダンス・バンドで演奏するようになります。デビュー曲は、1949年の「コンフェッション・ブルース」。この曲はR&Bチャートで2位になります。 1954年に自分のバンドを結成すると、徐々にレイならではの独自の音楽を作り上げていきます。「アイブ・ガット・ア・ウーマン」「ハレルヤ・アイ・ラブ・ハー・ソー」といったヒット曲は、ゴスペルのハーモニーやコール&レスポンスをブルースに取り入れ、さらにポップスやジャズのフィーリングもミックスした全く独創的なものでした。そして1959年、R&Bだけでなくポップスでもトップ10ヒットとなった「ホワット・アイ・セイ」で、私たちが今ソウル・ミュージックと呼んでいるスタイルが完成されたのです。 |

納所弁次郎 誕生 -1865年- |
年号でいえば慶応元年、明治維新の2年前に、幼年唱歌「ももたろう」「うさぎとかめ」などの作曲者、納所弁次郎(のうしょべんじろう)は生まれました。明治20年(1887)22歳で音楽取調掛(東京音楽学校:現東京芸大の前身)を卒業後、直ちに母校に奉職。他に学習院の教授も務めた、明治・大正期の音楽教育界の重鎮です。 納所は、同じく作曲家の 田村虎蔵(1873〜1943)、作詞家の石原和三郎(1865〜1922)らとともに“言文一致唱歌”を提唱しました。これはそれまでの文語調のいかめしい唱歌から、口語調のやさしい唱歌を広めようというもので、「ももたろう」「うらしまたろう」「うさぎとかめ」他を含む『幼年唱歌(10編、1900〜02年)』や、「だいこくさま」「一寸法師」他を含む『尋常小学唱歌(12編、1905年)』などを次々に出版。学校唱歌の創始者として大きな足跡を残しました。 |

ディミトリー・ ショスタコーヴィチ 誕生 -1906年- |
旧ソ連(ソビエト)のショスタコーヴィチは、20世紀を代表する大作曲家の一人です。19歳で交響曲第1番を発表、西欧モダニズムを吸収した進歩的な作風で早熟な天才と評判になりますが、ある日、共産党機関紙から“ブルジョア的”と名指しで批判されます。いったん失脚したかに思われた彼でしたが、社会主義リアリズム路線に忠実な古典的傑作、交響曲第5番をひっさげてカム・バックに成功しました。常にシニカルな仮面をかぶり続けたショスタコーヴィチ。気むずかしいと取られがちですが、実は大変に子煩悩な家庭人でもありました。例えば1945年には、9歳の娘ガリーナがピアノを習い始めたお祝いに、次第に難易度が増す6曲のピアノ練習曲「子供の小品」をプレゼントしました。この中のテーマの一つは、同年、ボルガ運河開通祝典のために作曲された「祝典序曲」のファンファーレにも引用されています。 |

ジョージ・ ガーシュイン 誕生 -1898年- |
20世紀のアメリカ音楽を作ったといわれるジョージ・ガーシュイン。「パリのアメリカ人」のような管弦楽曲から、名曲「サマー・タイム」で知られる『ポーギーとベス』などのオペラまで、そのどれもが彼の個性と才能が存分に感じられる素晴らしいものばかりです。そのガーシュインの作品の中でも、もっとも有名なものの一つが「ラプソディ・イン・ブルー」。ジャズ的な色彩とサウンドを大胆に用いたこの曲は、クラシック史上画期的な作品として高く評価されています。 |

ジャック・ ティボー 誕生 -1880年- |
いかにもフランス人らしい、詩的で繊細な感覚で、クライスラーとともに一世を風靡した名バイオリニスト、ジャック・ティボー。ティボーは名門パリ音楽院の出身ですが、家が貧乏だったため、学生の頃からカフェでバイオリンを弾いて生活費を稼いでいました。主席で卒業後もすぐには仕事がなく、また別のカフェでシャンソンなどを演奏していたと言います。そんなティボーに幸運が訪れました。たまたまカフェに来ていたあるオーケストラの主宰者がティボーの演奏に惚れ込み、ソリストとして楽団に迎えたのです。 それからティボーの快進撃がはじまります。ベルリン・フィルとの共演。カーネギー・ホールへのデビュー。やはりフランス人の名ピアニストであるアルフレッド・コルトーとのコンビ。そこにかの偉大なチェリスト、パブロ・カザルスが加わった史上名高いカザルス・トリオ…。演奏面ばかりではありません。新しい才能を発見することに熱心だったティボーは、女流ピアニストのマルグリット・ロンとともに“ロン=ティボー・コンクール”を創設。 |

全員集合」 放送終了 -1985年- |
1970年代〜80年代前半にかけて、土曜日の夜8時、最高視聴率50.5%を記録したモンスター番組がありました。しかも放映は生中継のため真剣勝負。まさに伝説的番組だったのです。 ドリフターズは、もともとはまじめなジャズ・バンドとしてスタートします。しかし60年代以降コミック・バンドが人気を得るようになり、ドリフターズもコミック・バンドへの道を歩み始めます。幾度かのメンバー・チェンジを経て1965年には、いかりや長介(ベース)、加藤茶(ドラム/ボーカル)、高木ブー(ギター) 、仲本工事 (ギター/ボーカル)、荒井注(キーボード)というラインナップが完成します。 もともとミュージシャンの集合体だっただけあって、ドリフターズの笑いにとって、音楽は欠かせない要素でした。ヒゲダンスのテーマ、加藤茶の「チョットだけヨ〜ん」のBGM「タブー」、「東村山音頭」「カラスの勝手でしょ」など、番組から生まれた流行歌(?)も数多く、ゲストやレギュラーによる歌のコーナーも、番組の一つの目玉でした。 |

テクラ・ バダジェフスカ 没 -1861年- |
ピアノを習いはじめた人の多くが最初にあこがれる曲として、バダジェフスカの「乙女の祈り」が挙げられるでしょう。これらはピアノの音色を生かしたメロディの美しい小曲として、とても人気が高いのです。 テクラ・バダジェフスカは、ポーランド生まれの女流作曲家。彼女についての資料はほとんど残っていませんが、30曲あまりの小さなピアノ曲を残したことがわかっており、1852年、18歳の時に書かれた「乙女の祈り」もその中の1曲です。 当時パリに「レビュー・エ・ガゼット・ミュジカーレ」という音楽雑誌があり、毎号付録として小品のスコアをつけていましたが、1859年、「乙女の祈り」がそこに載ったのです。すると評判が評判を呼び、この曲はあっと言う間に有名になりました。 |

誕生 -1947年- |
“ビジュアル系”の元祖、派手な衣装と化粧で見た目にも強い自己主張をもつミュージシャンが初めて登場したのは、60年代末のイギリスで興ったグラム・ロックと呼ばれるムーブメントにおいてでした。デヴィッド・ボウイとともに、そのグラム・ロックを代表するアーティストが、T.レックスのマーク・ボランです。 代表曲「メタル・グルー」トウェンティー・センチュリー・ボーイ」等。 |
