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http://truffles.exblog.jp/
実はこのHP、CSSで管理している分以外は既にいじれなくなっています。PCの故障で、HPのHTMLデータが失われてしまったため。
なのでずっと引越しを考えていました。
今はHTMLで一から作成する時間がないので、それは後回しに。今後は上記blogに近況を書いていこうと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
研究テーマ、徐々に作り上げていってだいたい10月には決定する予定なんですが、どうしようかなー。。
成長期の子どもを扱いたいという気持ちはずっとあるけど、そもそも研究手法として選んだバイメカの分野ではまだまだ成人の基礎運動の仕組みを掘り下げているところ。
子どもを使って、という実験がなかなか組みづらい(倫理審査やそもそもの実験内容に協力させることの難しさがある)し、自分に必要なのはまずは一般的な成人についてバイメカを通した目で考えることができるようになることなのかなーとも思う。
もっと根本的なところだけど、最終的に自分が目指すところを絞っておかないとプカプカ浮くことになってしまうなーとも思う。
研究者になりたいのか?臨床に戻るのか?
この二つには、どちらも好きだから困るのだけれど、大きな溝がある、と個人的には思う。
研究者が見つけようとしているのは普遍性。
臨床家が見つけようとしているのは個性。
日本の理学療法士の世界では、普遍性のレベルがそれほど高くない。
理学療法というもの自体は、本来は教育機関で教えられるレベルの普遍性を持っていないといけないと思う。そのために学術大会やらが開かれて、そのブラッシュアップが図られているのだろう。
けれど実際には、教育自体が徒弟制度的なものであることが多い。
もちろん、理学療法士も臨床家なのだから、技術や方法を個々で研鑽していくことは喜ばしいことだ。
けれども、基礎教育はそういうものであるべきではない、と私は思う。
そこに不満を持って理学療法過程での学生生活を送った私自身にとっては、何かしら普遍的なものを確立するという研究は魅力的だ。
けれども、臨床においては、対するのは常に個々。
例えば、日本の多くの少年野球の現場では、ピッチングフォームについて「正しいピッチングフォーム」という言葉が多用されるように思う。
けれども、全員が「正しいピッチングフォーム」で投げたとしても、全員のパフォーマンスや怪我に対する安全性が向上するわけではない。
さらに言えば、もし全員が同じピッチングフォームで投げてきたら、バッターはどんなに楽だろう。笑
結局は、何事にも個性だ。臨床家としては、そこが忘れてはいけないところ。
歩き方も、立ち方も、座り方さえ、その人の身体が積み上げてきた経験値の上に乗っかっている。
「正しい歩き方」にはめ込むのは臨床家のやることではない。その人の身体と向き合って、常にそこにあるベストを探すのが臨床家。
あくまで私個人の考えだけれども。。
では、ならば、研究と臨床は相容れないのか?
でも、研究って、臨床のためのものではなかったか?
個人的には、研究者に囲まれて生活していると、私は頭なのかが臨床寄りなのだなーと感じる。
個別性を見いだすことに興味がある。
けれども個別性を見いだすことでは論文は書けない。
さて。
臨床経験が短いのも(それでもその臨床経験が2年間で得られるべきもの以下だったとは思わないけれども)、影響するのかなー。
そしてその臨床経験の多くが身体のハードではなくソフトを扱っていたことも少なからず思考に影響していると思う。
その点に関しては、もっと触っていくしかないから、木曜からのバイトでちょっとずつ充足させていこう。それで、頭の中を整理していく。
こんなことで行き詰まってる場合じゃないんだけど。
http://tvf2009.jp/movie3/index.php?itemid=11
忘れがちなことではあるけれど、人はいつか老いて死んでしまう。
介護に直面することも、長い人生には必ず一度はあると思う。祖父母にしろ親にしろ、配偶者にしろ友人にしろ、誰かが助けを必要としたときに正面から向き合える人間でありたい。
自分に介護が必要になることなんて、誰も想像すらしないのかもしれないけれど、それはきっと今現在介護されている人たちも同じなのではないかと思う。
だから、介護をされる人たちの気持ちは重い。
迷惑をかけていると感じ、生きていることの意味を誰よりも深く自分に問いかける。そんなのって、辛い。
もっと、介護や老後やそれに続く死を、生きている人間の自然な営みとして受け入れられる精神性を、日本に根付かせたいです。
オーストラリアで認知症患者の施設を見に行ったとき、なんて日本と違うのだろうと愕然としたのを思い出しました。何が違うって、何というか、老いに対して抗わない姿勢が違う。
「人と比べる」ことを中心に自分を成立させることを学ぶ日本と、「アイデンティティを見つけ出す」ことを学ぶ西欧文化には違いがあるのではないかなと思います。
現役でPTをしていると、患者さんから「あの人よりはよく歩ける」「あの人と同じ病気なのに自分の方が出来ない」という比較の言葉をよく聞きます。
でも、老いは人それぞれ。病気も人それぞれ。暦年齢はほとんど意味がなくて、人と違うことこそが老いの特徴なのではないかと思います。
そういった比較についてはご家族も一緒で「どうしてうちのおじいちゃんだけできないのか」「80歳ならもっとできるはず」というような言葉を聞くことも多いです。
大切なのは、その人の歴史と生活と性格を、最後までいかに尊重するかということであって、「比較」はその対極にあるものなのではないかと思います。
人との優劣だけで価値を推し量る心理構造は、老いに耐えきれないと私は思います。老いは人の自然な営みですが、それを受け入れるには「比較」を必要としない価値判断が不可欠ではないでしょうか。
東京フィルムフェスティバルに入選した、おばあさん。ビデオの編集も自分でやるそうです。
内容は、旦那さんの介護。感動しました。観てください。
院生として,駒場の教養科目のひとつであるいわゆる「体育」の授業のアシスタントをすることになりました。院生1年生の必修みたいなものです。
で,その内容。
もちろん,普通に競技をやる時間もあるのだけれど,基本的に全ての学生が「救急」と「つもりと実際」の授業をとることになっており,今回はそのお手伝い。
「救急」は,CPR→AEDと,RICE,熱中症の処置。
「つもりと実際」は握力計を使った筋力発揮の主観性と客観性の比較の授業。
ずっと思っていました。こういうことが「身体を知る」ということなのだと。だから,実際に実践されているのを目の当たりにして,この大学はすごいかもしれない・・・と思わされました。
私的な理想を言えば,この教育のさわりみたいなものを中学生くらいから教えて,大学ではもう一歩先を行けたらいいよね・・・とも思いますが。
日本人にとって「身体」とは「神聖なもの」で「観念的なもの」なのではないかと,様々な患者さんと出会って感じてきました。そこにはあまり客観性はなくて,あくまで「主観」が大きな範囲を占めているのではないか,と。
それはそれで,大切なことなのですが。
でも,人には一つずつ,他人とは違う身体がある。観念的に身体を捉えている状態では,他人との比較ができない。つまり,自分の身体と他人の身体は似て非なるものなのだということを実感することが出来ない。
そのままでは,自分の身体を管理するという発想は生まれてこない。
若いうちは,なんとなくどうにでも,体力でカバーできることも,年齢を重ねると個人差が大きくなって,「自分の身体」と向き合わなければならないのです。その時に,客観的な身体感は役に立つし,主観的なままでは得られない判断力もそれが元で身についてくるのではないかと思います。
身体を育てる,ということに固執した軍隊形式の体育の授業も,それはそれで何かに役に立っているかもしれないですが,私は学校教育における保健体育とは,身体の内側について,そして身体が発揮する力について,更に言えば身体を取り巻く環境についてを学ぶ場所だと思っています。その手段として様々なスポーツがあり体力測定があるのであって,体力測定の値をアップさせるために保健体育があるわけではないと思うのです。
スポーツの技術を向上させる場は,部活や社会的なスポーツ活動で良いのです。
もちろん,勉強が得意な子が学校でその能力を表現することが出来るのと同様に,運動会や体育祭で運動が出来る子の自信を生み出すことも大切ですが。。
どうでしょうか。
今週、月曜日が正式な入学式でした。
研究室には、3月下旬から通っていましたが。。。正式に入学すると気持ちも違ってきます。
現在三角関数と力学の基礎を勉強中。
高校時代は何のためにやるのかわからなかった内容も、現在はそれが何に役立つのかを知った上での勉強なので意外と楽しくやっています。←実際使うようになったら同じようなことは言えないと思いますが。。
研究室の専門はバイオメカニクスです。
私はできれば、成長期の子どもとスポーツ障害を探りたいので、そのバイオメカニクス的考察をしていくのがこの2年間の目標です。とりあえず。
また学生に戻ってしまいましたが。。6月からはPTとしてアルバイトも開始する予定です。楽しみ。
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